常識について思うこと

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五次元世界へのヒント

2010年06月25日 | 異次元

三次元よりも高い次元の世界はあるのだろうと思います。既に、このブログのなかでは、四次元世界の考え方について、ひとつのあり様を述べてきています(「確からしい四次元の存在」等参照)。それは、科学の世界における「多世界解釈」に表れていたり(「多世界解釈の不思議」参照)、ブラックホールの謎にも繋がるものがあるでしょう(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」参照)。このあたりについては、いずれ明らかになってくるだろうと思います。

ところで、仮に四次元の世界があるとすると、そこには無数の三次元世界が存在することになります。分かりにくければ、我々が視認している三次元世界のなかに、無数の「平面」という二次元世界が存在することを思い直すとよいかもしれません。四次元世界には、歪んだもの、重なり合っているもの、綺麗な状態のもの、小さいもの、大きいもの・・・実に様々な状態のものがあることでしょう。この三次元世界は、宇宙と言い換えてもよいかもしれません。

そして、そうした無数の宇宙には、非常に似通ったものもあり、「自分」という存在も、それらに散らばっているかもしれないということです。それは例えば、今、あなたの目の前に、「緑茶」のペットボトルがあるとして、他のことは全く同じながら、目の前にあるペットボトルだけが「烏龍茶」になっている宇宙も存在するかもしれないという具合です。

ただし、私なりにこうした四次元世界の考え方や仕組みについて、多分、そうなのだろうと思いつつ、その散らばっている無数の宇宙に、別の「自分」は存在しないと思っています。それはつまり、この四次元世界のなかで、私という存在があるのは、唯一、この宇宙、この三次元世界だけであるという感覚です。

以下は、「揺らめく現実世界」からの引用です。

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例えば「決死の覚悟」というのも、なかなか面白いものです。このブログでも、繰り返して述べている通り、本当に大切なものを拾いたければ、それを捨てる勇気を持つことも大切です(「欲するものへの心持ち」参照)。つまり命を拾いたければ、「決死の覚悟」が必要なわけですが、それは言い換えると、自分が死ぬという「死の妄想」でもあります。「死の妄想」は、自分が死ぬというひとつの可能性を強力にイメージすることであり、これは自分が死ぬ「別宇宙の形成」にも繋がると考えることができます。しかし、実際にその別宇宙が形成されたとしても、その別宇宙においては、自分が死んでしまうため、結果として、そうした別宇宙に存在する自分はいなくなり、それとは引き換えに、「死の妄想」をしたこの宇宙における自分が強く生きることに繋がると言えるわけです。このときの「別宇宙に存在する自分がいなくなる」ということは、別の言い方をすれば、雑念や迷いを滅することだと言えるでしょう。

逆に、別宇宙にいる自分の存在を許しているということは、迷ったり、後悔したりする状態にあるということであり、他の可能性を引きずっていることだろうと考えられます。このうち、過去における他の可能性を引きずるということが、後悔するということでしょう。だからこそ、強く生きたければ、過去を受け止め、後悔の念を消し去ることが肝要なのです。なぜならば、そうすることで別宇宙に存在する自分を打ち消し、この宇宙における自分の存在を高めることができると思われるからです(「時間との付き合い方」参照)。
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一瞬を無駄にしない覚悟と生き方を貫いていくと、この世界には一切の「IF」がないことに気付くことでしょう(「「IF」のない世界と運命」)。そして、その感覚が即ち、他の宇宙には、他の「自分」が一切存在しないことに気付くことでもあるわけです。

ただし、これだけでは問題が出てきます。なぜなら、そうなると他人が考える「自分」の存在を説明できないからです。

つまり、ある他の誰か(ここではAさんとします)が「自分」のことについて、「あの人がこうしてくれたら・・・」、「あの人がこう言ってくれたら・・・」、「あの人がこうしてしまったら・・・」等々、迷っていたり、思いを巡らせたりしているような場合、その無数に散らばった宇宙のなかには、いろいろなケースのAさんが存在することになります。そして、そのいろいろなケースのAさん毎に、「自分」の意思とは無関係な「自分」が存在してしまうことになるわけです。いくら「他の宇宙に自分はいない」と言ったところで、そこまでを否定することはできません。

つまり、ある四次元世界のなかで、他の宇宙にある「自分」の存在を否定しきったとしても、そのさらにその外側には、やはり別の宇宙があって、他の「自分」が存在してしまうかもしれないということです。こうしたことが起こるのは、「自分」が捉えている四次元世界の外側に、さらに別の四次元世界があるからと考えてもよいでしょう。それはつまり、無数の四次元世界が散らばる、五次元の世界があるということかもしれません。

こう考えると、結局のところ、冒頭で触れた四次元世界というのは、各個人が持っている精神世界ということになるような気がします。ここでは、「各個人」というところがポイントです。人間一人一人は、必ず精神を持っており、様々な想像、妄想、思いを巡らせることができ、それが四次元世界の形成に大きく関わっているということです。

しかし、こうした各個人の精神世界は、まったく切り離されているわけではありません。例えば、集合的無意識というような言葉で語られるように、それらはきっと、交わり合ったり、干渉し合ったりすることもあるでしょう。そうした全体の精神世界をつかさどる世界が、五次元世界にあたるような気がするのです。

蛇足ですが、昔、私の上司だった方が、「俺は俺の宇宙を持つ。お前はお前の宇宙を持て」とおっしゃっていました。その当時、私なりには、冒頭にあるような四次元世界をイメージしつつ、自分自身の「三次元世界としての宇宙」を構築していこうと考えていました。

しかし、ここで書いたように、四次元世界自体が、各個人の精神によって形成されるものだとしたら、「お前はお前の宇宙を持て」という言葉は、もっと広く、自分だけの「四次元世界としての宇宙」を持てという言葉として解するべきなのでしょう。「自分の宇宙」という言葉の意味を広く広く捉え、五次元世界までをも視野に入れた上で、高次元の視点から、例えば、「天上天下唯我独尊」という言葉を噛み締めてみると、また違ったことが見えてくるように思います。

宇宙の謎、高次元世界の姿については、まだまだ分からないことだらけです。ここに記しているのは、あくまでも仮説でしかありません。ただそれでも、これからの謎解きをしていく上で、このあたりに重要なヒントが隠されているような気がします。

