常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

新経済システムの試み

2012年06月13日 | 会社

今の経済システムというのは、本当によくできていると思います。自分たちの仕事の価値が数値として表れ、それらをお互いに交換することで、無数の人々が効率的な役割分担ができるようになりました。

しかし、それを手放しで褒め称えるわけにもいきません。たくさんのお金を持つということは、たくさんのモノを得る、つまり幸せになるという考え方が蔓延り、お金を稼ぐこと自体が、人生にとっての最大目的とするような人々が生まれてしまいました。お金儲けの成否に一喜一憂し、その結果次第では、自分や他人の命を奪うということが、何度となく繰り返されてきています。また、情報化が進んだことで、本来、需要と供給をバランスさせることが目的だった市場が、投機目的の場として使われてしまったり、一部の限られた人々にとって都合のいいツールになってしまうということも起こってきています。

それだけではありません。

現代社会は、高度に情報化が進み、多くの技術革新がなされたことで、これまでの経済システムでは、正当に評価できない(あるいは数値化できない)事象が増えてきました。例えば、インターネットの普及により、多くの著作物に対する著作権や、それらの流通や利用に伴う利用料の類は、ほとんど数値化できていません。インターネットが究極のユーザー参加型メディアであるにもかかわらず、ほとんどのビジネスが「広告モデル」であったり、ユーザー間でのコンテンツ評価が、「いいね」ボタンで済まされているということが、その現状を見事に表していると言えるでしょう。

こうした問題を踏まえたうえで、私なりに、次の時代に向けて、新しい経済システムを立ち上げる試みを始めています。そして最近、それを共に立ち上げようという仲間たちと一緒に、聖神社や和銅遺跡を訪れてみました。そこは、日本最初の通貨の場所です。

和同開珎を祀る聖神社

和同遺跡

日本通貨発祥の地

私にとって、ここへの訪問は、大変感慨深いものでした。

今、私が仲間たちと共に動かし始めた経済システムは、既に動いているそれとは比べようもない、とても微小なものです。それを喩えるならば、「子供と大人」というにも程遠く、「細胞と人間」というくらい、大きな開きがあると言えるでしょう。しかし、無数の細胞の集まりである人間も、最初は一つの細胞から始まっているわけです。そのたった一つの細胞から、2つ、4つ・・・と分裂を繰り返し、ついには一人の人間となっていくというのは、全ての人間に対して、例外なく当てはまる事実です。つまりは、どんなに立派なものでも、最初は一つの細胞から始まるしかないということです。

聖神社や和同遺跡では、あらためてそのことを感じさせてくれました。それまで、中国銭で動いていた経済システムのなかで、日本独自の通貨を使っていくというのは、当初、とても微小な動きだったことでしょう。いや、実際には、そうでもなかったのかもしれませんが、「発祥の地」という言葉の響きのなかに、そういうものを強く感じずにはいられませんでした。

これからの細胞分裂、ますますもって楽しみになってきました。

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IZMOシステムの初デモ

2011年12月03日 | 会社

世界を大きく変えていくにあたっては、国家が変わっていく必要があると思います。そのためには、政治が変わっていく必要もあるでしょう。そういう意味で、今の世界の現状を、政治家のせいにして責め立てる心情も分からないではありません。しかし、政治だけで国家を変えていくことは不可能です。私は、あくまでも産業と政治がセットとなって、国家の姿が形作られていくのだと考えています。さらに、そのうちどちらから先に手をつけるべきかと言えば、諸々の制約がある政治より、広く開かれた自由市場で結果を出せる産業分野からであると思っています(「産業から始める理由」参照)。

そうした観点から、国家の軸となる産業を立ち上げるというのは、これからの時代において、非常に大切だと考えています。それは、高度成長時代を成し遂げた55年体制の裏側に、これを支える経団連のような戦後ベンチャー群があったことを考えれば、理解しやすいでしょう。同時に、戦後から既に60年以上も経過しているわけで、いつまでも同じ顔の戦後ベンチャー企業群で、国家の屋台骨を支えてもらおうなどというのは、少々、虫が良すぎるのではないかとも思います。

私たちは、先人たちが築き上げてくれたものを大切にしながらも、それに甘えることなく、自分たちがすべきことをしていかなければなりません。そういう意味で、私は、次の時代に国家の背骨となるような産業インフラを立ち上げなければならないと考えてきました。それを一言でいうならば、次時代インターネットインフラの構築です(詳細は(「重み付けを考慮した評価」、「インターネットのリアル化」、「携帯電話システムの強み」、「次世代インターネット」、「3次元DBと著作権」、「「ウェブで管理する」ということ」、「被害者意識を乗り越えて」、「次時代コンテンツの評価」等参照)。

そして昨日、その次時代インターネットシステムの初めてのデモを行いました。システムの名称は、「出雲の国」になぞらえて「IZMOシステム」としています。このネーミングには、国造り(「日本建国史の再考」参照)、多神教的思想(「「自分教」の薦め」参照)、神(「死んだ神より生きた神」参照)、お賽銭システム(「お賽銭モデルの提唱」参照)・・・といった日本の再建国に向けた様々な思いを込めています。今後、このIZMOシステムを通じ、インターネット本来の力を引き出すとともに、これまで米国中心に発展してきた通信やコンピューターの世界を変えていきます。このことは単に産業に限らず、冒頭に述べた世界全体を大きく変えていくことに直結していくことでしょう。

まだまだ小さな一歩ですが、昨日のシステムデモは、そんな大きな変化の始まりを感じさせるものがありました。これからが、ますます楽しみです。

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独自コンテンツの創作

2011年11月15日 | 会社

会社の事業として、アニメ制作を始めました。まだまだ素人のレベルではありますが、それでもやる気のある若者たちに支えられつつ、小さいながら一歩を踏み出したかたちです。そして、この自作アニメには、新しいメディアシステムを構築するための重要な意味が込められています。それは、新しいメディアを構築するためには、システムだけでなく、それに合わせた独自コンテンツが必要であるということです(既に、自分でできることとしては、野球コンテンツ作りのための準備を始めています(「軟式野球のメンバー募集」参照))。

