常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

自分の頭で掴む世界観

2010年04月30日 | 宗教

-自分の人生を否定された-

テレビを見ていたら、こんなコメントに出くわしました。悔しい気持ち、よく分かる気がします。そして、これから時が進めば進むほど、こう言いたくなる人々や場面が多くなるようにも思います。ただ一方で、そう言ってしまうのと同時に、自分とは何かという自分自身への問いかけも非常に重要だろうと考えます。

自分は何を為そうとしているのか、自分の存在意義とは何か・・・。それを突き詰めてもいないのに、被害者ぶるのは、ある意味でその人の驕りでもあります。自分の人生や存在価値を否定されたと嘆く前に、自分自身について、真剣に考える必要があるでしょう。つまり、自分なりの「きちんとした世界観」を持ち、その中における自分の存在意義や役割というものを、しっかり理解する必要があるということです。

ちなみに、私の個人的な経験からいうと、その「きちんとした世界観」なるものが地球レベルではダメのような気がします。ダメとは、つまり、いずれ誰かに否定され、立ち行かなくなるということです。冷静に考えてみれば、地球規模という意味で使われる「グローバル」というのは、既にだいぶ使い古された言葉であり、それは現代において、誰もが当たり前に考えるべき、当然過ぎるスケールであるとも言えます。

そういう意味で、これからの「きちんとした世界観」は、宇宙規模で考えなければならないと考えます(「宇宙人としての自覚」参照)。

ただし、宇宙等というと、実感が湧かず、ずいぶんと難しく考えてしまう人も多いようです。これもまた、個人的な経験ですが、こうしたテーマについては、宗教が取り上げてくれていることが多く、それをそのまま鵜呑みにしているケースが多いような気がしています。そして、こうした人々の場合、世界観等、自分の生き方の礎ともなる部分を他者に委ねてしまっているせいか、極めて重要な事項について、自分の頭で考えない傾向があるような気がしてなりません。そういう意味で、私としては、人生において核となるべき部分を宗教に頼って、その人の人生が、明るく拓かれ続けるというのは幻想に思えるのです。

もちろん、宗教を全否定するつもりはありません。宗教は、宗教で有用であることは間違いないでしょうし、これまで人類を救済してきたという側面や功績があったことは事実だと思います。しかし、そこに核心を委ねてはならないとも考えます。宇宙レベルの世界観を持つという意味で、既にそれを謳ってくれている宗教は、大変、便利なツールではありますが、あくまでもツールに過ぎないということも重要です。主従逆転してはなりません。

大切なことは、宗教に拠らず、自分自身の頭で考え抜いて、最終的には自らの力で、宇宙レベルの「きちんとした世界観」を掴むということです。最近では、科学の飛躍的な発展に伴い、宇宙について(何が謎であるかを含めて)だいぶいろいろなことが明らかになってきました。こうした分野についても、しっかり注視できていれば、宇宙とは何か、宇宙規模の世界観とは何かを考えることは、けっして難しくないはずです。そして、そうした世界観を持つことができたうえで、自分自身の存在を位置付けることができたら、それはきっと揺らぎない自分へと繋がっていくことでしょう。

-自分の人生を否定された-

これはこれで、事実として、きちんと受け止めるべきです。ただし、ここで「社会が悪い」、「世界が悪い」等と居直ってしまったら、その時点で、その人はこの世における役割を終えてしまうことになります。後に残った人生は、後片付けのための時間にしかなりません。

そこからもう一歩、踏み込んで考えてみるべきでしょう。

-自分に何が足りなかったのか???-

これを突き詰めていくことで、その人の世界観は、その度に広がっていくはずです。

整理してしまえば、極めて、単純な作業でもあります。自分の人生を否定される度に、自問自答をしてみるというだけの話です。これだけの話のなかに、宗教が絡まなければならない理由は認められません。やろうと思えば、いくらでも自分自身で答えを見い出せるはずですし、本来、人間にはそうした力が備わっているとも思います。

そんなことを考えつつ、私としては、これからの人類の行く末が、とてもとても楽しみなのでした。

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神と悪魔と「祟る神」

2010年03月09日 | 宗教

-触らぬ神に祟りなし-

特段、説明する必要はないと思います。「下手に手出しをせず、知らん顔をしていた方が良い」という意味の諺です。これとは別に、私としてはこの諺に含まれる言葉が、「神とは何か」を考える上で、とても深い意味を含んでいるように思えてなりません。

つまり、「神は祟る」ということです。

一神教的な考え方からすれば、人に祟るのは悪魔であり、神が人間に祟るというのは、少々、滑稽に聞こえるかもしれません。しかし、多神教的な世界観からすれば、何も不思議なことではありません。つまり、神にもいろいろいるのであり、人々を救ってくれる神もいれば、人々を苦しめる神もいるというのは、特段、おかしなことではないということです。

一例を挙げれば、学問の神として名高い菅原道真は、「祟る神」としても有名です。神田明神が平将門を祀ったのも、彼を「祟る神」と畏れるが故でした。もしかすると、国を譲った(奪われた)大国主大神が祀られた出雲大社も、国を譲られた(奪った)当時の権力者から「祟る神」として畏れられ建てられたのかもしれません。いずれにしても、多神教的な日本の神社には、単にそこに祀った神様を敬うだけでなく、畏れるという側面も強くあるわけです。

このような「神にもいろいろいる(あるいは、いろいろある)」という考え方は、人間の神に対する接し方にも、大きな影響を及ぼすものと考えられます。つまり、同じ神であっても、その神に接する人がどのような人であるかによって、それが「救う神」にも、「祟る神」にもなり得るということです。神というのは偉大な存在であり、人智を越えた力を持つ存在として敬われながらも、人間が間違ったことをしたときには、その力が大いに人々を祟るとして、とても畏れられるわけです。

このことは、神に接する人間に対して、緊張感をもたらします。そして、そうした人間と神との間にある緊張感が、人間自身の自律を促し、冒頭の「触らぬ神に祟りなし」という諺を生む背景にも影響したのではないかと思うのです。

翻って、一神教を考えたとき、神はただ「救う神」としての顔しか持たず、人間の側の自問自答を促せない危険性を孕んでいると思われます。「救う神」としての顔しか持たない神は、人間との間にあるべき緊張感を失います。つまり、神は救ってくれる存在であり、人間が背負う罪を許してくれるという側面だけで語られると、それが人間の自律する力を殺いでしまうわけです。自らを律する力を失った人間に対して、これを苦しめる日本的な「祟る神」は、一神教的には悪魔になってしまうため、もはや人間は聞く耳を持たなくなります。こうして、人間は暴走を始めるわけです。

私なりには、神との間に緊張感を持たず、自らを律する力を失って、ただ許されると信じる人間が奉る神こそ、人間の心の隙に蔓延る悪魔ではないかと思います。

そういう意味で、一神教的な神は、とても悪魔に近いところにいることに注意が必要です。また逆に、災いを振りまく「祟る神」こそが、人間を自律させてくれる有難い神である可能性についても、きちんと認識しておく必要があるでしょう。

別に宗教を否定するわけではありません。ただ、神や悪魔という概念の狭間で、「祟る神」は、とても面白い位置にいると思うのでした。

《おまけ》
一神教の信者と思しき方々が、とても自らを律しているとは思えない状況下において、さも全てが許される呪文のように神の名を唱える場面を目にすることがあります。このあたりには、非常に大きな違和感を覚えます。それは神ではなく、貴方の心を手玉に取っている悪魔なのでは?ちゃんと自分を律しています?神様って本当は怖いの知ってます?と突っ込みたくなるのです。

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「聖水」である理由

2009年11月30日 | 宗教

宗教的な「聖水」を否定するつもりはありません。また、本来の「聖水」の定義をきちんと理解しているわけでもありません。

しかし私の場合、水については、飲む水、全てが美味しいものであり、またそれが身体機能を保つ上で、この上ない役割を果たしてくれていると実感しています。そういう意味で、私を支えてくれるあらゆる水は、貴重な「聖水」であると思っています。このように、その水を「聖水」たらしめるかどうかは、それと接する人自身が決められるのではないかと思うのです。