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大人版キッザニアを楽しむ

2009年12月15日 | 異次元

先週末、子供たちをキッザニアに連れて行きました。キッザニアの説明については、以下、同施設のホームページからの抜粋です。

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キッザニア東京は、こども達が好きなお仕事にチャレンジし、楽しみながら社会のしくみを学ぶことができる、日本初のエデュテインメントタウンです。大人のように、いろいろなお仕事をすることでキッゾ(専用通貨)をもらい、買い物や習い事に使えます。
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簡単に言えば、子供たちが「自主運営している社会」です。もちろん、施設全体の仕組みやルールは、大人が作っているわけですし、子供たちは、あくまでもその中のルールに沿って動くだけなので、正確に言うと「自主運営している社会」ではなく、「自主運営しているかのように錯覚できる社会」と言う方が正しいかもしれません。ただ、いずれにせよ、そこに遊びに行っている子供たちは、自分で働いてお金を稼いだり、そのお金で何かを買ったり、ある程度、お金が多くなれば、自分の銀行口座を作って貯金したりと、大人たちが日常的に行っていることを、自分たちのこととして体験できるわけですから、それなりに楽しみながら、社会の仕組みを学べるということになるのだろうと思います。

ところで先日、そのキッザニアで遊んでいる子供たちを見ながら、ふと「創造主ってこんな気分かな?」等と思ってしまいました。つまり、「キッザニア=世界」、「遊びに来ている子供=人類」、「キッザニアを作った大人=創造主」というような置き換えをして、キッザニアを眺めてみたのです。私は、キッザニアを作った当事者ではありません。しかし、キッザニア内では、あくまでも子供たちが主体となっている、その小さな社会において、じっと見守るだけの存在です。その中で、どちらかというと、キッザニアを作った大人側の一人として、その小さな社会で遊んでいる子供たちに、この世を生きる人類の姿を見たような気がするのです。

「私たち人類は、我がもの顔で、この世界に生きているけれども、実際には、創造主なる存在がこの世界を創っていて、その存在が定めた仕組みやルールに沿って、私たちは生かされているだけなのかもしれない」といった感覚です。そして、「この世界を生み出した創造主という存在がいるのなら、まさにこんな気分で人類を見ているのだろう」、「この世界の仕組みを創って、あたかも「自主運営しているかのように錯覚できる社会」の中で暮らしている人類を、こうして眺めているのだろう」という気がしたのです。

それ以降、現実社会に戻って、自分たち大人の世界をよく見てみると、それが実に精巧にできたキッザニアにも見えてくるわけです。こうなると、自分がキッザニアにいた時、子供たちをどんな風に見ていたかを思い出すようになります。

やはり、楽しんでくれている子供たちを見るのは気持ちが良いものです。そして、そうやって楽しんでくれている子供たちは、いつまでもキッザニアにいたいと思ってくれるでしょうし、営業時間が終わっても、また来たいと思うことでしょう。もちろん、キッザニアを作り出した大人の側である私としても、そういう子供たちが、またたくさん遊びに来てくれたら、とても賑やかで嬉しいだろうと思います。

逆に、あまりこういうのは見かけませんが、もし仮に、キッザニアに来ている子供たちの中で、ルールを守らなかったり、ズルをしたり、みんなの和を乱すような子供がいたとしたら、子供も大人も嫌な思いをすることになります。その結果として、つまらなそうにする子供たちが出てきてしまったら、彼らはあまり長い時間、そこで遊びたいと思わないでしょうし、きっと二度と来なくなってしまうのでしょう。キッザニアは、私が作った施設ではありませんが、もしそんなことがあったら、とても残念で悲しいことだと考えるはずです。そして、そういう問題のある子供たちは、きちんと正していかなければならないし、場合によっては、退出してもらわなければならないと考えることでしょう。

このように、キッザニアや子供たちに対して抱く、一人の大人としての私の感情は、この世界と人類に対する創造主の思いに通ずるものがあるのではないかと思えてくるわけです。そんなことを思うと、この世に生を賜った一人の人間としては、この世界をいかに楽しむかが、非常に大切なのではないかという考えに至ります。そして、この世界を悪く言ってみたり、悲観してみたり、愚痴ってみたりするのは、この世界を創ってくれた創造主さんに対しても、大変申し訳ないとも思うのです。この世界でつまらなそうにしていたら、もしかすると、創造主さんに肩を叩かれて、「出て行ってくれ(死んでくれ?)」と言われてしまうかもしれません。

単純な話です。要は、人生を楽しみ、この世界を楽しめということです。楽しんでいれば、創造主さんも喜んでくれるでしょうし、それだけ長く、この世界での時間を過ごせるようになるのではないかと思います。

そういう意味で、大人版・超精巧キッザニアをお楽しみあれ!なのです。

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溢れ出る言葉と世界

2009年07月06日 | 異次元

-言葉にしないことに意味がある-

これは大変重要なことですが、その逆も然りです。

-言葉にすることにも意味がある-

この世界は、矛盾に満ちており、それはコインの表裏のような関係にあると考えなければならないでしょう。表があるからといって、それだけを見ていては本質を見失い、また裏を知っているからといて、表を忘れてしまっては、それもコインから目を背ける行為に繋がる可能性があります。私自身に限界があることは明らかです(「大きな矛盾を抱えるべし」参照)が、それでも、世界がそうした矛盾に満ちていることを知りながら、このように「言葉にする」という行為をしばらく続けていこうと思います。

ところで、こうした「言葉にする」という行為は、別の表現をすれば、三次元世界への変換であると言えると思います。つまり、何かを書いたり、言ったりするからには、それを思ったり、考えたりするわけで、それは実際に書いたり、言ったりする行為の前の時点では、本人の頭の中にあり、「無に等しい存在」になっていると言えるでしょう。その「無に等しい存在」を「言葉にする」と、それが目に見えるかたちになる、あるいは空気の振動によって耳で聞こえるかたちになるという意味で、私たちが視認できる三次元世界のものに置き換えている、つまり三次元世界への変換であると言うことができるのです。それはあるいは、「無に等しい存在」を「有の存在」にする行為と言うことができるかもしれません。

