常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

思考法を鍛える重要性

2010年04月28日 | 教育

中学時代、数学の授業(たしか中学二年の最初の数学の時間だったと思います)で、「点」の定義を考えさせられました。中学生なりに、あれこれ考えて、それぞれ自分たちの意見を出してみるのですが、なかなか正解が出ません。ことごとく先生に穴を突かれて、ダメ出しを食らうのです。この時、定義というのは、厳格にそれを定めるものであり、いかなる反論にも耐えられるものでなければならず、かなり神経を使って考えなければならないものだと感じました。

最終的に、先生が教えてくれた「点」の定義は、「位置があって、大きさがないもの」というものでした。それまで、「当たり前にある」と思っているものの概念について、いちいち「定義」なるものを考えたことがなかった私にとっては、とても新鮮な体験でした。

この後、「直線」や「三角形」等の定義を考えていくのですが、子供ながらにいちいち「なるほど」と思わされたものです。定義された「点」を使って「直線」の定義が生まれ、さらにその定義された「直線」から「多角形」の定義が生まれていく過程は、実に見事でした。これらの定義は、最初の「点」の定義、謂わば土台の定義がしっかりしているからこそ成り立つものであり、もし「点」の定義が崩れてしまったら、それ以降の定義が全て危うくなるという点においても、大変、興味深かったことを覚えています。

その中で、未だによく分からないのが「円」の定義です。クラスメイトがどんな答えを出したのか、まったく覚えていませんが、自分なりには、相当の自信を持って答えを出した覚えがあります。

-ある点から同じ距離にある点の集まり-

これしかないでしょう!と思って答えたところ、即座に先生からの尋問がありました。

■先生
「点」の定義は何だい?

■自分
位置があって大きさがないものです。

■先生
ほぉ?んで、大きさがないものの集合って、一体何かになるのかい?

■自分
・・・(ぎゃぁっ!!)

たしかにその通りです。そして結局、この「円」の定義については、先生も正解を教えてくれませんでした。以降、この問題は、私の中で未解決のままです。たまに、「点の集合じゃなくて、点の集合で切り取ったもの?あるいは「線」を定義して、それで説明する?」等と思ってみたりしていますが、私は数学者でもないので、今はほとんど考えないようにしています。

ただそれでも、私としては、こうした体験を通じて、思考法を学ぶ楽しさを知りましたし、またそれがとても大切であると思うようになりました。答えの正誤も重要ですが、それを導く過程で、どのように思考しているのかというのは、その人間の生きる力そのものであり、これを軽視するわけにはいかないと思うのです。特に現代のような時代では、なおさらのことでしょう。

臨機応変に対処する、柔軟に物事を捉える、解決策を見出す・・・といった能力は、まさに思考法の問題です。つまり答えの正誤というよりも、どのように思考するかという点がポイントだろうということです。これは、諸々の価値観やシステムが限界を迎え、新しい仕組みが必要とされる現代においては、ますます重要性を増していくだろうと考えます。そういう意味で、今後の子供たちの教育において、こうした思考法の鍛錬というのは、さらに重視されるべきだと思うのです。

また、私としては、この数学の授業における「点」の定義の位置づけについても、なかなか面白みを感じています。つまり、二次元の平面世界を考えていく中で、「点」の定義が、極めて基礎的な地位を占めており、その積み重ねの上に、二次元世界の解釈が成り立っているということです(厳密に幾何学の世界で、「点」の定義がどう論じられているかはさておき、中学生の時分にひとつの幾何学的な解釈を試みる中で、全てが「点」の定義から出発しているという点に、極めて重要な意味があると考えます)。

そして、こうした問題は、幾何学の世界に留まらず、広く自然科学、社会科学を含む、科学全般に通じて言えることだとも思います。

若干、別の話かもしれませんが、例えば、物理の世界においては、上記の話における「点」の定義、つまり全ての議論の土台、基礎ともなるべき素粒子については、まだまだ分からないことだらけというのが実情です。これは即ち、物理の世界が極めて曖昧であることの証左でもあります(「優等生なアインシュタイン」、「揺らめく現実世界」等参照)。

基礎が定まらずして、その上が盤石であるはずがありません。「点」の定義が揺らげば、「直線」や「三角形」の定義が揺らぐでしょうし、「点」の定義に不備が認められれば、それ以降の定義は、全て見直しをせざるを得ないわけです。現代の物理学というのは、そうした心許ない状況にあるとも言えるでしょう。そして、このような問題は、物理に限らず、あらゆる科学に通じて言えることだと思うのです。

