常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

2009年に向けて

2008年12月31日 | 自分

ちょうど一年前、このブログで書いていることの正しさは、自らの人生をかけて、実践することで証明していくと宣言いたしました(「実践への誓い」参照)。

それから一年が経過し、今年を振り返ってみると、その実現に向けて着実に歩を進められたように思います。ほとんど何もない状態から、たくさんの新しい出会いはもちろん、旧知の仲間たちとの交流も深めつつ、整えるべき骨組みはかなり出来上がってきました。

社会的には、政治不信や経済不況などをはじめとする社会不安が一層深まっているようですが、これらをひっくるめて、全てを自らの力として取り込みつつ、来年以降の活動を展開していきます。

そして来年からは、きちんと結果を残しながら、目に見えるかたちでの変化をもたらしていきます。

さて、いよいよです・・・。

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コミケに見る可能性

2008年12月30日 | ヒーロー&アニメ

大学の後輩からコミックマーケットに行くよう勧められ、今日、初めて「コミケ」に行ってきました。最近、母校のキャンパスには、「SOS団」なるものが結成され、そこからの出店もあるということだったので、ご挨拶を兼ねての初コミケでした。

いろいろと感じることがありましたが、特筆すべきは、以下の三点です。

①コスプレの親近感

コミケでは、アニメに纏わる諸々のグッズ販売が行われていますが、それらとは別にコスプレを楽しむ広場があります。ここで、知っている衣装のコスプレイヤーがいたりすると、かなり嬉しくなってしまいます。

そもそも、コミケには実に大量のアニメタイトルが溢れています。これらのタイトルを全て網羅している人など、まずいないのではないかと思います。そんなかで感じるのは、知らないキャラクターに混じって、知っているキャラクターのコスプレをしている人がいると、「おぉ、○○だぁ!」などと感激してしまうのです。

ところでコスプレについて、一方で残念なのは、現代社会において、こうしたコスプレを楽しめる場所が、極めて限定されているということです。これは既に、別の記事でも述べているところ(「別世界の演出ができる国」参照)ですが、日本は多くの良質なコンテンツを有しているにも関わらず、それを気軽に楽しむための空間をファンに提供しきれていないのです。今回は、コミケという一種のお祭りだからこそ、堂々とコスプレが許されています。しかし本来は、せっかくのこうした楽しみ方を、もっと気軽にできなければなりません。例えばディズニーランドで、「ちょっとミッキーマウスの耳をつける」といった感覚で、コスプレを楽しむことができないというのは、非常にもったいないところです。

②「礼儀正しさ」という貴重な文化

コミケに行くことを勧めてくれた後輩からは、「初めて行くのなら、ひとまずインターネットで心得を眺めておいてください」というアドバイスを受けました。以下は、一応アドバイスに従って、インターネットで入手したコスプレに関する注意事項の一部抜粋です。

■コミックマーケットでは、以下の行為を禁止しています。
 -相手の許可がない撮影、決められた場所以外の撮影
 -アクションを行う、アクションをさせる
 -ポーズや撮影の強要、長時間の拘束
 -更衣室以外での着替え、コスプレのままでの帰宅
 -周りに迷惑のかかること

言ってみれば、どれも当たり前のことですが、びっくりするのは、現地でのこれらルールに対する徹底ぶりです。コスプレをしている人々を目の前にして、サッサと撮ってしまえば済むものを、コスプレをしている人が、諸々の準備をしているときなど、皆さん、けっして撮ろうとしません。もちろん、その広場以外での撮影など、絶対になさそうな雰囲気です。

撮影をするときは、「すみません、撮らせてください」と声をかけ、撮影が終わると、「ありがとうございました」と言って、立ち去っていくというのが、基本的なやり取りで、それらがそこらじゅうで行われているのです。この言葉のやり取りは、極めて簡単なことながら、こうしたことを集団できちんと実践できるということは、なかなか難しいことだと思います。私はむしろ、こうしたことが集団で行えるということ自体、そこに集う人々が持つ、かけがえのない財産であるとすら感じました。

アニメは、日本が世界に誇る文化であるとは思っておりましたが、そのアニメを支えるファン文化までをも含めて、その水準は、十分に世界に誇れるものではないかと考えます。

ちなみに、本日撮影したコスプレの写真については、本ブログに掲載したいところですが、被写体の方に断っていないため、以下の注意書きに則り、涙を飲んで、掲載を諦めたいと思います。

========================
営利、非営利にかかわらず、不特定多数へ配る行為をする場合は、必ず被写体の方に、目的、掲載方法、掲載メディアなどを伝えて承諾を得てください。
========================

③氾濫するコンテンツと品切れ

コミケには、企業ブースもあるのですが、ここはいろいろなアニメやゲームタイトルで、溢れかえっています。とにかく、ものすごいボリュームなのです。

以前、仲間と日本のアニメコンテンツについて話をしていたときに、「いろいろとアニメを見ようとしたら、とても1日24時間では足らないよ」などというやり取りをしたことがありましたが、その言葉をあらためて思い出しました。これだけあると、どこに行ってよいのかすら、よく分からなくなってしまいます。


