常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

仕事をする人像

2008年02月29日 | 短編

部下を叱り飛ばし、取引先にキツくあたり、マネージメント論を語る。
ものすごく賢くて、仕事ができる人に見えたりする・・・カッコイイ!

部下に頭を下げ、取引先にも頭を下げ、たくさんの夢を語る。
ものすごく愚鈍で、仕事ができない人に見えたりする・・・カッコ悪い!

ところで、大きな仕事を成し遂げる人とは、どんな人でしょうか。
そしてまた、あなたはどんな人になりたいでしょうか。

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単純で満たされないニーズ

2008年02月28日 | 独り言

もともと「技術の役立て方」とか、硬いことを言うつもりはないのよ。ただ、「ああっ女神さまっ」のオープニングテーマの出だしにある『♪Open your mind♪(♪Open your mind♪)~』っていうあれを着信音にしたなぁと思っただけなのだ。いろいろやってみたけど、全然できないじゃんかっ!

たしかにマイナーかもしれない。周囲に聞いたって、「ああっ女神さまっ」を知っている人は、今のところ皆無だし。でも僕は、「ああっ女神さまっ」のベルダンディが大好きなのだっ!そして、ベルダンディーを感じていたいのだっ!それには、『♪Open your mind♪(♪Open your mind♪)~』を、お気に入りのかたちで、着うたにしておきたいと思うのだっ!って、そういうニーズがあってもいいわけでしょう?

そこで、ひとりの消費者として、サービスを提供する人たちに一言申し上げたかったのです。「仕事するならきっちりしようよ」って。ちゃんと『Open your mind♪(♪Open your mind♪)~』の着うたも用意してください!きちんとお金出して買うしっ!

でも、それができないなら、もうその仕事は僕に預けておくれ。チャチャチャっと、設定しておくから。お金を払うことはできないけれど、それが僕のニーズ。仕方ないじゃない?技術的には問題ないでしょ?

ん~もう、どうしても金払えっていうのなら、携帯電話会社に勤めている人に500円くらい払っておくから、それで何とかしておいてくれっ!

ふぅ・・・ってまぁ、いろいろ事情もあるのだから、不満爆発はこれくらいにしておいて、ま、ひとまず今は、ベルダンディーの待受け画面で満足するといたしましょう。

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技術の役立て方

2008年02月28日 | 社会

一人の消費者として、技術とは何かについて思うことがあります。

今では、だいぶ当たり前のように普及している携帯電話のサービスとして、「着うた」というものがあります。携帯電話でダウンロードしたお気に入りの音楽を、着信音やアラーム音に設定できるサービスなので、このサービスで自分の好きな音楽が着信音になったりすると、何だか自分だけのオリジナル携帯電話になったような気分になれます。昔のように電子音しか出なかった携帯電話では、絶対に実現しませんでした。これは、間違いなく発達した技術の産物であり、私たち消費者はその恩恵に与っているということができると言えるでしょう。

ところで、問題もあります。まず「着うた」のファイルは、楽曲の限られた部分でしか「着うた」として設定できません。具体的には、「サビ」の部分がほとんどで、それ以外を着信音やアラーム音に設定することができないようになっていることが多いのです。これは困ります。

私は、個人的に曲頭の部分を着信音に設定したいと思うのですが、これはほとんどできないのです。携帯電話は、突然鳴り出します。何もない静寂から、突然「サビ」の部分が鳴り響くわけです。これは、ちょっとビックリしますし、周囲の人々をビックリさせてしまうこともあります。もちろん好みの問題ではありますが、楽曲の「曲頭」というのは、何もないところから始まる部分でもあり、自然に聞いていられるので、突然鳴り出す携帯電話の着信音としては、「曲頭」の部分を設定しておきたいというニーズがあって当たり前だと思います。

こうした状況の中で、「着うた」として提供されているファイルに、どうしても「曲頭」がないということであれば、「サビ」から始まるファイルをダウンロードすることになります。ところで「サビ」といっても、そもそも「サビ」がはっきりしないような楽曲の場合もあります。そうなると、具体的にどの部分から始まるように作られたファイルなのかを試聴したくなりますが、これも満足にできないケースが多々あります。これにも少々困ってしまいます。

繰り返しですが、携帯電話の着信音というものは、最初の部分が極めて肝心です。10秒を大きく超えて鳴り続けるというのは稀で、ほとんどがそれ以内に何らかの対応を取るものではないかと思います。そうなると、「サビ」といっても、実際に聞いてみるとどうなるのかをよく検討したいと思うはずなのです。しかし、大体の場合、ダウンロードする楽曲ファイルの出だしがどうなっているのかは分からないことが多く、ファイルを購入して、ダウンロードしてから分かるようになっています。サービスを提供している側からすれば、これらの消費者の行動がすべて売上げにつながるわけなので、これらがすべてプラス効果として働くのでしょうが、消費者の立場からすると、少々不便さを感じます。

ちなみに、携帯電話の着信音は「出だしが肝心」ということで、あくまでも曲頭にこだわったときには、「着うたフル」をダウンロードするという手もあります。これは、通常の「着うた」が、楽曲の一部(数十秒)だけをひとつのファイルとして提供しているのに対し、楽曲丸ごとダウンロードできるというものです。楽曲丸ごとダウンロードするわけですから、それにかかる通信費やコンテンツ料金は高くなりますが、間違いなくお目当ての「曲頭」も含まれているわけです。これならば・・・とダウンロードする手は、一応あるにはあります。しかし、これをダウンロードしてみても、「着信音」として設定できるのは、「サビ」の部分と設定されているものがあります。こうなると「曲頭」にこだわって、高い費用を払ってもなお、突然「サビ」で始まってしまうような着信音設定しかできないということになります。(ちなみに「着うたフル」のファイルは、再生モードで再生させれば、オープニングから聴くことができます・・・が、専用のミュージックプレイヤーが溢れている時代に、いちいち携帯電話で音楽を聴くことを強要されることの苦痛に耐えられない方も多いように思います)。