インターネット関連のビジネスが活性化するに伴い、新しいメディアのかたちは大きく変わろうとしています。一部の世界企業では、まさにテレビに変わるメディアになろうとする試みもなされています。しかし、今なされている試みでは、社会に対してテレビに変わるほどのインパクトを与ええないであろうと考えます。その理由には、いろいろな表現が可能ですが、それを一言で述べるならば著作権です。

現時点で、最も人気のあるコンテンツが集まるのはテレビです。したがって、インターネット、あるいは通信ビジネスで大きくなった企業は、テレビ局を買収しようとしてみたり、テレビ業界に収益を還元する仕組みを整えてみたり、テレビに集まるコンテンツをインターネットに引き込むための方策をいろいろと考えているようです。

しかし私は、こうした手法では真のインターネットメディアは立ち上がらないと考えます。

そもそも、インターネットとテレビとでは、通信と放送という特性の違いから、著作権の扱いがまったく異なって然るべきなのです。その違いやギャップを埋めるための努力を否定するつもりはありません。しかし、今のやり方では、あくまでもテレビを主、インターネットを従とした力関係のなかでの仕組みしか育たないと思うのです。

テレビのような放送は、常に発信者と受信者が決められている「片方向」であるのに対して、インターネットのような通信は、それらが常に入れ替わりうる「双方向」のやり取りになります。当然、著作権のルールは違わなければいけませんし、「双方向」でできるもの(あるいは動いているもの)に対して、「片方向」のもののルールを主として適用させようとしたら、あちこちに歪みが出て当たり前でしょう。そうした観点から、テレビ(あるいはテレビ業界が関わっている)コンテンツを、やみくもにインターネットに持ち込もうとする事業者は、そこらへんの本質が見えていないのではないかと思えてなりません(3次元DBと著作権)。

要は、システムだけではダメなのです。新しいメディアを構築するためには、システムというハードだけでなく、それに見合ったコンテンツというソフトも必要ということです。そのコンテンツは、新しいシステムに適合した著作権ルールで流通していくものでなければなりません。

これは、テレビの黎明期では当たり前のようにやられていたことです。以下、本ブログ「「映画連携」の効果と限界」からの抜粋です。

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テレビというのは、今でこそマスメディアの王様ですが、テレビが登場した当時、テレビ(受像機)を売るのも、コンテンツ(番組)を制作するのも、本当に大変だったといいます。例えば、コンテンツを制作するにしても、当時の俳優というのは、基本的に映画会社の所属になっており、なかなかテレビコンテンツの制作には関わってもらえなかったようです。当時のテレビ業界の方々は、そうした既存の映画俳優、いわゆる「銀幕スター」を起用しない独自の制作体制でコンテンツを生み出してきました。テレビの受像機というハードウェアの普及はもちろんですが、コンテンツ制作に纏わるこうした苦難の道は、既存メディアが新しいメディアを乗り越えるためのひとつの試練だったのでしょう。そしてテレビ業界は、見事にそうした試練を乗り越えて、今のような「マスメディアの王様」としての地位を確立したと思うのです。
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別の言い方をすれば、インターネットを真の社会メディアとして立ち上げようとする人々が、独自コンテンツを作るという、かつてテレビ業界を立ち上げた方々が味わった苦労をせずに、システムだけ作って、ちゃっかり既存コンテンツを持ってくるというのはあまりに虫のいい話だと思うのです。

こうした意味合いから、今回、私は新しいコンテンツ作りを始めました。コンテンツだけでなく、システムの方も徐々に枠組みが見えてきました。参加する仲間、一緒に育んでいく人の繋がりもはっきりしてきました。進むべき行程からすると、とても僅かではありますが、それでも今は、少しでも前に進めていることを喜びたいと思います。

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シンボルマークのタコ

2010年06月07日 | 会社

うちの会社のシンボルマークは「タコ」です。これは名刺にもプリントされているため、初対面の方と名刺交換をする際など、この「タコ」の意味を聞かれたりすることがあります。聞かれれば、一応、それなりにお答えもするのですが、せっかくなので、この場にてその意味を簡単に整理しておこうと思います。

「タコ」には、大きく分けて、以下、3つのような意味が込められています。

1.柔軟な三次元生命体

現代社会は、高度な情報化社会でもあり、これまでの歴史のなかで、最も変化が激しい時代でもあると言えると思います。そうしたなか、企業をはじめとした組織が、変化に即応するための仕組みとして、プロジェクト制というものを採用したりしています。プロジェクト制では、既存の組織図に囚われずに、人員配置や仕事の進捗管理できるので、営利、非営利を問わず、これを取り入れている組織は、非常に多くなってきているように感じます。

しかし、新しい時代を迎えるにあたって、非常に大きなパラダイムシフトが必然であるという前提に立つと、そうしたプロジェクト制を持ってしても、十分な柔軟性やスピードを確保することができない事態が考えられます。

その問題の原因として、管理すべき組織、人、業務を二次元的に捉えざるを得ないというポイントが考えられるでしょう。それは、現在のデータベースの問題と言えるのかもしれません。実際、関連する業界では、そうした問題が提起され、改善についてもさまざまな試みがなされているようです。しかし、それでもこの問題の根本的な解決は、なかなか難しいように見受けられます。

私としては、この問題の根本的な解決には、三次元的発想が必要になるだろうと思っており、それをサポートする仕組みを作っていかなければならないと考えています。組織を如何に三次元的なイメージで捉え切れるか、そのイメージを実際の組織運営に如何に連動させていくかという点、これからの組織競争力を考える上で、極めて重要だと言えるでしょう(詳細は、「「スライム組織」の強み」、「「スライム組織」のご紹介」参照)。

シンボルマークのタコは、そうした三次元的な概念を導入することの重要性を表しています。変化に対して、柔軟かつ迅速に対応しつつ、積極的に三次元的な概念を導入することが、シンボルであるタコの意味するところであり、そうした組織こそが、パラダイムシフトの時代を乗り越えるのだろうと考えます。