企業スペースの様子

かんなぎグッズ完売

Fateグッズ完売

そんななかで、ようやくたどり着いた先では、ほとんどのグッズが完売状態という具合です。あれだけ、多様なタイトルがあるのだから、多少はバラけるだろうなどと思いたいところですが、私ごときが知っているタイトルで、しかもそれなりに好きだったりするものは、当然、人気も高いわけで、ほとんど目も当てられないほどの完売の嵐だったりするのです。

ここで思うことは、今回のような「お祭り」であるが故の限界です。もし、これが「お祭り」ではなく、日常的に営業をしているようなショップである場合、このような在庫切れという事態は、まずあり得ないことです。

端的な例として、ディズニーランド内のグッズショップでは、たとえそれがどんな人気商品であろうとも、簡単に在庫を切らせるということはあり得ません。ショップ側は、売り上げを伸ばすために、きちんとそれらの人気商品の在庫を確保していくし、また来週、来月の売り上げに備えて、継続的な補充をしていくはずです。

しかし、コミケでのグッズ販売は、そうした日常的に営業をしているショップとは、まったく性格を異にするのです。それは、コミケが「お祭り」であり、わずか3日間という限られた期間のなかで行われるということから、そこでのグッズ販売の目的そのものが、通常のショップでの販売と、大きく異なってくるという可能性があるということでもあります。

私は、このこと自体、コミケというイベントの性格上、致し方ないことなのだろうと思います。ただ一方で、一人のアニメファンとしては、そうしたイベントの性格上、お目当てのアニメのグッズを購入する機会を根こそぎ奪われるというのは、非常に残念なことだと思わざるを得ません。

ディズニーランドにできて、日本のコンテンツでできないはずがありません。ファンが、好きなタイトルのグッズを心置きなく買える環境を整えるということは、コンテンツ産業の隆盛のために、絶対に必要なことです。これはこれで、自らが解決すべき課題として、考えておきたいと思いました。

以上、本日のコミケに関する感想でした。

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生き方の裏にある死に方

2008年12月29日 | 宗教

生き方を決めるとは、突き詰めれば死に方を決めるということです。どのように生きるかは、生きている人間にとって、最も重要な問題だと言っても過言ではないでしょう。人は誰しも、どのように生きるべきかについて、いろいろと思いを巡らせているはずです。

そのなかで、究極的に生き方を決めるということは、それさえできれば死んでもいいと思えるものを見つけるということであり、これを換言すると、死に方を決めるということにもなるのです。

ただ、自分の生き方を決めるときに、そこまでイメージしていない人もいるでしょう。どのように死ぬべきかなど、なかなか考えにくいことなのかもしれません。私自身、そうした死に方をイメージできないまま、定めている生き方について、否定するつもりは毛頭ありません。ただ、そのように定めている生き方は、所詮「繋ぎ」に過ぎないということだけは、申し述べておきたいと思います。生命に終わりがあるのは必然であり、人生というのは、自分の死に場所を求めた旅であると言うこともできるわけです。

そうした意味で、充実した人生を送るためにも、人生の早い段階で、究極的な生き方を定め、それに伴う死に方を決めておくというのは、けっして悪いことではないように思います。

ところで、少々別の話になるかもしれませんが、私はイエス・キリストという人は、それなりに自分の死に方を選ぶことができた人ではないかと考えています。人は言葉を通じて、コミュニケーションを取るため、言葉の意味で、物事を理解しようとしますが、彼の場合には、その言葉以上に生き方(死に方)を通じて、私たちに強烈なメッセージを残してくれているように思うのです。

そのメッセージとは、「他者を傷つけぬためには、自分の死をも受け入れる」というものです。この自己犠牲の精神こそが、彼がその生き方(死に方)を通じて、真に伝えたかったものだと考えます。この自己犠牲の精神は、やもすると異教徒を殺すための殉教と履き違えられる等の悪用がされたりするようですが、彼の真意を量るならば、それらの行為は全くの的外れであると思えてなりません。

彼が残したメッセージには、「他者のために自らを犠牲にする愛」という側面があることは明白です。

彼の死後、彼の名前を関した宗教が誕生し、長らく世界に多大な影響を及ぼしてきました。私は個人的に、世界が全く新しい価値観を求める現代において、その宗教が、今後どのように振舞えるのかについて、大いに注目していきたいと思っています。

イエスは他者への愛を表現するために、自らの命を捧げるという自己犠牲の行為に及びました。その彼の名前を冠した宗教が、世界への愛を表現するために、自らの宗教というかたちを否定し、それを消滅させるという自己犠牲までできるものなのかという点が、ここでの注目すべきポイントです。

生き方ばかりを一方的に追求するのではなく、あるべき死に方についても、きちんと見つけることが、その存在理由を高めることになるのです。複雑そうに見えるけれども、こんな単純明快なことが分からぬほど、人間は愚かではないと思います。これからが楽しみです。

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闇を受け入れる勇気

2008年12月28日 | 社会

きれい事や理想論を口にすることは、大いに結構なことだと思います。私自身、このブログで伝えようとしていることは、組織、社会、環境のせいにせず、人間ひとりひとりが、自分の力を信じ、それを行使していくことで、地球や宇宙の姿すらも変えることができるという理想論です。