ただし、ここで目を向けるべきは、「無に等しい存在」は、けっして「無」ではなく、別次元には存在していたであろうという点です。思ったり、考えたりしていたことは、あくまでも心の中のものであり、それは三次元世界の枠組みによっては、極めて特定が難しい場所にあると言えます。しかし、それは場所の特定が難しいというだけで、その存在がないと断定することはできません。そうである以上は、その「無に等しいもの」は、三次元よりもさらに上の次元において、存在していると仮定するべきであると考えます。

これをあらためて整理して、ひとつの仮説とするならば、以下の通りとなります。

-「無に等しい存在」は、高次元における「有の存在」である-

このように考えると、「言葉にする」ということは、高次元に存在するものを、私たちが視認できる三次元世界上に表現するということになります。「言葉は溢れ出るもの」(「溢れ出る言葉たち」参照)という表現に従えば、高次元に存在していたものが、溢れ出して、より低次元である「この三次元世界」に流れ込んできたということになるかもしれません。さらにこのことについて、主語を自分に置き換えて表現しなおすと、自分が高次元に抱えていたものを、溢れ出した低次元世界で表現する行為が、まさに「言葉にする」ということになるでしょう。

少々、別の話に聞こえるかもしれませんが、私としては、こうした感覚は、創造主という存在があるとしたら、きっとその創造主という高次元の存在が、この次元の世界を創造したときと似ているような気がしてなりません。つまり、高次元に存在する創造主は、その次元だけに留まらず、低い次元に溢れ出るような「何か」を、「この三次元世界の創造」というかたちで表現したということです。これが、いわゆる創世ということになります。

最先端の科学では、宇宙の始まりについて、「無」の状態からポロッと生まれたという考え方があるようです。それは、いわゆる何もない「無」ではなく、この宇宙空間以外のところに、別のポテンシャルエネルギーが存在しており、そこからポロッと出てきたようなイメージです。ポテンシャルエネルギーが存在している世界は、私たちが視認できる三次元世界の枠組みを超えており、科学的にも明確な答えが用意できるわけではないため、その詳細については何とも言えません。ただ、ひとつの表現として、宇宙の始まりを担ったポテンシャルエネルギーが存在していた空間があるとするならば、それを「高次元世界の空間」と考えることは可能であろうと思われます。

私としては、冒頭に書いたように、「言葉にする」ことの限界を認識してはいますが、「創造主ですら、そんな感じでこの世界を作ったのかもしれない」という言い訳をしつつ、開き直って、今日もこうして「言葉にする」行為を続けるのでした。

《おまけ》
「創造主」等という言葉を使った瞬間、何か特定の宗教を連想する方々がいらっしゃいますが、それは旧来型の宗教の枠組みに囚われた考え方という言い方ができるような気がします。実際、「創造主」という言葉以外で、何か別の言い方があると便利なのですが、パラダイムシフト前夜というのは、こうした概念を誤解なく表現するということが、非常に難しいということなのでしょう。繰り返しですが、私自身は、「創造主」という別の何かが存在するというよりも、本来、人間一人一人が、創造主の化身としての役割を果たすことができると考えています(「創造主の正体」参照)。敢えて宗教風に表現するなら「自分教」、自分自身が神様、一人一人が神様ということでしょう(「「自分教」の薦め」参照)。

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四次元戦争の時代

2008年10月29日 | 異次元

四次元戦争などと言うと、いろいろな想像が働くかもしれません。人によっては、SF映画のひとコマを想起されることでしょう。私個人としては、もし他の誰かがこんな言葉を使ったら、ドラえもんの映画を思い浮かべるような気がします。

それはさておき、そもそも、ここで言うところの四次元とは、一体何かということについて、簡単に述べておきたいと思います。

当然のことながら、通常、私たちが視認しているのは三次元空間であり、それを超えるとされる空間や事象については、なかなか信じ難いものがあります。しかし、最先端の科学において、四次元以上の世界が存在することは、当たり前のように語られるようになりましたし、真剣に四次元世界の問題について、きちんと向き合う時代に入りつつあるのではないかとも思います。

ある方と科学に関する議論をしているとき、「今の科学は、三次元の現象を見事に説明している」という言に触れたことがあります。そうだとするならば、それはそれで良いことです。そして、少なくとも私は、四次元世界の存在を受け入れることが、そうした三次元の法則を否定することには繋がらないと考えています。

少し次元を下げた例で説明すると、二次元の平面空間についての法則があるとして、それは三次元世界から見たときにも、立派に通用する法則であることは間違いありません。その二次元空間が、普遍的な二元空間として、他世界とも一切関わらぬまま存在する限りにおいて、その二次元世界を説明する法則は、そこでの現象を見事に説明し続けるでしょう。

ただし、二次元の平面空間を「折りたたむ」、あるいは「他の平面(二次元空間)と重ねる」といった、三次元的な処理をしてしまうことで、状況は変わります。平面と平面が重なり合うことで、それまでの平面の概念が変わり、従来の二次元法則だけでは説明しきれない現象が生じます。例えば、同一平面上にある2つの点の距離が変わったり、同じ平面に存在しないはずの点同士が交わったりするということが起こるということです。こうした現象を説明するには、平面を折りたたんだり、他の平面同士を重ねるという三次元的な概念を含んだ法則が必要になるのであり、それはそれまで二次元世界を説明していた法則を補足するかたちで、生み出されることになります。

そうした意味で、三次元の世界を説明する法則は、それはそれとして意味があります。ただし、四次元以上の世界が存在するという場合、その三次元世界は、唯一の世界にはなりえません。三次元世界の外側には、別の三次元世界があると考えることができるからです。四次元以上の世界を想定するときには、そうした他の三次元世界との関係性を説明するためにも、四次元の法則が必要になってくるのです。そしてそれは、三次元の法則を否定するものではなく、それでは説明しきれない事象について、補足説明するかたちで生み出される類のものになるのでしょう。

その肝心な四次元の法則について、私は「心」が大きく関与しているように思います。もう少し、踏み込んでいえば、人間は葛藤を重ねながらも、最終的に正しいと感じることを行うということであり、そうした心の作用が、この三次元世界の形成には大きく関与しているということです(「確からしい四次元の存在」参照)。

「自分の心に正直になる」とか、「自分の心と向き合う」という表現があったりしますが、これはこれからの時代において、一人一人の人間に対して、より一層強く求められてくることになるでしょう。そして、タイトルにある「戦争」という観点からすると、戦争の意味合いが、まったく変わってくると考えられるのです。