2.八つ足で同時解決を実現

難しい課題に直面すると、いろいろな言い訳をしたくなるものです。そして、そうした課題を考える際、解決のための起点が見つからなかったり、複数の課題が絡み合うような状況にあって、どうしようもないという意味で、「鶏と卵」という表現を使うことがあります。当然のことながら、大きな事業を成し遂げようとすればするほど、そうした類の課題ばかりになってきます。少なくとも、何かしらの事業を成そうと思っているのならば、「鶏と卵」は、あって当然と言えるわけです。

そうした難題に向き合う人にとっての問題は、それらが「鶏と卵」かどうかではなく、それらをどのように解きほぐしていくかということです。そして、その解決のポイントは、時間をかけて二つを同時に解決するというところにあると考えます(「矛盾との付き合い方」参照)。つまり、二本の手を使って、同時に(一斉に)「鶏と卵」を解決するわけです(ここには、自分の名前である「一斉」や、社名である「イッセイ」にも通じるものがあると思っています)。

高度な事業を推進するということは、「鶏と卵」のような状況が、視界一杯に広がっているようなものです。その点、八本もの足(あるいは手)を持っているタコは、とても有利です。「8」は、横にするだけで「∞」にもなるわけで、そうした無数の手を持っているということは、それだけ多くの仕事を同時にこなすことができるということであり、多くの「鶏と卵」の問題も解決できるということにもなるわけです。

こうした視点から、シンボルマークのタコには、どんなに難しい問題であっても、それが解決するべきものである限り、「鶏と卵」などという言い訳をせず、無数の手を持ってして、同時解決を実現していくという思いが込められています。

3.宇宙人としての自覚

グローバルなどという言葉が使われるようになって、ずいぶんと経ったように思います。そして、この言葉には、地球規模的な価値観を植え付けるという意味で、とても重要な役割を果たしたのではないかと考えます。しかし、これからの時代は、もはや地球規模を超えて、宇宙規模的な価値観を築いていかなければならない時代ではないかと思うのです。

宇宙の果てを見たことすらない我々人類が、そのような価値観を築かなければならないという点、もしかすると、とても奇抜に聞こえるかもしれません。しかし、既に科学の最先端では、宇宙の果てを見据えており、それには遠からず答えを出していかなければならなくなると考えます。次の時代において、我々人類が、真剣に宇宙を考えることは、けっして突飛なことではないのです(「揺らめく現実世界」等参照)。

そして、そうなってくると、我々人類が、いつまでも「日本人」や「アメリカ人」といった国家の枠組みに囚われてはならないことはもちろんのこと、「地球人」という自覚でさえも物足りなくなることになってきます。つまり、積極的に「宇宙人」としての自覚を持たなければならないわけです(「宇宙人としての自覚」参照)。

これは単なるイメージでしかありませんが、タコと言えば「火星人」、あるいは「宇宙人」です。この点、あまり生真面目な顔をして主張するわけではありませんが、シンボルマークのタコには、そうした多少の遊び心も添えて、「我々は宇宙人であるべき」という意味を込めているのです。

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2.5GHz帯を巡る責任

2010年02月23日 | 会社

ここ数日、本ブログ記事に対するコメントで、総務省の電波政策に関する内容をいただいております。私自身、過去に電波に関する事業に携わっていた関係もあり、議論するのは全く構わないと思っております。ただし、当該記事は、元々南京大虐殺に関する議論を巡る内容(「丁寧に議論するための分量」参照)であり、コメントが本来の論点からかけ離れてしまったため、あらためて、ここで整理をさせていただくことにしました。

いただいているコメントは、以下の通りです。

============================
「総務省へ」

ウィルコムを企業再生支援機構という半官半民族の仕組みを使って、救済し、何故ZTEとファーウェイに次世代通信システムLTETDDをやらせるのか。説明せよ。いい加減にしろよ。

「総務省の中国ベンダ育成」

許せないのは、総務省がPHSを失敗した事ではない。勝敗は兵家の常。関係者が責任を取ればいい。
問題は、総務省がPHSの失敗隠すために、800MHz電波割当を餌にソフトバンクにウィルコム救済を依頼をした事だ。
結果、ソフトバンクは企業再生支援機構が支援を乗り出す事を前提に、2.5GHz帯を利用して、LTE TDDシステムの導入を中国ベンダ2社を中心に検討してる。日本勢は入っていない。総務省は本件把握しているのか?

LTEはWCDMAで失敗した日本にとって、生命線だろう。TDSCDMAは北京オリンピックで失敗が明らかになった。中国勢はLTE参入の巻き返しのために、日本市場での参入をウィルコムを使って仕掛けてきている。

何故、国の税金を投入して創られた産業再生支援機構を使って、中国通信産業の育成に戦略的に手を貸し、NECや富士通潰しを、総務省が手を貸すのか。日本の国益を考える官僚の仕事だろ。いい加減にしろよ。

「審議会制度を守れ」

ウィルコムに割当された2.5GHz帯は、元々、総務省が第三世代移動通信方式の拡張バンドとして、アジア全体の取りまとめに取り組んできた。しかし、米国インテル社のWIMAX技術普及の流れに屈して、敢えて同周波数帯は移動通信技術を対象から外した。
総務省はウィルコムが保有する2.5GHzを電波返上せずにLTE TDD方式での利用を認めてはならない。

LTE TDDは3GPP方式であるため、技術的条件で定められていない。もしウィルコムがLTE TDDを利用するならば、ウィルコムは、一旦、電波を返上し、新たに電波割当の審議会プロセスを経なければならない。最低1年は必要である。

そもそも報道の通り、ウィルコムを2社に分離して、電波を保有する事業を売却するのは、電波の転売を認めるのと同じである。一体、何の為の審議会だったのか。

審議会制度は公明正大なプロセスである。中国の利権屋に屈して、形骸化させるな。
今、総務省の良心が問われている。

============================

上記のご意見に関して、私自身、実情がどのようになっていて、それを総務省がどこまで把握しており、またどうしようとしているのか、全く情報を持ち合わせておりません。したがって、これらに対する具体的なコメントを返すのは難しいだろうと思っております。

ただ一点、2.5GHz帯の扱いについては、当時、私も多少、関わっていたので分かります。ご指摘の通り、2.5GHz帯の技術的条件の策定は、当初Wi-Max一色で、かろうじて次世代PHS等が滑り込んだ状況でした。この時点で、3GPPのような移動体通信方式は、徹底的に排除されたのを覚えています。これは、私も関わっていたことで、最終的に3GPP等の移動体通信方式については、今後の課題という記述を入れ込むのがやっとだったと記憶しています。

