常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

希なる望み

2008年06月30日 | 短編

できそうなものは「希望」ではありません。
現実との狭間にあって、できそうにもないものこそが「希望」です。

現実は厳しく、ときに絶望的にもなります。
しかし絶望と絶望的は似て非なるものです。

人間は絶望しては、生きられません。
どんなに絶望的であっても、生きている以上、「希望」は持ち続けられます。

難しそうだったら、ぼーっと生きるのもいいでしょう。
きっといつか「希望」は、次なる望みへとつながっていくと思います。

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円安に期待するなかれ

2008年06月28日 | 産業

日本の産業を支えている方々が、「円安が良い」と言うと、そういうものなのかと思わざるを得ませんでした。高付加価値製品を輸出することで潤っている日本の産業界にとって、円安は日本製品の国際的な価格競争力を後押ししてくれるので、より日本製品が売りやすくなるというのがその理由です。

正直、私はこのロジックに多少なりとも違和感を持っていました。もちろん、国際的な価格競争力が強まるという理由は理解できるのですが、円貨で生活をしている一国民として、「円安が良い」というのは、ちょっと不思議な感じがしたのです。

最近になって、この状況はだいぶ変わってきたようにも思います。もともとエネルギー資源や食糧を海外からの輸入に頼っていた日本にとって、円安は死活問題に発展する恐れがあるわけですが、最近のようにそれらの価格が高騰を続けることで、もはや「円安が良い」などとは言っていられない状況になってきたと思うのです。

そこで将来、日本の産業を背負っていこうと思っている方々に、あえて申し上げたいのは、今までのように「円安が良い」などというのは、単なる甘えに過ぎないだろうということです。即ち、産業が果たすべき役割は「社会ニーズに合致した良いものを作り出し、その価値を認めて買ってもらうこと」です。その本質は、あくまでも「良いものを作り出す」ことであり、「円安を期待する」ことではありません。これは至極、当たり前のことなので、あえて言うことでもないかもしれません。

先日、ある成功しているとされる若手の事業家の方のお話を聞きました。現在の日本経済の閉塞感に対して、解決策を見出すことができず、ほとんど政治頼みの姿勢を示されているのをみて、ひとつの大きな壁を感じました。

「これではダメだ」

日本の産業界がするべきことは、まだまだ山ほどあるはずです。「円安」や「政治」に頼る前に、自らの努力でできることは、もっともっとたくさんあります。他人や環境に頼ることも必要でしょうが、それが早過ぎてもいけません。それは甘えになります。今、日本の産業が抱える最大の問題は、他人や環境に問題があることについて詳細な分析ができても、実際、自らが主体となって、できることやするべきことが何なのかを見失っていることにあると思います。

日本の産業を背負っていく人々にとって、「円安」も「政治」も自分の背中を後押ししてくれるものにはなっても、自分を救ってくれる切り札にはなり得ないことは間違いないでしょう。日本を救う切り札は、自分でしかないことを、産業界の責任ある方々には、是非とも自覚していただきたいと思います。そして同時に、円高でもきちんと売れる良い商品、あるいは良いサービスを生み出してくれることを切に願うのでした。

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言葉で表現する難しさ

2008年06月26日 | 自分

「何故、サラリーマンにならないの?」

こんな質問を受けました。

ひとまず、お金のことだけにポイントを絞るとして、今、お金をもらいながら、どこかの組織で真面目に仕事をしていても、いずれ国家財政が破綻でもして、円貨の価値がおかしくなったら、一所懸命働いて貯めたお金など、ほとんど意味がなくなってしまうかもしれません。勤めている組織が、国家や社会の仕組みから変えてくれるのであれば、それはそれでいいかもしれませんが、とてもそんな組織があるとも思えません。

それだったら、どこかの組織の人間としてではなく、一個人として持っているものの全てを使って、そういう危険性を回避することに力を注ぎたいと思うのです。蓄財なんかもしていられません。しばらく、そのように生きていて、「もう大丈夫」と思えるようになったら、一度サラリーマン生活をしてみるのもいいかもしれないと思います。けれども、そんな先のこと、今から考えるほど余裕はありません。ひとまず、今は自分ができること、持っているものを全て使ってやってみるだけです。

ところで、このように私が思っていることを素直に話していると、聞いている人々は、どうもそれらを「特定の職業」に当てはめて考えるようです。事業家、政治家、科学者、宗教家、教育者・・・。何でもいいのですが、こういう表現で、私が目指そうとすることを整理しようとされる方々もいらっしゃいます。しかし、私はこういう分類には、あまり興味がありません。

上記のような目的を果たすために、事業家になる必要があれば事業家になるし、政治家になる必要があれば政治家にもなるでしょう。しかし、職業そのものが目的となって、事業家になりたくて事業家になるのではないし、政治家になりたくて政治家になるわけでもないのです。少なくとも、事業家になれば社会の仕組みが変わるなどとは思っていないですし、政治家になれば国家を変えられるなどとも思っていません。科学者、宗教家、教育者然りです。職業は、その瞬間における身分や社会的立場を示すものであって、それは今の私にとって、将来に渡って目指すものでもなければ、憧れるものでもありません。

言葉は、物事を表現するのには便利ですが、言葉で表現してしまった瞬間、大きな誤解を生む可能性が生じます。言葉の理解は、あくまでも受け取った側の人間の勝手な解釈でなされます。私にとっては過去、現在、未来へとつながる世界のなかで、物事の順序が非常に重要なのであって、未来の最終型に辿り着くまでの途中段階は、たとえ未来であっても、それらは全て単なる通過点でしかないのです。