戦争とは、簡単に表現してしまえば、人間同士の殺し合いです。当然、これが手放しで肯定されてよいはずがなく、これまでの歴史のなかで、何故こうした悲惨な行為が繰り返されてきてしまったのかについては、いろいろな見方があろうかと思います。それでも敢えて、私なりの考えを示すならば、戦争において痛烈に残るのは、身内(拡大すれば自国)の犠牲者に対する思いです。実際には、相手側にも、同じような悲しみが生まれてしまっていることを知りながらも、目の前にある身内への悲しみが勝ってしまい、それが憎悪となって、対峙し合う人々を突き動かし、さらに悲劇を拡大させるという側面があるのではないかと思うのです。

しかし、その自分の憎悪の感情を爆発させた結果として、相手側にも同じような悲しみに暮れる人々が生まれることを、実感できてしまったとき、そこに大きな心の葛藤が生まれてくるでしょう。

文民統制という概念があります。これについては、さまざまな考えや学術的な意見もあるでしょうが、少なくとも、情報がオープンになっていれば、相当な抑止力として効果を発揮すると考えられます。過去のケースでいえば、例えばベトナム戦争における反戦運動などは、戦場で何が起きているかについて、視覚情報を含めて数多く伝えられた結果として、巻き起こった現象であり、それが文民統制を通じて、戦争抑止の力として働いたと見ることができるでしょう。

メディアが発達して以降、戦争当事者である国の政府や関係者など、一部の特定の人々が、文民統制を逆手にとって、自国民の戦意を高揚させたり、敵国民の惨状を伝えなかったりといった情報操作をすることで、自分たちの目的を達成するという試みもなされてきたと思われます。しかしそれは、そうした特定の人々によって、情報が統制されている限りにおいて有効なのであり、メディアがインターネットのようなオープンシステムに移行し、情報の流通を制御できなくなると、状況は大きく変わると考えられます。

戦争の当事者である国の国民は、戦争をするとされる相手が、普段、どのような生活をしているのかについて、視覚的な情報を含めて、簡単に知ることができるようになるのです。そしてその相手が、自分たちと何も変わらず、家族がいたり、友人がいたり、学校があったりするなかで、さまざまな喜怒哀楽を経ながら生きているだけで、そこに彼らなりの幸せがあることを実感したとき、それを知った国民は、大きな心の葛藤に陥ることになるでしょう。そうした心の葛藤とは、言い換えれば自問自答の作業です。それは他者を敵とする戦争ではなく、自分を相手にした戦争でもあります。そのように自分自身を相手取った心の戦争こそが、タイトルにある「四次元戦争」ということです。

この「四次元戦争」の結果、人々が「戦争をするべきではない」という結論に至れたとき、彼らは強く、また広く反戦を唱えることができるようになるでしょう。情報統制をして、一定の方向に持っていこうとする政府や特定の人々が、これを無視して戦争をすることは、極めて難しいはずです。インターネットのようなオープンシステムが世界的に整えられたとき、戦争のかたちは大きく変わり、それは極めて強い戦争抑止力として働く可能性があるのです。

もともとインターネットは、三次元世界(通常、私たちが視認している世界)での戦争において、敵を殲滅し、勝つための道具として生み出されました。しかし、それが次の時代において、四次元世界における戦争に大きく役立ち、結果として、三次元世界に平和をもたらすツールになるとしたら、それはとても面白いし、また非常に良いことだと思うのでした。

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「四次元の目」で見えるもの

2008年02月01日 | 異次元

第三の目、心眼、千里眼、神眼、全てを見通す目、プロビデンスの目・・・。いろんな言い方をしますが、これらは、顔に付いている物理的な「二つの目」以外にあるとされる不思議な目のことを指しています。その目で何を見ることができるのかという点については、いろいろな方々が、それぞれの主張をされているようですので、何とも言えません。ただ私なりには、その目は物理的な目とは違い、物質世界(三次元世界)に囚われない目であり、「四次元の目」とでも言うべきものではないかと解釈しています。そして「四次元の目」には、事象の本質を捉え、未来を見通すビジョンを映し出す力があるのではないかと考えます。

本題に入る前に、この不思議な目については、米国紙幣の裏側にある「ピラミッドの上の目」に関する話も聞きますので、その点について、若干触れておきたいと思います。米国紙幣の裏面には、ピラミッドが描かれており、その最上部に「人間の目」があります(右図参照)。これは、ある特定の組織のシンボルであるといった指摘があります。また最近では、ニコラス・ケイジ主演の映画「ナショナルトレジャー~リンカーン暗殺者の日記~」に、このシンボルが使われていたりもします。こうした情報をかき集めていくと、このピラミッドの目については、いろいろと分かることが出てくるでしょう。一部では、米国や米国政府そのものを動かしている巨大な権力が、人類の「万物を見通す目」という素晴らしい能力を独占しようとしているといった具合に、危機感を煽るような方々もいらっしゃいます。事の真偽は分かりませんが、私はたとえ米国やその関係者の方々が、人間の特殊な能力「四次元の目」に注目して、それを開発しようとしていたとしても、現在のような手法(科学や宗教)では、けっして開かれることはないだろうと思います。それは、以下のような理由によります。

この三次元世界は三次元の法則だけで動いておらず、四次元世界の影響を大きく受けているだろうと考える(「確からしい四次元の存在」参照)と、三次元世界でのあらゆる事象は、四次元世界の法則が可視化したものに過ぎないと考えることが可能です。そして、こうした考え方は、ずいぶん昔から存在していたように思います。

江戸時代の隆盛した国学では、本居宣長が「顕幽論」というのを唱えています。これは世界の事柄を「顕事」(=現世における人が行う所業)と「幽事」(=目に見えない神の為せる事)に整理したもので、私はこれらの世界をそれぞれ「三次元世界」、「四次元世界」に置き換えることができると思います。本居宣長の門人である平田篤胤は、師の「顕幽論」に対して「幽冥論」を展開し、「顕界(三次元世界)」は有限の仮の世界であり、「幽界(四次元世界)」こそが無限の真の世界であるという整理をしました。どちらが「仮」で、どちらが「真」かという議論はさておき、少なくともこの物質世界(三次元世界)の事象は、高次元世界の法則等が顕在化したものに過ぎないという考え方そのものは、それほど的外れではないように思うのです。