非常に基本的なことですが、周波数帯の割当は、当該周波数帯の技術的条件が策定した後、それを踏まえて事業者を募るという順序になっています。したがって、周波数帯の割当に名乗りを上げる事業者は、その技術的条件を確認した上で、応募の是非を決めることになります。ご指摘のように、もしその前提たる技術的条件が改定(同一技術方式のバージョンが上がった等の次元ではなく、全く新しい技術方式を導入するというレベルで改定)されるのであれば、その新しい条件の下、あらためて事業者の募集を行なうというのは、至極、当然の流れであろうと考えます。当たり前のことながら、このプロセスの中で、ウィルコムは電波を返上しなければなりません。

しかし仮に、このプロセスを経ずに、総務省がウィルコムに2.5GHz帯の継続保持を認めながら、技術的条件を改定するということであれば、それは同省の責任者、担当者の方が、「国策」として、そうした対応が必要であると判断したと見るべきでしょう。この場合、それは日本国政府としての判断であり、そうした裁量を否定することはできないと考えます。ただし、そうした政策実行には、必ず責任が伴います。したがって、このような措置を取ることの意義や重要性については、その責任者や担当者の方々が、必ず説明責任を求められることになるでしょうし、私たち国民は、その責任者、担当者とは誰なのかを注視する必要があるのだろうと考えます。

その中で、ご指摘のような中国ベンダーに関する問題があった場合には、今後、それなりの説明があるのかもしれません。

ただ、私個人としては、中国ベンダー云々もさることながら、そこまでウィルコムに肩入れしておいて、万が一、ウィルコムの2.5GHz帯事業がおかしなことになったら、それこそ大変なことになるのではないかという気がしています。ウィルコムを支援すると報道されているソフトバンクについては、その経営状態の脆さに関して、いろいろな情報が飛び交っています。仮に、そうしうた状況を把握しているにも関わらず、見通しの甘い意思決定をしておいて、後々になって、その損害を国民に押し付けるようなことがあったとしたら、それは絶対に許されません。もちろん、その場合の損害は到底一個人で負えるようなものではありませんので、そうしたことを十分に肝に銘じつつ、同省の責任者、担当者の方には、文字通り、命を懸けてお仕事に臨んでいただきたいと思うのです(「命を張る仕事」参照)。

そういう意味を含めて、ウィルコム関係の問題を裁く同省の責任者、担当者の方々の立ち振る舞いには、一人の国民として、今後も注意深く見守っていきたいと思います。

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地方分権への道標を目指す

2010年01月06日 | 会社

普段、あまり地域振興などを意識することはありませんでしたが、最近、自分が拠点を置く地域について考えることが多くなりました。

政治の世界では、よく地方分権といったキーワードで論じられることがあります。これを主張する方々のお気持ちはよく分かりますし、私自身、地方でできることは、できる限り地方で解決するべきであろうと考えます。ただし、それは同時に、地方の側が、ある程度国から自立していかなければならないことを意味しています。端的に言えば、地方は地方なりに自らの経済を活性化させ、国に頼らず、独自の責任と裁量によって、様々な施策を打てるようにならなければならないということです。

権利を求める以上、それに相応しい責任能力を備えていなければならないのは、至極、当然のことです。

こうした地域経済の活性化については、よく「カジノ構想」の類が持ち出されるように思います。人の発想は自由ですし、それらはその方々が良かれと思っておっしゃられていると思うので、あまり否定的なことを言うつもりはありません。ただ、少なくとも私は、もっと違った方法を模索するべきではないかと考えます。それは、自分自身の事業を中心に描かれていく構想です。

先日、テレビを見ていたら、年末の大晦日の夜、東京都内の某所が、年越しを祝う群衆で荒れに荒れていたという内容がありました。通常、ビジネスを大きく展開するのであれば、東京に事業所を構えるのが一般的なのではないかと思います。それはそれとして、非常に合理的だと思われますし、そのメリットが多分にあることは否定しません。しかし、私としては、本当に社会に必要とされている事業を行うのであれば、そんなに荒れるような(あまり魅力的に映らない)東京にわざわざ出向く必要もないのではないかとも思います。それと同時に、地域経済活性化についての思いが頭をよぎったとき、「しっかり地元で足固めをしよう」とも思うのです。

地域に根付いた経営をして、世界有数の企業に成長していくという例は、世界中にあるのではないかと思います。日本の超有名な大手メーカーでも、こうした事例が数多く挙げられることも、また間違いのない事実です。

まだまだ、先のことかもしれません。しかし、私としては、自分の会社を育てていくにあたり、それを単に一所の事業体としてではなく、新しい時代における地方分権の実現に向けて、何か大きな道標になるような事例にできたらと思うのです。

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小さく始める新社会創造法

2009年12月02日 | 会社

将来、必ず「自動車社会」になると思っていて、自動車の作り方まで分かっていても、自動車工場を作る金がなければ始まりませんし、社会が自動車を求めていなければ成り立ちません。

こういう時は、とりあえず、自動車よりも遥かに手っ取り早く作れる馬車から始めることです。

馬車を作るのには、二つの意味があります。一つは、自動車工場を作る金を蓄えること、もう一つは、人々に馬車の良さと限界を知ってもらうことです。前者は、市場における供給体制の構築であり、後者は、新しい需要の創出や喚起を意味します。

新しい「自動車社会」を創造するための必須要件は、きちんとした供給体制の確立と社会的需要の存在だろうと思うのです。

「新しいメディア社会」や「新しいコンピュータ社会」も、きっと同じように創造していくのだろうと思います。

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「888」と会社ロゴ

2009年08月22日 | 会社

「666」は、悪魔の数字等と言われたりします。新約聖書によると、この数字は、正確には「獣の数字」となっているようですが、いずれにせよ、この数字が宗教的に何らかの意味があったことは事実らしく、そうした宗教観に基づいて、使われて続けてきた側面はあるのでしょう。