言葉は便利なので大いに使います。しかし、言葉だけに頼ってもいけないのです。職業を分類する言葉も、私には所詮そんなものに思えてなりません。

言葉とは、つくづく難しいものだと思います。

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無意識の記憶の力

2008年06月25日 | 自分

旧友と会って話す機会がありました。いろいろな話をしましたが、自分が生まれたときのことや幼い頃の話をしたところ、もっとそういう話をするべきだとのコメントをもらったので、このブログでも少し書いてみようと思います。

私が生まれるとき、とても難産だったようで、母子共にもうダメかと言われるような状況だったそうです。当日、たまたま非番だったにも関わらず、病院にいてくれていた腕利きの先生が、私の頭をひねりあげながら引っ張り出してくれたといいます。そのため、生まれた直後の私は、頭が歪んでいたそうです。今は外見上、何の後遺症もありませんし、そんなことがあったということすら、私自身ほとんど知りませんでした。

しかし、今になって思うと、この出生のときの体験が、精神的な意味で、私に及ぼした影響は、非常に大きかったのかもしれません。

幼稚園や小学校低学年の頃、私はよく枕を濡らしながら泣いていました。「死」が怖かったのです。昼間、家族といたり、友達と遊んだりしているときには、気が紛れてほとんど何も考えないのですが、夜、布団のなかで静寂を迎えると、いつもきまって、いずれ訪れる自分の「死」について考えてしまうのです。

「死んだらどうなるんだろう?」

死ぬ瞬間のこと、死んだ後のこと、「自分の意識」の行方、自分が死んだ後も続くであろう世界や宇宙の行く末・・・。いろいろと考えているうちに、宇宙全体のことを思ったりもしました。「星の図鑑」などを見ると、「星の一生」について描かれた図が載っています。太陽のような恒星は、いつか大膨張を起こして、地球を飲み込んでしまうといった話を聞きながら、図鑑に載っている「星の一生」の絵や太陽が膨張するような絵を見た幼い私は、非常に大きなショックを受けました。

====================
僕が死んだら、この肉体は地球の大地に帰るんだ。いや、それだけではなく、その地球が太陽に飲み込まれるときが訪れるというのなら、いずれこの肉体は宇宙の塵になるということだ。けれども、宇宙はずっとずっと続いていく。宇宙は果てしなく続いていくけれども、僕の肉体はけっして再生することなく、それっきりで終わるのだ。僕は、永遠に宇宙の塵のままなんだ。
====================

毎晩、幼い私のなかで湧いて出てくる疑問は、尽きることがありません。

「宇宙は何処まで広がっているのか」、「人類滅亡の日、最後の一人になった人は、どんな気持ちなのだろうか」、「「死」とは消滅なのか」、「実は、自分はこの世に存在しているのではなく、この世に存在しているように錯覚させられているだけではないのか(これは、今振り返って喩えるならば、映画「マトリックス」の世界のようなものです)」・・・。「死」を考えるうちに、宇宙とは何かを考えたり、永遠や無限の意味を考えてみたりもしました。

しかし結局のところ、最後に辿り着くのは「僕はいずれ死ぬ」という現実であり、その避けられない未来に対して感じる、とてつもなく大きな不安と恐怖で、幼い私はただ泣くことしかできなかったのです(声を上げるように泣くのではなく、静寂のなかでひっそりと泣いていたため、私の親もまったく知らなかったようです)。

成人して社会人になっても、相変わらず、こうした「死」に対する恐怖は、ずっと私につきまとっていました。なるべく考えないようにはしていましたが、ふと一人になると、そのことを考えずにはいられませんでした。そして私は、つい最近まで、誰もが私と同じように、幼いときから「死」の恐怖に怯えて涙したり、眠れなかったりという経験をしているものだと思っていました。

ところが、周りに確認してみると、私のような人間は、むしろ特殊な部類に入るらしいことを聞かされて、そのことに私自身、大変びっくりしました。そこで思ったことは、私が幼い頃から、常に「死」を恐怖しながら生きてきたのは、出生時に死にそうになった体験をしたことに原因があるのではないかということです。出生時に死にそうになったという記憶は、私の精神の無意識レベルに深く刻み込まれ、それが故に、あれほどまで強く「死」を恐怖していたのではないかと思うのです。難病を告知されるなどで、自らの「死」を目の前に突きつけられ、それと向き合わなければいけなくなった人は、人生観が変わることがあったりするようですが、私の場合、既に生まれるときに無意識レベルで「死」を突きつけられていたのかもしれません。

私がブログを通じて書いているテーマのうち「生と死」、「宇宙と科学」、「宗教」などがありますが、私がそれらを考える背景には、そんな出生時に刻み込まれた無意識の記憶が、大きく影響しているように思うのでした。

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落ちてる時ほど高く飛ぶ♪

2008年06月23日 | 歌詞&台詞

「ぽん吉」さんの記事を書いたら(「同時に見える限界と始まり」参照)、プリキュアの曲について、少し書きたくなりました。

基本的に、プリキュアの曲を聴いていると元気になります。他の人がどうかは知りませんが、少なくとも私の場合、プリキュアの曲からたくさんの元気をもらっています。「ぽん吉」さんの曲は、その流れをうまく引き継いでいるようにも思います。