以下は、私が水、とくに飲み水について、それを貴重な「聖水」と考える理由です(ちなみに私は、水を飲むのが非常に好きで、一日3リットルくらい飲んでいると思います)。

身体や健康について考える上で、私たちはとかく「摂取」することばかりに気を取られているように思います。どういう食物が体に良いか、どんな栄養素が重要か、バランスの良い食事とは・・・。これはこれで大切なことですが、一方で不要なものをきちんと出すということも同じくらい重要なのではないかと思えてなりません。

そうした考え方をする中で、水は身体の老廃物の排出を促してくれる貴重な存在です。特にリラックスした生活を送り、血液の巡りが良い人は、身体が効率的に老廃物を回収できるので、それを排出するために、自ずと身体が多くの水を欲するようになるのだと思います。身体が水を欲するというのは、端的に喉が渇いた状態でり、当然のことながら、喉が渇いていれば、水はとても美味しく感じます。

このように不要なものを出すために、自然と水の力を求めるようになり、自然と身体が求めるからこそ、それを美味しいと感じるという中で、水の有難さを知るのです。この有難い水こそが「聖水」です。

そして、こうした循環がうまくいっていれば、自ずと必要な栄養分等、身体に良いものを取り入れられるようになるのでしょう。

これは、食べ物に限らず、あらゆるものに対して言えることだと思います。つまり、良いものを取り入れようとするのなら、きちんと余分なものを出しておく必要があるということです。

呼吸を例にとりましょう。呼吸というと新鮮な空気、特に酸素を体内に取り入れることをイメージしがちなのではないかと思います。しかし、いわゆる呼吸法等で重要なのは、リラックスした上で、お腹の力を使ってきちんと息を吐くことです。これには、正しい姿勢やお腹への意識を強く持たなければなりません。こうした意識を持ちつつ、きちんと息を吐くことができれば、自ずと息を吸うことに繋がり、結果として、正しい呼吸ができるというわけです。つまり、空気から酸素等の必要なものを取り入れるという呼吸において重要と思われる部分は、あくまでも「息を吐く」という行為の結果論としての側面もあるということです(「美味しい物のいただき方」、「腹式呼吸のコツ」参照)。

こうした観点からすると、何か特殊な「聖水」というものが存在し、例えば、それを飲むことによって、人間が浄化されるという考え方も良いですが、その側面ばかりが強調されるのも問題ではないかと思います。水、特に飲み水は、「老廃物の排出」にその真価を発揮するのであり、それが効率的にできる人にとっては、普通の水ですらも「大いなる聖水」に化けるのではないかと思うのです。

《おまけ》
飲み水の効用を最大限に発揮しようと思ったら、とにかく、体内の老廃物の回収がスムーズに行えるようにリラックスした生活を送ることだと思います(「仕事と遊びの方程式」、「師匠の姿から学ぶこと」参照)。難しいようで簡単で、簡単なでようで難しい・・・?

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禁欲と失欲

2009年06月24日 | 宗教

宗教には、目に見えないものを可視化するという働きがあります。可視化させるということには石像等、目に見える物を作ること以外に、言葉として表現するということも含まれます。つまり、精神世界の分かりにくい問題について、私たちが認知しやすい物質世界のルール(文字や言葉も含む)に従って、表現しようというのが宗教のひとつの役割だろうということです。

ところが、宗教で扱っている精神世界の事柄は、物質世界のルールで表現してしまった瞬間に、その表現が本質から離れてしまうという重大な問題をも孕んでいます(「偶像崇拝とフィギュア」、「「天国に行ける」という罠」等参照)。目に見えない精神世界の真理を伝えたい、究めたい、あるいはそれによって人々を救いたい等という様々な思いから、生まれたであろう宗教の存在を否定するわけではありません。しかし、それには限界があるということについては、きちんと認識しておく必要もあるのだろうと考えます。

そうした視点に立って、宗教で言われる「禁欲」については、その本質が「失欲」にあるのではないかと思うことがあります。

もちろん、宗教で目指すような「精神を清らかにする」ということと、「禁欲」とは密接に結びついており、「精神を清らかにするために禁欲する」というのは、それはそれで、ひとつの手法として合理的なのだろうと思います。しかし、「禁欲」ばかりに目が向けられると、それは問題の本質から離れるばかりでなく、破綻をきたすのではないかとも思うのです。特に欲望を抑えるというのは、ある意味で人間に無理強いしていることに間違いはなく、そうした無理を続けるということは、何か別のものを歪めさせたり、あるいはその反動で、その押さえつけられていた欲望が爆発したりということもあるのではないかと考えます。

私としては、宗教でなされているような、物質世界上での表現を否定するわけではありません。そもそも、私が、こうして文字で表現している以上、それを否定することはできないだろうと考えます。しかし、せっかく表現をするのならば、「欲を禁じる」というネガティブなかたちよりも、もう少しポジティブな表現の延長線上で、「禁欲」の対象となる「欲望」について、語ってはどうかと思うのです。

それは、自分という存在が、多くの人々の役に立つ、たくさんの人々の幸せに貢献できるという喜びを見出すことと「欲望」との関係性です。

よく言われることなので、あまり詳しくは書きませんが、自分という存在が、多くの人々の役に立っていると思うことができ、さらにそこに大きな喜びを見出すことができれば、その人の心は大いに満たされていきます(「生きがいと幸せ」等参照)。このとき、その対象となる人々が多ければ多いほど、また役に立っている度合いが大きければ大きいほど、その人はより大きな喜びで満たされていくことになるはずです。

これを「欲望」との関係性で語るならば、こうした数多くの他者の喜びにより、自分自身の心が満たされ、自ずと自分の「欲望」が消失してしまうというのが、精神世界のひとつの側面であろうということです。

そういう意味で、例えば「聖人」と呼ばれるような人々が、禁欲生活をしているように見えるのは、実際に「禁欲」をしていたというよりは、他者を喜ばせる、他者の役に立っているという喜びに満たされてしまい、単に他の欲望を失っていた、つまり「失欲」していたという側面があるのではないかと考えます。

そして、もしそうだとするならば、何かにつけて「禁欲せよ」と戒めるよりも、「他者を喜ばせる幸せがある」ことを語り、「欲望」については、その結果として「失欲」という現象が起こることを説明するに留まるというのも、ひとつの考え方ではないかと思うのです。

私が述べ申したいことは、「禁欲」ではなく「失欲」にこそ本質があるということではありません。「欲望」のレベルは、単なるバロメーターに過ぎないということです。

「禁欲」を目指す人>
「禁欲」だけに本質があるわけでもないので、あまり「禁欲すべし」等と肩肘張らずに、少し気楽にいっていいのではないでしょうか。

「失欲」できていない人>
仕事や趣味の世界等、社会との繋がりのなかで、もう少し他者を喜ばせるという幸せに気付いてみてはいかがでしょうか。

《おまけ》
本記事で言うところの「欲望」とは、一般的に宗教等で戒めているとされているものを指しています。本来、「他者を喜ばせたい」というのも、人間のひとつの欲望のかたちですが、それについては、ひとまず除外して整理したことをご理解ください。

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お節介な救世主の悪性

2009年06月23日 | 宗教

先日、ブログの記事のなかで、「余計なお節介をしない救世主」という表現を使いました(「ノブレスオブリージュ」参照)が、こうした表現に、多少なりとも違和感を覚えた方がいらっしゃったかもしれません。救世主ならば、救世主らしく何かをするべきだというご指摘もあるでしょう。そこで、ここでは逆に「お節介な救世主」について、整理してみたいと思います。

自分が世界の救世主たらんと努力する人、全体のために命を捧げようと頑張る人は、大変立派な人だと思います。そのことの重要性については、このブログでも大いに取り上げていることです(「夢を持てる社会」等参照)。

しかし、そう考える個人が、全体のためだからという理由で、自らの考え方を押し付けるようになった瞬間、それは全体ではなく、単にその個人のためのものにすり替わってしまう危険性があります。たとえ、それがどんなに立派な考え方であったとしても、全体の意思に反して、押し通すようなかたちになってしまっては、結果として全体が望まないこと、全体のためにはならないことになってしまう可能性があるのです。こうした全体の意思に反するような、「お節介な救世主」は、その信念が強いだけに、大変危ういものを持っていると言えます。

