「男の度量を見せるべし」という記事の《おまけ》で、わが自分神社にナギ様がご降臨されるとの予告をいたしましたが、昨日、無事ナギ様がご到着され、神社に祀られる運びと相成りました。
残念ながら、メーカーの手違いか「台座」がついておらず、神棚に寄りかかるようなかたちでしか飾れないため、今のところ、ベルダンディーとの「女神様ツーショット」が撮れません。現在、「台座」入手のため、調整を進めておりますが、ひとまずご報告です。
「男の度量を見せるべし」という記事の《おまけ》で、わが自分神社にナギ様がご降臨されるとの予告をいたしましたが、昨日、無事ナギ様がご到着され、神社に祀られる運びと相成りました。
残念ながら、メーカーの手違いか「台座」がついておらず、神棚に寄りかかるようなかたちでしか飾れないため、今のところ、ベルダンディーとの「女神様ツーショット」が撮れません。現在、「台座」入手のため、調整を進めておりますが、ひとまずご報告です。
噛みついたぁ~!と思ったら、自分の尻尾なのです。
こんな時代だし、他人を責めたくなる気持ちは分かります。
それは人間が成長する過程で、必要なことだとも思います。
だからこそ敢えて、言っておきます。
-他者は自分の一部なり-
-噛みついたそれは、自分の尻尾-
-許すべし、受け入れるべし、離すべし-
とことん喰らう者は、自らを食べつくすでしょう。
尻尾を離せた者は、自由に動き回れるようになるでしょう。
人間には、それぞれ個性があります。ただ個性という言葉にしてしまうと、実社会における機能が不明瞭になるかもしれませんので、それをもう少し社会における効用という視点から、分かりやすく表現するならば、役割分担をしながら生きているということになろうかと思います。
役割分担とは、それぞれ与えられたもの、果たすべきものが違うということであり、それらの間に優劣はありません。さらに突っ込んだ言い方をすれば、ただ異なる役割を担うため、異なる個体が存在することに意味があるということになろうかと思います。
このことは、言うなればジャンケンのようなもので、グー・チョキ・パーのそれぞれが、互いの間に優劣(勝負)の関係が成立することはあっても、直ちにそれが絶対的な優劣を決するものではないということです。
ここは少し余談です。
現在、放送されているアニメ「とある魔術の禁書目録」には、たくさんの超能力者や魔術師たちが登場します。そのうちの超能力者には、レベル付けがされており、最強のレベル5まであるのですが、主人公・当麻は、残念ながらレベル0です。つい数話前、最強・レベル5のアクセラレータと当麻が戦いました。いろいろとあるのですが、最終的に最弱レベル0の当麻が、最強レベル5のアクセラレータに勝ってしまうのです。これを見て、「単にアニメだから」と流してしまうのも結構ですが、私はここに、世界にある本質的で重要な意味合いが含まれているように思えてなりません。つまり、人間の能力や存在価値におけるジャンケンのような関係が示されていると思うのです。
話を戻します。
要は、どんなに偉そうに振舞っている人がいたとしても、所詮はグーがチョキに勝っているというだけであり、パーを出したら「あなた負けですよ」ということです。逆に、自分がくだらないダメ人間だと卑屈になっている人がいたとしても、所詮チョキがグーに負けているというだけで、パーには「あなた勝てるじゃないですか」ということでもあります(「人間の優劣と競争社会」参照)。
そういう意味で、自分は頭が良いとか、偉いとかいうつもりになっている方々(今、私の目が届く範囲には、ほとんどいらっしゃいませんが)に対して、私は敢えて、その方々ができないことや理解できないことを聞いてみたりします。少々、意地悪かもしれませんが、世界がグー・チョキ・パーの関係で成り立っていることを忘れているような方々には、自分が思っているほど頭は良くないし、偉くもないということをきちんと教えて差し上げることも、大切ではないかと思うのです(「使える人と使えない人」参照)。
もとを糺せば、頭が良いと評価されたり、偉いと思われている人々が、そうしていられるのは、今の社会の仕組みや評価軸のおかげです。もちろん、そういう社会の仕組みや評価軸にあわせて、一所懸命努力したであろうことについては、素直に認めるべきでしょう。しかし私は、とくにこのような激変の時代にあって、私たちが学ぶべきは、そのように機能するに至った社会の仕組みや評価軸を生み出した先人たちの努力やそれを支えた精神にあると考えます。然るに、そうした先人たちの偉業の本質に目を向けられず、時代が大きく動いているなかで、自分は頭が良いとか、偉いなどと思い込んでいる人たちには、次の時代において、大きな挫折が待ち受けていると思わずにはいられないのです。