プリキュアの曲は、全体的にノリや合いの手も楽しいし、歌詞もぶっちゃけていながら、物事の本質を突いていたりするので、聴き応えがあるように思うのです。

以下は、そのなかのひとつ「「笑うが勝ち!」でGO!」の歌詞の一部です。

♪♪♪ 落ちてる時ほど高く飛ぶ ブンブン ♪♪♪

飛行機でも何でも、一番大変なのは飛び立つときです。ある程度、飛んでしまっているものが、そのまま飛び続けるというのは、それほど大変なことではありません。飛行機でいえば、滑走路から飛び立つときに、ものすごい加速が必要になるわけであり、それに大きなエネルギーを使うということです。鳥ならば、木の枝から飛び立つときに、激しく羽ばたかないと、体が宙には浮かびません。とくに大きな鳥が飛ぶ場合などは、こうした傾向が顕著に出ます。

つまり、止まっているものが飛ぶというのは、極めて大変であるということです。人生でいえば、何の動きもない「静」の状態というのは、むやみに動いてもダメで、むしろ飛び立つ機会を窺うことの方が大切になります(「一番難しい「山」」参照)。

翻って、「落ちてる時」というのは「動」の状態です。こういうときに、飛び立つのは簡単であり、絶好のチャンスでもあります。「落ちてる時」には、下に向かってエネルギーが働いているわけですが、うまく翼を使えば、それを上昇させるエネルギーに転換させることは簡単であり、飛び立つことができるのです。とくに、この下に向かっている速度が速ければ速いほど、それを反転させて、急上昇することができるため、急降下している時というのは、最大のピンチながら最高のチャンスになるということです。

武術でいえば、自ら攻撃を仕掛けず、相手の攻撃(マイナス)を引き込んで、そのエネルギーを自らの攻撃のエネルギー(プラス)に転換させて、戦うということです(「正中線を保つことの重要性」参照)。

対人関係でいえば、自らは他者を責めることをせず、他者からの誹謗中傷(マイナス)を呼び込んでおいて、その者に発言の責任を取らせるかたちで、望ましい人間関係(プラス)を構築していくということです。

人生でいえば・・・、落ちてる時ほど高く飛ぶブンブン♪ということです。

真っ逆さまに落ちているとき、「キャー!サイコーッ!!」と笑っていられたら本物でしょう。

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同時に見える限界と始まり

2008年06月22日 | 産業

このブログでも何度か触れてきた「ニコニコ動画」でしたが、そろそろ限界を感じるようになってきました。「ニコニコ動画」は、インターネット上で動画を楽しむためのサイトで、新しいメディアとしての試みが多数なされていました。その「ニコニコ動画」が、いずれ越えられない壁にぶつかるだろうとは思っていましたが、それが思ったよりも早く来たように感じます。

それは、最近になって、諸々の取締りが強化されたところに見て取れます。不適当なコメントやユーザーアカウントが削除されるということもありますが、とにかく一番大きいのは、著作権に絡む問題ではないかと思います。

例えば、アニメの場合、本編が消されるのは、非常に残念なことながらも、仕方がないと思うのです。制作や流通に関わる多くの人々や著作権者がいて、例えばDVDレンタルの売上げが落ちる等の理由もあるでしょうから、やむを得ないのだろうと思います。しかし、実際には本編のみならず、一般の人々のMAD作品等までが消えていったりしているのです。これは、とてもすごく寂しいことだと思います。

もっと具体的に言うと、ここ数ヶ月でプリキュアの本編は、ものすごい勢いで消されていました。それはそれで、仕方がないことだと思います。しかし、プリキュアシリーズの曲を熱唱してくれていた、一般人「ぽん吉」さんの作品までが、ごっそり削除されていることには、唖然としてしまうのです。「ぽん吉」さんは、純粋なプリキュア愛に溢れる人で、私は彼の真直ぐな愛情に敬意の念を抱いていたし、心の底から応援していました。著作権の問題があるのは理解していますが、あのプリキュア愛に溢れる「ぽん吉」さんに対して、そういう報いをせざるを得ない、今のインターネットやコンテンツ業界の仕組みに、落胆させられてしまうのです。

このように、コンテンツに対する愛情が深ければ深いほど、「ニコニコ動画」上での切捨ての対象となってしまうという構造は、プリキュアに限らず、あらゆる分野において、こうした影響を及ぼしているのだろうと思います。 原作の著作権者が、「自分たちのイメージに合わない」という理由で、そうした作品を許さないということも十分に考えられます。

例えば、「ぽん吉」さんの歌い方は、「プリキュアの曲のイメージを大いに損ねる」という理由で、著作権者から目をつけられたのかもしれません。私は当事者ではないため、どういう事情なのかは分かりません。しかし、確実に言えることは、事情はどうあれ、「ぽん吉」さんが、プリキュアというコンテンツに対して、非常に深い愛情を持っていることは確かだろうということです。

インターネットの良さは「オープン」であることです。「ニコニコ動画」は、放送事業者のように特定の人々が発信するのではなく、ユーザー参加型で、多くの人々が自由にいろいろな情報を発信できるところに良さがありました。しかし、「ニコニコ動画」をはじめとしたコンテンツやメディア業界は、そのインターネットの良さを活かしきれる構造にはなっていないのです。そしてまた、それが今のインターネットの限界でしょう。とくに、「ぽん吉」さんのように、愛情が深ければ深いほど、切り捨てられる対象になってしまうというのは、この問題の深刻性を表していると思います。

この問題の背景には、著作権と課金の問題がきちんとクリアできていないという構造的な欠陥があります。コンテンツ制作をしてくれている人々に「才能の無駄遣い」をさせてはいけない(「「才能の無駄遣い」の克服」参照)し、著作権の問題をシステムとしてクリアできていないとダメ(「「ウェブで管理する」ということ」参照)なのです。