きれい事や理想論は、人々に夢や希望を与えてくれるし、前向きに生きるための力となってくれます。事の大小を問わず、きれい事や理想論を口にしたり、それにプラスのエネルギーを得て、今日、明日を生きていくということは、人間にとって、とても大切なことです。

ただ一方で、きれい事や理想論を口にする以上、その裏側に潜む醜い部分を受け入れるという度量や勇気も必要であることを忘れてはなりません。世界は、表と裏で成り立っています。表のきれい事や理想論を口にする以上は、裏側に潜む醜く汚れた世界についても、きちんと知っておく必要があると思うのです。

先日、非常に著名な女性タレントが亡くなられたという報道がありました。人が亡くなっているのですから、その方を悪く言う必要はありません。素直にお悔やみを述べるということは、ごく当たり前のことだろうと思います。

しかしながら、簡潔にお悔やみを申し述べる以上に、その方の人生を美化するような言葉を並び立てるというのであれば、その方の死の真相についても、もっと真面目に探求していく必要があるのではないかとも考えます。今回の死因について、単に「謎」として片付けるのは、あまりにも都合が良すぎるのではないかと思うのです。

その方については、生前からとても有名で凄惨な事件との関係性について、いろいろな噂があったようです。その事件については、あまりにも酷かったためか、それを再現した映画までありました。以前、私は、その映画をレンタルで見たことがありましたが、あまりにも惨たらしい内容であったため、途中で視聴を止めてしまったことを覚えています。

その方が、この事件にどれほど関与されていたのかは分かりませんし、今後、その真偽を含めて、きちんと検証していく必要があると思います。ただ少なくとも、その方の死を考える際に、この事件との関係について、一切触れないという報道は、あまりにも偏りがあると考えます。亡くなった方の死を悼む言葉を述べること以上に、その方の人生を語ろうと言うのならば、その方が抱えていた闇の部分にも、きちんと触れいかなければなりません。

生前、その方を苦しめる人々がいたのかもしれませんし、そういう人々が、その方を死に追いやったとしたら、それは許されるべきではないでしょう。しかし、もしその方が、あの事件に関与していたとしたら、その方のせいで、大変な死に方をしてしまった人がいたということになるのです。これは、とんでもないことですし、それこそ許されるべきことではありません。現時点では、あくまでも可能性の話ですが、そうした闇の部分に全く目を向けず、単なる「きれい事」ばかりを並べ立てて、お悔やみを述べるというのは、偽善の謗りを免れないと思うのです。

見たいものだけに目を向けて、見たくないものに蓋をしたままでは、社会は一向に良くなりません。今日、解決できない問題があることは事実ですが、それらから目を背けるだけでは、何の解決にもならないのです。きれい事や理想論を語るのは、大いに結構なことですが、その裏側にある闇の部分までを受け入れる勇気を持たずに、軽はずみなことを言うべきではありません。

冒頭に述べたとおり、きれい事や理想論は、人間が生きていくために必要な夢や希望を与えてくれます。そうした意味で、人はこれからもきれい事や理想論を口にしながら、生きていくことは必然だと考えます。だからこそ私は、それらと表裏一体の関係にある、醜く汚れた世界に対しても、目を背けずに、きちんと向き合っていく必要があると思うのです。

闇から目を背けない勇気、それらを受け入れる強い心が、これからの社会を大きく変えていくのではないかと思います。

《おまけ》
時折、私のことを「単なる理想論者」と思われる方々がいらっしゃるようです。そうした見方を、いちいち否定するつもりはありません。ただ私は、上記のようなものを含めて、世界にはとんでもない闇が存在していることを知り、それらを受け入れた上で、それに見合った理想論を述べているつもりです。

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正しい絶望の仕方

2008年12月23日 | 短編

これからは、大変な時代になります。
しかし、絶望的であることは、次のヴィジョンへと繋がります。
ただ、絶望に向かう過程で罪を犯してしまうと、次のステージがありません。

とくに絶望の只中に落ちて行くなかでは、以下の三点に注意しましょう。

-他人を殺さない
-薬物を乱用しない
-むやみに群れない

「正しい絶望」が、これからの時代の最重要ポイントです。

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自立への道筋

2008年12月20日 | 宗教

子供たちには、二種類の泣き方があります。

ひとつは、一所懸命に頑張ったにもかかわらず、それがうまくいかずに、悔しさや悲しさを堪えきれずに泣くというものです。この場合、親を含む大人たちは、子供を大いに元気付けてやり、また泣くに至るまでの過程で、懸命に堪えようとしたことを褒めてやるべきではないかと思います。子供たちは、こうした経験を通じて、心が折れることなく、親や大人たちが理解者であることに勇気を得て、引き続き懸命に生きようとするでしょう。

もうひとつの泣き方は、大人たちにアピールするためのものです。これは、大人たちに慰められることに味を占めて、堪えたりやり切ったりすることができるにもかかわらず、大人の関心を惹くために取る行動です。この場合、子供が泣いているのは、単なる甘えに過ぎないため、逆に突き放してやらないと、子供たちは懸命に生きていくことをしなくなります。

