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偶像崇拝とフィギュア

2008年09月07日 | 宗教

宗教において、偶像崇拝が許されないということがあります。これは宗教の本質が、私たちが通常視認している物質世界に対して、精神世界などの別次元の世界から向き合おうとしていることにあると思います。つまり、目に見える物質世界に生きていながら、目に見えないものの重要性を説いているのが宗教であり、そうであるが故に、その核心を目に見えるかたちにすると、物事の本質が失われるということです。目に見えないものの重要性を説くのに、それを目に見えるかたちにしてしまっては、それは矛盾でしかありません。ここに、宗教と偶像崇拝との間にある問題が浮かび上がるのです。こうした問題について、最も厳格なかたちで向き合っている代表的な宗教として、ユダヤ教やイスラム教などが挙げられます。偶像崇拝を許さないということは、なかなか難しいことではありますが、これを守り通すという理念を掲げ、それを実践していくということは、宗教として非常に大きな役割を果たしていると言えるでしょう。

ただ一方で、宗教の本質には、苦しんでいる人々を救うという側面もあります。人間の心は、それほど強くできておらず、厳しい現実世界を生きているなかで、時には信じたくても信じられない心の弱さを補うことが必要になります。こうしたことから、目に見えないものを信じるための手助けとして、目に見える偶像が生み出され、それを崇拝することで心の安らぎを得るということが広まっていくのです。このことは、本来の宗教が伝えるべき本質からは外れてしまう可能性を孕みつつも、そもそも物質世界で生きていかざるを得ない人間の心を守るためには、必要なことだったのだろうと言えます。

こうしたことは、日本に広く普及している仏教においても例外ではありません。もともと、初期の仏教においては、仏像など存在していませんでした。仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタ(釈迦)の時代から数百年の間、偶像崇拝などはまったく行われず、仏塔や仏足石などが生まれるような経緯があって、最終的に仏像なるものが誕生するようになったのです。このことは善悪の問題ではなく、仏像が弱い人間の心を救済するために生み出されたものであり、それがきちんと機能したと解釈するべきでしょう。仏の教えたる仏教そのものの本質を伝えることも大切ですが、それはけっして目に見えるものではなく、厳しい現実世界のなかで、何かにすがりたいと救済を願う人々にとっては、とても残酷なことにもなり得ます。時には仏像というかたちで、目に見えるものとして、人々の心を救済するということが、必要であったと考えるべきだと思うのです(なかには仏像をもって、仏教に偶像崇拝があると考えるべきではないとする立場もあるようでが、信ずべき目に見えないものを可視化させ、それを崇拝するということが偶像崇拝の本質であり、その本質的な意味と照らし合わせたとき、仏像はあきらかに仏教における偶像崇拝だと思います)。

繰り返しになりますが、偶像崇拝について、善悪を断じることはできないと考えます。偶像崇拝を禁ずることには意味があるし、偶像崇拝を行うことにも立派な機能や役割が存在します。ただし、一点だけ忘れてはいけないことは、宗教が伝えるべき本質は、本来、その偶像には宿らない、あるいは宿り続けないということです。偶像崇拝は、人間の心の弱さ故に存在しているだけであり、もともと人間は偶像崇拝をせずとも、その目に見えないものの重要性を理解しなければならないということです。自分の心の弱さを問いただすこともなく、ただひたすら便利な偶像崇拝に寄りかかり、目に見えないものの重要性を見ようとしなければ、いずれ破綻をきたします。

偶像崇拝を通じて心の安らぎを得ることは、大変結構なことではあります。しかし、それはあくまでも人間が強い心を手に入れるまでの一時的な手段に過ぎず、それをきちんと理解して、使っていく必要があるということです(「道具の目的化の危険性」)。心の弱い人間は、偶像崇拝をしながらも、常に自分の心を鍛錬していく努力を怠ってはならないのです。

こうしたことは、日本の新しい文化でもあるフィギュアについても言えると思います。秋葉原のフィギュアショップに行けば、日本が生み出したあらゆるコンテンツのキャラクターフィギュアが所狭しと並んでいます。

自分にはない強さをもった憧れのヒーローのフィギュア、戦場での勇姿が輝くロボットのフィギュア、実在し得ない可愛さや優しさをもつヒロインのフィギュア・・・。

こうしたたくさんのフィギュアたちが買われていき、数多くの人々の心に勇気や希望を与えるということは、実に結構なことだと思うのです。逆に、こうした文化に対して、無思考のまま批判したり、忌み嫌ったりするというのは、あまり褒められたものではありません。