子供たちに、科学的知識を植え付けることは重要です。しかし同時に、「科学の危さ」を認識した上で、それを紐解くための思考法を授ける、あるいは思考能力を伸ばすための努力も、同じように重要なのではないかと思います。近年論じられる、独創性のある子供、創造性のある子供を育てるということは、即ち、思考法を鍛錬するということでもあるしょう。私なりには、思考法を鍛錬する新しい教育を実践するため、「点」の定義を考えさせるような授業の中に、何かしらのヒントが隠れているように思えてなりません。

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呼び起こすべき子供の良心

2010年03月21日 | 教育

子供を叱るのも、常に真剣勝負です。甘く見てはいけません。

子供の叱り方などについては、ノウハウ本のようなものも出ていますが、個人的には、あまりそういうテクニックに頼りすぎるのもどうかと思います。要は子供の人格を認め、きちんと尊重しつつ、また自分の言葉にも重みと責任を持って、語りかけることが大切だということでしょう。テクニックは、その結果論と見ることができます。

子供を叱っていると、屁理屈をこねられるということもあると思います。

-こういう風にされたら嫌でしょう?-

-ううん、僕(私)は平気だもん・・・-

こんなやり取りになってしまうと、多くの親は、そうした屁理屈に対して、「言い訳するな!」とコミュニケーションを切ってしまうようです。しかし、それでは親の負けです。

念のため、はっきりさせておきますが、親が全体の状況を把握できていなかったり、子供の側にも言い分があるにも関わらず、それを十分に聞かないまま叱るのは論外です。ここでは、そうした全体把握を十分にした上で、子供が悪いことがはっきりしている状況下における叱り方を論じています。

子供がしたことが、本当にやってはいけないことであれば、子供は子供なりに、悪いと思っているはずです。子供が悪いことをしたのが明白であるにも関わらず、屁理屈をこねるのは、子供がそれを素直に認めたくないからだと見るべきでしょう。つまり、子供には子供なりのプライドがあって、親に対してささやかな抵抗をしているわけです。

そういう意味で、子供の人格を尊重しながら叱らなければならない親としては、ここからが勝負です。私の場合、このようなケースにおいて、子供のプライドを守りつつ、彼らを諭すために、今後に向けた約束をすることにしています。

-分かった。でも他の人は嫌なんだから、今後、同じことをするなら○○にしよう-

屁理屈に対して、グダグダ話しても仕方ありません。ただ本当に間違っていることをしているのならば、親は、それが他の人に迷惑にならないように対処しなければなりませんし、そのことをきちんと子供に対して宣言しておく必要があります。他人が嫌がったり、迷惑になる言動を繰り返すというのであれば、子供に対して、今までと違う待遇にしなければならないことを伝えるのです。

これに対して、子供は「うん」と答えるしかありません(「嫌だ」と答えたら、「じゃあ、これからは止めようね」ということで話は終わります)。これが親と子供の約束になります。その約束は、叱られている子供にとってネガティブな条件(行かれない、食べられない、遊べない等々)になりますが、子供が自分で間違っていると思っていれば、口答えできないので、その条件は飲まざるを得ません(子供が間違っていると思っていなければ、何かしら他の言い訳をするでしょうから、その場合には、真摯に耳を傾けなければならないでしょう)。

ここまでの約束ができたら、あとは見守ることです。親は、それ以降、同じような場面で、子供がどのように振る舞うかをきっちり観察しておくのです。そして、そこでもし、子供が前回と違って、正しい振る舞いができたら、きちんと褒めてあげることが大切です。

-見てたぞ、良くできたな-

ここまでで、ひとつの教育完了です。この時点で、子供に対してネガティブな条件を飲まされるという約束は、実行されなくて済むことになります。つまり、すべてが円満に片付くわけです。

私の経験上、子供がどんな屁理屈をこねたとしても、上記のような約束させれば、なんだかんだ言いながら、それ以降は、きちんと言ったとおりの言動をしてくれるようになってくれます。つまり、子供に対して、行かせない、食べさせない、遊ばせないなどの条件を飲ますことはなく、きちんと親の言うことを聞いてくれるわけです。そして、それを褒めてあげると、なかなか照れくさそうにしたりします。