携帯電話会社の方々は、「自分専用ケータイ」といった類のフレーズを使って、いかに消費者の多様なニーズにあったサービスを提供できているかということをアピールされていますが、おそらく私の着信音やアラーム音のニーズについては、対応できていないと思います。

さて、こうした多様化へ対応できていない理由は、技術的な制約条件によるものなのでしょうか。

少々、携帯電話から目を離すと、まったく違うことが起こっています。PCを立ち上げれば、自分のお気に入りの楽曲が溢れんばかりに揃っています。それらを編集して、好きな部分だけ切り取ることもできます。必要に応じて、それらを組み合わせて、オリジナルの音源を作り出すことも可能です。さらにそれらのファイルを、メモリーカードを介して、携帯電話に移すことも極めて簡単です。技術的には、まったく障壁が見当たりません。おそらく、私のPCに入っている楽曲ファイルを携帯電話の着信音やアラーム音にすることは、技術的にはまったく問題がないどころか、極めて簡単にできることなのだろうと思います。

そうしたなか、私のニーズはシンプルです。

『私の好きな出だしで始まる楽曲ファイルを、携帯電話の着信音に設定させてください』

それにお金がかかるというのであれば、適切な費用をお支払いしてもいいと思います。私自身、実際にそのために「着うたフル」をダウンロードしたこともあるくらいですから、これはきちんとビジネスになるはずです。

しかし、この『私の好きな出だしで・・・』というシンプルなニーズも、100人いれば100通りのニーズになります。携帯電話人口1億人時代にあっては、1億通りのニーズがあると考えなければなりません。携帯電話業界の方々は、つくづく大変だと思います。「自分専用ケータイ」といった類のフレーズを使う以上は、1億通りのニーズに合うような、「着うた」のファイルを用意しなければならないからです。私は、私のニーズをほとんど満たすことができていない現状を鑑みて、これはほとんど不可能ではないかと思います。実際、ニーズの多様化にあわせて、それらにひとつひとつ対応してしまっていては、多様化して、膨大な種類に膨れ上がった各サービスの収益は、ものすごい勢いで希薄化し、事実上ビジネスを破綻させる結果を招きます。

はて?ところで、技術は何のためにあるのでしょうか。

消費者のニーズを満たすために、技術を活用するのであれば、あらゆる楽曲ファイルを携帯電話の着信音やアラーム音に設定できるようにすればいいように思います。消費者のPCやメモリーカードに眠っているような膨大な楽曲ファイルを着信音やアラーム音に設定できるようにすれば済むことです。本当に「自分専用ケータイ」というのであれば、これこそが為すべきことであり、技術の正しい活用法と言えるでしょう。

しかし、これを実行してしまうと業界の利益構造が崩壊してしまいます。これも問題です。業界の方々にとっては、ビジネスとしての収益性も大切ですから、業界の利益構造を守るために技術を活用する方策も考えなければなりません。現在、業界の方々も、懸命にその答えを探されているのだと思います。

ただひとつ言えることは、「技術は何のためにあるのか」という問いに対して、絶対に消費者を忘れてはならないということです。業界の方々は、そこに身を置いている関係上、業界の利益構造を守ることは、当たり前のこととして思考を働かせることができるのではないかと思います。だからこそ、忘れていただきたくない大切なことがあることを、是非とも覚えておいてほしいと思うのです。

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会社は誰のものか

2008年02月26日 | 社会

「会社は誰のものか」という議論があります。いろいろな人々が、それぞれの持論を展開しているようですが、私は、会社は株主のものでもあり、顧客のものでもあり、従業員及び経営者のものでもあると捉えるべきであると思います。「いやいや。それら三者のうち、誰のものかという議論なのだ」という意見もあるかもしれません。しかし、そういう議論をしているうちは、真の答えは見えないのではないかと思うのです。会社は、これら全員のものであると言うべきであると考えます。

先日、ある方とお話をさせているなかで、これからの社会は資本主義でありながら、市場主義の要素を組み合わせていかなければならないということを聞かされました。私は、その通りだと思います。いや、もっと踏み込んでいうならば、単に組み合わせではなく、資本主義と市場主義を融合させていかなければならないと考えています。組み合わせというのは、非常に曖昧な表現になる可能性があります。資本主義と市場主義を組み合わせるとなると、「はてさて、結局はどっちなのだ?」という疑問を抱かせてしまい兼ねません。右を立てれば左が立たず、左を立てれば右が立たないという印象を与えてしまう可能性もありますし、組み合わせている以上、「どっちが大きいか?あるいは重要か?」という疑念を残してしまうこともあり得ます。私は組み合わせではなく、資本主義と市場主義を融合させ、両者の境界線を取り払って、まったく別の概念を生み出すような発想が必要ではないかと考えます(後述のとおり、それこそが「会社」の役割であると考えます)。

現代社会は、資本主義で動いています。それぞれの企業は、収益を目的とした営利活動を展開し、それをいかに大きくするかということに対して、常に最大限の努力を払っています。資本主義では、一定のルールを定めておき、それに基づいて投下した資本を増やし、回収していくという行為を積み重ねていくのです。こうした行為の積み重ねによって、社会は大きく発展し、人々の生活は豊かになってきたわけです。