心底、「世界を救いたい」と思う人には、他の多くの人々には見えていない問題が見えていたりするものです。だからこそ、全体のために何かしらの行動を取りたいと願うのでしょうし、その使命感に燃えて、一所懸命になるのでしょう。また、自分が見えているものが、ほとんどの人々に見えていないため、そうした目の塞がった人々が、誠に愚かしく見えたりするのも分かります。愚かしく見えれば見えるほど、ますます全体に対する危機感が増していき、さらに自分が何とかしなければならないという思いに駆られます。

こうした循環が始まると、居ても立ってもいられなくなり、とにかく行動を起こさなければ気がすまなくなるという感覚は、何となく理解できるところです。

しかし、全体が愚かしく見えるというのは、とても危険なサインです(「他人は自分の鏡」参照)。また、居ても立ってもいられなくなり、やみくもに行動するというのは、その人自身の弱さであるということもできます(「一番難しい「山」」参照)。

少々、別の視点からの話になりますが、子供向け番組やアニメ等に出てくる悪役には、「時間をかけられない」という共通点があるように思います。「時間をかけられない」のには、いろいろな理由がありますが、そのうちのひとつが、「人間の可能性を信じられない」ということが挙げられます。これは、人間が愚かであったり、罪深かったりすることに耐えられず、そうした多くの人間たちに代わって、早く自分が何とかしなければならないという危機感が、悪役を悪役たらしめている部分があるということです。

こうしたことを踏まえると、悪役には悪役なりの正義があり、悪役にとってみれば、人間の存在こそが悪になってしまうということです。少々、おかしなことと感じるかもしれませんが、つまり「悪役=正義、大多数の人間=悪」という図式が成り立つということです。

この図式は、「お節介な救世主」にも、そっくり当てはまることです。即ち、世界を救おうと思っている自らの正義に対して、そうした重大ことに気付かない大多数の愚かな人間たちこそが悪であるという考え方から、「お節介な救世主=正義、大多数の人間=悪」ということが成り立つわけです。

このように整理していくと、「お節介な救世主」が悪役と重なって見えてきてしまいます。

今後、世界が困窮すればするほど、こうした「お節介な救世主」は増えてくることでしょう。このことは、多くの強い正義が濫立することを意味するのだろうと思います。それは上記のように、「悪役」との共通点があり、別の言い方をすれば、「悪の濫立」ということもできると考えます。しかし、私としては、彼らが最初から「悪役」を目指しているわけではないという点が重要であり、世界を何とかしたいという彼らの善意を信じてあげたいと思います(「性善説と性悪説の決着」参照)。

ちなみに、私自身は絶対的なひとつの正義があることを信じつつ(「正義がひとつになる時代」参照)、「余計なお節介をしない救世主」たらんということで、「万が一、人間が真に愚かな存在で、本当に大切なことに気付けないのならば、自ら滅ぶという道を選ぶ権利もある」と思っています。これは、たとえ人類が滅ぶとしても、その責任を私個人ではなく、人類全体に押し付けているもので、見方によってはとんでもない悪です(「交錯する正義と悪」参照)。

常日頃、そんなことを考えている私としては、「お節介な救世主」のような人々が、そうした重大な責任を人類全体に押し付けず、自らの責任で何とかしようとしている、とても一所懸命で優しい人に思えてなりません。ただ一方で、どうしても彼らの悪性にも目が行ってしまうので、それが彼らの本意ではないとするならば、そのことだけは、「余計なお節介をしない救世主」として、こんなかたちででもきちんと伝えておきたいと思うのでした。

《おまけ》
この記事を書くにあたり、以前書いた「正義の味方と悪役キャラ」という記事を見直してみましたが、少々問題が発生していました。それは、悪役キャラの特徴として、「厳格な身分制度(大ボスには絶対服従)」という項目を挙げているのですが、「侍戦隊シンケンジャー」のシンケンレッドを「殿様」と仰ぐ厳格な身分制度は、悪役キャラ的なのかという問題です。残念ながら、一般的なヒーローものやアニメ等の見方からすると、はっきり言って悪役キャラ的なのでしょう。でも、シンケンジャーの場合、あの主従関係がはっきりしているところが、魅力なんですよね。それに、時には殿に噛みつく、千明みたいな跳ね返りがいるのも、単純に悪役キャラの組織とは違って、いいんじゃないでしょうか。

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生き方の裏にある死に方

2008年12月29日 | 宗教

生き方を決めるとは、突き詰めれば死に方を決めるということです。どのように生きるかは、生きている人間にとって、最も重要な問題だと言っても過言ではないでしょう。人は誰しも、どのように生きるべきかについて、いろいろと思いを巡らせているはずです。

そのなかで、究極的に生き方を決めるということは、それさえできれば死んでもいいと思えるものを見つけるということであり、これを換言すると、死に方を決めるということにもなるのです。

ただ、自分の生き方を決めるときに、そこまでイメージしていない人もいるでしょう。どのように死ぬべきかなど、なかなか考えにくいことなのかもしれません。私自身、そうした死に方をイメージできないまま、定めている生き方について、否定するつもりは毛頭ありません。ただ、そのように定めている生き方は、所詮「繋ぎ」に過ぎないということだけは、申し述べておきたいと思います。生命に終わりがあるのは必然であり、人生というのは、自分の死に場所を求めた旅であると言うこともできるわけです。

そうした意味で、充実した人生を送るためにも、人生の早い段階で、究極的な生き方を定め、それに伴う死に方を決めておくというのは、けっして悪いことではないように思います。

ところで、少々別の話になるかもしれませんが、私はイエス・キリストという人は、それなりに自分の死に方を選ぶことができた人ではないかと考えています。人は言葉を通じて、コミュニケーションを取るため、言葉の意味で、物事を理解しようとしますが、彼の場合には、その言葉以上に生き方(死に方)を通じて、私たちに強烈なメッセージを残してくれているように思うのです。

そのメッセージとは、「他者を傷つけぬためには、自分の死をも受け入れる」というものです。この自己犠牲の精神こそが、彼がその生き方(死に方)を通じて、真に伝えたかったものだと考えます。この自己犠牲の精神は、やもすると異教徒を殺すための殉教と履き違えられる等の悪用がされたりするようですが、彼の真意を量るならば、それらの行為は全くの的外れであると思えてなりません。

彼が残したメッセージには、「他者のために自らを犠牲にする愛」という側面があることは明白です。

彼の死後、彼の名前を関した宗教が誕生し、長らく世界に多大な影響を及ぼしてきました。私は個人的に、世界が全く新しい価値観を求める現代において、その宗教が、今後どのように振舞えるのかについて、大いに注目していきたいと思っています。

イエスは他者への愛を表現するために、自らの命を捧げるという自己犠牲の行為に及びました。その彼の名前を冠した宗教が、世界への愛を表現するために、自らの宗教というかたちを否定し、それを消滅させるという自己犠牲までできるものなのかという点が、ここでの注目すべきポイントです。

生き方ばかりを一方的に追求するのではなく、あるべき死に方についても、きちんと見つけることが、その存在理由を高めることになるのです。複雑そうに見えるけれども、こんな単純明快なことが分からぬほど、人間は愚かではないと思います。これからが楽しみです。

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自立への道筋

2008年12月20日 | 宗教

子供たちには、二種類の泣き方があります。

ひとつは、一所懸命に頑張ったにもかかわらず、それがうまくいかずに、悔しさや悲しさを堪えきれずに泣くというものです。この場合、親を含む大人たちは、子供を大いに元気付けてやり、また泣くに至るまでの過程で、懸命に堪えようとしたことを褒めてやるべきではないかと思います。子供たちは、こうした経験を通じて、心が折れることなく、親や大人たちが理解者であることに勇気を得て、引き続き懸命に生きようとするでしょう。

もうひとつの泣き方は、大人たちにアピールするためのものです。これは、大人たちに慰められることに味を占めて、堪えたりやり切ったりすることができるにもかかわらず、大人の関心を惹くために取る行動です。この場合、子供が泣いているのは、単なる甘えに過ぎないため、逆に突き放してやらないと、子供たちは懸命に生きていくことをしなくなります。

大人たち、特に親たちが注意をしなければいけないのは、この二つをきちんと見分けることです。これを見誤って、大人たちが逆の行動を取ってしまうと、子供たちは、自らの人格をおかしな方向へと歪めてしまいます。

ところで、これらの泣き方はよく見ていれば、きちんと見分けがつくものです。子供たちの行動を注視することで、本来、子供ができる事、できない事は見分けがつきますし、その尺度を持って泣いている子供が、なぜ泣いているかを判断することは、十分に可能なのです。