つまり、①良いコンテンツを見ても、お金を払うことができず、②良いコンテンツを作ってもお金にはならず、③著作権フリーでやらざるを得ず、④取り締まらざるを得ないということに問題があるということです。

この他にも、インターネットのメディアとしての影響力の問題など、解決しないといけないポイントはありますが、いずれにしても、答えはがないわけではないので、きちんと解決するようにはなるでしょう。

ただ、そうは言っても、私自身、「ニコニコ動画」には、次の時代におけるコンテンツの可能性について、いろいろと教えてもらったことは事実です。そういう意味で、「ニコニコ動画」を作ってくれた人々には、感謝しなければなりません。そして、これからの時代では、これらをヒントに、インターネットの「オープン性」という良さを十分に活かしたサービスが生まれるような気がしますし、そのことによって、コンテンツ業界は、もっと活気ある「全員参加型」の創作活動が展開されるようになると思います。

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年老いない秘訣

2008年06月20日 | 短編

老いない秘訣は簡単です。「歳など全く関係ない」と思うことです。

何かできないことがあったとき、歳を言い訳にする人から年老いていきます。「若いときの苦労は買ってでもしろ」などと言ったりしますが、そこには大きな罠が潜んでいることに注意する必要があります。この言葉を、若い人を叱咤激励するのに使うのはいいでしょう。しかし、その裏側で「歳をとったら苦労はそこそこで結構」などと思っているとしたら、その思いを引き金にして、年老いていくことは必然になるのではないかと思います(「困難から逃げないこと」参照)。

-若いときの苦労も、歳をとってからの苦労も一緒-

「歳など関係ない」と思うのであれば、当然、こう考えるはずです。

若いときに、こう思うのは簡単かもしれません。しかし、歳をとればとるほど、このように考えることは、難しくなる傾向があるようです。

もし、あなたがこう考えることが難しければ、「歳など関係ない」と思えるほど、大きな生きる目標を見つけることです。何故なら、そういう大きな目標を見つけることができたら、「でも、私も歳だから・・・」などと言い訳をしていられないような状況になるからです。

年老いないように努力していますか?

私?はい、年老いないように頑張ります。

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「ダメ出し」には要注意

2008年06月19日 | 人生

今の社会情勢に、いろいろと不満を口にする人はいますが、何とかしたいと思うなら、まず自分の力で動くことが必要です。それから、何とか動こうとしている人々を応援してあげることが必要です。人間の能力には限りがあります。できる範囲でしかできません。しかし、できる範囲で努力することが大切です。

自分が進めるべきと思う方向性と、他人が進めるべきと思う方向性が違うこともあります。こういうときは、自分は自分ができることをやればよいし、他人がやろうとしていることは素直に応援してあげればいいのです。

けれども、ときどき自分が進めるべきだと思う方向性に「ダメ出し」をする人がいたりします。こういう場合は、それはそれで素直に受け入れてあげればよいでしょう。そして、その上で自分ができることを淡々と進めればよいのです。

私個人に関して言えば、「他人がやろうとしていること」に対しては、素直に応援したいと思います。「ダメ出し」をするという行為についても、それはそれで大いに結構なことだと考えます。その「ダメ出し」という行為が、私にとっていかに間違っているものであっても、その行為を正しいと信じる人には、それを正しいと信じる自由があります。それと同じように、私にも正しいと思うものを信じる自由があると考えます。

ただし、自らの言動には責任を持たなければなりません。「ダメ出し」をする人は、その行為が結果として間違っていた場合、それにはそれ相応の償いが求められることになることも、同時に知っておく必要があります。人間であれば当然のことです。それが自然の摂理でもあります。

また「真剣」に生きている者に対して、「ダメ出し」をするということは、その者に対して「真剣」を抜くという行為でもあることを知っておかなければなりません。これは、どちらが正中線を保っているかの勝負であり、どちらが本質を見抜いているかの勝負でもあります(「正中線を保つことの重要性」参照)。正中線を保てていないまま、正中線を保った相手に「ダメ出し」をしてしまったら、その攻撃の深さだけ傷つくのは、他でもない自分になるのです。真剣勝負とは、そういう怖さがあります。だからこそ、迂闊に「真剣」は抜けないのです。

この意味が分かる人であれば、他人の言動に対して「ダメ出し」をすることに、相当躊躇するはずです。

それでも、他人の言動に対して「ダメ出し」をするという人は、自分の方が「真剣」に生きているという絶対的な自信を持っている人間か、あるいはこの意味が分からない、もしくは相手の力量を見抜けない感性が鈍い人間でしょう。

もし、感性が鈍いが故に「真剣」に生きている人に対して、「ダメ出し」をしてしまい、結果として自分が傷ついてしまったとしたら、そのときは「真剣」に生きている人間を見抜けなかった自らの鈍さや未熟さを反省していただくほかありません。

お分かりでしょうか。要は「ダメ出し」をするときは、お気をつけくださいということです。そして、どうしても「ダメ出し」をしたければ、自分を磨いて、磨いて、磨き抜いてからにしてくださいということです。

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噛み合わない問答の意味

2008年06月18日 | 歌詞&台詞

先日、観終えた「カレイドスター」ショックを引きずっています。いろいろと好みの問題もあるとは思いますが、私自身、このアニメは本当に名作だと思います(「感動のすごいアニメ」参照)。しつこいかもしれませんが、もう少し、このアニメに関連して書いてみたいと思います。

