常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

妥協が許されない理由

2006年11月30日 | 人生

人は、多かれ少なかれ妥協をしてしまいます。人間は不完全で、弱いのだから仕方ない。そんな風に言ってしまうのもやむを得ないでしょう。人間誰しも、本当は違うと思っているにもかかわらず、「合っている」と自己暗示をかけて、見過ごしているようなことがあります。あるいは、「自分ひとりが抗っても、仕方ない」といって、諦めてしまうことがあります。しかし、これからの時代、もはや妥協は許されません。

家庭のあるべき姿、会社のあるべき姿、社会のあるべき姿、国家のあるべき姿、世界のあるべき姿、人間のあるべき姿、・・・。

物事には、理想像というものがあります。これを突き詰めると、現実社会とのギャップばかりが広がってしまい、いわゆる一般常識人は、そうしたあるべき姿に対して、「それは理想過ぎます」といった遮りの言葉を発してしまいます。理想は、あまりにも現実社会と乖離してしまい、それを実現することは、到底、人ひとりの力では成し遂げられません。したがって、それを熱心に唱え、真剣に取り組むよりも、現実社会に迎合した生き方を選んでしまうのです。それは、ひとつの生き方として、ありうる選択であり、誰もその人を責めることはできません。

しかし、もはや人間は、そうした生き方を変えていかなければならない時代に突入してきています。問題意識を広く、大きく持てば、その理由がよく分かります。端的に言えば、地球環境の問題です。

人間は、現代科学に立脚した物質主義的な快楽を求め、そのために多くの社会システムを作り出しました。物質主義のなかで価値を量る貨幣、それを扱う資本主義ルール。それらによって裏付けられる影響力により、まとめあげられた国家。それぞれの国家を結ぶ国際ルール、及び国家のなかで適用される国内法。一部、宗教を含む精神社会の豊かさを求めていく活動はありながらも、人間の行動は、物質主義的な価値基準に縛られ、その影響を大きく受けています。その結果、起こっていることは、人間の利己主義的思考から生まれている地球環境破壊の問題です。このことは、個人のみならず、企業や国家の枠組みでも同じように起こっており、もはや待ったなしの状況になりつつあるのです。30年後、50年後、100年後。今と同じように、物質的に豊かで、快適な生活が送れると、のんきに信じている人々が、果たしてどれだけいるでしょうか。エネルギーや食糧といった問題も大変深刻ですが、人類の未来に暗い影を落とす根源的な問題の原因は、地球環境であることは、ほとんど誰でも知っていることではないでしょうか。

こうした問題を解決するのに、社会システムや制度によって、さまざまな解決が試みられています。しかし実際に、これらが根本的に問題を解決するという意味では、ほとんど機能することはないと考えるべきでしょう。なぜならば、社会システムや制度には、必ず欠陥があり、利己的な人間がひとりでもいると、それらは問題を根本的に本質から解決するのには、まったく役に立たなくなってしまうからです。

世界の主要国家が、地球環境問題に取り組むべく締結された京都議定書では、二酸化炭素の排出についての取り決めが交わされました。これがきちんと機能するためには、各国が真剣に二酸化炭素の排出の問題が、全地球的に取り組む課題であり、人類共通の問題であると認識することが必要ですが、実際にはそうなりません。国は、国家という単位で利己主義を貫く構造になっており、各国とも国益優先となり、二酸化炭素の排出権などは、国家間の取引材料にされ、実質的に地球環境問題を根本的に解決するほどの成果をあげられないでいます。それは各国が「国益を優先する」という、利己主義的な考え方から抜け出せないでいることに、根本的な問題があると言えるでしょう。

人間は、利己的な部分が残っていると、どうしても「抜け駆け」をしたくなるものです。どんなに立派な社会システムを作っても、必ず誰かが「抜け駆け」ができるポジションに立つことになります。資本主義であれば、市場に関する特別な情報にアクセスできる人が、抜け駆けができる人であり、共産主義であれば富を分配する人が、それにあたります。

大事なことは、どちらの社会システムが優れているかということが本質的な問題ではなく、むしろそのシステムを利用する人間側が一切の妥協をせず、利己的な部分を捨て去ることができれば、どちらのシステムでも、きちんと機能するということです。利己的な部分を完全に捨て去った人間同士の社会であれば、資本主義だろうが、共産主義だろうが、富の分配は公正に行われるでしょう。