しかし同時に、資本主義による弊害も顕在化してきているように思います。利益第一主義は、企業(あるいは業界)の都合によるモノやサービスを提供させてしまったり、金融手法に大きく頼ったビジネスが横行してしまったりという副作用を引き起こしてきているように思うのです。このまま何の方策もなければ、利益第一主義に振り回された市場は疲弊し、一時的には潤っているような企業でも、その収益性は次第に落ちていき、最終的には企業破綻、業界破綻といった結果を招くようなことが予見されます。

また一方で、現代社会は市場主義で動いていると言うこともできます。それぞれの企業は、常に市場のニーズを汲み取りながらモノやサービスを開発し、それを社会に提供することで、収益を得ているわけです。これにより、私たちは常に便利なモノやサービスの提供を受けることができ、不自由のない生活を送れるようになってきました。そうした意味で、主役は常に市場であり、顧客である私たちになるわけです。

けれども、最近では市場主義による弊害も目立つようになってきたように思います。市場が望んでいること、顧客やユーザーが楽しいと思うことばかりを実現しようとすると、さまざまな違法行為が横行するようになります。このブログのなかで、たびたび触れているコンテンツの違法コピーや著作権侵害などは、その典型とも言えるものであり、著作権や商標権等を無視したさまざまな社会現象は、市場主義の弊害であろうと思います。こうしたことは、以前からもあったことですが、情報通信技術の発達等、近年の技術革新により、この流れはますます加速化し、とんでもない勢いで拡大していくのではないかと考えます。これを野放しにしておけば、さまざまな違法行為を重ねるような人々ばかりが得をして、ルールを無視した抜け駆けが横行するようになり、社会の秩序は大きく乱れる結果となるでしょう。

私は、上記のような問題が、日々深刻化しているように思いますし、これらはいずれ本当の限界を迎えることになると考えています。

ここで「会社は誰のものか」の議論に立ち返ります。

資本主義の観点から捉えるならば、会社は株主のものと考えるべきでしょう。会社が成り立っているのは、株主のおかげであり、会社の本質がその出資者たちに宿るというのであれば、会社は株主のものであると断ずる必要があります。

いや、市場主義の発想で考えるべきだというならば、会社は顧客のものであると答えるべきです。会社は常に顧客のための意思決定をしなければならず、そのためにあらゆる方策を講じる会社は、顧客のものであると考える必要があるでしょう。

しかし上述の通り、資本主義にしても、市場主義にしても、今のままではまともに機能しなくなることが予見されますし、そうした危機感を持つことが大切です。そういう状況にあって出すべき答え、あるいは採るべき方策は明確です。それは、資本主義と市場主義の両方を取り入れながら、新しい「会社」を作っていくということです。けっして両方を否定するのではありません。両方を肯定しながら、新しい仕組みづくりを考えるということが、これからの会社に求められるということだと思うのです。これは非常に大変なことですが、十分に可能なことでもあります。

そして、こうした課題を解いていくのが、会社の経営者であり従業員になります。これからの会社では、こうした資本主義や株主の視点、市場主義や顧客の視点の両方を「会社」という器のなかできちんと結び付け、融合させていくことが重要であると考えます。その意味で、会社における本質は「株主」であり、「顧客」であり、またそれらを繋ぎ合わせていく「従業員や経営者」でもあると言えるのではないかと思うわけです。

ところで、このことは実に当たり前のことであるとも言えます。何も今に始まったことではありません。社会制度や技術が高度に発達してしまったことによって、「資本主義」を深堀りし、「市場主義」が深く浸透していくなかで、忘れられがちになっている「会社」の本質を見直して、整理しているに過ぎないと思います。

資本主義とは何か?このままで大丈夫なのか?市場の位置づけはどうなのか?いろいろな疑問が生じている時代だからこそ、今一度、こうした問題を見直し、各人がきちんとした結論を出していくことが大切なのでしょう。

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何か出たココ!

2008年02月25日 | 独り言

コードギアスを見ていて気付いた。アニメの冒頭で入るナレーションは、ゆかなさん。

ゆかなさんと言えば、初代プリキュアのキュアホワイトこと「ほのか」の声優さんだ。コードギアスのナレーションでは、あまり気付かないけれど、ゆかなさんの演技力はすごい。「ほのか」は、何となくボーっとしたキャラクターだけれども、戦闘シーンではものすごく力が入る。ってか、めちゃくちゃかっこいい!あの「ほのか」の魅力は、ゆかなさんの演技力の賜物だと思う。

ちなみに、その「ほのか」のおばあさん役は、野沢雅子さん。野沢雅子さんは、いろいろと有名すぎる。ドラゴンボールの孫悟空やら、ど根性ガエルのひろしやら、怪物くんやら・・・、アニメに詳しくない人でも、「あぁ、あの声の人ね」って具合で、分かるんじゃないかな?けれども、「ほのか」のおばあさん役の野沢雅子さんは、全然違う。いわゆる普通のおばあさん。つくづく、声優はすごいと思うのだ。

あ、それとついでだから、もうひとつ。プリキュアに出ているポルン役の池澤春菜さん。この声優さんも、またすごい。ハピ☆ラキビックリマンで、十字架天使の声を演じているのだけれど、結構、シチュエーションに応じて、いろんな声に化ける。特に43話に出てくる十字架天使の変わりようは、ものすごすぎる。つくづく、アニメにおける声優の演技は、大切なのだと思ってしまう(ま、声優に関しては、以前にも書きましたが・・・「声優をナメちゃいかん」)。