そこで「四次元の目」について考え直します。三次元世界が、四次元世界の法則等が顕在化したものであるとするならば、四次元世界がどうなっているかを見据えることは、三次元世界の将来を予見するということになります。即ち、「四次元の目」は、三次元世界の将来や本質を見通す目であり、未来のビジョンを映し出す目であるということです。

ところで、このように「四次元の目」等というと非常に仰々しく、何か特別なもののようなイメージを与えてしまいますが、これは誰にでもある「目」なのです。簡単な言い方をすれば、どんなことでも「本来こうあるべき」というイメージを描くことが、「四次元の目」で見るということであり、それによって見えているイメージが、あなたの「四次元の目」で見えるビジョンであると言えます。

四次元世界という言葉についても、非常に難しく考えてしまうかもしれませんが、それほど難しいものではないと思います。既に「確からしい四次元の存在」で述べているとおり、四次元世界を目に見えない、「心の世界」と解釈すれば簡単なことです。生きている人間であれば、誰しも心があるわけですから、それを感じることはできるはずです。心を持っていれば、人間にとって何が嬉しいか、何が楽しいかかが分かりますし、また何が辛いか、何が悲しいかも感じることができます。それらに基づいて、人間は何が幸せであるかを知り、何が道理であるかを知ることができるわけです。常日頃から心を磨いて、その心に素直になればなるほど、四次元世界は言葉としてではなく、体で感じることができるようになるでしょうし、そのことで自ずと「四次元の目」が育つことになるのだろうと思います。

また「四次元の目」が育つと、その人は強い人間になっていくことができます。開かれた「四次元の目」を持っている人は、次に三次元世界で何が起きるかが分かります。何が起こるかが分かっていれば、三次元世界の未来像となって、その人の頭の中にイメージとして沸いてきます。それこそが、いわゆる「ビジョン」であり、それはその人が正しいと思う道に進むことに対する自信となり、また勇気を与えてくれます。このように三次元世界の過去や現状に囚われず、未来を見通す力とそれに向かって進んでいく強さは、本来、どんな人間にも備わっているものだと思うのです。

このように「四次元の目」とは「心の目」であり、これを開くためには、自分の心との対話を重ねていかなければなりません。それはあくまでも自分の問題であり、他人に頼ることができないのです。科学や宗教は、三次元や四次元世界の理解を促し、そうした自分の心との対話を進めるための道具にはなり得ても、決定的な解決手段にはなり得ないという点が重要であり、わたしたちは、そのことを十分に理解しながら、科学や宗教と向き合っていく必要があるのです。

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確からしい四次元の存在

2008年01月31日 | 異次元

私たちは、目の前にある物理的な事象について、「確からしい」と思われる法則を生み出し、それによってそれらの事象を説明し、理解しようとしています。「厳密に言うと、飛行機が何故飛ぶかは、よく分かっていない」ということが言われたりもしますが、科学の世界は突き詰めていくと、訳が分からないことだらけになってしまうのです。ただ少なくとも「正しいと思われる理論(つまりは仮説)」に基づいて、目の前で飛行機が飛んでいれば、ひとまずその理論(仮説)は「(極めて)確からしい」ということになり、一般的な常識として定着するわけです。私たちは、こうした「確からしい」ことの積み重ねによって、科学や常識を作り上げてきました。

一方で、最近の科学では、私たちが認知している物質世界である三次元よりも、高い次元が存在するという可能性について指摘されるようになりました。つまりこの世界には、三次元だけでなく「四次元世界が存在する」という仮説を立てることができるわけです。ただし、これは現時点において「確からしい仮説」ではありません。したがって、現在では常識として、とても定着しているものではありませんし、一般的な感覚としても理解を超えた仮説になっていると思います。しかし私は、一般的な感覚として、それほど無謀で、デタラメな仮説でもないように思います。

四次元世界が存在するということについて、もう少し分かりやすいレベルで説明しようという意味で、いわゆる「超常現象」をもって、証明しようとする試みがなされたりします。つまり超能力や心霊現象等、現代科学では説明できない事象から、世界は目に見える物質世界・三次元だけでないだろうという結論を導こうとするものです。これはこれで、ひとつの説明方法だと思いますが、あまり私たちの日常生活に結びついているものではありません。したがって、一般的な感覚としてなかなか理解されず、こうしたアプローチによる広い支持は得られないのだろうと思います。

ところで私は、この物質世界は三次元の法則だけでは、動いていないということは確かだろうと思います。世界に四次元が存在するとするならば、その四次元世界は三次元世界に何らかの作用を及ぼすでしょう。そうした、四次元から三次元への作用を説明することで、四次元世界の存在は、より一般的な感覚として認知できるようになるのだと思うのです。少々、分かり難いでしょうから、簡単な例を挙げたいと思います。

「たった今、一番近くにいる人を何も言わずに殴ってください」

これは物理的に可能なことだと思います。あなたがどこに、どういう状態でいるかは分かりませんが100%可能なはずです。たとえ今、周りに人が見当たらなくても、適当に歩き回って人を見つけて、有無を言わさず、いきなり殴ればいいだけのことです。三次元の物理的な法則だけを考えれば、まったく不可能である理由は存在しません。

しかし、あなたにはそれができないでしょう。それは、あなたに心があるからです。心は目に見えません。三次元の物質世界において、可視化させることができない心は、高次元の存在(ひとまず、ここでは「四次元の存在」としておきます)であると言えます。そして、その心があることによって、三次元の物質世界において、「いきなり人を殴る」という行動を制しているのであれば、四次元からの作用によって、三次元世界が影響を受けていると言えるわけです。それは「その人が可哀相だから」というような、いわゆる良心だけに限りません。「面倒くさい」、「バカバカしい」と思うことも含めて、全てが心の作用であり、「あなたが人を殴らない」という三次元の状態は、目には見えない四次元世界の結果が三次元世界に「表面化したかたち」と考えることができるのです。物質世界のなかの私たちの日常は、こうしたことの連続で成り立っています。単純に物理法則のみで考えれば、可能であることでも、四次元の存在である心の作用が働くことで、それらが不可能になるということは、多くの人々の日常生活のなかに、ありふれた経験としてあるはずです。

こうした四次元による三次元への影響は、けっして無視することができません。この物質世界は生命に満ち溢れています。それら生命の一つ一つには、必ず心が存在します。その無数の生命の営みによって、この物質世界が動いている以上、物質世界である三次元世界は四次元世界の影響を大きく受けていると言えるわけです。