大人たち、特に親たちが注意をしなければいけないのは、この二つをきちんと見分けることです。これを見誤って、大人たちが逆の行動を取ってしまうと、子供たちは、自らの人格をおかしな方向へと歪めてしまいます。

ところで、これらの泣き方はよく見ていれば、きちんと見分けがつくものです。子供たちの行動を注視することで、本来、子供ができる事、できない事は見分けがつきますし、その尺度を持って泣いている子供が、なぜ泣いているかを判断することは、十分に可能なのです。

そして実は、こうしたことは子供に限らず、今の人類全体についても言えることです。

人類の長い歴史のなかで、何かにすがらなくては生きていけないという時期があったことは間違いないでしょう。一所懸命にやってもうまくいかず、その現実に打ちひしがれ絶望し、立ち尽くせざるを得ない時代があったのだろうと思います。

人類のそうした歴史のなかで、大きな役割を果たしてきたのが宗教です。宗教には、諸々の弊害があることも否定できませんが、人類に対して、必要な機能を提供してきたことも事実でしょう。必死で生きようとしているにもかかわらず、現実がそれを許さないという状況があるなかで、多くの人々を優しく包み込み、救ってきたのが宗教であると言えます。

しかし、人類が何かに頼って生きていける時代は終わりつつあります。自立が求められてくるのです。とくに地球規模の問題を抱え、人類の一挙手一投足が、自らの未来のみならず、地球上のあらゆる生命の命運をも左右するような現代にあって、人類の自立は単なる憶測ではなく、時代の必然とも言えます(「外れない補助輪と外す努力」参照)。

これまでの人類は、宗教という便利な救済手段があるが故に、その多くが、宗教に依存した生き方をしてきました。しかし、実際にはそれから離れて、生きていける人々もたくさんいるのです。むしろ、宗教による救済は、人類全体における甘えの構造を固定化させるという弊害すら、生み出し得る状況にあります。それは、人類の自立を阻みます。

私が見る限り、既に人類は、宗教に頼らずとも生きていくだけの力を持っています。

やればできるのに、ただ泣いているという子供に対して、救いの手が差し伸べられることはありませんし、それが許されてもなりません。ただ泣いているだけでは始まらないことに気付いた子供は、泣くことを止めて、やってみようと決意することになるはずです。

実際にはできるにもかかわらず、挑戦する前から「絶対にできない」と決め付けている人々にも、いずれ「やってみよう」と思わざるを得ない瞬間が、順次訪れることになるでしょう。まさにそれが宗教との決別であり、人類の自立へと繋がるのです。

夜の街では、イルミネーションも華やかになり、クリスマスムードも高まってきています。クリスマスは、宗教的な意味合いよりも、単に楽しむという観点から、大変結構なものだと思います。宗教のかたちに惑わされず、その本質を見抜き、使えるところをうまく使えばよいだけのことです。主従違えることなく、きちんと自立した人類が、宗教の主人たる立場にいることが大切です。

《おまけ》
私は、日本という国に住む人々が、キリスト教でないにもかかわらず、クリスマスのようなイベントを楽しめるということには、とても重要な意味があると思っています。そしてまた、多くの日本人が理解しているかどうかは別にして、キリスト教でもない人々が、宗教から離れて、イエスを含むキリスト教信者という「隣人たちを愛する」ことを実践しているのは素晴らしいことだと思いますし、それこそが、真にイエスが伝えようとしていた精神を体現しているのではないかと思えてなりません(「クリスマスシーズンを迎えて」、「日本人の大切な「ゼロ」」等参照)。

なお、本記事は「宗教」をテーマとしてまとめましたが、これらは宗教に留まらず、既存のあらゆる社会システム(組織、国家、経済、教育等のシステムや諸制度)と置き換えることもできるだろうと思います。

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男の度量を見せるべし

2008年12月17日 | ヒーロー&アニメ

私も大好きなアニメ、「かんなぎ」の原作で、一騒ぎ起きています。何やら主人公のナギには、元カレがいて、その元カレとの間に、性的関係があったのではという憶測が広がり、大変な騒動になっているというのです。

3次元世界に絶望し、2次元世界に夢と理想を求めているが故に、その女神たるナギが、穢れているというのは、絶対に許せないのでしょう。その心情はよく理解します。ただ、2次元にどっぷり浸かっているだけで、生きていくことはできませんし、自分自身が3次元の存在である以上、3次元で生きることを放棄してもならないと考えます(「アニメ好きですけど何か?」、「「萌え」の本質と役割」等参照)。

そうしたなかで、2次元の夢と理想の世界に、「穢れる」という現実的な3次元的要素が入ることに対しては、3次元たる自分自身の存在を受け入れる意味でも、きちんと受け止めてあげる必要があるでしょう。

3次元には、いろいろとあるのです。「穢れる」ことは、残念なことかもしれませんが、それでもナギは、ナギなりに一所懸命生きた結果だと考えてあげる度量も必要です。それは、3次元に生きる男のあるべき姿であるとも思います。