そして実は、こうしたことは子供に限らず、今の人類全体についても言えることです。

人類の長い歴史のなかで、何かにすがらなくては生きていけないという時期があったことは間違いないでしょう。一所懸命にやってもうまくいかず、その現実に打ちひしがれ絶望し、立ち尽くせざるを得ない時代があったのだろうと思います。

人類のそうした歴史のなかで、大きな役割を果たしてきたのが宗教です。宗教には、諸々の弊害があることも否定できませんが、人類に対して、必要な機能を提供してきたことも事実でしょう。必死で生きようとしているにもかかわらず、現実がそれを許さないという状況があるなかで、多くの人々を優しく包み込み、救ってきたのが宗教であると言えます。

しかし、人類が何かに頼って生きていける時代は終わりつつあります。自立が求められてくるのです。とくに地球規模の問題を抱え、人類の一挙手一投足が、自らの未来のみならず、地球上のあらゆる生命の命運をも左右するような現代にあって、人類の自立は単なる憶測ではなく、時代の必然とも言えます(「外れない補助輪と外す努力」参照)。

これまでの人類は、宗教という便利な救済手段があるが故に、その多くが、宗教に依存した生き方をしてきました。しかし、実際にはそれから離れて、生きていける人々もたくさんいるのです。むしろ、宗教による救済は、人類全体における甘えの構造を固定化させるという弊害すら、生み出し得る状況にあります。それは、人類の自立を阻みます。

私が見る限り、既に人類は、宗教に頼らずとも生きていくだけの力を持っています。

やればできるのに、ただ泣いているという子供に対して、救いの手が差し伸べられることはありませんし、それが許されてもなりません。ただ泣いているだけでは始まらないことに気付いた子供は、泣くことを止めて、やってみようと決意することになるはずです。

実際にはできるにもかかわらず、挑戦する前から「絶対にできない」と決め付けている人々にも、いずれ「やってみよう」と思わざるを得ない瞬間が、順次訪れることになるでしょう。まさにそれが宗教との決別であり、人類の自立へと繋がるのです。

夜の街では、イルミネーションも華やかになり、クリスマスムードも高まってきています。クリスマスは、宗教的な意味合いよりも、単に楽しむという観点から、大変結構なものだと思います。宗教のかたちに惑わされず、その本質を見抜き、使えるところをうまく使えばよいだけのことです。主従違えることなく、きちんと自立した人類が、宗教の主人たる立場にいることが大切です。

《おまけ》
私は、日本という国に住む人々が、キリスト教でないにもかかわらず、クリスマスのようなイベントを楽しめるということには、とても重要な意味があると思っています。そしてまた、多くの日本人が理解しているかどうかは別にして、キリスト教でもない人々が、宗教から離れて、イエスを含むキリスト教信者という「隣人たちを愛する」ことを実践しているのは素晴らしいことだと思いますし、それこそが、真にイエスが伝えようとしていた精神を体現しているのではないかと思えてなりません(「クリスマスシーズンを迎えて」、「日本人の大切な「ゼロ」」等参照)。

なお、本記事は「宗教」をテーマとしてまとめましたが、これらは宗教に留まらず、既存のあらゆる社会システム(組織、国家、経済、教育等のシステムや諸制度)と置き換えることもできるだろうと思います。

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「特殊な存在」という自任

2008年12月03日 | 宗教

見えやすいもの、分かりやすいものというのは、少々厄介です。何故ならば、人間には、そうした表面的で分かりやすいものに心を奪われ、本質的に何が大切かを見失ってしまう性質があるからです。一部の宗教は、人間の心を救済するという目的を達成させるべく、心の本質を分かりやすく表現するために、偶像崇拝という矛盾を抱えています(「偶像崇拝とフィギュア」参照)。これなどは、偶像崇拝に傾倒してしまうことで、本質にある大切なものを見失ってしまうという危険性をはらんでおり、実際にそういう状況に陥っている事例のひとつであると思います。

少々、別の話になりますが、先日、ネパールの瞑想を続ける少年のニュースを目にしました。もうずいぶん前から、時折話題になる少年のようですが、非常に多くの謎に包まれています。その謎のひとつが、彼が瞑想ばかりしていて、まったく食事をしていないということです。事の真偽は、分かりませんが、大変不思議なことではあります。こうした類の話は、確かめることが難しく、だからこそ謎なわけですが、ここで私が危険性を感じるのは、周囲に集まる人々が、彼をものすごい人間として特別視してしまうことに終始することです。もちろん、ものすごい人間であることは確かなのでしょう。彼の実態の真偽を別にしても、少なくとも、そのように見えるというだけでも、ものすごい人間だと言うことができます。ただし、それを見ている周りの人々が、「仏陀の化身」などといって祀り上げ、彼によって自分、あるいは人類全体が救われると思ってしまうことがあるとするならば、それは大きな問題だと考えます。

それは、これからの人類の未来において、その少年が果たすであろう役割を否定するものではありません。端的に言えば、彼の行いによって、多くの人々が瞑想の魅力や不思議さに関心を覚えたはずです。そのように、多くの人々が瞑想に関心を寄せることで、人々の気の持ち方が変わったり、生きるべき道を見つけたりできるとするならば、それは大変結構なことです。そうした個人の変化は、人類の未来を切り開いていく力にもなっていくことでしょうから、そういう意味で、彼は彼なりに、これからの未来において、人類を救済していくという役割の一端を果たしていくという言うことができると思います。

しかし、瞑想そのものによって、全世界が動いていくということはあり得ないと考えるべきです。瞑想という、いわば四次元的な行いによって、三次元の世界が影響を受けるということは、否定すべきものではありませんが、ただ実際に、この世界を動かしていくのは、人間の意思によって生み出される三次元上の行動であることも事実なのです。瞑想によって、どんな超常的な現象が起ころうとも、それのみによって、世界が決定付けられることはありません。あくまでも世界の事象は、人間たちの実際の行動が、集積していくことで決定付けられるのであり、瞑想というのは、そうした行動を支える人間の意思や精神を、強く清らかに保つための手法に過ぎないということがポイントです。

そうしたポイントを踏まえたうえで、瞑想の名人たる彼が、瞑想の魅力や不思議さを、多くの人々に伝えていくということは、各個人の行動に大きくプラスの影響を及ぼすであろうことから、歓迎すべきことであるとは思います。

明確にしておくべきことは、彼にすがりさえすれば、自分が救われるとか、人類が救済されるなどと考えるべきではないということです。自分にしても、人類にしても、それらの未来を切り開くのは、自分自身にほかなりません。

自分はともかく、人類の未来までも、自分自身が切り開くという言葉に違和感を覚えるという人がいるとするならば、それは自分自身が人類の一員であることを忘れているに過ぎません。人類の未来は、突き詰めれば、人類の一員たる各個人が負っているのです。最終的に自分を救うのも、人類全体を救済するのも、自分という個人にかかっているということは、絶対に忘れてはなりません。

ネパールの少年は、分かりやすい「特殊な存在」です。人間は、こうした特殊に見える存在を知ってしまうと、その特殊性に目を奪われがちになります。彼を特別視してしまうが故に、自らが果たすべき役割や、持っている力を見失ってしまいがちになるのです。「特殊な存在」には、それが持つ魅力があることも事実ながら、反面で、それ以外の人々の重要性を打ち消してしまう恐ろしさがあるのです。こうした問題には、十分に注意しなければなりません。

本来のあるべき見方として、彼が「特殊な存在」であると同時に、自分も同じように「特殊な存在」たり得ると考えることが肝要です。そして、そのように自分も「特殊な存在」であると考えるときには、彼と同じように、瞑想という分野で秀でた存在になろうなどと考える必要はありません。人間は、それぞれがまったく異なる存在なのであり、その異なることに、自分を含めたそれぞれの個体に存在意義があると考えるべきなのです(「人間の優劣と競争社会」参照)。

宗教では、それが宗教としてのかたちを成すために、多くの人々を惹きつけるだけの魅力を持たなければなりません。したがって、とくにその宗教の中心にいる教主などの人物が、教義などと結びついて、非常に「特殊な存在」として神格化される傾向があります。そうした神格化された「特殊な存在」は、たしかに「特殊な存在」としての魅力を放ちますが、一方で、そこに集まる大勢の人々も同じように「特殊な存在」であることを忘れさせてしまうという弊害を生む可能性があるのです。