三次元世界の事象を三次元の法則によってのみ解明しようとするところに、現代科学の限界があります。また三次元世界との整合性を十分にとらないまま、四次元世界に傾倒してしまうところに、これまでの宗教の限界があります。これからの時代で大切なことは、四次元からの三次元への作用、また逆に三次元から四次元への作用があるということを認め、それらをきちんと融合させていくことなのだと思います。

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宇宙人としての自覚

2007年12月02日 | 異次元

あなたは、なに人ですか?この問いに、あなたはどう答えるでしょうか。
私には、いくつかの答え方があります。

「私は日本人です」
「私は地球人です」
「私は宇宙人です」

ちょっと違和感がある部分もあるかもしれませんが、これらはどれも本当のことです。とくに宇宙人と言うと、「地球外生命体」というイメージを持つ方も多いと思いますが、けっしてそんなことはありません。この宇宙に住んでいるという意味で、私は宇宙人だし、あなたも宇宙人です。

こんな話をすると、とても不思議がられるかもしれません。しかし、ひとつの世界が限界を迎え、人々の世界観や視野が広がってくると、人は自分をより大きな次元で定義するようになるのであり、こういうことは過去にも繰り返されてきました。

例えば、明治維新以前の江戸時代では、日本人は日本という国に属していながらも、各藩への帰属意識が非常に強く、人々は日本人としてよりも、むしろ各藩人として自らを定義していたようです。つまり長州藩であれば「長州人」、薩摩藩であれば「薩摩人」、会津藩であれば「会津人」といった具合です。そして、狭いとはいえ、その閉じられた世界がきちんと機能していれば、これらの藩への帰属意識から藩同士が憎しみ合い、争うということも起こるわけです。逆の言い方をすれば、お互いに争うだけの余裕があったということもできるでしょう。

しかし黒船来航以降、各藩が独自で国を治める体制には限界があると気付いた人々がいて、彼らはより大きな世界観を持つに至りました。そして、「日本」をひとつの国として捉え、これを中心に国家をまとめていかなければならないという意識から、以降、私たちは「自分は日本人」という概念を生み、自らをそのように定義するようになったのです。

さらに日本人としての意識が確立すると、日本という国をどのようにしていかなければならないかを考えるようになります。福澤諭吉が唱えた「脱亜入欧」というのは、賛否両論はありながらも、まさに自らを日本人として強く認識したときに生まれた当時の最先端ビジョンのひとつだったと言えるでしょう。そのビジョンは、世界の中で日本をどうするべきかという、日本人としての視点からの展望であり、その意味で彼には、その時代にして既に国際感覚を持ち合わせ、日本人から、国際人あるいは地球人としての意識が芽生えて始めていたと言うことができると思います。

こうしたことを考えたとき、現在、地球規模で非常に重大な問題が生じて始めている状況にあって、自分たちが地球人としてどう生きるべきかという意識が生じるのは、むしろ当たり前ではないでしょうか。「日本人」であるとか、「アメリカ人」であるとかいう国家を軸にした自己意識は、かつての日本人が、自らを「長州人」、「会津人」と考えていたのと同じです。今や国家に依拠した自己意識を乗り越え、「国際人」、「地球人」としての感覚は、世界中の人々に持たれて当たり前の時代に入っていると言えるでしょう。

そしてこのことは、福澤諭吉が日本人としての意識から、日本のあり方を考え「脱亜入欧」を唱えたように、私たちが地球人として、次の地球のあり方を宇宙レベルでどのように捉えるかについて、真剣に考えるべき時代に入ってきたことを意味していると思うのです。つまり私たち人類は、「地球人」からさらにその上の「宇宙人」としての自覚を持ってよいのであり、実際に宇宙に生きる存在として、「私は宇宙人です」と言ってよいはずなのです。グローバル化とか、ボーダレス化といった言葉が、当たり前のように使われており、その意味で「地球人」という意識があって、何の不思議もない現代にあって、さらに次の時代においては、「宇宙人」としての自覚が生まれるだろうというのは、至極自然な指摘であると思います。

「地球外生命体にも遭遇していないのに、何で宇宙のことを考えるのだ?」
「他の宇宙人も確認せずして、何故宇宙人としての自覚など芽生えるのか?」

こんな質問が聞こえてきそうです。そういう意見にも、一理あると思います。

しかし、今の私たちは、そもそも宇宙とは何かを知りません。現在、科学の最先端は、宇宙の成り立ちや正体を必死になって探しています(「「創造主」の正体」、「アイディアの重要性」参照。現代科学の現況について、専門的なバックグラウンドなしに要点の理解を促すものとして、前田恵一/リサ・ランドール(2007)「次元とは何か?~宇宙は何次元?~」『Newton』2008年1月号などもある)。この大きな謎について答えを出すことが、人類が宇宙人としての自覚をもつことに大きく近づくのではないかと思えてなりません。つまり、宇宙とは何かを知ったとき、また宇宙の成り立ちを知ったとき、自分たちが「その宇宙に生きる存在なのだ」ということは、自ずと強く意識できるようになるだろうし、そのときは自らを自然と「宇宙人」と呼ぶことができるだろうと思うのです。

逆説的には、私たちが宇宙人としての自覚を持つくらいでなければ、地球規模の問題は解決し得ないとも言えるでしょう。つまり、人類に宇宙人としての意識が芽生えることで、「私たちは宇宙人。私たちが宇宙の一部である地球のことを真剣に考えるくらいは当たり前」と思うことができるのであり、地球人全員がそのレベルに自らの意識を高めることで、真に地球規模の問題を解決することができるようになると思えるのです。

「宇宙人としての自覚を持つ」。まだピンとこないかもしれませんが、これからの時代を生きる人類にとって、自ずと生じてくる意識ではないでしょうか。

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「創造主」の正体

2007年11月17日 | 異次元

「創造主=神様」と考えている人が多いでしょう。たしかに、それはそれで正しいことではあります。もし世界を創造してくれた存在がいるとするならば、この世界に生きる者として、その存在に対して感謝することは当然のことだろうと思います。しかし、「創造主=神様」という図式には罠があります。実は「創造主=神様」とだけ信じるのは危険なことであり、一方で「創造主=サタン(大悪魔)」という側面があることを、見逃してはならないと考えます。