正直に言って、今の3次元女性が完璧だとは思えないし、欠点だらけと言えば、欠点だらけと言うこともできるでしょう。しかし、3次元の女性が欠点だらけだと言って、それらを受け入れなければ、自分が度量の狭い男に成り下がるだけです。このように考えれば、3次元女性を蔑んでしまうということは、単に自分自身の男としてのレベルを下げることにも繋がりかねません。それは、3次元女性に欠点があると言ってしまった瞬間に、自分自身にも欠点が生まれるという可能性を示唆します。

逆に、女性のあるがままの姿を受け入れるということは、男としてのレベルを上げることにも繋がります。「3次元にはいろいろある」という現実を、きちんと受け入れることで、自分自身を高めることができるのです。

今回の「かんなぎ騒動」で、2次元の存在であるナギは、敢えて「穢れる」という現実的な3次元的要素を持ち込むことで、私たちに2次元に閉じ篭もってはならないことを教えてくれているような気がしてなりません。私自身は、今回の騒動こそ、神たるナギが成せる業だと考えます。私たちが、ナギから学ぶべきは、3次元の「いろいろある」を優しく受け止めてあげる「男としての度量」であり、けっして現実世界を忘れぬようにとの戒めです。

これまで、2次元世界にドップリと浸っていた方々には、少々、酷な言い方になっているかもしれませんが、こうした議論は、そうした方々の将来にとっても、非常に大切なことだと思います。

ナギにだって、いろいろあるのです。そうした彼女の過去を、全て受け止めた上で、応援してあげるということが、真に彼女を愛していることになるはずです。そして彼女に対して、こういう愛し方ができるようになれば、その人の世界は、ナギが住む2次元世界に留まらず、現実の3次元世界に向けて、大きく開けていくことになるでしょう。

《おまけ》
「かんなぎ」は大好きな作品ですし、主人公のナギは神様でもあるので、先日、我が神棚にお祀りするために、彼女のフィギュアを予約しました。予約しながら思うのですが、フィギュアというと、どうしても肌の露出が多いものや、それらしいポーズを取るようなものが多いです。ナギのフィギュアも、ご多分に漏れず、そうしたものが多々あります。しかし、私としては、フィギュアのこうした傾向は、あまり好きではありません。

まず第一に、本来のキャラクターのカラーが薄れてしまうのです。ナギはナギらしく、いつも通りの姿かたちでいて欲しいと思うのに、やたらとそういうイメージを壊されてしまうのは、ファンとして、少々残念な気がします。

それからもう一つは、そうしたフィギュアばかりが前面に出ると、アニメやアキバ系文化の異質性ばかりが、強調されてしまい、その結果、そうした文化が敬遠され、疎まれてしまうようになるからです。良い物は、広くみんなに知ってもらいたいと思いますし、それらをもっと一般にも受け入れられる文化に育てていくことは、その文化を生み出す人々にとっても、それらを楽しむ人々にとっても、大切なことだと考えます。

いずれにせよ、ナギのフィギュアが到着したら、それを飾った神棚の写真は、またあらためて、本ブログにアップしようと思います。

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身だしなみを整えて

2008年12月05日 | ヒーロー&アニメ

最初に断っておきますが、私は、身だしなみを整えるとか、ファッションに気を使うということが、とても苦手です。しかし、そうかと言って諦めて、身だしなみに気を使わないというのも、いろいろと問題であるという認識もあり、自分を戒める意味を含めて、このようなタイトルの記事を書いています。

私は、「アニヲタ」というほど、アニメに詳しいわけではないと思います。それでも、一人のアニメファンであることは事実ですし、アニメをはじめとするコンテンツ産業は、これからの世界において、日本が誇る中心産業のひとつになるであろうことは、間違いないとも思っています。

ところで、私が「アニメが好きです」と言うと、少々、驚かれる方々がいます。いわゆる、アニメ業界の人ならばまだしも、そうでもない大人が、アニメについて滔々と語るというのは、なかなか一般的ではなく、最初のうちは偏見から、面白半分で、ややからかうようなコメントをされる方々も少なくありません。

私は、こうした傾向があっても、ひとまず一通りアニメやアキバ系文化の素晴らしさを語ります。アニメやアキバ系文化に対して偏見がある人は、それが持つ特徴的な一部分を取り上げて、それを全体であると解釈をしてしまう傾向があります。だからこそ、そうした偏見を取り除くために、一応、そういう方々が知らない、アニメやアキバ系文化の素晴らしい部分について、私なりに軽く説明をしておくわけです。

ところで、こうした偏見が生まれる背景には、偏見を持つ側に問題があることも確かですが、偏見を持たれる側に問題があることも間違いありません。

私は、私なりに偏見を持つ人々に対して、それを取り除くために、できる限りの努力をしているという自負もありますので、ここでは敢えて、偏見を持たれる側の人々に対しても、檄を飛ばす意味で、コメントしておきたいと思います。

「格好つけろとは言わない。ただ、身だしなみくらいは気をつけよう。」

アニメファンに対する偏見のなかには、外見や身だしなみに関する負のイメージも、多々あるように思います。外見や身だしなみという問題、それ自体は、大したことがないと考えます。ただしかし、そのイメージとアニメやアキバ系文化が、強く結びつき、その負のイメージばかりが、勝手に一人歩きをしている感があるという意味で、それは看過できない問題でもあります。