ここから私が感じることは、どんなに屁理屈をこねようが、言い訳をしようが、子供たちは子供たちなりに何が良くて、何が悪いかを感じ取ることができているということです。親が間違いを指摘した瞬間、一時的に屁理屈をこねて抵抗しようとも、本当に悪くないと思っているわけではないのです。そういう意味で、親としては、そうした一時的な子供の抵抗にカリカリするのではなく、冷静に子供の良心を呼び起こしてあげるような叱り方をしなければいけないのだろうと思います。

大人の方が弁が立つし、腕力もあるのは当然のことです。そういう意味で、親が子供を力でねじ伏せるのは、とても容易なことだろうと思います。しかし、それは親の慢心であり、大人の驕りです。子供を叱る際には、そのような力技でなく、子供を一人の人格ある人間として尊重しつつ、彼らがいかに間違っているかを諭し、二度と同じ過ちを繰り返さないように導いていかなければなりません。子供たち自身の良心を呼び起こしてこそ、叱る意味もあるというものです。

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夢を持った学生が集う場所

2009年12月21日 | 教育

先日、母校・慶應義塾で「准教授」なる肩書きをお持ちの方とお話をしました。その方曰く、「最近の学生は無反応でしょ?夢もないみたいです」ということで、大変びっくりしました。

私も、慶應義塾の学生たちとは、しばしば会って話をすることがあります。そして、私と会って話をしている彼らは、けっして無反応ではありませんし、夢がないわけでもありません。彼らは彼らなりにきちんと問題意識を持っていますし、こうなって欲しいという思いも抱いているようです。しかし今、教育機関で「先生」と呼ばれる方々が、彼らに希望や夢を与えられるような話をできていないケースが多く、特にそういう「先生」に対しては、学生側が無反応にならざるを得ず、また夢を語ることもできないというのが現実ではないかと思うのです。

即ち、学生を無反応にしてしまい、夢を語らせることができないということ自体が、この激動の時代の中で、次のパラダイムを示せていない「先生」の無能さを示していると思うわけです。冒頭の「准教授」の発言は、学生側の問題ではなく、逆に慶應義塾の教員や教育レベルの低さを露呈している可能性があるという意味で、きわめて深刻に受け止めるべきではないかと思う次第です。

そもそも慶應義塾というのは、幕末から明治にかけての激動の時代にあって、藩校のような社会制度の枠組みの中に育った教育機関ではありません。福沢諭吉という一人の教育者によって創始された私塾です。そしてまた、彼自身も適塾という私塾に学びました。説明するまでもなく、当時の私塾というのは、それを開いた個人の資質によって、新しい時代に必要な教育を施していくものでした。そこに多くの若者が集った理由は、私塾を開いた「先生」が夢とビジョンを持っており、そこでそれに相応しい知識や概念を学ぶことができたからでしょう。こうした私塾に集う学生たちは、「先生」たちと同じように大いに夢を持っていただろうし、またそれらを語り合えたのだろうと推察します。

かつて私塾の雄とも呼ばれた慶應義塾の教員から、冒頭のような言葉を聞くと、いよいよ同塾も、そうした私塾としての歴史的役割を終えてしまうのではないかと思えてなりません。それはいよいよ、さらに新しい時代において、さらに新しい私塾が生まれるのではないかという予感でもあります(「私塾の時代」参照)。

もう少し踏み込んで言えば、「師への最高の恩返しは、師を越えることである」とすると、慶應義塾で学んだ者が為さなければならないことは、師・福沢諭吉の慶應義塾を越える私塾を創始することなのかもしれません(「先人たちへのご恩返し」参照)。

以下、私が中学時代に暗唱させられた慶應義塾の目的です。

=======================
慶應義塾は単に一所の学塾として自から甘んずるを得ず。其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言ふのみにあらず、躬行実践、以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり
=======================

新しい時代において、本当に新しい私塾を創設しなければならないかどうかについては、まだ結論を出す必要はないだろうと思います。しかし、師が唱えた慶應義塾の目的を常に念頭に置きつつ、それを達成するためには、一切の妥協をするべきではないと考えています。それが結果として、全く新しい私塾の創設に繋がるとしても、それは上記の慶應義塾の理念に反するとは思いません。

これからの時代において必要なことは、きちんと夢を持った学生が、それを実現できるという希望を持って集える場所だと思うのです。そして、それが時代の要求であるならば、自ずとそうした教育機関が生まれることになるでしょう。