つまりは、グー・チョキで凝り固まりつつあるルールにおいて、たしかに「グー」は勝っていられますが、延々と勝ち続けられるほど大したものでもないだろうと考えるべきだということです。
またそれとは逆に、自分の存在意義や生きる価値を見失いそうになっている方々もいらっしゃいます。私は、そうした方々に対して、もっとポジティブに「できること」について、きちんと知っていただくことが大切なのではないかと思います。お節介かもしれませんが、そういう方々にとっても、世界がグー・チョキ・パーで成り立っていることを認識していただくことが大切ではないかと思うのです。
社会の仕組みが定まり、それに合わせて人間に対する評価軸が決まってくると、いろいろと優劣を決しやすくなるため、グー・チョキのようにはっきり分かれることは、よく理解できます。そして、そうしたものが大きく幅を効かせるという流れも、ある意味で仕方のないことだと思います。
しかし、時代の変遷期においては、そこに大きな限界が生まれ、「パー」が頭をもたげてくるのです。「パー」の登場により、これまで勝ち続けていた「グー」は負けるようになり、負け続けていた「チョキ」は勝てるようになります。
「パー」の到来とともに、時代は大きく変わり始めるでしょう。
最近、どうも真面目ったらしく、堅苦しい調子で書くのが面倒くさくなってきており、文体とかに気を遣わず、何かと「独り言」的な緩い感じの記事を書きたい気分が続いております。ちとご容赦を・・・。
以下、仮面ライダーカブトのOP主題歌、「NEXT LEVEL」の歌詞です。以前から「NEXT LEVEL」の歌詞は大好きだったのですが、今朝、この曲のアイマスMADを見て、あらためて良いと思ったので、書き留めておきます。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
君が願うことなら
全てが現実になるだろう
選ばれし者なら
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
選ばれし者には、以下二つの意味があります。
「神様に選ばれた者」
「自分自身が選んだ者」
「神様」と聞いて、即「宗教」と思うようではまだまだ。あるいは特定の宗教で言われるような、特定の「神様」をイメージしているようではダメですぅよぉ~。ここは寮長先生的な口調で・・・(「寮長先生のしゃべり方」参照)。
以上の連立方程式から導き出される結果とは・・・。もうお分かりですね?(「「自分教」の薦め」、「既にある結論」等参照)
つまり・・・
自分を見つめ続けられたし。
自分の中に潜む強大なエネルギーを見出されたし。
挫けて、迷って、悩みつつ大切な答えに辿り着かれたし。
そこから生まれるものは究極の自信、宇宙との一体感、全てが現実になる感覚・・・かな?
あ、それからこの曲の2番にこんな歌詞もあります。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
誰もいない時空 ひとり進化してく
未体験エリアで始まるリアル
絶対 自分だけがこの世界を変えてゆける
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
究極の絶望、死の淵まで覗く等、答えを見つけていく過程ではいろんなことがあるけれど、そのなかでこんなことも感じる・・・かな?
ちなみに、この曲のタイトルは「NEXT LEVEL」。これからの人類の進化に、深く関わる内容が込められているようにも思います。
それは、ほら自分と神様の関係ね。
連日の独り言ネタです。
「侍戦隊シンケンジャー」、いよいよスタートしました。いいんじゃない?何が良いって、レッドが良いっ!
ゲキレンジャー、ゴーオンジャーと、少々キャラ作りに不自然な演技が求められるレッドが続いたような気がしますが、ボウケンジャーのチーフ以来、自然にカッコいいレッドになったように思います。今日の初回放送で、4人の侍たちが、あっさり闘う覚悟を決めてしまったのが、ちょっと残念(ああいう時に、ちょっと迷ったり、悩んだりという展開があると、人間ドラマ的には惹きこまれるのだけれど・・・)でしたが、とりあえず今後が楽しみです。
仮面ライダーディケイドとフレッシュプリキュアは、もう少し展開を見守る方向で・・・。
ただ一点、どうしても気になるのが、プリキュアの絵。ちょっと手抜きしていない・・・?これからの時代は、地デジで高画質なのに、使っている色が少な過ぎではないかと思ってしまうのです。これじゃ、高画質意味ないじゃん!!