こうしたことは、世界宗教と言われるものも含めて、宗教には、ほぼ共通して言えることだと思われます。神格化されるほどに、輝きを放つ「特殊な存在」は、それはそれとしてあっていいのですが、そこから読み取るべきことは、そうした人物が「特殊な存在」であるということと同時に、自分たちも異なる分野、能力において、同じように「特殊な存在」でいられるはずであるということに思えてなりません。

どんなにすごい人がいるとしても、またはどんなに偉大な人物がいたとしても、自分にとっては、自分自身に勝る存在はあり得ません(「歴史上の誰よりも偉い人」参照)。人間には、目に見えないものを信じる力があるものだと思います。目に見えるものに惑わされず、自分自身の可能性について、強く信じられる者から、世界は変わっていくように思うのです(「「自分教」の薦め」参照)。

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偶像崇拝とフィギュア

2008年09月07日 | 宗教

宗教において、偶像崇拝が許されないということがあります。これは宗教の本質が、私たちが通常視認している物質世界に対して、精神世界などの別次元の世界から向き合おうとしていることにあると思います。つまり、目に見える物質世界に生きていながら、目に見えないものの重要性を説いているのが宗教であり、そうであるが故に、その核心を目に見えるかたちにすると、物事の本質が失われるということです。目に見えないものの重要性を説くのに、それを目に見えるかたちにしてしまっては、それは矛盾でしかありません。ここに、宗教と偶像崇拝との間にある問題が浮かび上がるのです。こうした問題について、最も厳格なかたちで向き合っている代表的な宗教として、ユダヤ教やイスラム教などが挙げられます。偶像崇拝を許さないということは、なかなか難しいことではありますが、これを守り通すという理念を掲げ、それを実践していくということは、宗教として非常に大きな役割を果たしていると言えるでしょう。

ただ一方で、宗教の本質には、苦しんでいる人々を救うという側面もあります。人間の心は、それほど強くできておらず、厳しい現実世界を生きているなかで、時には信じたくても信じられない心の弱さを補うことが必要になります。こうしたことから、目に見えないものを信じるための手助けとして、目に見える偶像が生み出され、それを崇拝することで心の安らぎを得るということが広まっていくのです。このことは、本来の宗教が伝えるべき本質からは外れてしまう可能性を孕みつつも、そもそも物質世界で生きていかざるを得ない人間の心を守るためには、必要なことだったのだろうと言えます。

こうしたことは、日本に広く普及している仏教においても例外ではありません。もともと、初期の仏教においては、仏像など存在していませんでした。仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタ(釈迦)の時代から数百年の間、偶像崇拝などはまったく行われず、仏塔や仏足石などが生まれるような経緯があって、最終的に仏像なるものが誕生するようになったのです。このことは善悪の問題ではなく、仏像が弱い人間の心を救済するために生み出されたものであり、それがきちんと機能したと解釈するべきでしょう。仏の教えたる仏教そのものの本質を伝えることも大切ですが、それはけっして目に見えるものではなく、厳しい現実世界のなかで、何かにすがりたいと救済を願う人々にとっては、とても残酷なことにもなり得ます。時には仏像というかたちで、目に見えるものとして、人々の心を救済するということが、必要であったと考えるべきだと思うのです(なかには仏像をもって、仏教に偶像崇拝があると考えるべきではないとする立場もあるようでが、信ずべき目に見えないものを可視化させ、それを崇拝するということが偶像崇拝の本質であり、その本質的な意味と照らし合わせたとき、仏像はあきらかに仏教における偶像崇拝だと思います)。

繰り返しになりますが、偶像崇拝について、善悪を断じることはできないと考えます。偶像崇拝を禁ずることには意味があるし、偶像崇拝を行うことにも立派な機能や役割が存在します。ただし、一点だけ忘れてはいけないことは、宗教が伝えるべき本質は、本来、その偶像には宿らない、あるいは宿り続けないということです。偶像崇拝は、人間の心の弱さ故に存在しているだけであり、もともと人間は偶像崇拝をせずとも、その目に見えないものの重要性を理解しなければならないということです。自分の心の弱さを問いただすこともなく、ただひたすら便利な偶像崇拝に寄りかかり、目に見えないものの重要性を見ようとしなければ、いずれ破綻をきたします。

偶像崇拝を通じて心の安らぎを得ることは、大変結構なことではあります。しかし、それはあくまでも人間が強い心を手に入れるまでの一時的な手段に過ぎず、それをきちんと理解して、使っていく必要があるということです(「道具の目的化の危険性」)。心の弱い人間は、偶像崇拝をしながらも、常に自分の心を鍛錬していく努力を怠ってはならないのです。

こうしたことは、日本の新しい文化でもあるフィギュアについても言えると思います。秋葉原のフィギュアショップに行けば、日本が生み出したあらゆるコンテンツのキャラクターフィギュアが所狭しと並んでいます。

自分にはない強さをもった憧れのヒーローのフィギュア、戦場での勇姿が輝くロボットのフィギュア、実在し得ない可愛さや優しさをもつヒロインのフィギュア・・・。

こうしたたくさんのフィギュアたちが買われていき、数多くの人々の心に勇気や希望を与えるということは、実に結構なことだと思うのです。逆に、こうした文化に対して、無思考のまま批判したり、忌み嫌ったりするというのは、あまり褒められたものではありません。

フィギュアは、宗教でいうところの偶像です。この現実世界は、生きていくには厳しく、また自分が望むようなことばかりではありません。そうした現実世界のなかで、勇気や希望を求め、実際にはあり得ないものやあり得ないことを望んでしまうことは、極めて自然なことでもあります。そうした望んだものを実体化させたものがフィギュアなのです。そういう意味で、フィギュアは人間の心の弱さが生み出したものであると言うことができると思います。

このように、人間の心の弱さ故に生まれたものという意味においては、仏像などの偶像もキャラクターのフィギュアも同じです。人間の心に、フィギュアの文化を生み出すような弱さがあることは、数千年の宗教の歴史が既に証明しているのです。そのことは、ただ受け入れるしかないのだろうと思います。

そうした人間の心の弱さを受け入れた上で、これからの時代において考えなければならないポイントは、偶像やフィギュアには物事の本質が宿らない、あるいは宿り続けないということをきちんと理解することでしょう。そして、自らが成すべきことを考えるのです。

 -清らかな偶像崇拝をする人は、自分の心を清らかに磨くこと。
 -強いヒーローフィギュアを飾っている人は、自分の心を強く持つこと。
 -純真なヒロインフィギュアを眺めている人は、自分の心を純真に保つこと。

それぞれ、成すべきことがあるのです。

偶像崇拝やフィギュアは、厳しい現実世界の中でさらけ出された人間の心の弱さから生み出されたものです。しかし、自分が弱いからと言って、ただひたすらそれに頼るのではなく、それらをうまく活用していきながら、常に自分自身を磨き、鍛えることが肝要です。そうすることで、自分自身はもちろん、厳しかったはずの現実世界も大きく変わっていくことになるでしょう。そして最終的には、偶像崇拝もフィギュアも必要なくなり、それらは「所詮ツールに過ぎなかった」と言い切れる存在になるはずです。この結論から考えて、逆の言い方をすれば、所詮ツールに過ぎないのだから、偶像崇拝にしても、フィギュアにしても、単純に楽しむくらいの余裕があっていいのだろうと思うのでした(「「自分教」の神社」参照)。

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無意識にある神道と自分

2008年07月24日 | 宗教

日本は無宗教の人々が多いと思います。もちろん、特定の宗教を信じているという人々がいるのも事実ですが、世界的に見て、何の宗教も持たないという人々の比率は圧倒的に多いと言えるでしょう。

ただし、日本には固有の宗教、神道があるという見方もあります。そう考えた場合、大多数の人々が神道信者であると言うことができるかもしれませんし、それはそれで間違いではないでしょう。そして実は、この神道という宗教が、日本人に意外と根深く浸透していると言ってよいかもしれないという状況にあるのも事実です。