しかし、これは非常に難しいことです。システムを利用する人間のうち、たった一人でも「抜け駆け」をしようとする人がいると、それを目撃した他の全ての人たちが「抜け駆け」をするようになり、結果として、システムは正しく機能しなくなるからです。たったひとりの、小さな利己主義により、全体のシステムが崩壊してしまうというのは、非常に本質的な問題であり、それ故に「一切の妥協をしない」ということは、それだけ難しいことなのです。

理想を掲げ、そのために実行するということは、非常に大変なことです。一切の利己主義を認めないなど、到底不可能ではないかと言われるかもしれません。しかし、もはやそれを言い訳にしていては、地球環境問題は止まらないかもしれないのです。世界の人類ひとりひとりが、「一切妥協しない」意識をもち、正しく行動していかなければ、30年後、50年後、100年後、自分や自分の子孫に、明るい未来はないかもしれないのです。理想を持ち続け、それを実現するための努力を惜しむjべきではないでしょう。

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集合的無意識の力

2006年11月14日 | 異次元

人という字の成り立ちは、お互いが支えあって生きていくというところからきています。また人間というのは、人と人の間にいて成り立ち得るからこそ、人の間と書くのです。

人は一人では生きられない。いろんな人がこのようなことを言います。ごもっとも、まさにそのとおりです。そして、このことは、人間に限られたことではありません。他の生物でもまったく同じです。

例えば、アリ。アリは集団生活をする生き物です。アリはけっして一匹では生きていけません。そして、アリの巣を、ひとつの全体としてとらえると、それは女王アリを中心として、食糧を運ぶアリ、子育てをするアリなどの多くの個体で構成されており、それぞれの個体が異なる役割をもっているのです。当たり前のことですが、アリの個体、一匹が生物としての単位です。しかし、アリの巣をひとつ構成している集団全体は、あたかもひとつの生物であるかのように、それぞれの個体が見事に連携をしながら活動をしています。この見事な連携は、みえないところに独自の指示系統があるかのようにも感じられます。

視覚的に分かりやすいのは、イワシの群れです。イワシは、海中に住む多くの生物たちにとってのエサになります。よくテレビの海中生物の特集などで、イルカやオットセイなどが、イワシの群れを追い回しながら、食べていくシーンがあります。一匹、一匹がイワシの生物としての単位ですが、このときのイワシの群れの動きは、あたかもひとつの生物が逃げ回っているかのようです。どこに先頭があるわけでもありません。しかし群れとしての意思があり、それに沿って一匹、一匹が動いているようにみえます。個体の意思と群れとしての意思が、本当に連携しているのかは分かりません。しかし、個体と全体(群れや集団)が、何の関係もないと言い切ることはできないと思います。

100匹目のサルという話をご存知でしょうか。事の真偽は別として、それは以下のような内容です。

九州宮崎県の幸島で、一匹のサルがサツマイモを海水で洗って食べることを始めました。適度に塩味がついておいしかったのか、これをみていた他のサルたちもこの行動をまね始めたのです。しばらくすると、多くのサルが、サツマイモを海水で洗うようになりました。そして不思議なことに、ほぼ時を同じくして、この島の群れと一切接触ができない場所に住む、複数のサルの群れで、まったく同じ行動が観察されるようになったというのです。物理的な接触がないサル同士が、みえないところで通信を行う。まさにテレパシーのようなものです。

テレパシーというと、胡散臭いですが、こうした話を全て否定しきってしまうというのも危険のような気がします。

シンクロニシティという言葉があります。同時代性とも訳されますが、まったく別々のところにいる人間が、同じときに同じことを考えるというものです。私自身、あるブランドプランニングの会社の人たちと打合せをしていたときに、普通にこの言葉が出てきたのにびっくりしたものです。あるネーミングの作業で、ようやく名前が決まろうとしたとき、「シンクロニシティというのがあります。この瞬間、同じ名前を考え付いた人がいるかもしれません。この名前は、いい名前ですので、早く商標登録してください」と言うのです。