こんな偉大な声優のお仕事だけど、最近、僕にもひとつだけマネができるやつがある。それは、今のプリキュアに出てくるココの台詞。

「何か出たココ!」

自分で言うのもなんだけれど、これは結構似てる・・・と思う。

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生メレ様にお目通り

2008年02月24日 | 日常

今日、東京ドームシティで、ゲキレンショーをみに行ってきました。あいにく強風のため、公演は中止だったけれども、良かったぞぉ。何が良いって、3月9日までの公演まで、テレビで活躍していた役者さんたちが勢ぞろいで出演することになっていて、公演は中止ながら、生役者たちのアドリブトーク(数分だけど)を聞いて帰って来れたのだ。

もちろん、僕のお目当ては生メレ様。すぐ目の前で、「お目通り」させていただきました。うん、これは感動なのです。先週のバンブーブレードで、珠ちゃんが「ブレードブレイバー」のショーを見に行って、めちゃくちゃ燃えていたけれど、あんな状態。時間は、超短かったけれど、充実のひとときでした。

めっちゃくっちゃ寒いし、強風なので、北海道出身のメレ様とはいえ、あの衣装は相当キツイだろうと心配していたけれど、肌の露出は肌色の衣装で防いでいたので、ちょっとひと安心。相変わらず、理央とのラブラブぶりをみせつけられ、期待通りだったし・・・。

ただ、これでいよいよゲキレンとは本当にお別れです。

あとはゴーオンジャー、頑張れよぉ~。

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被害者意識を乗り越えて

2008年02月24日 | 産業

ある知人と音楽著作権についての話をしました。その知人の娘さんは、大変優秀なエレクトーンの学生なのですが、あるコンクールで楽曲を演奏しようとしたところ、その楽曲の作曲者からNGが出てしまい、お気に入りの楽曲が弾けなかったということらしいのです。私は、こういうところに、現在のコンテンツを取り巻く世界の限界を感じます。

人間は、想像力を働かせなければいけません。まず、学生のコンクールでの演奏に、自分の楽曲の使用を認めない作曲家の心を察する必要があるでしょう。「学生ごときに演奏させたくない」、「あれは○○さんに捧げた曲だから」、「演奏者は一人に決めている」等々、作曲家のこだわりを含め、いろいろな理由が考えられます。いや、もっと深刻な事情があるのかもしれません。したがって、この件をもってして、作曲家の方を一方的に責めることはできないでしょう。しかし、音楽とは何かという本質的な問題を考えたとき、学生がコンクールで好きな楽曲を演奏できないということは、あってはならないのではないかとも思うのです。

音楽とは文字通り「音を楽しむ」ものです。音楽の本質は「音楽」という言葉に、見事に集約されていると思います。そして、音楽を仕事として生きていく人々は、多くの人々を「音で楽しませる」ことを心がけていく必要があるのではないかとも考えます。音楽に携わる人々は、より多くの人々に自分の音楽を聴いてもらって、それによって幸せな気分になってもらうことを使命として負っていると考えるべきだと思うのです。学生がコンクールで演奏するというシチュエーションには、いろいろな限界や問題があるにせよ、音楽を志す学生に対して、楽曲の演奏を認めないということが、「音で楽しませる」ことを心がけている人の行動であるということには、いささか疑問を感じざるを得ません。

ただし、ただ楽しんでもらうだけでは、自分たちの生活を維持することができなかったり、創作活動を続けられなかったりという問題が生じます。だからこそ、音楽を生業として生きていく人々は、音楽活動に必要な対価をいただきながら、生活をしているわけです。そうした人々の生活を支える仕組みやルールとして、著作権やそれに関する各種法律があるのであり、これを遵守することは、至極当然のことであると思います。

ところで、当たり前のことですが、そうした著作物や著作権の金銭的な価値の大部分は、メディアの力によって生み出されています。例えば、「売れる音楽」は、それを何らかの手段で多くの人々に伝えているわけであり、それにはメディアの力が大きく作用しています。もちろん、そうしたメディアの力を利用できたというのは、そのアーティスト(あるいは作詞家、作曲家等)の力でもあるので、メディアを通じて「売れる音楽」をヒットさせたのは、そのアーティストの実力であると言うことはできるでしょう。しかし私は、そうしたアーティストの才能や実力と、メディアによって与えられている評価や対価の大きさが、常にバランスしていると考えるのは、無理があると思うのです(「次時代のコンテンツ評価」参照)。

最近、電車のなかに貼られた広告に、「違法音楽によって、作詞家や作曲家などが深く傷ついています」といった趣旨の文言があるのを見かけました。これはこれで、ひとつの事実だろうと思います。特に近年、インターネット等のオープンメディアの発達によって、音楽活動を生業とされていた方々の権利を著しく侵していく傾向にあることは確かでしょう。

けれども、オープンメディアの登場によって、このように「傷ついている人々がいる」という表現を使うのは、いささか一方的過ぎる感があります。もし、このような表現をするのであれば、これまでのクローズドメディアによって、正当に評価されることがなく、「傷ついていた人々がいる」ことについても、きちんと目を向ける必要があるのではないかと思うのです。

これまでのテレビや雑誌を中心としたクローズドメディアは、少数のスターやヒットを生み出す仕組みとして、非常にうまく機能していましたし、またそうしたことを得意としてきました。電車のなかに貼られていた広告は、そうして築き上げられた評価や対価等の価値が被害を受けているというものです。しかしこれは、クローズドメディアで育った側からの一方的な言い分でしかない可能性があります。