こんなことを書くと、ギョッとする人も少なくないかもしれません。ましてや、特定の宗教を信仰しているような方々にしてみたら、神に対するとんでもない冒涜と理解されると思います。宗教や科学には、正しい要素が多分に含まれています。だからこそ、宗教も科学も今日まで存続しえたし、多くの優秀な信奉者を輩出してきたのです。しかし、それらには限界があることも事実です(「宗教が説く真理」、「万能でない科学」参照)。創造主とは何かを考えるとき、科学的な見地からも、考察していく必要があります。なぜなら、宗教と科学の限界は、互いに補い合うことで克服していくことができるからです。

この物質世界は、大変不思議な仕組みでできています。私たちの世界は、3次元空間、時間軸まで含めて4次元世界として認知されているわけですが、科学の最先端の分野では、この世界は10次元や11次元といった非常に多次元によって成り立っているということまで論じられています。実際、この物質世界を構成しているものは、全体の物質の数パーセントでしかなく、残りの90%以上は、正体不明で分からない暗黒物質等(ダークマター)となっているということが、当たり前のように言われている(宇宙研究開発機構(JAXA)のウェブサイト等にも掲載されている)ほど、この物質世界は謎を秘めたままなのです。

そこで、これらの科学的な謎を説くために、ひとつの仮説を置きます。
(仮説の重要性については、「「仮説と検証」のすすめ」、「限りなく想像し、創造せよ」参照)

「世界は3次元や4次元を遥かに超える多次元(たとえば10次元など)によって成り立っている」

こう考えたとき、私たちが認知しているこの物質世界は、どのように捉えられなければいけないのでしょうか。

少し次元を下げて考えると、分かりやすいかもしれません。3次元空間に住む私たちは、複数の2次元空間を定義し、生み出すことができます。単純な話、あなたがある画用紙を取り出して、それを目の前に広げた時点で、あなたはひとつの2次元空間を定義したと言えるでしょう。そして、そのうえに絵を描いていくことで、あなたは2次元世界を創っていくことができるのです。このように、多次元に住む存在が、少次元を創り出すということは、何も不可能な話ではないのです。さらに重要なことは、あなたはそのようにして、画用紙をいくらでも取り出して、何枚でも絵を描けるということです。描かれた絵は、あくまでも2次元世界であり、そのなかしか認知できない存在にとっては、世界は1枚の絵(ひとつの2次元世界)のなかで完結してしまっているのです。しかし、3次元の世界から眺めると、絵(2次元世界)は何枚もあるのです。

これらのポイントを整理すると以下のようになります。

-多次元の存在は、少次元世界を創造できる
-多次元の存在が創造できる少次元は、ひとつとは限らない(複数に及ぶ)
-少次元内の存在は、自分たちの少次元世界を唯一の世界と認知する

これらのポイントを考慮したとき、今回の「世界は3次元や4次元を遥かに超える多次元によって成り立っている」という仮説は、以下のように再整理することができるでしょう。

-多次元の存在が、この物質世界を創造した
-こうした物質世界は、ひとつとは限らない(他にも同じような物質世界が存在する)
-この物質世界に住まう私たちは、この物質世界を唯一の世界と認知する

「何?我々の世界が何者かによって創造されたって言うのか!他にも物質世界があるだと?馬鹿げている!」

こんな言葉も聞こえてきそうですが、そう切り捨てるのであれば、暗黒物質や多次元に関する科学的な議論について、明確な答えを用意する必要があります。「生命まで生み出せるのか?」という疑問もあるでしょう。しかし、そもそも生命とは何なのでしょうか。本仮説にあるような多次元を明確に否定できず、一方で数々の科学的な謎について、確かな答えを持ち合わせていない私たちが「多次元の存在といえども生命を生み出すことは不可能」と断じることはできないはずです。

少々、前置きが長くなりましたが、ここで本来のテーマである創造主とは何者かに話を戻したいと思います。創造主を、この世界を創り出した多次元の存在とするならば、その創り出してくれたという行為を指して「創造主は神様」だということはできます。しかしその神様は、この世界を創り出しただけあって、この世界のあり方に最もこだわりをもった存在でもあります。そしてまた、世界を創り出すことができるのであるから、当然、壊すこともできるでしょう。

この世界が美しければ、創造主はこの世界を愛することができますが、この世界が醜く歪んでいくようなことがあれば、自ら造ったこの世界を憎み、滅ぼそうとすることもできると考えるべきです。このように、この世界を憎み、滅ぼそうとする側面こそが、創造主のサタン(大悪魔)としての顔です。

ただし、ここで重要なのは「創造主は神様か?サタンか?」という結論ではありません。創造主は、どちらにもなり得るのです。創造主の姿を決めるのは、あくまでもこの世界が美しいか、醜いかということです。そして、この世界が美しいか、醜いかは、私たち人間が決められることであるということが、最も重要であり、また私たち人間が、この世界を美しいと思うか、醜いと思うかも併せて同じように大事なことなのだと思います。

戦争、環境破壊、飢餓、疫病・・・。こうした問題に絶望せず、人間ひとりひとりが、希望をもって明るい世界を創ろうとすることこそが、世界を美しくしていく行為であり、「創造主=神様」の図式を成立させていくことにつながっていくでしょう。創造主の姿を決める鍵は、他でもない私たち人類に握られていることを、私たち自身は自覚していかなければなりません。その意味で、私たち人類は、創造主すらも越えた存在とも言えるのです(「「自分教」の薦め」参照)。

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集合的無意識の力

2006年11月14日 | 異次元

人という字の成り立ちは、お互いが支えあって生きていくというところからきています。また人間というのは、人と人の間にいて成り立ち得るからこそ、人の間と書くのです。

人は一人では生きられない。いろんな人がこのようなことを言います。ごもっとも、まさにそのとおりです。そして、このことは、人間に限られたことではありません。他の生物でもまったく同じです。

例えば、アリ。アリは集団生活をする生き物です。アリはけっして一匹では生きていけません。そして、アリの巣を、ひとつの全体としてとらえると、それは女王アリを中心として、食糧を運ぶアリ、子育てをするアリなどの多くの個体で構成されており、それぞれの個体が異なる役割をもっているのです。当たり前のことですが、アリの個体、一匹が生物としての単位です。しかし、アリの巣をひとつ構成している集団全体は、あたかもひとつの生物であるかのように、それぞれの個体が見事に連携をしながら活動をしています。この見事な連携は、みえないところに独自の指示系統があるかのようにも感じられます。