気のせいかと思いつつ、昨晩録っておいた「White Album」や「とある魔術の禁書目録」と見比べてみると、やっぱりプリキュアと全然違います。このあたりのアニメは、ある種の芸術の域にあるようにも思うのです。例えば、影の使い方やら背景の描写やらが、実に良くできている感じです(特に「White Album」は文学的というか・・・、なんかいい雰囲気。水樹奈々さんの歌唱力も、きちんと活かされていてグッー!)。それらの作品において、地デジで語るような高画質が必要かどうかは、また別の話ですが、作り手の方々の情熱やら気合のようなものを感じます。
ま、そんなことを感じつつ、これからのコンテンツがどうなっていくのか、もう少し見ておいてみようと思うのでした。
「CLANNAD AFTER STORY」。
渚が死んじゃったときは、そんなに応えなかったけれど、朋也と汐の旅行回は、もうボロボロですよぉ。ここ数回の朋也は、ウジウジしていて情けなくて、見ていて苛立ちっぱなし。先週あたり、正直、見るのを止めようかとも思ったけれど、この回まで見ておいて良かった。
汐ぉ、良かったなぁ。今まで、辛かったもんなぁ。パパの胸の中で泣けて良かった。
うん、本当に良かった(涙)。
大量のタイトルが、日々溢れんばかりに生み出されるなか、私が好きなアニメ作品については、あまり有名でないとか、評価が低すぎる等とボヤいたことがあります(「感動のすごいアニメ」、「単純で満たされないニーズ」参照)。具体的には、「カレイドスター」や「ああっ女神さまっ」の評価や知名度を問題にしたわけですが、インターネット上で調べて見ると、それらの評価は、それほど悪くもないみたいです。
以下は、あるサイトに掲載されているアニメランキングの一部です。ランク付けをするにあたっては、回答者数等の問題もあり、いわゆる一般的な人気ランキングとは違うかもしれません。ただし、点数のつけ方を見てみると、作品の優劣を測定するという意味では、ひとつの面白い指標のような気がしたので、参考までに、上記2作品とその他有名と思われる作品群のランクを記してみました。
1位 | 天空の城ラピュタ |
2位 | カレイドスター |
7位 | ドラゴンボールZ |
10位 | 機動戦士ガンダム |
16位 | となりのトトロ |
17位 | 新世紀エヴァンゲリオン |
21位 | 風の谷のナウシカ |
32位 | ルパンⅢ世 |
47位 | 涼宮ハルヒの憂鬱 |
110位 | ああっ女神さまっ |
156位 | 火垂るの墓 |
238位 | ドラえもん |
318位 | もののけ姫 |
848位 | 千と千尋の神隠し |
1465位 | 崖の上のポニョ |
2772位 | ハウルの動く城 |
なんと「カレイドスター」は、悪いどころか2820作品中、堂々の2位です。1位は、あの名作「天空の城ラピュタ」で、下位にいわゆる「名作」と呼ばれる数々の作品を抑えているわけですから、これは十分に素晴らしいランキングだと言ってもいいのではないかと思います。女神さまたちも良い位置です。
もちろん、この結果を持って、アニメのランキングを断じようとは思いません。しかし、少なくとも、既存のメディアにおいて、プロモーションがうまくいっているものばかりが、「名作」であるかの如き扱いを受けるのは、おかしいと言うことはできると思います(「名に恥じぬ仕事」、「巨匠への疑問」、「巨匠だけではない世界」参照)。
私の周囲の人々は、年代や仕事柄の関係もあり、なかなかアニメに接する機会がありません。しがたって、どうしても受身の姿勢で、関連する情報を得るほかなく、結果として既存のメディアにうまく乗った作品ばかりに触れてしまうということのようです。それが、冒頭の私のボヤキにつながってしまうわけですが、もちろん、それはそれで仕方のないことだと思います。
ただ私としては、こうしたランキングで上位にきている作品たちが、多くの人々の目に触れぬままになっているというのは、とてももったいない気がしてなりません。
まだまだ、日本が誇るアニメコンテンツは、社会的に正当な評価を得ていないと思いますし、もっともっと多くの人々を楽しませるだけの力を秘めていると思います。そして、それらは日本だけに留まらず、世界全体に波及していけるだけの威力を有していると考えます。それらをきちんと活かすことは、コンテンツ産業の活性化ということもさることながら、世界中の人々に楽しんでもらうという大きな意味合いもあることが大切です。