ところで、そうしたキリスト教的世界観に基づいて、そのような数字遊びをしてみたり、またそのことを推し量ってみたりということについては、そろそろ幕引きをしても良いのではないかというのが、私が常々思うことでした。

「666」の解釈について、様々な意味を持たせることになった背景には、宗教を巡る歴史的で複雑な事情を含んでいるのでしょう。そうしたことからすると、「666」の数字の意味について、一概に善悪を語ることはできません。しかしそれでも、悪魔的等と呼ばれるような数字を使ってみたり、そこから誤解を招くような使い方をすることについては、第三者ながら、見ていてあまりいい気分がするものではありません。たとえ自分たちが、その内面に悪魔的な側面を宿しているとしても、それを安易に「666」等という数字で表すのではなく、あくまでも「神たらん」とする気概や気構えは必要だし、そういう存在であろうとする努力を示すべきであるというのが、私の率直な感想だったわけです(「「自分教」の薦め」、「創造主の正体」参照)。

そこで私として、そうした世界観を超越することを明示的に掲げるという意味で、意識的に使用しているのが「888」です。これは、本ブログのユーザー名、「sukune888」でも使っている数字です。

「8」は、とても縁起がいい数字で、神様の数字であるとも言えると思います。漢字の「八」は、下に向かって開けている末広がりで、未来の展望が開けていることを意味していると言われます。神社の名前でも「八幡」や「八坂」という文字があったり、「八百万の神」という言葉を使ったりもします。さらに「8」は、横に傾けると「∞」でもあり、人類の可能性という意味でも、大変縁起がいい数字であると言えるでしょう。歴史的に、「666」という数字が使われてきて、それが悪魔的な意味合いを持っていたとするならば、それに対して「888」という数字を、神としての意味合いを持たせて使ったらどうかと思ったわけです。

私が、自分の会社(イッセイ株式会社)のロゴを作成するときには、そうしたことも少し意識しました。ロゴを作成するとき、特段、デザイナーの方に「888」にしてください等というお願いをしたわけではありませんが、出来上がったロゴを見て、「これなら大丈夫」だと思いました。それは、「issei」というロゴの真ん中にある「sse」が、何となく「888」のように見えたからです。今から考えると、これが完全に「888」になっていないところもポイントのような気がします。つまり、まだ神たる「888」にはなっていないけれども、努力次第で、ちょっと線をつなげれば「888」になることができる(逆に「666」にもなり得る)という意味が込められているようで、そうした決定論的でないところも良いように思えたのです。しかも、それが二つの「i(愛)」に挟まれている(囲まれている)というのも、良いような気がしました。

他愛のないことですが、私の会社のロゴにはそんな思いを込めています。人類が現存の宗教や世界観に囚われず、自らの尊厳を「神たらん」とする意気込みで高めていければ、自ずと新しい世界が開けてくるでしょうし、より高い次元の存在としても覚醒できるように思うのです。

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資本主義に拠らぬ資本戦略

2009年07月12日 | 会社

会社は資本主義のなかで成立します。資本を出してくれる人がいなければ、会社は成り立たないわけで、そういう意味で「資本家は偉い」と言うことができると思います。ただ、それだけでもないでしょう。

会社については、いろいろな考え方があります。株主としての立場、経営者としての立場、従業員としての立場、顧客としての立場、それぞれの立場からいろいろな見方ができるのだろうと思いますので、それらを否定するつもりはありません。ただ、私としては、小さいながらも自分の会社を持っているという立場から、以下のように考えています。

会社は資本主義のなかにありながら、けっして、そのルールのなかだけで成立するものではありません。会社は、顧客があって成立するのであり、その顧客に選ばれるという意味では、資本主義ではなく、市場主義のなかで成り立つと言えるでしょう。さらに会社は、そうした資本主義と市場主義を繋ぐ経営者や従業員があって、はじめて機能します。そういう観点からすれば、会社は経営者と従業員によって、成り立っていると言うこともできると思います。

会社が資本主義のなかで成立するということは、ひとつの側面として正しく、またそうした意味で、「資本家が偉い」という言葉は分からなくもありません。しかし、日常的に会社を動かしていくのは、経営者であり、従業員です。そう考えると、会社というのは資本家と経営者・従業員が両輪のようなものであり、互いにリスペクトできるような関係を構築していくことが、会社を動かしていく上で、極めて重要なのではないかと思います(「会社は誰のものか」参照)。

また、会社が行う事業は金儲けにはなり得ますが、それが目的化してしまったような出資を受けることにも、私自身、少なからぬ違和感を覚えます。

経営者は、資本家と顧客の間を繋ぐ役割を果たしていかなければなりません。そのなかで、金儲けばかりを優先した出資を受けてしまうと、経営者は、顧客のためというよりも、資本家に金を儲けさせる仕事を請け負うことになります。市場主義的な考え方からすれば、良いサービスを開発すれば、きちんと市場から評価され、その成果を資本家に還元できることにはなりますが、それは、あくまでも市場において、貢献しようとしたことの結果であるということが大切です。

私は今、現実世界で起こっていることは、顧客を置き去りにした会社経営の蔓延であると見ています。つまり、非常に多くの会社が、資本主義的な考え方に偏重してしまい、顧客(広く言えば消費者全体=社会)を喜ばせることのできる商品やサービスが減少し、結果として、付加価値や産業全体の活力が低下してきているという見方です。

翻って、このような資本主義的な観点から、ベンチャーを見ると、一般的にベンチャーは、頭を下げて資本家を回りながら、お金を集めるものというものという考え方が強いように思います。少なくとも、私の過去の経験においては、違和感はありながらも、ベンチャーとはそういうものであるということを認識せざるを得ませんでした。それはそれで、ひとつの見方ですし、また過去の自分がそうせざるを得なかった点、自己反省を含めて、いろいろと思うところがあります。ひとつには、私自身、経営者として、「資本家との両輪関係」を築けるような、諸々の準備ができていなかったということでしょう。