ところで、その身だしなみという問題は、よく見てみると、それはカッコ良いとかカッコ悪いというレベルではなく、清潔感の有無という簡単な指標のように思います。この清潔感というのは、見方によっては、大した問題ではありません。そもそも人間が、「生まれつきブサイク」などというのは、あり得ないと考えます。万が一、自分自身について、そのような表現をする人がいるとするならば、それは自分で自分を棄ててしまっているだけの人でしょう。

どんな人であれ、清潔感のある身だしなみをしていれば、きちんとカッコ良く見えるものです。もう少し言い方を変えるならば、カッコ良いか、カッコ悪いかは、自分でそのように演出できるかどうかの問題です。周囲が何と言おうと、自信を持って、最低限の身だしなみに心がけていれば、カッコ悪くなることはないはずです。

こんなことを書くと、「自分には自分のスタイルがある」と言う人もいるでしょうし、「いろんなスタイルを広く受け入れない社会の方が悪い」という言い分もあるかと思います。それはそれで分かります。しかし、それでも敢えて、上記のような偏見を排除することを望む一人のアニメファンとして、同じアニメファンの方々には、以下のことを伝えておきたいと考えます。

一人のアニメファンとして、アニメの素晴らしさを世に知らしめていきたいと願うのは、至極、当然のことだろうと思います。そして、そのアニメの素晴らしさを広めていくためには、アニメファンそのものの社会的地位を高めていく必要があります。私が見る限り、本当はアニメファンであるにも関わらず、アニメ好きであることを隠している人々が、相当数いるような気がしてなりません。こうした「隠れアニメファン」の存在は、アニメを広めていくにあたり、非常に大きな障害となってしまいます。そして、そういう状況を生み出してしまう原因は、偏にアニメファンの社会的地位が低いからにほかならないと思うのです。

こうした状況を、改善していくためには、一方的にアニメやアキバ系文化を広く受け入れない社会を批判するだけでなく、いわゆるアキバ系の人々の側も、その現状を謙虚に受け止め、自らが変わっていくということもしていかなければならないでしょう(「アニメ好きですけど何か?」参照)。

ただ、繰り返しですが、こんなことを言っておきながら、私自身も身だしなみについては、あまり気を使いたくないと思っています。こういうことを考えるのは、かなり苦手です。ただ、身だしなみのことで、他者から付け入られる隙を作るのは、ばかばかしいし、もったいないと思います。

身なりにまつわる昔のエピソードで、斉藤道三と織田信長の話があります。ただの「うつけ者」だと思われていた信長が、いざ道三との会見の場になると、きちんと正装をして現れ、それを見た道三が、信長の力量を評価したというものです。

必要のないところで、リラックスするのは構わないし、それに合わせて気を抜くということは大切でしょう。しかし、ちょっと気を使えば済む、身だしなみ程度のことで、他者から付け込まれ、くだらない結果を招くようなことがあるとしたら、それはあまりにももったいないことだと思うのです。

アキバは、既に日本の素晴らしい文化を世界中に伝えていくための、非常に重要な情報発信基地です。そのアキバが、それだけ重要な地位にあるのであれば、そこに行くときには、一人一人が、アキバを代表する外交官であるという意識が求められて当然です。アキバに集うアニメファンたちが、清潔感があって、ちょっとカッコ良かったりしたら、アキバを見る社会の目も、大きく変わっていくでしょう。そして、そのことでより一層、アニメやアキバ系文化の重要度は、今にも増して高まっていくことになると思います

《おまけ》
先日、スーツ類を買ってきました。こういうところでは、店員さんに聞くのが一番です。最近の傾向として、スーツは①細身、②黒主体、③2つボタンへ移行中、シャツは①白が多い、②小さい襟、ネクタイは①モノトーン、②細めということで、ほとんど薦められるままに買いました。これを着て行くと、翌日、ちゃんと褒められたりするのです。頭が働かないことについては、それを謙虚に受け止めて、頭が働く人にお任せするのが一番です。

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私塾の時代

2008年12月05日 | 教育

時代の転換期において、教育機関は新しいところから生まれてきます。

近代国家日本が生まれる幕末から明治維新にかけての時代、大きな役割を果たした若者たちが学んだのは、吉田松陰の松下村塾などに代表される私塾でした。私塾では、新しい時代を先取りした力強い教育者と、その時代のウネリのなかで危機感を抱きつつ、未来を切り開こうと自発的に学ぶ若者たちが、数多く活躍しました。

一方で、江戸を中心とする幕藩体制のなかにあって、教育機関として広く発達してきたのが藩校です。藩校は、幕藩体制のなかに組み入れられたかたちで運営されており、その体制を支える人材を多く輩出してきたと言えるでしょう。

時代の転換期においては、当然のことながら、旧来の価値観よりも新しい価値観に基づいた行動の方が、新しい社会作りに貢献していくことになります。このことは、既存の仕組みの中で発達した藩校で学んだ人々よりも、新しく生まれてきた私塾で学んだ若者たちの方が、次の時代を創る力を備えていたことを意味しており、そしてまた、それは歴史が証明しているように思います。