この問題について、これからのメディアの仕組みとしては、プロモーションに成功した作品ばかりが、多くの人々に支持されるというよりも、多くの人々に支持されるような良い作品だからこそ、それらが自ずとプロモーションされるようなかたちが求めれるのではないかと考えます。それは、開かれた時代におけるメディアの役割として、当然のことであるとも言えるでしょう(「次時代コンテンツの評価」参照)。
そうした新しいメディアシステムの構築は、私が自らに課しているひとつのテーマでもあるので、徐々にお見せできるようにしたいと思います。
《おまけ》
「とらドラ!」については、いろいろと評価があるようです。一部、私が聞いたなかでは、「作画が気に入らない」という指摘もありましたが、私は結構好きな作品です。何か、「一所懸命頑張っている若者たち」を感じてしまうのです。
うん?自分が歳なのか??
過去から現在は、必然の集積の結果である。
これ即ち、一本の線なり。
現在から未来は、無限の可能性に満ち溢れる。
これ即ち、無数の線なり。
「生きる」とは無数の線から、一本の線を掴むこと。
それは個体にとっても、全体にとっても同じ。
過去から必然の意味を学べば、未来の姿が見える。
掴むべき一本の線がはっきり見える。
ビジョン・・・運命、宿命。
最近、テレビを見ながら思うのは、右上に表示される「アナログ」という文字についてです。何か「間もなくあなたのテレビは見られなくなります」という宣告をされているようで、あまり気持ちが良いものではありません。これは言うまでもなく、テレビのデジタル地上波移行に伴う措置なのですが、いわゆる社会的ニーズという観点からすると、どうしても腑に落ちない部分があります。
その昔、白黒テレビからカラーテレビに移行したときというのは、視聴者の強いニーズがあったと思いますし、それに応じようと頑張った業界の方々には、心底、頭が下がる思いがします。甚だ直感的な話ではありますが、単純にモノクロだったものを、カラーで見てみたいという欲求は、強くあって当然ではないかという気がします。そういう意味で、テレビのカラー化は、当時の社会が求めていたものであり、時代の流れと解釈できるのではないかと考えます。
その一方で、現在、進められようとしている地上波デジタルへの移行は、果たしてどうなのかというところが気になるのです。あまり細かい部分を突っついて、問題を広げようとは思いませんが、もしこれが時代の流れに逆らった無茶な政策になるのであれば、それに関わった方々には、それ相応の責任を取っていただく必要はあろうかと思います。
ずいぶん前になりますが、各メジャーアニメの本編終了後、地上波デジタル移行を宣伝するような映像が放送される時期がありました。その中で、「クレヨンしんちゃん」では、「地デジになると、画面がきれいになって、カッコよくなるんだぞぉ」といった類の台詞があったのを覚えています。もちろん、カッコよくなるわけではなく、単なるギャグとして、そういう話をしているのですが、そうした地デジの話が、ギャグになってしまうこと自体に大きな問題があるのではないかと思うのです。つまり、そこまでの高画質は、少なくとも「クレヨンしんちゃん」には、無意味であるにも関わらず、それが進められてしまっているということに大きな問題があるということです。
ここで考えるべきは、無意味であると思われてしまうのが、単に「クレヨンしんちゃん」にとってだけなのか、あるいは多くのコンテンツにも共通して言えることなのかということでしょう。
私が考える結論から言えば、「高画質が無意味」は、他の多くのコンテンツにとっても、かなり共通して言えるのではないかということです。
これもちょっと前の液晶テレビのCMですが、「空と海の青の違いで、僕は泣いたりする」という文句がありました。実際に、そういう人がどれだけいるのかは知りませんが、私自身、そういう人がいても良いとは思います。ただ正直に言って、私には、テレビを見ながらそう思ってしまう感覚がよく理解できません。私の場合、たとえ、そういうことがあるにしても、その「青の違い」で泣くためには、それに至るまでに、かなりきちんとしたストーリー展開や背景となる物語が必要ではないかと思います。これが、他の大多数の人々にとって、どうなのかは分かりませんが、もしこうした私の感覚が、社会の大多数の人々にとっても理解できる感覚であるとするならば、現在のテレビ業界にとって大切なことは、画質を高めるということよりも、「青の違い」で泣かせるだけのストーリーや物語を磨くことになるはずです(「青の違い」を表現するまでに至るメーカーやそれを含むテレビ関係の方々の弛まない努力があったということは、それはそれでストーリーとして成り立ち得ますが、大部分の一般の人々には、それはほとんど関係ないことではないかと思います)。