初詣、観光、諸々の祈願のために、神社に参拝するということは、何も特別なことではありません。私たち日本人にとって、神社にお参りするということは、日常に溶け込んだ至極自然な行動のように思いますし、場所によっては、自分たち用に神棚を設置しているところもあるくらいです。

しかし、神社はけっして宗教と無関係ではありません。

教会やお寺というと、○○教やら○○宗といった宗教名を冠していることが多いため、何となく自然と宗教をイメージされる方々も多いと思います。しかし、神社については、あまり宗教を意識されない方々が多いのではないでしょうか。実はこれが、私が「神道という宗教が、日本人に意外と根深く浸透している」と言っている根拠でもあります。

基本的に、神社は宗教法人によって運営されています。知っている人からすれば、至極当たり前のことですが、ほとんど意識されていない方々からすると、少々戸惑われるかもしれません。神社を運営する宗教法人は、いろいろとありますが、なかでも最も大きいものは、日本全国約8万社の神社を包括するという神社本庁です。一般的に、伊勢神宮が神社の頂点とされているのには、この神社本庁が同神宮を本宗と仰いでいることとも関係があります。神社を管轄している宗教法人のうち、神社本庁に属さないものもありますが、基本的には何らかの宗教法人によって、運営されているというのが神社の実体です。ご存知なかった方にしてみても、神社がきちんと存続するためには、それらを管理・運営する主体が必要であることは確かなわけで、当たり前といえば当たり前の話です。

私は、神社の管理・運営主体として、宗教法人が必要であったろうことについては、そのとおりだろうと思いますし、それが宗教法人に限らず、時代を経ながら、永きに渡って、いろいろな神話を受け継ぎつつ、神社を存続させてきた人々がいてくれたことに感謝したいと思います。そしてまた、それが神道というかたちで、ある種の宗教の体を成しつつ、日本人独特の精神や文化を育ててきたことに、大変な意味があっただろうし、そのことが多くの日本人を指して神道信者と言わせるほどの根拠にもなり得ると考えています。

ただし、ここで指摘しておきたいポイントは、神社にお賽銭を投げるときに、ほとんどの人々が、そうした「宗教法人」の存在を意識していないであろうということです。特定の「宗教法人」に対して、無意識かつ自然にお賽銭を投げていることは、それだけ根深く、その宗教が定着しているということではないかと思うのです。つまり、多くの日本人にとって、神道という宗教が、意識するまでもないくらい身近にあるということでもあります。

私は、このこと自体、それほど悪いことであるとは思いません。特別な勧誘や信仰の強要をせず、黙々と社を構えて、信じたい者にはお賽銭を投げさせるというかたちをとりながら、これまで脈々と受け継がれてきた神社組織や神道的な考え方には、親しみを覚えますし、ある種の懐の深さすら感じます。

しかし一方で、お賽銭を投げる側の人間として、そのお賽銭が、どのような人々の懐に入るのかについて、きちんと考えることも大切であるように思います。それは、神社という存在が、私たち日本人にとって、あまりにも自然であるが故に、普段意識しないことではありますが、そうであるからこそ、きちんと考えることに大切さがあるように思うのです。

そこで考えるべきは、伊勢神宮を頂点と仰いで、日本の大部分の神社を包括するという神社本庁のことです。ブログ内でも、何度か触れていますが、日本建国の歴史は謎だらけです(「日本建国史の再考」、「東国の神々へのご挨拶」参照)。神社本庁が本宗とする伊勢神宮について、それを頂点とする構造が本当に正しいかについては、議論の余地がありますし、そこに問題意識を持つこと自体、お賽銭を投げる人間としての立場からすると、非常に大切なことではないかと思うのです。

ただし、これを考え始めるとキリがありません。結局、そうしたことがはっきり分からないまま、私自身、神様たちへのご挨拶という意味で、神社にお参りはしますし、お賽銭を投げることもあります。

そして、そんなことを考えながら、結局、行き着く結論は、人はそれぞれ自分自身を信じるしかないのだろうということだったり、単純に神社参りを楽しめばいいのだろうということだったりするのでした(「「自分教」の神社」参照)。

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「自分教」の神社

2008年03月04日 | 宗教

「自分は神様だ」などと言っているうちに、私にお賽銭を投げる人が出てきてしまいました(言葉の真意については、「「自分教」の薦め」を参照のこと)。少々違うのですが、それでその人の気が楽になるのなら、それでもいいかということで、お賽銭箱を用意して、お金を入れてもらうことにしました。そうしているうちに、結構お金が貯まってきてしまったので、それで神棚の神鏡やら、鳥居やら、お社やらを買って遊び始めました。

諸事情あって、今は自宅の枕元に置いてあるのですが、その後いろいろと寄進物等も頂き、だいぶ賑やかな神社になってきました。

こうして遊ぶことも、私の人生にとっての「補助輪」だと思います(「外れない補助輪と外す努力」参照)。本来、補助輪なしで走りたいところではありますが、これはこれで楽しいのだから、いいのではないかとも思っています。私は、特定の宗教に頼ることは絶対にありませんが、楽しみながら、何かしらのかたちにすること自体、悪いことではないと思うのです。

そしてまた、いっそのこと、これもひとつの神社にしてやれ!などとも考えています。コンセプトは「自分教」。「自分教」の神社で、絶対に欠かせないものは神鏡です。救いを求めにやって来るのは構わないけれども、あくまでも大切なのは自分自身であることが重要なのです。どんなに救いを求めたところで、神様とは「あなた自身」であることを映し出す鏡は、「自分教」神社の必須品です。ただし、それ以外は何でもありにしたいのです。とにかく楽しむことが大切だと思います。

そこで今、この神社では、とにかく好き勝手に飾っています。ちなみに、写真にある女神ベルダンディー(神棚にはやっぱり神様!)と仮面ライダーシリーズのフィギュアは、私が自ら設置したものです。その他、知人や家族からの寄進物も混在していて、ずいぶんと賑やかになっています。

宗教だとか、何だとか硬いことを言わずに、楽しみながら自分たちの「救いの主」を作っていくのも面白いと思うのでした。

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「天国に行ける」という罠

2008年02月20日 | 宗教

「善行を積めば天国に行ける」

この言葉の意味を否定するつもりはありません。良いことをすれば、きっと良いことがあるでしょう。良いことや正しいことをすることは、ときに辛いことだったりします。そういう人々を励ます意味で、「天国に行ける」という言葉をかけるという手もあるでしょう。

しかし、「天国に行けるから○○しなさい」と特定の行動を勧める意味で、「善行を積めば天国に行ける」という言葉を使うことは、非常に危険であると思います。宗教では、「善行を積めば天国に行ける」、あるいはこれに類する表現を用いることがありますが、これは「良いことをしていれば、きっと良いことがある」という本質的な意味のうち、「良いことがある」という結果ばかりに焦点を当てた曲解となる可能性を秘めています。

まず実際に、善行を積んだ心が清い善人が行ける「天国」と、悪行を重ねて心が荒んだ悪人が落とされる「地獄」があるとします。こうした前提で、「天国に行ける」という理由で、善行(とされる行動)をする人は、天国に行くことができないと考えるべきです。何故ならば、そういう理由で天国に行こうとする人は、他の人々を差し置いて天国に行こうとする心が汚れた人であり、そのような自分勝手な人は、むしろ地獄に落ちてしまうからです。逆の言い方をすれば、天国に行く人は「心の清い善人」であり、自分以外に地獄に落ちる哀れな人々がいるのを横目に、自分だけ天国に行くようなことはできません。したがって、天国と地獄という二つの世界があるということを知りつつ、天国に行きたいなどという結果論に目を奪われ、それを願っている人は、けっして天国には行けないのです。

宗教に限らず、教育を含むあらゆる場面で、人の道を説くときに分かり易く「天国に行けるから」と善行を積むことの素晴らしさを表現することは理解できます。しかし「天国に行ける」という結果論を強調すると、善人すら「悪人」に仕立て上げてしまう危険性があることに注意する必要があります。また、そのような教えを説かれる人々の側も、そうした甘い罠に陥らないよう、自分自身を強く持つことが大切です。

繰り返される宗教戦争や殉教の悲劇などには、「善行を積めば天国に行ける」というロジックが用いられます(「武士と騎士の違い」参照)。これらを信じてしまっている人々に対して、信じるなと言っても無駄なことかもしれません。しかし、もし少しでも考える余裕や時間があるならば、「天国とは何か」を、よくよく考えていただきたいと思うのです。

ところで、上記のように「地獄に落ちる人がいると知りつつ、天国に行く善人はいない」、「真の善人は天国には行かない」というロジックが成立するとなると、そもそも天国や地獄というものがあるのかという疑問にぶち当たります。

ここに、心に一点の曇りもない「真の善人」がいるとしましょう。この「真の善人」は、天国と地獄の存在を知ったら、間違いなく地獄に向かうはずなのです。天国と地獄という二つの世界がある限り、「真の善人」は、迷わず自ら進んで地獄に落ちて行き、地獄に落ちている人々を助けるという行動をとるはずです。これが「天国と地獄」の存在についての疑問につながるのです。

「真の善人」は地獄に行く。
「真の善人」が行く場所が天国。
∴地獄=天国???