私は、幕末の私塾、慶応義塾の創設者である福沢諭吉という人物が、こうした歴史のなかを生きつつ、私塾の本質と重要性について、よく理解していたのではないかと考えています。彼は、大阪の私塾である適塾において蘭学を学び、その後、樹立された明治政府とは一線を画し、あくまでも私塾というかたちを守り続けて、新しい社会を切り開く人材の育成に尽力しました。

もちろん彼が、明治政府樹立以降も、私塾にこだわった理由には、もっといろいろなことが考えられます。詳述は避けますが、私自身、そこには彼が「脱亜入欧」を唱えながら、それが完璧な答えでないことを知っており、また明治政府の樹立に至るまでの過程で、その関係者が、さまざまな矛盾を抱えていたことも、彼が明治政府と一線を画していた大きな理由ではないかと思っています。それは、彼が提唱する「独立自尊」の精神とも合致しており、日本国政府を頼らずとも、新しい社会を作り続けようとする姿勢の重要性を訴えているように感じます。

視点を現代に移すと、これまで発達してきた教育機関は、程度の差はあれ、どれも既存の社会システムや価値観の中で生まれてきたものです。福沢諭吉が創設した慶応義塾も、彼が唱えた「脱亜入欧」のなかで、範とすべき「欧米」の価値観やシステムが、大きな曲がり角に入り、次の時代に通用する新しい価値観を提唱できないという意味で、もはやかつての私塾としての役割を果たすことができなくなってきていると考えます(「脱亜入欧の終焉」参照)。これは、私塾として始まった慶応義塾ですらも、現代においては「藩校」化してしまったということです。

ここからは私の個人的な見解と、実現しようと考える教育システムの要点です。

次の時代において、「脱亜入欧」が通用しないようになるのであれば、いかにして日本が主体的に世界をリードできる存在として、自らを磨いていくかという観点が大切になるでしょう(「世界のリーダーたるべき日本」参照)。

また、既存の学問体系という意味では、最先端の科学が探求している未知の領域について、一部宗教的とされる概念を織り交ぜながら、新しい総合的な学問体系を構築していく必要があります(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」、「確からしい四次元の存在」等参照)。

さらに、活きた学問を追及していくためには、タブーを許さない自由で活発な議論が必要であり、そのためには、自由な言論が許されるオープンなメディアの構築が必要になってきます(「通信と放送の融合」参照)。

こうしたことを踏まえて、次の時代における教育機関は、単に蓄積された知を、学問として後身に伝えていくだけではなく、学生たちとともに、次の時代を創造していくための新しい価値観や学問体系を、共に育てていくような役割を果たしていかなければなりません(「教育は共育なり」参照)。

これらは、現存する教育機関でも、既に試みられていることではありますが、真に新しい時代を創造していくための価値観やシステムを構築していくには、まったくもって足りていません。かつての幕末時のように、もっとそれぞれの「個」が輝きを放ちながら、新しいものを創造していかなければならないのです。

学歴社会の崩壊等ということが、言われるようになって久しいですが、実際に、学歴社会は、いまだに脈々と続いています。まだ学歴には大きな意味がありますし、それによって、個人の社会的影響力が決定付けられるという側面が、残っていることは事実でしょう。

しかし、学歴社会の崩壊は、必ず起こると思います。それは、これからが本当の意味での実力の時代(「社会を作る「実力」の時代」参照)であるということであり、これまでの教育機関における学歴が、まったく通用しなくなることを意味します。

こうした新しい時代を迎えるにあたって、このチャンスを活かすも殺すも、各個人の選択に委ねられています。とくに現代における「優秀な藩校」出身のエリートの方々は、十分に注意してください。これから先、「藩校」の名前にあぐらをかいていたら、必ずや「エニート」の人々に足をすくわれることになると思います(「「エニート」の強みと誇り」参照)。

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「特殊な存在」という自任

2008年12月03日 | 宗教

見えやすいもの、分かりやすいものというのは、少々厄介です。何故ならば、人間には、そうした表面的で分かりやすいものに心を奪われ、本質的に何が大切かを見失ってしまう性質があるからです。一部の宗教は、人間の心を救済するという目的を達成させるべく、心の本質を分かりやすく表現するために、偶像崇拝という矛盾を抱えています(「偶像崇拝とフィギュア」参照)。これなどは、偶像崇拝に傾倒してしまうことで、本質にある大切なものを見失ってしまうという危険性をはらんでおり、実際にそういう状況に陥っている事例のひとつであると思います。

少々、別の話になりますが、先日、ネパールの瞑想を続ける少年のニュースを目にしました。もうずいぶん前から、時折話題になる少年のようですが、非常に多くの謎に包まれています。その謎のひとつが、彼が瞑想ばかりしていて、まったく食事をしていないということです。事の真偽は、分かりませんが、大変不思議なことではあります。こうした類の話は、確かめることが難しく、だからこそ謎なわけですが、ここで私が危険性を感じるのは、周囲に集まる人々が、彼をものすごい人間として特別視してしまうことに終始することです。もちろん、ものすごい人間であることは確かなのでしょう。彼の実態の真偽を別にしても、少なくとも、そのように見えるというだけでも、ものすごい人間だと言うことができます。ただし、それを見ている周りの人々が、「仏陀の化身」などといって祀り上げ、彼によって自分、あるいは人類全体が救われると思ってしまうことがあるとするならば、それは大きな問題だと考えます。