こうした視点に立って、物事を捉えたときに、これからのテレビにとって大切なことは、画質云々よりも、より柔軟な双方向性の確保や多様なコンテンツを視聴可能にする仕組みではないかと思います。
現在では、限られた人々しか情報発信ができなかったり、番組制作に携われなかったりという片方向性が大きな問題なのです。これにより、情報に偏りが生まれるということはもちろん、広告業としての限界から番組制作の予算が削られたり、それに伴いクリエイター層搾取の構造が進行したりといった問題も深刻化しているのです。つまり、画質以前に、番組そのものの質や業界としての産業構造自体を、根本的にどのように変えていくかという取り組みが急務であると言えるわけです。
これに対する有効な解決策として、私は従来の片方向的な放送に対して、双方向性を確保できる通信技術を積極的に活用したメディアの形成であろうと考えています(「3次元DBと著作権」、「コンテンツ制作体制の未来」、「次時代のコンテンツ評価」、「通信と放送の融合」等参照)。
こうしたポイントについて、既に私は、電波行政に非常に影響力があるとされる方々や、電波行政に対して責任ある立場の方々に対してお話をしたことがあります。反応はまちまちですが、その中のひとつには、「電波の話をするときには、絶対に放送に立ち入った話をしてはいけない」というものもありました。私は、この言葉から、今日の電波行政における放送業界の強さを感じ取りましたが、それはそれとして結構なことだと思います。
ただし、「放送業界が強い」ということと、「放送業界が正しい」ということとは全く別の次元で考えなければなりません。
「放送業界が強い」というのは、過去に放送業界を立ち上げてこられた偉大な先人たちが、社会ニーズに合わせて、今日の放送の仕組みを整えられ、それが多くの人々に支持されたからにほかなりません。つまり「放送業界が強い」背景には、過去に社会全体から支持されるような「正しい」ことをしてきたという実績があり、それは偏に先人たちの遺業の集積であったということです。
これに対して、私が別次元で考えるべき「放送業界が正しい」という言葉には、過去ではなく、これからの時代においても社会ニーズに適合した振る舞いを続けられるかということです。それは、けっして過去の積み上げの結果には、囚われない概念であるということがポイントです。
もちろん、こうした強さと正しさの違いを区別できずに、単に今日の放送業界の強さに目が眩んでしまう人々や、そのしがらみから抜け出せない人々がいてしまうことも理解できるので、それ自体を非難することはできません。
しかし、地位や権限は、常にそれに応じた責任を伴うものです。強さと正しさの違いを理解できず、それを見誤って判断してしまった場合には、その見誤ったことに対する責任は必ず取らなければなりません。
そんなことを思いながら、テレビに表示される「アナログ」という文字が視界に入るたび、これからの放送業界とそれを支える人々の行く末について、ちょっと考えてみるのでした。
1月から始まったアニメで、ハチャメチャで面白いと思ってしまうのが「まりあ†ほりっく」。まぁ、細かい事は抜きに、単純に笑えてしまうわけなのですが、その中でもお気に入りなのが、寮長先生のしゃべり方。
語尾に、力の抜けた感じで、「ですぅよぉ」とつけるのがポイント。
結構、これが聞きたくて、毎回楽しみにしております。
寮長先生の声優さんは、沢城みゆきさん。最も有名なのは、「ローゼンメイデン」の真紅役でしょうが、最近では、「鉄のラインバレル」で演じる山下サトル等を見ながら、流石だと思っていました。今回の寮長先生のノリは、それらともだいぶ違っていて、私としてはとても楽しいのですが、ご本人はどんな気持ちで演じているのか、是非一度、聞いてみたいところです。
それにしても、さすがに2009年になって、諸々と動きが激しくなり始め、今週は何かと忙しく、ほとんどアニメが見られませんでした。この週末は、かなり気合を入れて、撮り溜めたアニメを消化しようと思います。