これでは、正直何が何だか分かりません。

結局、私は天国も地獄もないと思います。確実に存在するのは、私たちが生きているという現世での事実です。来世の存在を否定するわけではありませんが、大切なのは現世をどう生きるかという問題であり、すべてはそこに帰結するべきだと思うのです。

「何事も心の持ち方次第」などという言葉を使ったりしますが、この世界で生きているという事実のなかで、最も重要なのは、私たちがこの世界を天国と思うか、地獄と思うかではないでしょうか。「天国と地獄」を考えるときには、常にこの視点を忘れてはならないと思います。

「この世界は、心が清い善人には天国になり、心が荒んだ悪人には地獄になってしまう」

私は、このことが「善行を積めば天国に行ける」という言葉の、本質的な意味ではないかと思うのです。

さて、あなたはこの世界が天国に見えますか?地獄に見えますか?

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「自分教」の薦め

2007年04月29日 | 宗教

宗教は多くの人々を救済してきました。生きる意味や目的、あるいは生きていくための支えを失った人々にとって、真っ暗闇に突き落とされたような人生に一筋の光明を授けます。宗教がそうした多くの人々に生きる希望を与えてきたことは、まぎれもない事実だと思います。これは、宗教がなせる業であり、人類を救済したという功績でもあるでしょう。

また現在の状況をみても、実に多くの人々が宗教を信じているし、人類の歴史を振り返っても、宗教と人類は常に共存をしてきたと言えると思います。このことは、いかなる宗教にせよ、宗教が説く法に人々を信じさせるだけの力があるからにほかなりません。

しかし、これからを生きる人類は、宗教にすがって他者に救われることを期待してはならないとも思います。

物事には必ず二面性があります。宗教にも同じように、宗教がこれまで存在してきた理由に、良き面と悪しき面があります。良き面とは、上記のように多くの人々の人生を救ってきたという宗教の功績の部分です。生きる希望を失いかけ生ける屍となっていたけれども、宗教の教えにより生きる勇気を得ることができ、無駄に死すことなく、社会に貢献していった多くの人々がいたはずです。また、そうした宗教を中心に建築、絵画、彫刻などの芸術分野において新しい作品が生まれ、それが文化となり、その宗教とは関係のない人々の心までも豊かにしていったと思います。

しかし、こうした良き面があると同時に、悪しき部分があることを忘れてはなりません。即ち、宗教の運営に深く関わっている人々のなかには、多くの人々がその宗教に頼っていることを利用して、自らの欲望を満たそうとする心があるということです。高潔な宗教の運営者の心のなかに、そのような矛盾があるなどということは、その宗教を信じる人々にとって耐え難いものかもしれません。しかし、現在の人間が完璧な存在ではない以上、それは致し方ないことでもあります。そもそも「愛」や「平和」を唱える宗教同士が、絶えず争いを繰り返していることは歴史が証明しているし、それは誰も否定できるものではありません。自ら考えることをせず、宗教に人生を委ねてしまっては、そうした宗教同士の争いの渦に、自らの人生を放り込んでしまうことになります。それは、大変危険なことです(「武士と騎士の違い」参照)。

真に争いを回避し、本当に「愛」や「平和」を実践するためには、他者に対して寛容でなければならず、他の宗教を受容していかなければなりません。しかし、宗教にとって、他の宗教を受容するということは、自己を否定することを意味します。つまり、宗教が存在する以上、その宗教は他宗教との差別化が必要となるのであり、他の宗教とは相容れないものを持たなければならないのです。宗教が宗教として存在する限りにおいて、他宗教を否定します。「愛」や「平和」を唱え、争わないことを主張し、他宗教をも受け容れよと言いながらも必ず否定しなければなりません。それが宗教の限界です(「宗教が説く真理」参照)。

このように宗教の限界が露呈している現代において、何を信ずるべきでしょうか。それは、他でもない自分自身です(「頼るべきは「自分」」参照)。自分の人生は、自分が責任を持たなければならないし、自分の人生に必要な意思決定は、他者に頼らず、自分自身で行っていかなければなりません。至極、当たり前のことです。

そうした当たり前の議論のなかで、「神」とは何かを考えるのです。端的に言うと、神とは、その人にとって、その人自身です。あなたにとっては、あなた自身が神なのであり、あなたにとって必要なものは、すべてあなた自身で決めることができるし、決めなければならないということです。

自分自身が神であると考える。いわば「自分教」とも言うべき発想ですが、このことは以下のような2つを同時に実践していかなければならず、実は大変難しいことでもあります。

①高いプライド
自分自身が神であると考える以上、自分だけのことを考えていてはなりません。自分の幸せはもちろん、自らの存在が地球上のあらゆる生命の幸福のため、地球の平和のためにあるということを意識し、それを実践しなければならないのです。自分の存在は、自分だけのためにあるのではありません。限りなく広い世界のために存在するのであり、だからこそ自分の存在は限りなく尊いということを知るのです。このことにより、その人は神としての高いプライドを持つことができます(「「大人」の責任」、「生きがいと幸せ」、「正義が勝つ理由」参照)。

②究極の謙虚さ
自分が神であることを知るということは、自分だけが特別であるということではありません。一人の人間として、自分が神であるということに気づいたに過ぎず、そのことは本質的に、他の人間ひとりひとりも、まったく同じように神であることを認識するということでもあります。つまり自分が神として尊厳ある存在ですが、周りのすべての人々もまったく同じように尊い存在であることを知るということであり、それらのすべての人々に対して、限りなく謙虚でいなければならないということでもあるのです(「「No」と言えないことへの誇り」、「脳力の可能性」、「人間の優劣と競争社会」参照)。

このふたつを実践していくことで、その人は限りなく尊い存在となります。地球の問題が、人類にとって待ったなしの状況にあるなかで、人間はこのことに気付かなければならず、それに気付くことで、他者をいたずらに傷つけることはなくなり、現存の宗教のような争いをしなくなると考えます。

「選ばれし者」という言葉があります。果たして自分は神に選ばれるのか、選ばれないのか。救われるのか、救われないのか。そんな風に不安に思う必要はありません。宗教に人生を預け、選ばれるかどうかを「どこかの神」に任せてしまうから、そのような発想になるのです。

神になるか、ならないかは自分自身の意識にかかっています(「集合的無意識の力」参照)。自分が人生をかけてするべきことに気付き、それに高いプライドをもち、同時に謙虚さを兼ね備えることができれば、その人は自ずと自分の人生の尊さを知り、自らが神であることを知るのです。そのとき、「選ばれし者」とは、自分が尊い存在であり、自らを神として選ぶかどうか、という非常にシンプルな自分自身の問題であることに気付くでしょう。

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クリスマスシーズンを迎えて

2006年12月14日 | 宗教

クリスマスシーズンを迎えて、夜の街並みがずいぶんと華やかになってきました。クリスマスに始まる年末年始の雰囲気は、一年を通じても格別のものがあるように思われます。キリスト教信者が多いわけでもないこの国で、一年の間で最も盛り上がるイベントのひとつがクリスマスであるということは、日本人には、広くいろいろな文化や価値観を受け入れる度量があるということを端的に証明しているといってよいのではないでしょうか。(「「No」と言えないことへの誇り」参照)

現代社会は競争ルールによって成り立っており人間、企業、国家、民族、宗教同士のエゴがぶつかり合う力で、もはや地球を破壊しつつあると思います。こうした人類にとって、相手を受け入れる日本人の感性や度量は、これから人類が地球に住み続けられるようになるために、非常に重要になってくると思われてなりません。