今は、だいぶ状況が変わりました。

まず、事業の位置付けを明確にし、純粋にそれを実行するための態勢をとっています。このことは非常に重要で、私なりに過去の経験から学んだことでもありますが、内なる「意思」を、外なる「態勢」と一致させていることで、大きな余裕が生まれるのです。もう少し別の表現をするならば、時簡に追われることがなくなり、「時間を味方にする」ことができるようになるということです(「時間との付き合い方」参照)。逆に、背伸びをして、例えば中途半端に、他人のお金を入れて「態勢」を組んでしまうと、そのお金が尽きる前に、次のフェーズに移行する責任を負うことになり、結果として時間に追われてしまうようになります。

「意思」と「態勢」の間に、無理を起こさせなければ、特段、資本家がいないなら、いないなりの展開も可能となり、それによって余裕が生まれます。この余裕によって、場合によっては、自らが経営者を兼ねた資本家となるよう、ただ時間をかければ良いという発想も生まれます。また、たとえ資本家と話すとしても、資本主義的思考に偏重せず、きちんと事業の本質(「事業の本質と存在価値」参照)を理解し、また尊重してくれる人とだけ会話をすればよいことになり、無駄な時間を過ごすこともなくなります。

大したことではありませんが、そういう意味で、私の会社における資本戦略の方針は、「資本主義に偏重した考え方に拠らぬこと」なのでした。

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仕事を選ぶ大切さ

2009年06月29日 | 会社

自分の会社を立ち上げて、まだ一年も経っておりません。資金が潤沢にあるわけでもなく、仕事を選ぶような余裕があるはずもないのですが、それでも仕事は選んでいかなければならないと思います。

仕事というのは、他人の役に立つためにするものであり、報酬は、単にその対価として支払われるものです(「報酬は感謝・感動の証」参照)。当たり前すぎて、何のことか分からないという方もいらっしゃるかもしれませんが、重要なポイントは、「他人の役に立つこと」が仕事の目的であり、報酬は、あくまでもその付随物に過ぎないということです。もちろん、こうした見方が全てではありませんが、少なくとも、私の場合はそのように考えています(「道具の目的化の危険性」参照)。

例えば、コンサルティングというのは、困っている方を助ける仕事です。助けるという意味で、コンサルティングは、他人の役に立ってなんぼといった仕事なのだろうと思います。

ただし、あくまでも、コンサルティングで主体となるべきは、クライアントの側であり、何とかするためには、クライアントの「何とかしたい」という強い意思がなければ、助けることができません。特に、事が重大であればあるほど、私としても、相当真剣に取り組んでいかなければなりませんし、クライアントの側にも、それをきちんと認識していただいた上で、こちらの言を重く受け止めていただく必要があります。

ところが、「コンサルティング=助けてくれるサービス」という意識ばかりが先行すると、本来あるべき、クライアント側の「何とかしたい」という意思は、「何とかしてくれるはず」という過度な期待にすり替わってしまいます。こうなると、どんなに優秀なコンサルタントであっても、そのクライアントを助けてあげることができなくなってしまうのです。

仮に、こうしたクライアントの仕事を受けてしまうと、結果が出ないばかりか、その結果が出ないなか、延々とうまくいかせるための方策を打ち続けなければなりません。こうなってしまうと、コンサルタントは時間と労力を浪費するだけでなく、クライアントの「何とかしてくれるはず」という過度な期待が、反感や疑心となって、跳ね返ってくるという負の結果まで受け止めなければならなくなります。延々と時間と労力を費やしながら、クライアントから悪く思われたり、言われたりするといったことでは、まったく割が合いません。また、それはお互いのためにも良くありません。

もちろん、そうしたクライアントでも、一度仕事としてお受けすれば、まずは報酬をいただけるので、資金的にはそれなりに潤うことになります。

それは別の言い方をすれば、一所懸命やっているにもかかわらず、クライアントからいろいろと不満を言われたり、ダメ出しをされたりする仕事をしている人には、それなりの理由があるかもしれないということです。つまり、そうした環境にあるというのは、その仕事におけるクライアント側の問題もさることながら、それと引き換えに、ひとまずサービスを買っていただくという意味で、資金的には潤うことができたという自分側のメリットもあったはずだろうということです。このように考えると、仕事上で、たとえ愚痴をこぼすような状況があったとしても、そこに至るまでの間、自分の側に、それ相応の「うま味」があったことも忘れてはならないということになります。

こうした仕事についての考え方は、何も「コンサルティング業」だけに限ったことではありません。例えば、一般的なサラリーマンで、会社勤めをされているとして、直接、顧客に触れていなくても、その人の仕事は、より直接的には部署や会社など、非常に近い周囲の人々の役に立つための仕事をしているわけでもあり、そういう意味で、直属の上司や部下が、その人のクライアントと考えることができるはずです。経営トップの地位にある人であれば、その会社の株主が、直接的なクライアントという見方ができます。政治家であれば、有権者がクライアントということになるでしょう。

そうしたクライアントが、真剣に「何とかして欲しい」、「何とかしたい」と願っているかどうかは、後の仕事の成否において、大変重要な問題です。そして一旦、そのクライアント(あるいはその組織や仕組み)から報酬を受け取って、仕事を始めてしまったら、それ相応の結果を出す責任が生じることだけは、極めて明白なのです。

私は、こうした問題意識のなかで、とにかくスタートの時点で、誤った始め方をしないように細心の注意を払いたいと考えています。

お金、報酬は大切です。報酬を得ることなく、ただ一方的に奉仕をし続けるというのは、ある意味で不健全であるとも言えるでしょう。しかし、お金や報酬を目的化させてしまって(お金に魂を売ってしまって)は、後々になって、大きな代償を払うことになるのではないかとも思うのです。仕事を進めてしまってから、愚痴をこぼすような状況に陥るくらいなら、最初から、その仕事をお断りする方が双方のためなのではないかと考えます。「うま味」も大切ですが、その結果として、仕事がうまく回らなくなるようでは本末転倒なのです。

そうした意味で、私自身は、事の大小を問わず、きちんと仕事やクライアントを選んでいかなければならないと思います。またそれが、数十年後の大きな枠組み作りへと繋がっていくことを想定すればするほど、その選定作業は、極めて重要な意味を持つのではないかと考えます。

