「善行を積めば天国に行ける」
この言葉の意味を否定するつもりはありません。良いことをすれば、きっと良いことがあるでしょう。良いことや正しいことをすることは、ときに辛いことだったりします。そういう人々を励ます意味で、「天国に行ける」という言葉をかけるという手もあるでしょう。
しかし、「天国に行けるから○○しなさい」と特定の行動を勧める意味で、「善行を積めば天国に行ける」という言葉を使うことは、非常に危険であると思います。宗教では、「善行を積めば天国に行ける」、あるいはこれに類する表現を用いることがありますが、これは「良いことをしていれば、きっと良いことがある」という本質的な意味のうち、「良いことがある」という結果ばかりに焦点を当てた曲解となる可能性を秘めています。
まず実際に、善行を積んだ心が清い善人が行ける「天国」と、悪行を重ねて心が荒んだ悪人が落とされる「地獄」があるとします。こうした前提で、「天国に行ける」という理由で、善行(とされる行動)をする人は、天国に行くことができないと考えるべきです。何故ならば、そういう理由で天国に行こうとする人は、他の人々を差し置いて天国に行こうとする心が汚れた人であり、そのような自分勝手な人は、むしろ地獄に落ちてしまうからです。逆の言い方をすれば、天国に行く人は「心の清い善人」であり、自分以外に地獄に落ちる哀れな人々がいるのを横目に、自分だけ天国に行くようなことはできません。したがって、天国と地獄という二つの世界があるということを知りつつ、天国に行きたいなどという結果論に目を奪われ、それを願っている人は、けっして天国には行けないのです。
宗教に限らず、教育を含むあらゆる場面で、人の道を説くときに分かり易く「天国に行けるから」と善行を積むことの素晴らしさを表現することは理解できます。しかし「天国に行ける」という結果論を強調すると、善人すら「悪人」に仕立て上げてしまう危険性があることに注意する必要があります。また、そのような教えを説かれる人々の側も、そうした甘い罠に陥らないよう、自分自身を強く持つことが大切です。
繰り返される宗教戦争や殉教の悲劇などには、「善行を積めば天国に行ける」というロジックが用いられます(「武士と騎士の違い」参照)。これらを信じてしまっている人々に対して、信じるなと言っても無駄なことかもしれません。しかし、もし少しでも考える余裕や時間があるならば、「天国とは何か」を、よくよく考えていただきたいと思うのです。
ところで、上記のように「地獄に落ちる人がいると知りつつ、天国に行く善人はいない」、「真の善人は天国には行かない」というロジックが成立するとなると、そもそも天国や地獄というものがあるのかという疑問にぶち当たります。
ここに、心に一点の曇りもない「真の善人」がいるとしましょう。この「真の善人」は、天国と地獄の存在を知ったら、間違いなく地獄に向かうはずなのです。天国と地獄という二つの世界がある限り、「真の善人」は、迷わず自ら進んで地獄に落ちて行き、地獄に落ちている人々を助けるという行動をとるはずです。これが「天国と地獄」の存在についての疑問につながるのです。
「真の善人」は地獄に行く。
「真の善人」が行く場所が天国。
∴地獄=天国???
これでは、正直何が何だか分かりません。
結局、私は天国も地獄もないと思います。確実に存在するのは、私たちが生きているという現世での事実です。来世の存在を否定するわけではありませんが、大切なのは現世をどう生きるかという問題であり、すべてはそこに帰結するべきだと思うのです。
「何事も心の持ち方次第」などという言葉を使ったりしますが、この世界で生きているという事実のなかで、最も重要なのは、私たちがこの世界を天国と思うか、地獄と思うかではないでしょうか。「天国と地獄」を考えるときには、常にこの視点を忘れてはならないと思います。
「この世界は、心が清い善人には天国になり、心が荒んだ悪人には地獄になってしまう」
私は、このことが「善行を積めば天国に行ける」という言葉の、本質的な意味ではないかと思うのです。
さて、あなたはこの世界が天国に見えますか?地獄に見えますか?
そうですね、まさにその人次第ということでしょう。私にも、はっきりした答えはありません。ただ、二者択一をせよというのなら、堂々と「天国」と答えたいし、そう答えられるような生き方をしたいと思います。