近年のクローズドメディアでは、非常に多様で、豊かな才能に恵まれた人々が無数にいるなかで、極めて限られた少数の人々ばかりに、評価や対価が集中するようになっているという弊害が出てきているように思います。私は、十分なオープンメディアが存在せず、クローズドメディアが主流である時代にあっては、才能や能力はありながらも、正当に評価されてこなかった人々が無数にいると思います。そして、そうした多くの人々の才能は、「正当に評価されない」という大変な被害を受けていたのではないかと思うのです。これは、クローズドメディアの限界です。才能がありながらも、正当に評価を受けてこなかった人々からすれば、新しいオープンメディアこそが、機会平等が許される世界を実現し、公正な競争が認められる環境を与えてくれる媒体になり得ると考えることができるわけです。オープンメディアは発展途上であり、現時点で、才能と評価や報酬が完全に一致しているわけではありませんが、その方向性であることは間違いなく、今後限りなく才能と評価や報酬が一致していくものと思われます。私は、これからのコンテンツを考えていく上で、こうしたメディアや技術的・社会的傾向を積極的に活かしていくことが肝心ではないかと思っています(「「才能の無駄遣い」の克服」、「コンテンツ制作体制の未来」参照)。

現在、コンテンツの制作に携わられている方々には、そもそもこれまでのメディアとは何だったのか、そして限界はどこにあったのか等について、考えていただけたらと思います。そしてまた、新しい時代の流れのなかで、一方的な被害者意識に囚われず、これまで見えていなかった被害者がいたかもしれない可能性を頭の隅に入れつつ、次の時代でのコンテンツ制作とは、どうあるべきなのか等について、共に考えていけたらと思うのです。

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運も実力のうち

2008年02月22日 | 短編

運は良い、悪いという次元の話から抜け出せる。
運を天に任せるというのも、やけっぱちにはならない。

運とは、自らの意思でコントロールできるもの。
そして、それは誰にでもできること。
コツもある。

コツの中身?

うまく表現できないけれど、
敢えて言うなら、このブログ全体。

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他人は自分の鏡

2008年02月21日 | 人生

●何もしゃべらない無口の人を見て・・・
何も考えていない「バカ」と思う人、あなたが「バカ」です。
何か考えている「思慮深い人」と思う人、あなたは思慮深い人です。

●理解不能な外回りばかりしている職場の同僚を見て・・・
仕事をサボる「ダメな奴」と思う人、あなたが「ダメな奴」です。
とにかく「一所懸命な人」と思う人、あなたは「一所懸命な人」です。

●人助けをしている人を見て・・・
下心がある「ズルイ奴」と思う人、あなたが「ズルイ奴」です。
素直に「優しい人」と思う人、あなたは「優しい人」です。

他人の言動は、表面でしかみえません。その言動が、どういう心や気持ちから起こったものなのか、その人がいくら説明をしたところで、本当のところは分かるものではありません。結局、その裏側にある心や気持ちは、その言動を見た自分で察したり、感じたりするしかないのです。そして、そうした心や気持ちを察したり、感じたりするときに参照するものは、自分自身の心や気持ちです。ある人の何らかの行動を見たとき、「自分だったら、こう思うから・・・」という自分の心や気持ちに沿ったかたちで、他人の言動を解釈するわけです。

無口の人を見て、「だって、何も考えていないからしゃべらないんだよ!」と言う人は、自分が無口のときは、何も考えていないからです。自分が無口のときに、考え事や悩み事をしている人は、「何か考え事や悩み事があるんじゃないか」と思うはずです。

職場に姿を見せない同僚を見て、「あいつ、仕事しないでサボっているんだ」と言う人は、自分が職場にいないときはサボっているからです。職場にいなくても一所懸命に仕事をしている人は、「他人には説明できないけど、一所懸命やっているんだよ」と思うはずです。

人助けをしている人を見て、「うわっ、何を狙っているんだ?」と言う人は、自分が人助けをするときに、何かを狙っているからです。人助けをするときに、素直に優しい気持ちから人を助けている人は、「きっと優しい人なんだ」と思うはずです。

他人の言動は、三次元世界的な意味において、ひとつの事象として、極めて客観的に捉えることができます。しかし、その裏側にある見えない部分(心や気持ち)は、それを見る人の主観に完全に委ねられているのです。そして、その主観はそれを見る人の裏側にある見えない部分(心や気持ち)を映し出しているに過ぎないということを忘れてはなりません。

あなたの周りにいる人々が、「善」に見えるか、「悪」に見えるかは、あなた自身の心が「善」か、「悪」かを映し出しているだけ。そう思いながら、あなたの周りの人々を、あらためて見回してみたらどうでしょう(「使える人と使えない人」参照)。

また、そんな人々が作り出している社会が、「善」に見えるか、「悪」に見えるかは、あなた自身の心が「善」か、「悪」かを映し出しているだけ。そう思いながら、あなたが住んでいる世界を見直してみたらどうでしょう。

答えはすべて、あなた自身のなかにあるはずです。そして、それらを変えていくのは、あなた自身にしかできないことのはずです。

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「天国に行ける」という罠

2008年02月20日 | 宗教

「善行を積めば天国に行ける」

この言葉の意味を否定するつもりはありません。良いことをすれば、きっと良いことがあるでしょう。良いことや正しいことをすることは、ときに辛いことだったりします。そういう人々を励ます意味で、「天国に行ける」という言葉をかけるという手もあるでしょう。