それは、これからの人類の未来において、その少年が果たすであろう役割を否定するものではありません。端的に言えば、彼の行いによって、多くの人々が瞑想の魅力や不思議さに関心を覚えたはずです。そのように、多くの人々が瞑想に関心を寄せることで、人々の気の持ち方が変わったり、生きるべき道を見つけたりできるとするならば、それは大変結構なことです。そうした個人の変化は、人類の未来を切り開いていく力にもなっていくことでしょうから、そういう意味で、彼は彼なりに、これからの未来において、人類を救済していくという役割の一端を果たしていくという言うことができると思います。

しかし、瞑想そのものによって、全世界が動いていくということはあり得ないと考えるべきです。瞑想という、いわば四次元的な行いによって、三次元の世界が影響を受けるということは、否定すべきものではありませんが、ただ実際に、この世界を動かしていくのは、人間の意思によって生み出される三次元上の行動であることも事実なのです。瞑想によって、どんな超常的な現象が起ころうとも、それのみによって、世界が決定付けられることはありません。あくまでも世界の事象は、人間たちの実際の行動が、集積していくことで決定付けられるのであり、瞑想というのは、そうした行動を支える人間の意思や精神を、強く清らかに保つための手法に過ぎないということがポイントです。

そうしたポイントを踏まえたうえで、瞑想の名人たる彼が、瞑想の魅力や不思議さを、多くの人々に伝えていくということは、各個人の行動に大きくプラスの影響を及ぼすであろうことから、歓迎すべきことであるとは思います。

明確にしておくべきことは、彼にすがりさえすれば、自分が救われるとか、人類が救済されるなどと考えるべきではないということです。自分にしても、人類にしても、それらの未来を切り開くのは、自分自身にほかなりません。

自分はともかく、人類の未来までも、自分自身が切り開くという言葉に違和感を覚えるという人がいるとするならば、それは自分自身が人類の一員であることを忘れているに過ぎません。人類の未来は、突き詰めれば、人類の一員たる各個人が負っているのです。最終的に自分を救うのも、人類全体を救済するのも、自分という個人にかかっているということは、絶対に忘れてはなりません。

ネパールの少年は、分かりやすい「特殊な存在」です。人間は、こうした特殊に見える存在を知ってしまうと、その特殊性に目を奪われがちになります。彼を特別視してしまうが故に、自らが果たすべき役割や、持っている力を見失ってしまいがちになるのです。「特殊な存在」には、それが持つ魅力があることも事実ながら、反面で、それ以外の人々の重要性を打ち消してしまう恐ろしさがあるのです。こうした問題には、十分に注意しなければなりません。

本来のあるべき見方として、彼が「特殊な存在」であると同時に、自分も同じように「特殊な存在」たり得ると考えることが肝要です。そして、そのように自分も「特殊な存在」であると考えるときには、彼と同じように、瞑想という分野で秀でた存在になろうなどと考える必要はありません。人間は、それぞれがまったく異なる存在なのであり、その異なることに、自分を含めたそれぞれの個体に存在意義があると考えるべきなのです(「人間の優劣と競争社会」参照)。

宗教では、それが宗教としてのかたちを成すために、多くの人々を惹きつけるだけの魅力を持たなければなりません。したがって、とくにその宗教の中心にいる教主などの人物が、教義などと結びついて、非常に「特殊な存在」として神格化される傾向があります。そうした神格化された「特殊な存在」は、たしかに「特殊な存在」としての魅力を放ちますが、一方で、そこに集まる大勢の人々も同じように「特殊な存在」であることを忘れさせてしまうという弊害を生む可能性があるのです。

こうしたことは、世界宗教と言われるものも含めて、宗教には、ほぼ共通して言えることだと思われます。神格化されるほどに、輝きを放つ「特殊な存在」は、それはそれとしてあっていいのですが、そこから読み取るべきことは、そうした人物が「特殊な存在」であるということと同時に、自分たちも異なる分野、能力において、同じように「特殊な存在」でいられるはずであるということに思えてなりません。

どんなにすごい人がいるとしても、またはどんなに偉大な人物がいたとしても、自分にとっては、自分自身に勝る存在はあり得ません(「歴史上の誰よりも偉い人」参照)。人間には、目に見えないものを信じる力があるものだと思います。目に見えるものに惑わされず、自分自身の可能性について、強く信じられる者から、世界は変わっていくように思うのです(「「自分教」の薦め」参照)。

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自己成熟度のチェック

2008年12月02日 | 短編

この宇宙は、誰の宇宙だと思いますか?
これまでの歴史は、誰のためにあると思いますか?

こんな簡単な質問に答えられないとしたら、明らかな修行不足。

まだ時間があるならば、ゆっくり考えられたし。
時間がないと思うなら、さっさと答えを見つけるべし。

この世は、ヒントに溢れている。
答えにたどり着けるかは自分次第。

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