視覚的に分かりやすいのは、イワシの群れです。イワシは、海中に住む多くの生物たちにとってのエサになります。よくテレビの海中生物の特集などで、イルカやオットセイなどが、イワシの群れを追い回しながら、食べていくシーンがあります。一匹、一匹がイワシの生物としての単位ですが、このときのイワシの群れの動きは、あたかもひとつの生物が逃げ回っているかのようです。どこに先頭があるわけでもありません。しかし群れとしての意思があり、それに沿って一匹、一匹が動いているようにみえます。個体の意思と群れとしての意思が、本当に連携しているのかは分かりません。しかし、個体と全体(群れや集団)が、何の関係もないと言い切ることはできないと思います。

100匹目のサルという話をご存知でしょうか。事の真偽は別として、それは以下のような内容です。

九州宮崎県の幸島で、一匹のサルがサツマイモを海水で洗って食べることを始めました。適度に塩味がついておいしかったのか、これをみていた他のサルたちもこの行動をまね始めたのです。しばらくすると、多くのサルが、サツマイモを海水で洗うようになりました。そして不思議なことに、ほぼ時を同じくして、この島の群れと一切接触ができない場所に住む、複数のサルの群れで、まったく同じ行動が観察されるようになったというのです。物理的な接触がないサル同士が、みえないところで通信を行う。まさにテレパシーのようなものです。

テレパシーというと、胡散臭いですが、こうした話を全て否定しきってしまうというのも危険のような気がします。

シンクロニシティという言葉があります。同時代性とも訳されますが、まったく別々のところにいる人間が、同じときに同じことを考えるというものです。私自身、あるブランドプランニングの会社の人たちと打合せをしていたときに、普通にこの言葉が出てきたのにびっくりしたものです。あるネーミングの作業で、ようやく名前が決まろうとしたとき、「シンクロニシティというのがあります。この瞬間、同じ名前を考え付いた人がいるかもしれません。この名前は、いい名前ですので、早く商標登録してください」と言うのです。

別々の個体として活動している生物同士が、テレパシーのようなもので通信をしている。生物の意識は、実はそれぞれがつながっており、全体として群れの意思が存在する。何とも不思議で、突拍子もないような話ですが、科学の領域で、このようなことを唱えている学者もいるのです。

心理学者のユングは、人間の心は意識の下に無意識があり、さらにその下に集合的無意識があると主張しました。集合的無意識とは、個人を越えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられるものであり、これらが人間の行動や判断に影響を及ぼしているというのです。こうした集合的無意識に対して、もう少し積極的な解釈をすると、個体を越えた全体の意思が存在するということになります。つまり、集合的無意識とは、「みんなが心の底で本当に望んでいること」であり、このことは普遍的で、ある特定の方向を向いた意思として存在するということです。

実は、こうした集合的無意識の存在を認めていくことで、宗教をはじめとした精神世界の謎にひとつの有力な仮説を立てることができるのではないかと考えています。その仮説とは、「集合的無意識」=「みんなが心の底で本当に望んでいること」=「神の意思」であるということです。

宗教の分野で、雑念や煩悩を取り払うという作業は、よく行われています。苦行や礼拝などを通じて、無我無心の状態に至る、あるいは瞑想状態に入るといったようなことは、宗教世界では一般的に行われていることで、こうした作業を通じて、自らを磨き、神と対話をすることができるようになるといいます。例えば、礼拝堂で心穏やかに、静かに礼拝を行います。無我無心の状態に至ったところで、直観的なひらめきを感じ、ふと目を開きます。すると、目の前には偶像があるのです。宗教は、この瞬間を利用します。そのひらめきこそが、神との対話であり、その神とは目前にある偶像であると説きます。しかし、ここには宗教のウソが含まれています(「頼るべきは「自分」」、「宗教が説く真理」参照)。

このときに行われる雑念や煩悩を取り払うとい作業は、ユングの精神世界でいうところの個のレベルの意識や無意識を取り払うということであり、そのこと自体は何も神によるものではありません。自分自身が穏やかな心をもち、本当に必要なこととは何かに集中することで、感じ得るものがあります。その人が感じたひらめきそのものは、宗教が言うところの神ではありますが、それは何も特別なものではなく、すべての人がアクセスし得る人類あるいは生物の集合的無意識かもしれないのです。「みんなが心の底で本当に望んでいること」は、自分にとっても、人類や生物全体にとっても必要なことであり、それを知ることで悟りを得たり、信念を掴んだり、幸福感を覚えたりすることができると考えることができるわけです。

ところで、純粋にみんなが本当に望んでいることとは何でしょうか。金でもないでしょう、名誉でもないでしょう。個人の欲のために競争社会を生み出し、身勝手な行動により地球を住めない星にすることではないことは明白だろうと思います。いろいろな葛藤はありながらも、あらゆる人間は、個人のエゴに振り回されず、自分も他人もみんなが幸せに住めるような環境を維持し、生き続けていたいと望んでいるはずです。生きたいという願望は、生物としての普遍的なものでしょう。あなたが個人の雑念や煩悩を振り払い、そうしたみんなの心の底にある本当の願いに忠実であれば、無意識のレベルで、みんながあなたのことを応援してくれるはずです。

みんなの本当の願いとは何か。それを知るために、現存の宗教に頼る必要はありません。あなた自身が、心穏やかに無我無心の状態で、目前の問題から目を背けずに、向かい合っていれば、何をすべきかを悟ることができるはずです。そして、それを実行しようとするとき、地球上のすべての人々が、集合的無意識を通じてあなたに協力をしてくれるようになるかもしれません。

今、あなたがしたいと思っていることは何でしょうか。それは、本当に人類全体が望んでいることでしょうか。もし、そうであるならば、人類全体が無意識のレベルであなたのことを助けてくれるし、それこそが、現存の宗教が言う「神の救い」となると考えることができます。人類全体のためを考えて、行動をしている人たちには、必ずそれを助けてくれる力が働くはずと考えることができるわけです。自分がすべきことの大きさにひるまず、自分の生きるべき道を信じて、勇気を持って行動を起こしてはどうでしょうか。必ず道は開けると思います。

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