以下のやり取りは、空中ブランコを使ったアクションで、死の危険を伴うとされる「幻の大技」に挑もうとするレイラが、ステージの精フールと交わした会話です。

フール:「死を恐れないというのか?」
レイラ:「私たちは死なないわ」

このやり取りで、主人公のソラとレイラは「幻の大技」に挑む資格を得て、運命の大ステージに上ります。ここでレイラが、「私たちは死を恐れないわ」と言っていたら、「幻の大技」に挑む資格を得られなかったというのですが、ここが非常に面白いと思うのです。

「死を恐れないというのか?」という問いに対して「恐れる」、「恐れない」ではなくて、「私たちは死なないわ」という、一見噛み合わない答えをしているところが、このやり取りのポイントになります。

「苦しいときほど意地を張れ」等と言ったりします。我慢をすることは大切ですし、辛いときに「辛い」とばかり言っていても始まらないので、「意地を張る」こと自体、悪いことでないと思います。しかし、あまり無理に意地を張るのもどうかと思うのです。つまらない意地は、自分を傷つけるばかりでなく、他人に対しても多大な迷惑をかけることになります。できないことはできないと言わなければいけませんし、つまらぬ意地を張るくらいなら、さっさと諦めるほうがいいのです。

「死を恐れないというのか?」

この質問に対して、「幻の大技」を演じることを決めているレイラが、意地を張っていたとしたら、きっと「私たちは死を恐れないわ」と答えていたように思うのです。「死ぬかどうかは分からない。たとえ死んだとしても、演じなければいけない。死を恐れてはいけない」という意地が、そういう答えをさせるでしょう。

しかし、レイラには意地ではなく、絶対的な自信があるのです。「死ぬなんてあり得ない」、「恐れるとか恐れないとかの次元ではない」という絶対的な自信があるが故に、「私たちは死なないわ」という、一見噛み合わないとんでもない答えになるのだと思うのです。

そもそも「死を恐れないのか?」という質問に対して、それと同じ次元で「死を恐れない」と言っていることが、「死」を意識している証拠でもあるということです。「死を恐れないのか?」という質問に対して、「私たちは死なない」という次元が異なる答えを返すことこそが、死をも超越した絶対的な自信があることの表れでもあるというわけです。

私たちが生きている社会において、いろいろな人々が、いろいろなことを言います。それらが、どういう思いで放たれた発言かは、微妙な言い回しや表現のなかに見出すことができます。何気なく交わされている無数の会話(あるいは無言)のなかに、一人一人の人生観や哲学は潜んでいます。

レイラとフールのやり取りは、極めてシンプルで簡単な会話ながら、そうしたものを包含しているように思うのです。

新しい時代は、本当に真剣に次の社会のあり方を考えている人たちが創造していきます。そして、本当に真剣な人というのは、人々の言動の裏側にあるものを感じ取るアンテナが敏感に働いている人でもあります。それは、今日時点での肩書きや地位で、見極められるようなものではありません。ボーっとしていたら、見落としてしまうような些細な言葉遣いや表現に、それらは潜んでいるのです。肩書きや地位に惑わされない、そういう敏感なアンテナの持ち主同士が共鳴し合い、引き合いながら、次の時代を作っていくということが、私には必然に思えてなりません。

アンテナを敏感に働かせてみてください。噛み合っていない馬鹿げた問答にも、非常に大きな意味が潜んでいるかもしれないのです。

《補足》
敏感なアンテナは、敏感なアンテナと鈍いアンテナとを区別します。
鈍いアンテナからは、どのアンテナも同じようにしか映りません。
感性を研ぎ澄ませ!本質を見極めよ!
その能力は、自分の内に秘められている。

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「スライム組織」のご紹介

2008年06月17日 | 産業

世の中には、柔軟で強い組織について、いろいろな研究や実践がなされています。そのなかには、例えば「アメーバ組織」というものがあり、いろいろな方々が熱心に研究をされたり、文章を書かれたりしていますが、私は次の時代を迎えるにあたって、もう少し突っ込んだ考え方があってもよいのではないかと考えます。私自身、その考え方を「アメーバ組織」に対して、「スライム組織」と呼んでもよいのではないかと思っています。

「スライム」という言葉を調べると、次のような記述が出てきます。

-泥状・粘液状のぬるぬるとしたもの
-転じて、そのような性状を持った架空の生物や玩具・教材

スライムは変幻自在であり、環境に応じてさまざまな形に変わるものです。ゲームのキャラクターにもなっているので、生き物でないようで生き物であり、生き物であるようで生き物でないといった不思議さもあります。

現代社会は、あらゆるところに閉塞感が生まれ、また将来に対する不安も増してきています。こうした時代にあって、次の時代に移り変わるには、非常に大きなパラダイムシフトが必然であり、これからの時代を切り拓いていく組織は、そうした巨大なパラダイムシフトに即応していくことが求められていきます。

社会の枠組みが形成され、一定のルールに基づいて発展すれば良いといったフェーズにおいて、組織はそのルールに従った構造を持ち、内部での機能分担を明確にしながら突き進むのが効率的です。会社で言えば、その時代の環境に合わせて、それぞれの部署がそれぞれの担当を持って、日々の業務をこなしていくということが、最も効率的であるということになります。程度の差はあれ、高度成長期の日本の「イケイケドンドン」的な発展というのは、こうした仕組みのなかで達成されてきたように思います。