テレビや新聞等のマスメディアが、非常に苦しい経営状況に陥っていると聞きます。これらメディアの大部分は、広告事業をその収益源としており、近年それらの広告が、大きくインターネットにシフトしつつあるという事情もあるようです。
しかし私は、たとえ現在の広告業が時代の流れに合わせて、その軸足をテレビ等からインターネットに切り替えたとしても、広告業の本質的なビジネスモデルに変化があるわけではないと思います。無論、広告がインターネットによって普及することで、数多くの変化が見られるようにはなるでしょう。けれども、これから先の時代において起こるであろうことは、これまでの広告業というビジネスモデルの崩壊であり、それだけ大きな現象になるということを念頭に置いておいた方がいいように思うのです。
既存の広告業というビジネスモデルの崩壊については、以下のようなポイントによって整理することができるだろうと思います。
①メディアの変質
元来、広告の役割というのは、「伝えるべき人(企業)が伝えられない」、「知るべき人(消費者)が知らない」という問題を解決することにあります。情報伝達手段に限界があり、それらの情報の授受が困難な時代にあって、広告はそうした問題を解決してきました。この際、広告はメディアを有効に活用してきており、歴史的にメディア産業と共に、成長してきたと言えるのではないかと思います。
ここで注意すべきは、その活用すべきメディアの急速な変化です。従来のメディアは、片方向が主流でした。これはテレビ、ラジオ、新聞等を含め、その大部分が、発信者と受信者にきちんと分かれていることからも明らかです。つまり、従来のメディアにおいて広告を流す際には、メディアのそのような関係性のなかで、発信者側の人々と組んで、広告を業として成り立たせてきたということです。
しかし、これからの時代においては、インターネットが主流メディアに移り変わろうとしているわけです。そしてインターネットとは、あくまでも通信技術から生まれたものであり、その本質は双方向性にあると理解しなければなりません。このことは、インターネットの全ユーザーが発信者になり得るということであり、従来のようにメディアにおける限られた一部の発信者と組むという手法では、広告が業として成り立たないということを意味しているという点が重要です。
この点については、インターネットの発達とともに、様々な工夫がなされてきました。例えば、ずいぶん前から「アフィリエイトプログラム」といった手法等を通じて、ひとつの流れを作ろうとする業界の動きがあり、新しい広告の新しいモデル構築が試みられていると考えます。
しかし一方で、相変わらずインターネットにおける広告収入の大部分が、一部の大手サイトに集中するという意味で、そうした試みが必ずしも成功しているとは言い難いと思いますし、これからもっと大きく広告業の在り様が変質していくのではないかと考えます。その具体的な動きについては、以下に記す他項とも深く関係するので、それらから読み取っていただければと思います。
②訴求対象の変化
今日の広告業は、テレビを中心としたマスメディアの成長とともに、発展してきたと言えるでしょう。しかし一方で、広告はその対象となる商品やサービスとともに成長してきたとも言うことができると考えます。
高度成長期の日本では、たくさんの技術革新の下、多くの画期的な商品が生まれました。そして、それらの多くの優れた商品については、全国民的に訴求するだけの価値があったと考えられます。したがって、それらの情報をテレビ等のマスメディアに乗せて、広く知らしめるという行為が十分に成立し得たのだろうと考えることは十分に可能です。
その後、企業が訴求したい商品が多様化したり、消費者の購買力の増大や生活スタイルが変化したりといったことも相まって、マスメディアの広告が、細分化される傾向が生まれてきました。こうした時代の流れに沿って、広告を打つ側の企業も、各商品間の差別化するポイントを広告の中に取り入れたり、細分化されたメディアの中から、最適なものを選定する等の行為を通じて、より効果の高い広告戦略を立てるようになりました。
けれども、こうした細分化が進めば進むほど、差別化するための方向軸が増えることになります。それは結果として、それらの間で互いに差別化することが急速に難しくなっていくことを意味します。