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子供の良い所を育てる

2009年12月13日 | 教育

この週末、多くの時間を子供たちと過ごしました。

土曜日はキッザニア、日曜日は国立科学博物館で開催されている大学サイエンスフェスタというイベントに行って来ました。両方とも、子供たちが強く「行きたい」と言っていたものです。親の立場からすると、どちらも子供の教育のために、大変良いものであり、またこのように子供たちが強く意思表示をしたものについては、そのきっかけをうまく汲み取ることが、親にとって、とても大切なのだろうと思っています。

よく聞く話ですが、とかく教育を頑張ろうと思う親は、自分が考える型に子供をはめてしまい、それがかえって、子供の反発を招くということになりがちのようです。結果として、子供はなかなかうまく育ってくれないことになります。それは、子供の意思を無視した一方的な親の押し付けが原因なのだろうと考えられます。

子供たちは、必ずそれぞれ良い所を持っているものですし、それは彼らの言動の中に、きちんと表れているのではないかと思います。そして、そうした良い所を伸ばしてあげれば、子供たちは大きく立派に成長していくことになるのでしょう。そうした意味で、「××に行きたい」、「××をやりたい」、「××を見たい」というのは、子供たちが伝えてくれている大切なサインだと考えられます。親としては、こうしたサインを見逃さず、子供たちの良い所を、どんどん伸ばしていきたいものです。

-子供が学業に向いてくれない-

こんな悩みもあるでしょう。しかし、そんな不満ばかりをぶちまけてしまったら、それは、ただの「親が考える理想型」になってしまいます。大切なことは、子供に学業の大切さや楽しさを感じ取ってもらうことであり、自ずと興味を持ってもらえるような流れを作り出すことなのでしょう。子供に対して、学業を一方的に押し付けるのではなく、子供と対話をしながら、彼らを導いていく先に、たまたま学業があるという具合かもしれません。こんなイメージで子供と向き合うためには、親の側にも、相当な準備が必要になるでしょう。そもそも「学業とは何たるか」について、親がきちんと理解していなければ、そのあたりの曖昧さを子供に見透かされてしまうことにもなります。そういう意味で、教育は文字通り真剣勝負です。

私自身、子供を抱えている親であり、これらを完璧にこなしているとは思いません。ただそれでも、常に上記のような問題意識を持って、自問自答を繰り返しながら、最終的に、きちんと胸を張れる子育てをしていきたいと思うのでした。

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学校教育の有難み

2009年12月09日 | 教育

小学校の授業参観に行ってきました。教育現場の問題については、メディア等でも、いろいろと取り上げられているところですが、私自身の感想としては、本当に良くできているものだというものでした。いや、良くできているというよりも、大変、有難いという感覚の方が適当かもしれません。

休日や平日の夜、子供たちの面倒をみたり、一緒に遊んだりということはありますが、正直、毎日それをやれと言われても、何をして良いのか分からなくなるでしょうし、実際、そんなことはできないだろうと思います。学習面についても、スポットで自分がしたい話をするくらいならともかく、総合的な視点から、どのように勉強をさせたら良いのか等、到底、思いつきません。

そんな中、公の機関として存在し、経済的負担をかけずに、子供の教育を助けてくれていることに対しては、単純にとても有難いと思うのです。同時に、子供を預ける側の親として、そうした感謝できる心を持つということは、非常に大切なことではないかと考えます。

冒頭に触れた、メディア等で取り上げられる教育現場の問題については、子供や先生だけではなく、親の問題も含まれると考えます。もちろん、社会全体で見たとき、子供や先生の側に全く問題がないとは言えないと思います。親として、一所懸命やっているにも関わらず、とんでもない子供や先生がいるおかげで、大変な迷惑をしているというケースも少なくないでしょう。しかし、「モンスターペアレント」という言葉もある通り、学校教育の現場において、親が問題の種になることも多々あるわけです。私としては、学校教育について「親」としての立場で関わっていらっしゃる方々には、少なくとも自身が「モンスターペアレント化」しないことこそが、教育現場の問題解消に繋がると申し述べておきたいと思います。

他の子供たち、あるいは先生たちのせいで、自分の子供の教育がうまくいかないという怒りや苛立ちを覚える方は、一度、「一切学校に通わせず、全て自分だけの力で教育する」ということを真剣に考えられることをお勧めします。きっと、いろんな意味で、大変なことになるだろうと思います。そのシミュレーション(シミュレーションができないようなら、実際にやってみるのも良い)を十分に行えれば、学校教育の有難さを知ることができるようになるでしょうし、結果、自身が「モンスターペアレント化」することもなくなるでしょう。