別々の個体として活動している生物同士が、テレパシーのようなもので通信をしている。生物の意識は、実はそれぞれがつながっており、全体として群れの意思が存在する。何とも不思議で、突拍子もないような話ですが、科学の領域で、このようなことを唱えている学者もいるのです。

心理学者のユングは、人間の心は意識の下に無意識があり、さらにその下に集合的無意識があると主張しました。集合的無意識とは、個人を越えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられるものであり、これらが人間の行動や判断に影響を及ぼしているというのです。こうした集合的無意識に対して、もう少し積極的な解釈をすると、個体を越えた全体の意思が存在するということになります。つまり、集合的無意識とは、「みんなが心の底で本当に望んでいること」であり、このことは普遍的で、ある特定の方向を向いた意思として存在するということです。

実は、こうした集合的無意識の存在を認めていくことで、宗教をはじめとした精神世界の謎にひとつの有力な仮説を立てることができるのではないかと考えています。その仮説とは、「集合的無意識」=「みんなが心の底で本当に望んでいること」=「神の意思」であるということです。

宗教の分野で、雑念や煩悩を取り払うという作業は、よく行われています。苦行や礼拝などを通じて、無我無心の状態に至る、あるいは瞑想状態に入るといったようなことは、宗教世界では一般的に行われていることで、こうした作業を通じて、自らを磨き、神と対話をすることができるようになるといいます。例えば、礼拝堂で心穏やかに、静かに礼拝を行います。無我無心の状態に至ったところで、直観的なひらめきを感じ、ふと目を開きます。すると、目の前には偶像があるのです。宗教は、この瞬間を利用します。そのひらめきこそが、神との対話であり、その神とは目前にある偶像であると説きます。しかし、ここには宗教のウソが含まれています(「頼るべきは「自分」」、「宗教が説く真理」参照)。

このときに行われる雑念や煩悩を取り払うとい作業は、ユングの精神世界でいうところの個のレベルの意識や無意識を取り払うということであり、そのこと自体は何も神によるものではありません。自分自身が穏やかな心をもち、本当に必要なこととは何かに集中することで、感じ得るものがあります。その人が感じたひらめきそのものは、宗教が言うところの神ではありますが、それは何も特別なものではなく、すべての人がアクセスし得る人類あるいは生物の集合的無意識かもしれないのです。「みんなが心の底で本当に望んでいること」は、自分にとっても、人類や生物全体にとっても必要なことであり、それを知ることで悟りを得たり、信念を掴んだり、幸福感を覚えたりすることができると考えることができるわけです。

ところで、純粋にみんなが本当に望んでいることとは何でしょうか。金でもないでしょう、名誉でもないでしょう。個人の欲のために競争社会を生み出し、身勝手な行動により地球を住めない星にすることではないことは明白だろうと思います。いろいろな葛藤はありながらも、あらゆる人間は、個人のエゴに振り回されず、自分も他人もみんなが幸せに住めるような環境を維持し、生き続けていたいと望んでいるはずです。生きたいという願望は、生物としての普遍的なものでしょう。あなたが個人の雑念や煩悩を振り払い、そうしたみんなの心の底にある本当の願いに忠実であれば、無意識のレベルで、みんながあなたのことを応援してくれるはずです。

みんなの本当の願いとは何か。それを知るために、現存の宗教に頼る必要はありません。あなた自身が、心穏やかに無我無心の状態で、目前の問題から目を背けずに、向かい合っていれば、何をすべきかを悟ることができるはずです。そして、それを実行しようとするとき、地球上のすべての人々が、集合的無意識を通じてあなたに協力をしてくれるようになるかもしれません。

今、あなたがしたいと思っていることは何でしょうか。それは、本当に人類全体が望んでいることでしょうか。もし、そうであるならば、人類全体が無意識のレベルであなたのことを助けてくれるし、それこそが、現存の宗教が言う「神の救い」となると考えることができます。人類全体のためを考えて、行動をしている人たちには、必ずそれを助けてくれる力が働くはずと考えることができるわけです。自分がすべきことの大きさにひるまず、自分の生きるべき道を信じて、勇気を持って行動を起こしてはどうでしょうか。必ず道は開けると思います。

コメント (2)
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