《おまけ》
仕事を選ぶ、クライアントを選ぶというのは、選ばなかった対象を切り捨てるということではありません。人生においては、それぞれ巡り合わせや適切なタイミングがあるため、その時々の状況に応じて、判断をしていくという意味にほかなりません。ある時点において、距離を置かざるを得ない人々に対しても、常に未来に向けて門戸は開かれているのであり、その人々が「真剣に何とかしたい」と思うようになった瞬間、その関係は、全く別のステージに移行していくでしょう。その際には、あらためて、一緒に仕事をさせていただく、あるいはクライアントとしてお付き合いいただくようなかたちになっていくのではないかと考えます。

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会社のHPオープン

2008年10月26日 | 会社

今年の7月に会社を立ち上げました(「小さなスタート」、「事業の本質と存在価値」参照)が、先日、その会社のホームページをオープンしました。

過去、そういう会社のホームページを制作するときには、掲載する文面を含めて、だいぶいろいろな関係者の方々に気を使ったものですが、今回は、ひとまず現時点において、自分だけの会社であるため、一切、そのような気遣いをせず、好き勝手に制作させてもらいました。

このブログに書いてあるようなコンテンツも、いくつか使っていて、それはそれで、自分としては、結構、楽しんで作っています。

ただ、お金はまったくかけていません。デザインは、知り合いのデザイナーの方が、善意でご協力してくださいましたが、私の拙いHTML作業で作成しているため、これといって凝ったものにはなっていません。それでも、会社としてのメッセージを伝えるには、十分なものになっていると思います。

まだまだ、この広いインターネットの世界で、深く埋もれている小さなホームページですが、これが今後どのようになっていくのか、自分のことながら、これを見守るような気分で、楽しみにしています。

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理想的な組織作り

2008年08月20日 | 会社

事業を立ち上げるにあたって、多くの人々の協力が必要になることは間違いなく、組織作りは必須となります。「あの人がいてくれれば」と思うことも、少なからずあり得ます。しかし、私にとって、必要な人材というのは、能力や経験を持っているかではなく、自らがやる気になってくれる人であり、そういう動機と責任感を持っている人にほかなりません。

「あなたの力が必要なので来てください」
「必ず事業を成功させますので来てください」

私は、けっしてこう言って、他人を巻き込むことはいたしません。このように懇願したり、成功を約束したかたちで、他人を事業に巻き込んでしまうと、後になって大変な問題を引き起こします。私が考えている事業は、間違いなく大事業だと思っています。そして、そうした大事業というのは、兎角難しいもので、幾度となく難局を経験することになります。普段は、一所懸命働いてくれる人でも、状況が厳しくなればなるほど、誰かに頼ろうとしますし、それもうまくいかないとなると、他人に責任をなすりつけるような行為にまで及びます。

「俺はあいつに頼まれて、この事業を助けに来てやったんだ」
「あいつが成功すると言ったんだから、あいつが何とかするべきだ」

懇願されたり、他人事のつもりで事業に参加したような人の場合、追い詰められていくと、最後の段階で、こんなもう一人の自分が頭をもたげるようになるのです。自分も立派な当事者であるにもかかわらず、こういう無責任な弱さが表に出ることで、人間は本来の力を発揮できず、また組織もますます難しい局面に陥ることになってしまいます。しかも悪いことに、そういう人間一人の存在が、他の多くの人々にまで大きく影響を及ぼし、全体に広く波及してしまうという点が、実に厄介なところです。結果として、「頼まれて来てやったんだ」、「あいつが成功すると言ったんだ」と思うような無責任な人間が、一人紛れ込んでしまうことで、崩れるはずのない組織でも、いとも簡単に崩壊していくことになるわけです。

したがって、私自身、新しく事業を興すにあたっては、一人一人の役割や意味を非常に重く考えています。

そして、これをネガティブな意味ではなく、ポジティブな意味で捉えると、真に強い組織とは、一人一人が絶大なる責任感と使命感を持って行動し、いかなる難局にも諦めず、自分たちが持ち得る全ての力を発揮する組織だということになります。また、だからこそ難しいと思われる事業を遂行するための組織作りをしていくうえで、私はけっして懇願したり、事業の成功を約束するようなかたちで、他人を巻き込むようなことをしないのです。

これに代わって、私がしていることは、周囲の人々に対して、以下の3つについて、一方的に伝えているだけです。

-私の現状認識
 ・過去及び現在の深刻な問題に対して、無策で突き進んだときの世界の未来像
-私のビジョン
 ・未来を切り拓くための解決策、及びそれが実施されたときの世界の未来像
-私の行動計画
 ・ビジョンを実現するための直近の具体的な行動計画

これらに対しては、人によっていろいろな反応がありますが、次の3つに大きく分類できると思います。

①反発する人:当分、私とは仕事上で何の繋がりもない人でしょう。
②共感する人:いつか私と一緒に仕事ができる可能性がある人でしょう。
③共感し、実践する人:今すぐにでも、私と一緒に仕事ができる人でしょう。

難しい問題を解決していく真に強い組織とは、真に強い人々の集団です。それは③のように自らの意思で動く人々が、自ずと集まったときに生まれてくるのだと思います。この集団は、誰かの指示によって集まったというような集団ではなく、それぞれの自由意志と責任に基づいて生じた集団であり、互いに責任を擦りつけるような関係にはありません。そして、こうした集団が組織化されたとき、あらゆる不可能は可能になっていくと考えます。

言うまでもありませんが、私は自分が考える事業が必ず成功すると思っています。しかし、それでも、上記のような理由から、他人に対して、敢えて「成功する」という約束はいたしません。懇願したり、事業の成功を約束するという行為は、その人にとっての甘えとなり、結果的に事業の失敗を招くからです。

こうした考え方が卑怯だと思う方もいるでしょう。それはそれで、結構なことだと思います。ただし、そうである限り、けっして私と交わることもありません。あるいは、私のこんな考え方を単なる理想論だと笑う人がいるだろうとも思います。

しかし、私は遠からず、そんな理想的な組織が、必ず生まれると信じています。そして、それが可視化されていくことで、今まで不可能と思われていた事業の成功も、きちんと現実味を帯びてくるのだろうと思います。