しかし、「天国に行けるから○○しなさい」と特定の行動を勧める意味で、「善行を積めば天国に行ける」という言葉を使うことは、非常に危険であると思います。宗教では、「善行を積めば天国に行ける」、あるいはこれに類する表現を用いることがありますが、これは「良いことをしていれば、きっと良いことがある」という本質的な意味のうち、「良いことがある」という結果ばかりに焦点を当てた曲解となる可能性を秘めています。

まず実際に、善行を積んだ心が清い善人が行ける「天国」と、悪行を重ねて心が荒んだ悪人が落とされる「地獄」があるとします。こうした前提で、「天国に行ける」という理由で、善行(とされる行動)をする人は、天国に行くことができないと考えるべきです。何故ならば、そういう理由で天国に行こうとする人は、他の人々を差し置いて天国に行こうとする心が汚れた人であり、そのような自分勝手な人は、むしろ地獄に落ちてしまうからです。逆の言い方をすれば、天国に行く人は「心の清い善人」であり、自分以外に地獄に落ちる哀れな人々がいるのを横目に、自分だけ天国に行くようなことはできません。したがって、天国と地獄という二つの世界があるということを知りつつ、天国に行きたいなどという結果論に目を奪われ、それを願っている人は、けっして天国には行けないのです。

宗教に限らず、教育を含むあらゆる場面で、人の道を説くときに分かり易く「天国に行けるから」と善行を積むことの素晴らしさを表現することは理解できます。しかし「天国に行ける」という結果論を強調すると、善人すら「悪人」に仕立て上げてしまう危険性があることに注意する必要があります。また、そのような教えを説かれる人々の側も、そうした甘い罠に陥らないよう、自分自身を強く持つことが大切です。

繰り返される宗教戦争や殉教の悲劇などには、「善行を積めば天国に行ける」というロジックが用いられます(「武士と騎士の違い」参照)。これらを信じてしまっている人々に対して、信じるなと言っても無駄なことかもしれません。しかし、もし少しでも考える余裕や時間があるならば、「天国とは何か」を、よくよく考えていただきたいと思うのです。

ところで、上記のように「地獄に落ちる人がいると知りつつ、天国に行く善人はいない」、「真の善人は天国には行かない」というロジックが成立するとなると、そもそも天国や地獄というものがあるのかという疑問にぶち当たります。

ここに、心に一点の曇りもない「真の善人」がいるとしましょう。この「真の善人」は、天国と地獄の存在を知ったら、間違いなく地獄に向かうはずなのです。天国と地獄という二つの世界がある限り、「真の善人」は、迷わず自ら進んで地獄に落ちて行き、地獄に落ちている人々を助けるという行動をとるはずです。これが「天国と地獄」の存在についての疑問につながるのです。

「真の善人」は地獄に行く。
「真の善人」が行く場所が天国。
∴地獄=天国???

これでは、正直何が何だか分かりません。

結局、私は天国も地獄もないと思います。確実に存在するのは、私たちが生きているという現世での事実です。来世の存在を否定するわけではありませんが、大切なのは現世をどう生きるかという問題であり、すべてはそこに帰結するべきだと思うのです。

「何事も心の持ち方次第」などという言葉を使ったりしますが、この世界で生きているという事実のなかで、最も重要なのは、私たちがこの世界を天国と思うか、地獄と思うかではないでしょうか。「天国と地獄」を考えるときには、常にこの視点を忘れてはならないと思います。

「この世界は、心が清い善人には天国になり、心が荒んだ悪人には地獄になってしまう」

私は、このことが「善行を積めば天国に行ける」という言葉の、本質的な意味ではないかと思うのです。

さて、あなたはこの世界が天国に見えますか?地獄に見えますか?

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キャラを育てる時間の力

2008年02月19日 | 独り言

先日から初代プリキュア(無印)を第1回から見始めている。

・・・すんごい。

7話まで、互いに「美墨さん」、「雪城さん」と呼び合って、なかなか相手を友達と認めなかった二人が、8話でケンカをきっかけに「なぎさ」、「ほのか」と、下の名前で互いを呼ぶようになる。7話までの二人の関係は、たしかにぎこちない。それが8話になって、ようやく互いを名前で呼ぶようになるという経緯があるから、その後、当たり前のように名前で呼び合っている二人を見ると、ついつい「うん、いいぞ」等と思ってしまうのだ。こういう何でもない場面で、視聴者に何かを感じさせるというのは、キャラクターを育てる長い時間(8話までストーリーを展開させた時間)があってこそだと思う。

プリキュアシリーズの3タイトル目であるSplashStar(SS)に出てくる「満と薫」については、賛否両論あるようだけれども、僕は個人的に大好き。満と薫のストーリーは、涙なしには見られない。「滅びの力」で生み出された二人が、何話にも渡る長い時間をかけて少しずつ変わっていく様は、やはり感動してしまう(満と薫をテーマにしたブログ記事には、「遅すぎるということはない」があります)。

キャラクターを育てるというのは、長い時間を要する作業であり、本当に大変だと思う。

実は、昨年から始まっているプリキュア5(ファイブ)では、ひとつ心配したことがあった。主人公のプリキュア5人が全員揃うまでに、6話しかかからなかったのだ。ちょっと急ぎすぎではないかと思った。国民的アニメにもなったセーラームーンも同じ5人の戦士だけれど、こちらは5人が揃うまでに33話もかかっている。スピード化が現代の特徴であるとはいえ、ファイブの展開は、少々早すぎるような気がした。ただ、ファイブの場合には、2年目に突入しているから、引き続き5人のキャラクターを育てる時間がある。だから、これはこれで良いと思う。これからの5人のキャラクターとしての成長に、僕は大いに期待している。うん、率直に楽しみなのだ。

うん?何故、突然こんなこと書いたかって???