それでは、エゴを捨てさえすればよいのでしょうか。
「個は全体のためにある。エゴを捨てよ。見返りを期待するな。無条件の愛、無償の愛を捧げよ。」

しかし、エゴを究極的に捨てていくと、個の存在価値は全体のなかでしかなくなります。その結果、イエス・キリストのように、自分自身を投げ出して、結局は殺されてしまうという悲劇を生んでしまうというのが人類の歴史でした。

キリスト教では、イエスがパンを自らの肉であり、ワインを自らの血であると言い、弟子たちに、自分の死後これらを食べろと言ったといい、聖餐式(ミサ)ではパンとワインを食すということを続けているといいます。それらを食すことによって、そのときのイエスの悲痛な覚悟を、思い起こさせるのだというのが、キリスト教徒の方々の考えのようですが、私自身、こうすることが、本当にイエスが望むことなのか甚だ疑問でなりません。

イエスは、自分の血肉を食されても構わない。それでも、あなたたちを愛するという覚悟をもって、エゴを捨てきり、十字架にかけられたのでしょう。彼がパンやワインを自分の血肉と思って食せと言った裏には、究極的にエゴを捨て去った彼の偉大な決意があったのだろうと思います。しかし、これをそのまま鵜呑みにしていては、人間が考える力をもたない、愚か者であるということになってしまいます。これまでの人類の過ちは、そうした彼の決意に甘んじていたことではないかと考えるのです。つまり、「彼が食せと言ったから喰らうのである」と言っているだけで、ここには何の思考も働いていません。これが、本当に今を生きる我々のすべきことなのでしょうか。

否。彼はそれだけの決意をもって、エゴを捨てきり、人類を愛したのです。そんな人間が殺されるような世の中、社会は間違っているのであり、彼のような人間が、殺されないような世界にするにはどうするべきでしょうか。それは、今を生きる人間ひとりひとりが、彼のような決意をもって、変わらなければならないということだと思うのです。

よく考えていただきたいのです。本当に敬虔なキリスト教徒という方がいらっしゃるのであれば、そんな人こそ、彼の真意をよくよく考えていただく必要があると思います。私のような無宗教の人間が、イエスの真意を真剣に探っているのです。勇気を出して、彼が何を考えていたのか、自分が何をすべきなのかを、思考停止を起こさずにきちんと考えるべきだと思います。

私は、当時イエスは死を目の前にして、絶対に口にはしなかったけれども、心の中で叫び続けていたことがあるのだと思います。

「私は、血肉をあなたたちに捧げます。それだけ、あなたたちを愛します。」

そのあとに、本当は続けたかった言葉。
「そして、あなたたちは何をしますか?」

見返りや求めることをしない、無償の愛を説くからこそ、言えなかった一言です。イエスが言葉を使って問いかけることができなかった、この問いに対しては、今を生きる人間ひとりひとりが、自問自答しながら、答えをみつけていかなければならないことです。

私は、本当にイエスのことを理解するならば、そんな彼の壮絶な思いを胸に刻み込み、自分たちも自らの血肉を捧げる決意ができると思います。そして教会では、イエスの血肉であるパンとワインを食すのではなく、自らの血肉を捧げる決意があることを表す意味で、例えばパンと肉を持ち寄るようにする、といった工夫をすべきです。その決意の表明こそ、イエスの本当の願いに応える行為であり、彼の死に最も報いるかたちなのではないかと考えます。

クリスマスのイルミネーションを眺めながら、彼が生きたことへの意味を探り、自分たちのこれからの生き方について、きちんと考えていかなければならないと思うのでした。

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原罪とは・・・

2006年09月26日 | 宗教

人間は生まれながらにして、罪を背負っているという考え方があります。これを、キリスト教では原罪といった言い方をします。何をしたわけでもないのに、勝手に罪を着せられるとは、甚だ不愉快でもあります。

いや、しかし実はすべての人間は罪を背負っていると言うことができると思うのです。

今の人間社会は汚れたところ、歪んだところがたくさんあります。絶えず、競争のなかで生かされており、そこで優劣が決まっていくため、互いを心から尊重することができません。相手を尊重することもさることながら、最終的には、他人よりも優れた存在でありたいと願うことも事実です。

そこに憎しみが生まれ、競争が起こります。そして皆、この競争社会のなかで、少しでも優位な立場で生きようとしています。社会システムは、これらの人間の生き方を反映し、発展してきました。会社の仕組み、資本主義の仕組み、国家の仕組み・・・、これらは、すべて競争原理のなかで生まれてきたものです。

競争原理を基盤とした人間社会で、優劣を決めるのは、権力、財力、名誉などです。人々は、これらを求めて生きていきます。個々人のレベルでみたときに、必ずしもそうでない人々もたくさんいるでしょう。いやむしろ、心の底では、そうでないと思っている人々がほとんどかもしれません。しかし、ほとんどの人が仕方ないことだと諦め、競争原理の尺度や価値観にあわせて生きていこうとするのです。

ところで、こうした社会システム、人間の価値観によって、何がもたらされているでしょうか。経済優先主義、人間の利己主義により、実は本来突き詰めるべき価値を追求できなくなっていると思うのです。

人間はそれぞれ、自分は経済的に豊かになりたいと思うから、それを獲得するためにある程度必要な犠牲を払います。例えば、他部署との関係は構っていられない、ライバル社との利害は構っていられない、国家同士の摩擦には構っていられない・・・等です。そしてとくに、地球のように、その犠牲となる対象の規模が大きければ大きいほど、自分だけが気をつけても仕方ない、あるいは意味がないと思えてしまうのでしょう。

その結果として、最も大きな問題である地球環境問題には、最も無頓着になるのかもしれません。大気汚染や砂漠化、森林伐採などの環境破壊が進み、気温変動や超大型ハリケーンの発生などの異常気象も頻繁に起きるようになりました。人間の勝手な振る舞いにより、地球環境が大きく変化し、地球が悲鳴をあげ始めているのです。しかし、個人としての人間はそんなことに構ってはいられません。いずれ、人間はそのことで自滅してしまうかもしれないのに・・・。

それでも人間は自業自得。まだ良いほうだと思います。人間が、あたかも地球の主のように振舞うせいで、迷惑を被っている地球上の他の生物にとっては、たまったものではありません。人間の身勝手な行動により、既に絶滅に追い込まれた動物たちは数多くいますし、今日現在、絶滅の危機に瀕してしまっている種も少なくありません。このことは、幼い子どもでも知っている周知の事実です。

結局、地球規模の問題の多くが、競争原理の仕組みのなかで生まれ、その世界を受容し続け、その枠組みで価値があるものとされているものを目標においた、利己的な人間たちに責任があるといえると思うのです。だからこそ、今の人間社会は、根底から変わっていかなければならないと考えます。このことは、もちろん人類のためでもありますが、他の生物や地球全体のためでもあります。

我々はそうした身勝手な人間社会に生まれたのです。そこで育ち、今住んでいるのです。そして、少なくとも、多くの人たちが、そのなかでの価値観を信じ、それを獲得するための犠牲を払いながら、生きてきたはずです。

しかし、だからといって、そこに安住してはならないと思います。そこに安住し続けることは、人類だけでなく、他の生物や地球に対して、ダメージを与え続けることでもあります。その罪を認識しないことは、大きな罪です。「自分は立派に生きてきた。思いやりもある。自信をもって素晴らしい人生を送ってきている」という人がいるとしたら、そこにはウソが含まれていると思うべきでしょう。それが本当だとして、何故地球がこんな状況になっているのでしょうか。少なくとも、その人は地球規模の問題から逃げているのであり、その意味では「そこまで立派には生きていない」ということになります。

あまり時間は残されていないと思います。もし、これまで自分が犯してきた罪に気付いたならば、そのことについて、真摯に受け止め、その償いのために早速行動を起こさなければなりません。自分の罪に気付いていながら、行動を起こさないのは、最も大きな罪でもあります。

人間ひとりひとりが、この世に生きているのです。生きている人間は、例外なく社会の一構成員であり、世界の形成に貢献しているのです。同じ貢献をするならば、きちんとやるべき事を認識し、それから逃げず、立ち向かっていくべきではないでしょうか。

その積み重ねによって、人間社会は、きちんとよい方向に向かっていくのだと思います。

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