現在の学校の仕組みが、絶対であるとはけっして思いません。実際、その仕組み故に、「モンスターペアレント」を生み出しているという側面もあると思います。また、子供や先生たちに問題がないと言い切るつもりもありません。改めるべきは改めなければなりませんし、その努力は常に求められるだろうと思います。私個人の話で言えば、時代が移り変わっていく中、少なくとも自分の孫たちの世代では、現在の学校システムに代わる新しい学校教育の仕組みが必要であろうと考えていますし、それはそれで、自分のテーマとして取り組んでいく考えです。そうした変革の努力を否定するものではありません。

ただそれでも、今日において、現在の学校教育のシステムが機能してくれていることには、大いに感謝すべきだろうと思いますし、そうであるからこそ、明日の新しい仕組みの在り方が見えてくるのではないかと思います。そして、そう思えた方が何よりも楽しいですし、明日の建設的な話し合いに繋がるのではないかと思うのです。

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教育者・福沢諭吉の魅力

2009年08月24日 | 教育

福沢諭吉という方は、言葉や議論することの限界をわきまえていた人物だったような気がします。彼は、赤穂浪士について以下のように語っています。

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例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果たして義士か、不義士かという議論が始まる。すると私はどちらでもよろしい。義か不義かは、口の先で自由自在。君が義士と言えば、僕は不義士にする。君が不義士と言えば、僕は義士にしてみせよう。さぁ来い。幾度来ても苦しくないと言って、敵になり味方になり、散々論じて勝ったり負けたりするのが面白いというくらいな毒のない議論は毎度大声でしていたが、是非を分かってもらわなければならぬという実の入った議論をしたことは決してない。
==============================

要は、赤穂浪士を義士にすることもできるし、不義士にすることもできるということです。相手が「義士だ」と主張すれば、「不義士」にすることができるし、「不義士だ」と言われれば「義士」にしてみせるわけです。それは、赤穂浪士が義士か不義士かのどちらであるかという議論に本質があるのではなく、どちらにもなり得るということ自体に、物事の本質が潜んでいることを見抜いていたということでしょう。だからこそ、赤穂浪士が義士か不義士かという議論そのものについては、「実の入った議論をしたことがない」という言葉が出てくるのだと思うのです。

この感覚、私なりには落とし込めているような気がします。物事の本質が、決め付けられない以上、それを特定の視点から決め付けようとするものに対しては、その真逆から応戦するような感覚でしょう。私が、このブログに「常識について思うこと」というタイトルを冠し、「常識」という決め付けようとする力が働くものに対して、「非常識」的な視点を持って、その「常識」と思しきもの自体に本質が宿らないことを説いてみせる感覚のような気がするのです(「期待する好試合」参照)。

本質が議論そのものに宿らないという意味で言うと、私がこのブログに書いていることは、時代が移り変わって「常識」の中身が変わってくると、それが持つ意味もだいぶ変化してくるということです。そうしたことからすると、私が書き連ねていることも、本当のところ、福沢諭吉が言うように「実の入った議論ではない」ということになるのかもしれません。

いずれにせよ、物事の本質を知ってしまえば、ある事象を指す言葉やそれを巡る議論というのは、所詮、無数にある見方のうちのひとつであり、どこか特定の視点から眺めた結果に過ぎないということを受け入れざるを得ません。福沢諭吉という人物は、そうした言葉や議論の限界をよく知っていたのでしょう。私としては、そうした限界を知っていることも、彼の教育者としての魅力だったように思います(「教育は共育なり」参照)。

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私塾の時代

2008年12月05日 | 教育

時代の転換期において、教育機関は新しいところから生まれてきます。

近代国家日本が生まれる幕末から明治維新にかけての時代、大きな役割を果たした若者たちが学んだのは、吉田松陰の松下村塾などに代表される私塾でした。私塾では、新しい時代を先取りした力強い教育者と、その時代のウネリのなかで危機感を抱きつつ、未来を切り開こうと自発的に学ぶ若者たちが、数多く活躍しました。

一方で、江戸を中心とする幕藩体制のなかにあって、教育機関として広く発達してきたのが藩校です。藩校は、幕藩体制のなかに組み入れられたかたちで運営されており、その体制を支える人材を多く輩出してきたと言えるでしょう。

時代の転換期においては、当然のことながら、旧来の価値観よりも新しい価値観に基づいた行動の方が、新しい社会作りに貢献していくことになります。このことは、既存の仕組みの中で発達した藩校で学んだ人々よりも、新しく生まれてきた私塾で学んだ若者たちの方が、次の時代を創る力を備えていたことを意味しており、そしてまた、それは歴史が証明しているように思います。