フィギュアは、宗教でいうところの偶像です。この現実世界は、生きていくには厳しく、また自分が望むようなことばかりではありません。そうした現実世界のなかで、勇気や希望を求め、実際にはあり得ないものやあり得ないことを望んでしまうことは、極めて自然なことでもあります。そうした望んだものを実体化させたものがフィギュアなのです。そういう意味で、フィギュアは人間の心の弱さが生み出したものであると言うことができると思います。

このように、人間の心の弱さ故に生まれたものという意味においては、仏像などの偶像もキャラクターのフィギュアも同じです。人間の心に、フィギュアの文化を生み出すような弱さがあることは、数千年の宗教の歴史が既に証明しているのです。そのことは、ただ受け入れるしかないのだろうと思います。

そうした人間の心の弱さを受け入れた上で、これからの時代において考えなければならないポイントは、偶像やフィギュアには物事の本質が宿らない、あるいは宿り続けないということをきちんと理解することでしょう。そして、自らが成すべきことを考えるのです。

 -清らかな偶像崇拝をする人は、自分の心を清らかに磨くこと。
 -強いヒーローフィギュアを飾っている人は、自分の心を強く持つこと。
 -純真なヒロインフィギュアを眺めている人は、自分の心を純真に保つこと。

それぞれ、成すべきことがあるのです。

偶像崇拝やフィギュアは、厳しい現実世界の中でさらけ出された人間の心の弱さから生み出されたものです。しかし、自分が弱いからと言って、ただひたすらそれに頼るのではなく、それらをうまく活用していきながら、常に自分自身を磨き、鍛えることが肝要です。そうすることで、自分自身はもちろん、厳しかったはずの現実世界も大きく変わっていくことになるでしょう。そして最終的には、偶像崇拝もフィギュアも必要なくなり、それらは「所詮ツールに過ぎなかった」と言い切れる存在になるはずです。この結論から考えて、逆の言い方をすれば、所詮ツールに過ぎないのだから、偶像崇拝にしても、フィギュアにしても、単純に楽しむくらいの余裕があっていいのだろうと思うのでした(「「自分教」の神社」参照)。

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2 コメント

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ちょっと休憩 (FRIEND)
2008-09-09 16:33:27
相変わらず難しいお話をされてますね。
噂の神棚を見ることができ、光栄です。

関係ない話で申し訳ないのですが、私の「おばちゃん」発言はマイナスの話ではないんですよぉ。
年齢を重ねることは、悪いことではないと思っているので、別におばちゃんだっておばあちゃんだって、いいんです。
年老いて…とかそんなマイナスではなく、うまく言えないけど、うーんと…時は過ぎていくわけですから、その結果の年齢ってイメージでしょうか?で、その年齢がおばちゃんってだけなんです。
自分で、おばちゃんなんだな~って思えることが、おもろいやんって感じてます。
しばらくおばちゃんを楽しんだら、おばあちゃん目指してがんばるよ。何歳になったら、私もおばあちゃんなんやなあって思うか、楽しみです。
その時は、イッセイじいちゃんって呼ばせていただきます。
休憩返し (sukune888)
2008-09-10 12:58:55
>FRIENDさん
おっとびっくり&コメントありがとうございます。

分からない方のために付け加えておくと、FRIENDさんは私と同学年で、今、いろいろなかたちで、私の仕事を強力にサポートしていただいている方です。仕事の話はもちろんですが、プリキュアやら、ベルダンディーやらのお話にまで、幅広くお付き合いいただき、感謝感謝であります。そのFRIENDさんが、仕事場で一緒にいる学生さんなどを前に、「自分はおばちゃん」的な発言をされるので、その度に私が突っ込みを入れており、このようなコメントをいただいた次第です。

そうですねぇ、よく分かります。書かれているような「おばちゃん」を楽しむみたいな前向きな姿勢は大切だし、実際、FRIENDさんのその感覚は、普段から私に伝わってきています。

でも、FRIENDさんにしても、自分にしても、本当にまだまだ十分に若いと思うし、心底そんな気持ちで居続ければ、時間の経過にともなう加齢すら、実際はね返せるのでは?と思ってしまうわけです。

そんなわけで、今後ともFRIENDさんの「おばちゃん」発言に対しては、同学年たる自分を守る意味でも、引き続き「おばちゃん言うなぁ~」の突っ込みを入れさせていただきますし、私は絶対に「じいちゃん」になんかならないぞっ!おぉーっ!

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