う~ん、分からんっ!何となく、産業だ何だみたいな堅い話ばかりでは、面白くないから・・・かな?でもさ、正直、産業だ何だ言う前に、みんな面白いものはたくさん見たほうがいいと思うし、そういうものを大切にすることは大事だと思うぞ。楽しむ気持ちがあってこそ、ビジョンや未来も開けていくものだと思う。

眉間にしわなんて寄せてないで、楽しめ、楽しめ!

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ユビキタス社会実現への発想

2008年02月19日 | 産業

「ユビキタス」という言葉は、一般の方々にはあまり馴染みがないのではないかと思います。「ユビキタス」とは、ラテン語で「あらゆるところに存在する」という意味で、「いつでもどこでもコンピューターが使える」という社会の未来像を表すときに使われている言葉です。コンピューターや通信産業に関わっている方々であれば、ほとんどの方がご存知の言葉かもしれません。

ところで、この言葉の意味合い、つまり「どこでもコンピューター」という言葉に惑わされて、「あらゆるところにコンピューターをばら撒こう」という発想をされる方々も多いかもしれませんが、これは非常に非現実的な考え方だということに気をつける必要があります。近年のように、高度にネットワーク化が進んだ社会において、ネットワークに接続していないコンピューターは、機能や役割が限られてしまいます。これからのコンピューターのほとんどは、ネットワークに接続したかたちで、使われることになるでしょうが、これを真剣にばら撒こうとすると、メンテナンス、ソフトウェアのアップデート、セキュリティ等の問題をどのように解決するかという課題をきちんとクリアしなければなりません(詳細については「コンピューターが向かう場所」参照)。それも、現在とは比べものにならないほど、どこにでも存在するほど「膨大な数」にのぼる全てのコンピューターについて、それらの対応をしていかなければならないということになると、その社会的なコストは膨大なボリュームになってしまいます。これは事実上、不可能であると考えるべきだと思います。

私は、ユビキタスを「どこでもコンピューター」と解釈することについて、まったく異論がありません。しかし、そのイメージについては、「コンピューターをばら撒く」のではなく、「私たちがコンピューターの中に住む」という感覚で、未来像を捉える必要があるのではないかと考えるのです。

コンピューターは演算処理をするCPU、一時的なデータを記憶するメモリー、データを保存するハードディスク、その他諸々の機能を果たす構成品から成り立っています。これらの構成品は、すべて「回路」によって繋がっており、ひとつの「コンピューター」としての仕事をするわけです。

私は、従来のこうしたコンピューターシステムを踏襲したかたちでは、既に指摘しているような各課題を解決することは難しく、ユビキタス社会の実現は極めて困難だろうと考えます。そして同時に、こうした各構成品を、ひとつの「コンピューター」という箱のなかに収める必要がない時代に入りつつあるのではないかと思うのです(「ネットとコンピューターの融合」参照)。

この問題を解決するためのひとつの鍵は、モバイルブロードバンドであろうと考えます。モバイルブロードバンドとは、いつでもどこでも高速で繋がる情報通信ネットワークのことで、現在、ブロードバンドの代表格であるADSLが、無線環境でどこでも提供されるようなものをイメージするといいかもしれません。

かつてのモバイルブロードバンドシステムは、通信速度や遅延等の問題もありましたが、近年では、急速に高度化が進み、通信速度や遅延等も大きく改善されてきています。そして、こうしたモバイルブロードバンドが果たすべき役割は、ユビキタス社会における「回路」であり、コンピューターでいうところの各構成品(機能)を繋ぐことであると思うのです。つまり、高度に発達したモバイルブロードバンドシステムにより、情報通信インフラを構築することで、「いつでもどこでも」繋がるネットワークを整備するということは、社会全体が「目に見えない回路」で繋がるということを意味するということです。これが達成できれば、来るべきユビキタス社会において、コンピューターの各構成品は、ひとつの「コンピューター」という箱の中に収める必要はありません。各構成品は、物理的・地理的に離れたところに置かれていても、社会全体に張り巡らされたモバイルブロードバンドシステムという「目に見えない回路」を介して、相互に通信し、ひとつの大きなコンピューターとして機能することになるわけです(もう少し具体的な実現イメージについては「シン・クライアントの潜在力」参照)。このことは、私たちが住む社会全体が、物理的に「ひとつのコンピューター」になり、文字通り私たちが「コンピューターの中に住む」ことになるということを意味します。

私は、ユビキタス社会の実現にあたっては、こうしたビジョンや発想が必要であろうと考えます。そして、こうした仕組みを積極的に導入していくことで、従来のコンピューターシステムでは、極めて困難だったユビキタス社会の構築は、十分に実現可能になるでしょう。これまで米国主導で動いてきたコンピューター産業は、大きな壁を乗り越え、次の産業基盤の構築に動き出すことになります。また、もしこれを日本が主導できるのであれば、日本は世界の産業を牽引していく重要な役割を担う存在となっていくことでしょう。

私は、こうした意味から、モバイルブロードバンドの構築は、単なる情報インフラ産業に留まらず、コンピューター産業全体を変えるだけのインパクトを持つことを十分に認識する必要があると思います。そして、これらの産業に関わられる方々には、官民問わず、是非ともそういう意識とプライドを持っていただきたいと思うのです。

ユビキタス社会の実現は、現在の枠組みの延長線上にはないであろうことを忘れてはいけません。

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自助努力

2008年02月15日 | 短編

大きな夢がある人、とことん努力すべし。
心から愛する人がいる人、とことん努力すべし。
本当に欲しいものがある人、とことん努力すべし。

努力せよ!
勇気を持て!心に向き合え!知恵を絞れ!