さらに、今日の日本経済のように、高度成長が一段落し、かつてのような画期的な技術革新もなく、各商品間での差別化が難しくなってくると、それらを消費者に対して、アピールすることがますます困難になります。
ニーズや商品の多様化は、社会の成熟度が上がると解することもできるため、これそのものは大いに歓迎されるべき現象です。しかし、多様化は産業成長の方向軸がばらけることを意味しており、広告に乗せるべきメッセージが持つインパクトの低下を招きます。こうした状況にあって、広告はイメージ先行型のものが多くなり、何の広告だかサッパリ分からないというものまで、散見されるようにまでなってしまいました。
もちろん、そうした差別化要素が皆無なわけではないので、何かしらの差別化要素を見出して、それを広告におけるメッセージとすることは、引き続き試みられていると思います。
ただ、そうした差別化要素が、本質的に消費者のニーズを満たしているものでない以上、メッセージはメッセージとして受け取られません。結果として、画期的な技術革新やアイディアに乏しく、かつてのような訴求力を失った商品の広告は、メッセージ性が希薄となり、広告を広告たらしめることができなくなってしまうと思うのです。
③情報量の膨大化
前項のような問題があったとしても、仮に画期的な技術やアイディアによって、「見たこともないような商品」が出たとしたら、それは非常に多くの人々が知りたいと思うでしょうし、またそれを知った人も他の誰かに知らせたいと思うようになると思います。
かつて、メディアが限られている時代にあっては、そのメディアなしには、そうした新しい商品を知ることが比較的困難だったと言うことができるでしょう。つまり、そうした新商品に関する情報は、今日に比べて、非常に限られていたと言うことができると思うのです。
しかし近年では、「見たこともないような商品」が出れば、その情報は直ちに、知らせたいと思う人が、知りたいと思う人に伝達できるようなネットワークが整備されています。消費者は自分たちに張り巡らされたネットワークを通じて、そうした情報を自由にやり取りし、従来のメディアから得られていた以上の情報を扱えるようになりました。
もちろん、メディアそのものの多様化やボリュームの増大が進んだのという点も見逃せません。端的に言えば、例えばテレビのチャンネル数や雑誌の種類だけを見ても、この20年間で膨大な量に膨れ上がったことは明らかです。このことは、広告のみならず、それらメディアの中で組まれる番組や記事のなかで、新しい商品に関する情報が扱われるということまでをも含めて、情報量の膨大を意味しているわけです。
このように、消費者間の情報流通の発達、メディアの多様化等といった現象から、広告の対象となる商品に関わる情報ボリュームが急速に増加し、結果として、広告業の社会的意義を低下させているいのではないかと思います。
④産業構造の変化
昨年以降、世界経済の深刻な不況が大きな話題になっていますが、このように産業が活気を失ってくると、企業活動において、まず削られる対象として挙げられるもののひとつが広告費です。とくに最近では、日本の大手自動車メーカーの動きが、広告業界に多大な影響を及ぼしているようですが、これは今後の広告業界の未来を指し示すひとつの大きな予兆である気がしてなりません。
もちろん、それぞれの業界によって特色があり、不況に強い業界、あるいは不況であればこそ盛り上がる業界等もあるため、それらを全て一緒に論じることはできません。ただ、産業全体で捉えた場合、そうした不況に強い産業群が日本、あるいは世界産業全体を牽引していくだけの力があると考えるのは、非常に困難ではないかと思います。私は、そういう意味で、産業界全体の傾向として、今後、広告業が極めて困難な状況に直面していくのではないかと考えています。
つまり、これから先は、日本のみならず世界を牽引していけるだけの産業を興していくことが、大変重要なのであり、それをバネにして、新しい活気ある経済活動が再開されるようになるのではないかと思うのです。そうした中で私は、インターネットをはじめとする基幹インフラの整備が、今後の産業復興のための起爆剤になり得ると考えます。そして、そのような新しい産業が生まれることを通じて、次の時代の産業界の勢力図が決まることになるのでしょう。