しかし、社会の成長が行き詰まり、先行きが不透明になると、その枠組みに軋みが生じてきます。そして、ルールそのもの、あるいはそれに応じた環境全体が大きく変わる可能性が増大していくのです。こうしたフェーズでは、組織はそうした環境に如何に即応できるかということが重大な問題となります。こうなると、「イケイケドンドン」時代に構築されて以降、固定化した組織構造が、かえって仇となる可能性が出てくるため、既存の組織は環境即応型の仕組みづくりに熱心になるわけです。

こうした環境に対応するための仕組みとして、プロジェクト制というものがあります。プロジェクト制とは、環境や変化に迅速に対応するため、既存の組織図に囚われずに、人員配置や進捗管理をしていくもので、営利企業に限らず、これを取り入れている組織は、非常に多くなってきているように思います。しかし、新しい時代を迎えるにあたって、非常に大きなパラダイムシフトが必然であるという前提に立つと、私は今のプロジェクト制でも、到底、十分な柔軟性やスピードを確保しているとは言えないだろうと考えます。

ここで簡単にプロジェクト制について、整理してみたいと思います。

ここに、ひとつの旧来型企業があるとします。その企業が通常こなしている業務は、大体決まっており、日々の定型業務は、それぞれ定められた担当部署が行います。しかし、環境が大きく変わる等によって、それに応じた特殊業務が発生した場合、特定の部署だけでは対応できないため、横断的に機能するプロジェクトを立ち上げるというケースが出てきます。例えば、30年ぶりに法律が変わった等という場合、到底、法務部だけでは対応できず、関連する部署(人事、経理、営業等)の人々を巻き込みながら、対応策を練り上げるといった場合が、これにあたります。この場合、通常の部署は据え置いたまま、こうした特殊なケースについてのみ「法改正対応プロジェクト」といったようなものを立ち上げ、関連する複数の部署(人事、経理、営業等)から、それぞれプロジェクトメンバーを派遣してもらうといったかたちになるのかもしれません。

しかし、新しい時代を迎えるにあたっては、単なる環境変化ではなく、もっと大きな変化であるパラダイムシフトまでを想定しなければならないのです。つまり、あらゆることが変化の連続であり、むしろ「仕事」とは、如何に変化に対応していくかということでもあるわけです。こうなると、もはや通常の部署はかたちだけのものとなり、ほとんどの業務がプロジェクト制で回っていくということがありえます。プロジェクト制を積極的に導入している企業では、ひとまず組織図を置いておきながらも、事実上の業務はプロジェクト制のルールによって、動いていくことになります。プロジェクトは、環境に応じて新しく生まれたり、閉じられたり、統廃合したりを繰り返すので、環境に応じた業務遂行が可能になります。

私は、プロジェクト制について、さまざまな変化に対応するための組織作りの試みとして、ある一定の成果を挙げているのではないかと思っています。しかし一方で、プロジェクト制にはひとつの大きな限界があるとも考えています。

それは管理するべき組織、人、業務を二次元的に捉えざるをえないというポイントにおいてです。これはデータベースの問題でもあります。実際に、関連する業界では、その問題が提起され、改善についてもさまざまな試みがなされているようです。しかし、本件の根本的な解決はなかなか難しいように見受けられます。

私は、この問題の根本的な解決には、三次元的な発想が必要になるだろうと考えています。そして、組織を如何に三次元的なイメージで捉え切れるかが、これからの組織の柔軟性と即応性を決定付けていくだろうと思うのです。冒頭に「アメーバ組織」ではなく、「スライム組織」と表現したのは、この三次元的な概念を導入することの重要性を表しています。変化に対して、柔軟かつ迅速に対応しつつ、積極的に三次元的な概念を導入するのが「スライム組織」であり、こうした組織でない限り、次の時代を迎えるにあたって生じる、大きなパラダイムシフトを乗り越えていくことは、極めて難しいのでないかと思うのです。

ただし現在、こうした「スライム組織」を作るには大きな問題があります。それは人事評価やリソース配分等の管理システムはもちろん、それを構築するうえでの組織哲学等を含めて、あらゆる意味での難しさがあるということです。しかし同時に、「スライム組織」を作ることは、十分に可能であろうとも考えています。

「スライム組織」については、機会を見ながら、あらためて整理するようにしたいと思います(「「スライム組織」の強み」参照)。ひとまず、ここでは「スライム組織」なる考え方があるということをご紹介いたしました。

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癒着と連携の違い

2008年06月16日 | 政治

政治によって、世の中が変わる側面はありますが、世の中は、政治だけでは変わりません。もっと端的に言えば、「政治はカネ」という言葉があるくらい、政治と経済は密接に関わっており、カネによって世の中が変わる側面も大きいように思います。

現在の日本の政治は、戦後の高度成長期を通じて成立した経済システムを背景にしており、これ以上の大きな成長を期待しない限りにおいて、そうした枠組みでの政治も早晩限界を迎えるのではないかと考えられます。例えば最近、社会保険や税金などに関して、「無駄遣い」の削減についての議論が繰り返されていますが、それだけでは事実上、これらの問題は解決しえないでしょう。

高度成長期を通じて成立した現在の政治は、その経済成長を背景に「富の分配」システムとして機能してきました。これに対して「無駄遣い」の削減というのは、経済成長に期待しない「負の分配」です。しかし「負の分配」は、痛みを一時的に他者に押し付けることができますが、根本的な解決を図っているわけではありません。いわば、その場しのぎの薬を処方しているに過ぎず、進行する病そのものを治す効果があるわけではないのです。