それができない人は、夢を削れ。
それができない人は、愛する人を捨てろ。
それができない人は、欲しいものを諦めろ。

生きることは、絶え間ない自助努力の連続だ。

それができない人?
けっ、そんな人いねぇっての。

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奇跡を信じていい理由

2008年02月13日 | 人生

きれい事や理想論。それらが本当に起こるし、またはそれらを起こそうと思うことは、一般的にとんでもないとされることが多いものです。きれい事や理想論では生きていけません。それらを口にするのは、現実がそれらと乖離しているからです。私たちが現実世界のなかで生きている以上、その現実を受け止めていかなければいけないのは事実です。しかし、そうしているうちに「現実こそ全て」と思い込むようになったら問題です。そうなってしまうと、そうした現実を超える奇跡を信じることについて、多くの人々は恐れをなし、諦めてしまいがちになります。これはとても残念なことです。

私は大いに奇跡を信じていいと思います。むしろ、人間は生きている以上、とことん奇跡を信じるべきだと考えます。なぜなら、私たち人間は、その存在自体が奇跡だからです。

ここで少し、「奇跡」という言葉について、考えてみたいと思います。

この地球環境について、「奇跡的」という言葉を使うことがあります。太陽という恒星の存在、その周りを回る地球の存在、地球に溢れる水の存在、大気の構成比や温度・・・。私たち人間を含め、多くの生命を育む地球環境は、絶妙なバランスの上に成り立っており、たしかに「奇跡的」です(人によっては、地球環境を指して「奇跡」という言葉を使うかもしれませんが、私は以下説明するとおり、地球環境の存在は、現代の科学で十分に説明が可能であるため、あくまでも「奇跡的」という表現が適切ではないかと考えます)。

一方でこういう言い方もできます。

「果てしなく広い宇宙のなかで、また限りない時間の流れのなかで、現時点において太陽系や地球のような星があっても、何ら不思議なことではない。奇跡的とはいえ、そういうものが存在することは、確率論的にゼロではない。私たちが存在しているのは、たしかに奇跡的ではあるけれども、科学的(確率論的)には(限りなくゼロに近いとはいえ)十分説明が可能なことであり、私たちの存在自体が奇跡であると言ったり、またそれをもって、これから先の奇跡を信じる理由にはなり得ない」

これもまた、そのとおりだと思います。たまたま、地球のような星があって、そこに生命が辿り着き、繁殖をして、現在に至るという説明は十分に可能ですし、私たちの存在自体が、「説明がつかないほどの奇跡」であるということにはならないと思います。

しかし、もっと遡って考えたらどうでしょうか。つまり、そもそも生命の起源とは何なのかということを考えてみるのです。

この世界の始まりをどう考えるかについては、諸説あります。現代科学のなかで一般の人々に広く浸透しているのは、「ビッグバン理論」でしょうか。私はビッグバン理論が絶対に正しく、世界の始まりのすべてを説明しているとは思いませんが、ひとまず、これを基に生命の起源をイメージしていただければいいかもしれません。ビッグバンによって、この宇宙が始まって、どういうきっかけで生命が誕生したのでしょうか。最初はバクテリアのような微生物だったとしましょう。その小さいながらも自らの意思を持つ存在が、どのように生まれたのでしょうか。

この問題は、イメージするのも非常に難しいと思います。実際、このテーマは現代科学をもってしても、十分な説明が難しい大問題なのです。つまり、生命の起源は相変わらず謎のままであり、その延長線上に生きている私たちの存在、私たちが生きているという当たり前の事実が、説明不能に陥るわけです。これは、とても滑稽な話です。

けれども、どんなに説明がつかない大問題であるとはいえ、私たちが生きているという事実は変わりません。たとえ「生命の起源」が、科学的に説明がつかないほど「あり得ない」ことであったとしても、私たちが生きているという事実は絶対に曲げられないのです。このことこそが、「私たちの存在自体が奇跡である」という理由です。

そもそも、自らの存在すら奇跡である私たちが、もし「奇跡を信じる」ことができなかったら、私たちは自分たちの存在を否定することになります。そういう意味で私は、私たちが生きている以上、限りない奇跡を信じていいのだと思うのです。

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生活の変化

2008年02月12日 | 自分

最近、バイトを始めました。ひとまず期間限定にはなりますが、仕事の内容は新鮮だし、私を雇っていただく方に対しても、できる限り力になりたいとも思い、今日もお勤めに出ております。まだ完全に脱ニートを果たしているわけではありませんが、少しずつ生活に変化が起こり始めました。

昨年末の宣言どおり、実践あるのみ(「実践への誓い」参照)。ブログで書いているようなことを、口でグタグタ言ってばかりいても仕方ありません。私が言っていることの正しさを証明する方法は、ただひとつ。実践して見せること。

そういう意味で、相変わらず「エニート」ではありますが、たまにはこうして実況中継をしながら、私の生活を記録しておくのも、面白いものだと思いました。

また、この1ヶ月ほど、ブログの更新を頻繁に行っていましたが、生活に変化が起こった分、記事の頻度やボリューム等に、多少影響があるかもしれません。それでも、今後も引き続き、できる限り思ったことを書き留めていこうと思うのでした。

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