ただし、そうした新しい産業が成立し、経済活動に活気が戻ったとしても、広告業が、かつてのような繁栄を取り戻すようなことはないような気がします。
本来、こうした新しい起爆剤的な産業が生まれることで、産業界全体が活性化すれば、再び各企業が広告にお金をかけるという流れが出てくると考えるべきなのかもしれません。
しかし、次の時代におけるインターネットを中心とした新しい産業構造においては、メディアの役割が大きく変質していると考えられるのです。インターネットは、まだその本来の実力をほとんど発揮しておらず、次の時代における広告業は、現在とは全く異なる環境下に置かれると考えるべきです。それこそが、私が冒頭に記した「既存の広告業というビジネスモデルの崩壊」という言葉の真意になります。
ひとまず今日は、既存の広告業について思ったことを、一通り駆け足で書いてみました。一方で、「将来の広告業」の姿という視点もあると思うので、それについては、また機会があれば、記すようにしたいと思います。
今年は、私にとっての元年と位置付けています(「元年に向けて」参照)。これは、私が思い描いていることを、現実世界のなかで実現していく始まりを意味しており、それらの動きは、表面的にいわゆる「成功」に映るような気がします。
まだ実際には何も始まっていませんし、何かが始まるための具体的な確約や根拠があるわけでもありません。それにも関わらず、こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、そういう状況だからこそ、今のうちに書き留めておこうと思います。
これから私の周りで始まるであろう一連の「成功」に見える流れは、けっして私にとって、真の「成功」ではありません。事業で大成功したり、大権力を掌握したりということ自体に、最終的な価値を見出そうとする方々もいらっしゃるでしょうが、私にとって、そうしたものが人生全体における「成功」を意味するほど、価値あるものにはなり得ないのです。
巨万の富や地位・権力といったものは、必要なのかもしれません。とくに、私が果たそうとする使命を完遂するためには、それを実現するに足る、それなりの道具が必要です。その道具というのが、まさに富や地位・権力といったものにあたるということは、十分に考えられますし、私が自ら負っている使命を完遂するまでの間、必要に応じて、そうした道具を揃えていくという過程は、どうしても踏んでいかざるを得ないものだろうと考えます。
しかし、そうした道具自体が、私が求める「成功」を意味していないことは、このブログを立ち上げた初期段階から、繰り返し述べていることです(「生きがいと幸せ」、「道具の目的化の危険性」等参照)。むしろ、私が人生をかけて示したいと考えているのは、それら一般的に「成功」と思われているもの自体に、それほど大きな価値がないということであり、それまでの「道具を揃える」という表面的に映る行為とは真逆のことなのです。
これから先の30年間、私は自分自身の人生の目的を達成させるため、具体的な準備に入っていきます。一見、「成功」に映るかもしれないそれは、単なる準備作業に過ぎないという点が極めて重要です。その準備作業というのは、これから先の30年間において、真に必要なこととは何かを見極め、それを「ひとつの絶対的な正義」として掲げて、実践していくということでもあります。しかし、それは最終的に「ひとつの絶対的な悪」として倒されなければいけません(「交錯する正義と悪」参照)。
その準備作業が終わる30年後には、さらに次の時代を迎えることになるでしょう。そこには、次の時代への世代交代、私の子供たちの時代へのバトンタッチという意味もあろうかと思います。
私たち大人にできることは、新しい社会の創造だけではなく、創造したものを次の世代に託していくということも含まれています。それは、自らが懸命になって作ってきたものが、次の世代によって否定されることすらも受け入れるということでもあります。
死に方が決まっているからこそ、強く生きることができるのです(「生き方の裏にある死に方」参照)。これから先の30年間、死に方すら決められない人々に、充実した人生が送られるかどうかは疑問です。
次の世代に対して、希望ある世界を残すという大使命を負っている大人たち、それぞれの選択は、誰に強要されるわけでもなく、全て自らの意思にかかっているのです。そろそろ大丈夫でしょうか。
私は、既に覚悟を決めています。