むしろ、大切なことは引き続き「富の分配」をできるようにすることでしょう。つまり、新しい産業を興して、経済を活性化させ、社会全体に活気を取り戻すということです(「「負の分配」からの脱却」参照)。そして、このときの政権は、当然、その新しい産業に基づいた新しい政党によって運営されなければならないと考えます。

先日、学生たちと話をする機会があり、こんな話をしていたところ、「それは癒着ではないですか?」との質問を受けました。なるほど、そういう見方もあろうかと思います。

ここで「癒着」について考える前に、もう少し経済と政治の役割について、整理しておきましょう。

経済も政治も、偏に国家や社会の繁栄のためにあるものです。政治は言うに及ばず、経済にしても、元来「経国済民」、「経世済民」が語源であり、経済を単に「カネ」と解釈すべきではなく、むしろ社会のためのものと理解すべきでしょう。そして、国家や社会の繁栄には、活気ある産業が必要です。活気ある新しい産業が興るときには、その産業自体が新しい経済の元となり、政治にはこれを後押ししていくような役割が求められてきます。ここに、経済と政治が互いに連携していく必要性が出てくるのではないかと思うのです。

つまり、新しい経済界から生まれた財は、大いに政界のなかで活用してもらわなければなりませんし、政界から打ち出される各政策は経済界の後押しをするようなものでなければならないということです。この経済界と政界の支え合いは、偏に国家や社会の繁栄のためであるということが重要です。日本の戦後における高度成長は、まさにこうした構図のなかで、達成されたのではないかと思います。

翻って、「癒着」とは何かについて考えてみましょう。「癒着」を辞書で調べると「好ましくない状態で結びついていること」とあります。ここで問題は、「好ましくない状態」という部分にあります。上記のとおり、経済も政治も「社会や国家の繁栄」のためにあるものであり、それを実現するために結びつくことは、「好ましくない状態で結びついている」とは言えません。むしろ、社会や国家の繁栄のための結びつきは、経済と政治の「連携」と呼ばれるべきものであり、必要なことであると考えるわけです。

今の経済界と政界のあり様について、「癒着」という言葉を使っている方々もいらっしゃいますが、それは現在の状況だから、使える言葉ではないかと思います。少なくとも高度成長期にあった過去の日本においては、経済界も政界も、それぞれが国家や社会のために機能していたわけであり、両者の関係を「癒着」という言葉で表現するのは適切でないだろうと思うのです。国家や社会を支える産業が生まれ、それにより経済界が形成され、そこから政治にお金が流れて、政界が形づくられていきながら、国家や社会を豊かにしていくというのは、至極当たり前の姿でしょう。問題は、これ以上の経済成長が期待できないなかで、これまでと同様に、経済界から政界へお金を流そうという仕組みに歪みが生じ、それが「癒着」となって表れるということではないかと思うのです(ここでは「官界」の役割について、言及していませんが、「政財官の癒着」といった言葉があるように、官界についてもまったく同じような見方ができるものと思います)。

閉塞感が満ちてきた現代社会において、次の新しい経済や政治の仕組みが生まれることは、もはや必然に思えてなりません。そして、その両者は互いに連携しあいながら、新しい社会を作っていくように思うのです。

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「最高の一手」の妙

2008年06月15日 | 短編

「最高の一手」は、その瞬間にならないと生まれない。
「最高の一手」は、複雑な計算を通して、生み出されるものではない。

状況は刻々と変化する。
その瞬間、その瞬間ごとに「最高の一手」も変わっていく。
「最高の一手」とは、相手や環境に応じた変幻自在の業。
その瞬間、他の手が存在しない唯一の一手。

そして、超一流は、常にその瞬間における「最高の一手」を繰り出す。

「最高の一手」には、失敗したときのことを考えるという計算が働かない。
超一流は、失敗をしたときのことを考えない。

「最高の一手」とは「無謀」?

そう、紙一重。
しかし、全く違うもの。

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すべてが財産

2008年06月14日 | 短編

持っているものが財産。
まったく持たざることも財産。

きちんと、そう見えてる?

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自分を大切にしていい理由

2008年06月13日 | 人生

自分を大切にするということは、必要なことです。しかし、自分を大切にするということは、一歩間違えれば「自己保身に走る」ことにもなりかねません。

自分を守ることには、紙一重の難しさがあります。子供番組に出てくる正義の味方と悪役の違いは、正義の味方が「みんなのため」に戦うのに対し、悪役は「自己の権力や欲望のため」に戦う点にあります(「正義の味方と悪役キャラ」参照)。これに照らし合わせたとき、「自分を大切にする」行為は、悪役の「自己の権力や欲望のため」の行為に重なって見えるかもしれません。

しかし、私は「みんなのために生きること」と「自分を大切にして生きること」は、矛盾しないと思います。つまり、利他的な生き方と、利己的な生き方は両立できると思うのです。

ある方とお話をしていたときに、「自己保身も結構だが、順序を間違えちゃいかん」という言葉を聞きました。私は、ここに問題の本質があるように思います。つまり、「自分とは何か」、「自分が為すべきことは何か」という問題意識のなかで、自分の存在が全体のためにあると言い切れれば、私はそれを根拠に、自分を大切にすればいいのだと思うのです。それこそが、自分を大切にしてもいい理由でしょう。

何でもいいのですが、自分が守るべき世界や全体観を持ったうえで、それを守ろうとする自分がいて、はじめて自分を守ることが許されるというのが、その方が言いたかったことではないかと思います。つまり、「自分を守ることが、全体を守ることと同義である」と言い切れるだけの自己開発が先にあって、はじめて「自己保身も結構」ということになるのではないかということです。