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事業の本質と存在価値

2008年07月30日 | 会社

社会は、行き詰りつつあると思います。私自身、そうした問題が起こるであろうことが予測できなかったとは思いません。しかし最近、社会の仕組みに起因するような大きな問題が、私たちの生活に直結したダメージを及ぼす事象が顕著になり、メディアなどでも大きく取り上げられるようになったため、多少、現実味をもって、そうした問題について議論できるようになったような気がします。そして一方で、これから先、社会に対する不安感は、ますます増していくことになるのではないかと考えます。

けれども、当たり前のことながら、私ごときが「大きな問題に真剣に向き合え」と叫んだところで、何も始まりません。差し迫った危機感もないのに、心の底から解決策を見出そうとしないのは、至極当然のことでもあります。逆の言い方をすれば、いろいろと大きな問題がありながらも、それでも人々の生活が、それなりに成り立っているというのが、今日の状態なのでしょう。もちろん、困った問題が山積していることも事実ですし、困窮している方々が大勢いらっしゃることも間違いないと思います。しかし、それでも世の大多数の人々にとって、これまでの自分たちの生活や信じてきた価値観をガラリと変えるほど、死に物狂いで解決策を見出そうとする必要がないというのも、また事実なのではないかと思うのです。そうである以上、今日の諸問題が、社会的・世界的な問題であると言ったところで、それらはそれほど深刻ではないと言うことができるのかもしれません。

しかし私は、それはあくまでも現在の話であって、早晩、社会の大多数の人々が、死に物狂いで解決策を見出さなければならないような状況に陥るのではないかと考えています。世の中全体が、実際に良からぬ方向に動き出し、あらゆる分野での大きな問題が顕在化したり、深刻化したりしている現状において、何もせずとも明るい未来が待っているなどとは、到底思えません。

今の私にできることは、小さいながらも警鐘を鳴らしつつ、自分自身で実行できるアクションを淡々と進めていくことです。そのなかのひとつが、最近の会社設立でした。

私の会社は、社会的・世界的に深刻化している諸問題を解決するための第一歩として、入り口にある事業を進める実体とすべく立ち上げたものです。口先だけでも、他者に頼ってばかりでも、何も変わらないだろうという思いから、自らがきちんと実践していくためのかたちが必要だろうと考えたのです。

ところで、わりと公的な場所で、会社設立や事業立ち上げといった言葉を使うと、なかには眉を顰める方々もいらっしゃるようです。そういう方々からすると、会社や事業というのは、あくまでも個人の金儲けのために存在する卑しいものであり、社会全体を論じるような公的な場所に出すべき類の話ではないという考え方が、頭にこびりついているような印象を受けます。たしかに、それはひとつの側面としては当たっています。とくに、近年のように、金融手法を駆使した結果、実体経済とかけ離れて成長している事業が、成功事例と評価されるような社会的風潮があるなか、個人の私的利益ばかりを追求していると思われる事業が、多く見受けられるという点は、否定できないと思います。

しかし、そうした視点でのみ、私が考えるような事業の全てを説明しようとするのは、極めて不十分であり、また致命的な欠陥を有していると言わざるを得ません。むしろ、そういう考え方に支配されている方々の場合、自分たちが関わっている会社や事業が、金儲けに縛られており、そうした体験に基づいた先入観を通じて、私が考えるような事業を歪めて見ている可能性があります。つまり、事業は卑しいものと思っている方々は、自分自身が卑しいと思われても仕方ないかたちで事業をしている、あるいは関わっている可能性があるということです。

ここであらためて、整理したいと思います。

会社というのは営利目的で動いており、通常、会社が行う事業は、金儲けのためにあるものというのは、ごく一般的な考え方であり、それは正しいのだろうと思います。実際、成功している事業というのは、金儲けにも成功しているわけですし、金儲けをしたい人々が事業を興しているというのは事実でしょう。

しかし、それが全てではないとも思います。少なくとも、私が考えるような事業は、社会的・世界的な諸問題をいかに解決するかという意識から発しているものです。事業が営利目的で展開されるのは、そうした社会的・世界的諸問題を解決するために、その事業が成立しなければならず、それを成り立たせるための資金確保という意味で、金儲けが必要だからであると考えます。

これらをきちんと整理しなおすと、結局のところ、事業とは「社会のため」と「金儲けのため」を両立させることで、成り立つものなのだということでしょう。そして、よく考えれば、これは実に当たり前のことでもあります。

一般的に、「事業=金儲け」という図式が強調されているとしても、金儲けが成功するためには、きちんとお金を払ってくれる人々(利用者や消費者)がいるわけで、そこには社会ニーズが存在するのであり、社会が困っているということでもあります。即ち、金儲けができる事業というものは、困っている社会のために存在するということでもあるということです。これは「個人的な卑しい金儲け」とは、全く性格を異にするものであります。

これとは別に、時折「国家事業」という言葉を使う方々もいらっしゃいます。そこには、「国家」を冠ることで、「個人的な卑しい金儲け」との区別をしようとされる意図も見え隠れしますが、所詮「国家事業」も事業の一形態に過ぎません。「国家事業」にしてみても、当然のことながら、採算性を度外視するわけにはいかないのです。国家の責任ある方々が明確なビジョンを持って実行したときには、それは自ずと採算性が取れる「国家事業」として成立するわけですが、事業の本質として、金儲けをしなければならないという点は、等しく事業という意味において、その主体が個人だろうが、国家だろうが全く変わらないと言うことができるでしょう。

これらのことを整理しながら思うことは、私自身、特段、事業を成功させたいという強い願望があるわけではありませんし、そうした願望に基づいて会社を立ち上げたわけでもないということです。事業がうまくいかないということは、私が危惧しているような、社会的・世界的な危機が訪れないということなのでしょう。それはつまり、これからも世の中が平和であり続けるということなのだと思います。そうだとしたら、それはそれで、とても良いことです。

ポイントは、これからの世界において、私が考えるような事業が必要とされるのかどうかということだけです。その結果は、時間の経過とともに、自ずと明らかになってくるのでしょう。

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小さなスタート

2008年07月17日 | 会社

諸事情あり、会社を立ち上げました。

ブログの内容について、之を口に言うのみならず、躬行実践以って・・・。

さぁ、これから世の中が変わります。

コメント (2)
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