ただし問題は、そのときの「全体」とは何を指すかということです。家庭全体?部署全体?会社全体?業界全体?国家全体?アジア全体?地球全体?宇宙全体?こうした世界観の規模が大きければ大きいほど、より強く自分を大切にする理由がつくことになります。

既にでき上がったように見える人間でも、なかなかこの規模を極限まで広げて、生きている人はいないように思います。しかし私は、これを無限に広げていくことこそ、人間が生きる理由であり、人間の可能性そのものであると考えます。

「何?そういう世界観を持っていなかったら、自分を大切にする資格がないということか?!」

そういう疑問があるかもしれません。

いえ、誰しも自分を大切にする資格を持っています。しかし、上記のような順序があるのも事実です。そうした世界観を持たない人にも、必ず自分を大切にする資格はあるのだから、常にそういう自分を変えていけばいいだけのことです。壁にぶち当たったとき、自分自身を見つめなおしたり、考え方を変えてみたり、思わぬことに気付いてみたり・・・。誰しもが、何気なくやっていることです。結局、それが生きるということでしょう。

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「負け組」たちへのエール

2008年06月12日 | 社会

先日の秋葉原の事件に関しては、既に記させていただいたとおり(「惨劇を無駄にしないために」参照)であり、今回、罪を犯してしまった人については、一切同情の余地はありません。犯した罪の重みを受け止め、残った人生のすべてをかけて、償いをするほかないのだろうと思います。

しかし一方で、罪を犯す前までの彼が考えたり、悩んだりしたことは、よく理解できます。彼は、自分自身を「負け組」と呼んで、社会に対して絶望し、「負け組」になった自分を恨んでいたようです。そして実際、彼と同じような気持ちになっている人々は、世の中にたくさんいるだろうし、そういう人々が社会に絶望したり、自虐的な発想をしたりしているだろうと思うと、それはそれで心が痛みます。

表現の問題はあるにせよ、実際に世の中は、いわゆる「勝ち組」と「負け組」に分かれつつあります。社会全体は、「勝ち組」がさらに勝ち続けるための仕組みが強化されながら、競争そのものもますます激しくなってきています。「勝ち組」のなかですら、さらに勝ち続ける者と脱落者に分かれていくなかで、早い段階で「負け組」に入ってしまった人々にとっては、絶望的な状況といってよいのかもしれません。そういう意味で、罪を犯す前の彼のような人々は、非常に多く存在するでしょうし、彼自身が言っているように、見方によっては、そういう人々をいつ暴発するか分からない「犯罪者予備軍」といえる側面があるように思うのです。

けれども、私はそうした「犯罪者予備軍」と言われかねない方々に、もっともっと自信を持っていただきたいと思います。

「勝ち組」と「負け組」に分かれて、熾烈に競争を繰り返す社会には、大きな問題があります。競争から脱落し、「負け組」となった人々ばかりが悪者扱いされたり、ダメ人間扱いされたりするのは間違っています。むしろ、今の問題ある社会に対して何の疑念も抱かず、それにドップリと浸かった生き方をしている人のほうが、重症かもしれません。

いわゆる「負け組」のレッテルを貼られている人々は、そういうレッテルを貼る社会の仕組みや価値観の方にこそ問題があることをきちんと認識し、己の正しさを信じ、ひたむきに生きていれば、それでよいのだと思うのです。

もう少し、踏み込んで言えば、そもそも「勝ち組」、「負け組」という言葉は、どこかの誰かが勝手に作ったものです。そんなものに左右されることはないはずです。もし、どうしても「勝ち組」、「負け組」という言葉を使いたければ、それは全ての人生を終えたときにはじめて使える言葉だと考えるべきでしょう。人間は生きている限り、無限の可能性を秘めています。負けていたとしても、最後に勝てばよいのです。試合は完全に終わるまで分かりません。その人の人生の価値や勝負の結果は、人生を終えるときにしか決まらないということを、きちんと認識しなければなりません。人生の途中段階において「勝った」、「負けた」というのは、お遊びのようなもので、それに惑わされるのは真剣に生きていない証拠でもあります。己の信じた道を忠実に守りながら、人生を全うすることこそ、人生の「勝ち組」になるということであり、それは誰にでもできることのはずです。

自虐的になる必要はないでしょう。自暴自棄になってもいけません。自棄を起こして、他人を殺傷するようなことは、絶対にあってはならないことです。取り返しのつかない罪を犯してしまっては、取り返しのつかぬ代償を払うことになります。自らの行為で、他人はもちろん、自分までも不幸のどん底に落としていくのは、あまりにも馬鹿げています。

これから、社会の仕組みやルールは大きく変わります。仕組みやルールが変わったときに活躍をするのは、既存の仕組みやルールに縛られていない「負け組」と呼ばれる自由な人々でしょう。私は、「負け組」の人々が、この時代を耐え抜けば、きっと次のステージで輝けるときが来ると信じています。耐えることは、とても辛いことでもありますが、耐え抜いた者たちだけが行ける輝かしいステージがあるのも事実だと思うのです。

「犯罪者予備軍」と呼ばれて本当の犯罪者になってしまうか、新しい時代で活躍していく人間になるかどうかは、誰が決めるわけでもなく、その人自身の意思と選択にかかっていると思います。

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「負け組」たちよ。
耐えて、耐えて、耐え忍べ!
今、爆発するな。もったいないぞ!
せっかくなら最後に笑え。
明るい未来を信じてみろ。
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「負け組」代表より

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