私は、幕末の私塾、慶応義塾の創設者である福沢諭吉という人物が、こうした歴史のなかを生きつつ、私塾の本質と重要性について、よく理解していたのではないかと考えています。彼は、大阪の私塾である適塾において蘭学を学び、その後、樹立された明治政府とは一線を画し、あくまでも私塾というかたちを守り続けて、新しい社会を切り開く人材の育成に尽力しました。

もちろん彼が、明治政府樹立以降も、私塾にこだわった理由には、もっといろいろなことが考えられます。詳述は避けますが、私自身、そこには彼が「脱亜入欧」を唱えながら、それが完璧な答えでないことを知っており、また明治政府の樹立に至るまでの過程で、その関係者が、さまざまな矛盾を抱えていたことも、彼が明治政府と一線を画していた大きな理由ではないかと思っています。それは、彼が提唱する「独立自尊」の精神とも合致しており、日本国政府を頼らずとも、新しい社会を作り続けようとする姿勢の重要性を訴えているように感じます。

視点を現代に移すと、これまで発達してきた教育機関は、程度の差はあれ、どれも既存の社会システムや価値観の中で生まれてきたものです。福沢諭吉が創設した慶応義塾も、彼が唱えた「脱亜入欧」のなかで、範とすべき「欧米」の価値観やシステムが、大きな曲がり角に入り、次の時代に通用する新しい価値観を提唱できないという意味で、もはやかつての私塾としての役割を果たすことができなくなってきていると考えます(「脱亜入欧の終焉」参照)。これは、私塾として始まった慶応義塾ですらも、現代においては「藩校」化してしまったということです。

ここからは私の個人的な見解と、実現しようと考える教育システムの要点です。

次の時代において、「脱亜入欧」が通用しないようになるのであれば、いかにして日本が主体的に世界をリードできる存在として、自らを磨いていくかという観点が大切になるでしょう(「世界のリーダーたるべき日本」参照)。

また、既存の学問体系という意味では、最先端の科学が探求している未知の領域について、一部宗教的とされる概念を織り交ぜながら、新しい総合的な学問体系を構築していく必要があります(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」、「確からしい四次元の存在」等参照)。

さらに、活きた学問を追及していくためには、タブーを許さない自由で活発な議論が必要であり、そのためには、自由な言論が許されるオープンなメディアの構築が必要になってきます(「通信と放送の融合」参照)。

こうしたことを踏まえて、次の時代における教育機関は、単に蓄積された知を、学問として後身に伝えていくだけではなく、学生たちとともに、次の時代を創造していくための新しい価値観や学問体系を、共に育てていくような役割を果たしていかなければなりません(「教育は共育なり」参照)。

これらは、現存する教育機関でも、既に試みられていることではありますが、真に新しい時代を創造していくための価値観やシステムを構築していくには、まったくもって足りていません。かつての幕末時のように、もっとそれぞれの「個」が輝きを放ちながら、新しいものを創造していかなければならないのです。

学歴社会の崩壊等ということが、言われるようになって久しいですが、実際に、学歴社会は、いまだに脈々と続いています。まだ学歴には大きな意味がありますし、それによって、個人の社会的影響力が決定付けられるという側面が、残っていることは事実でしょう。

しかし、学歴社会の崩壊は、必ず起こると思います。それは、これからが本当の意味での実力の時代(「社会を作る「実力」の時代」参照)であるということであり、これまでの教育機関における学歴が、まったく通用しなくなることを意味します。

こうした新しい時代を迎えるにあたって、このチャンスを活かすも殺すも、各個人の選択に委ねられています。とくに現代における「優秀な藩校」出身のエリートの方々は、十分に注意してください。これから先、「藩校」の名前にあぐらをかいていたら、必ずや「エニート」の人々に足をすくわれることになると思います(「「エニート」の強みと誇り」参照)。

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「ゆとり教育」から学ぶこと

2008年07月03日 | 教育

いわゆる「ゆとり教育」を推し進めた方の講演を聞きました。講演そのものは立派でしたし、私自身、その方が自分なりの確固たる信念を持って、それを進めてこられたのであろうことに敬意を表したいと思いました。

しかし、現在を生きる私たちは、常に明るい未来を切り拓きながら進んでいかなければなりません。将来の教育をどうするかに関して真剣に考えるとき、過去の事象について、手放しで賞賛するわけにもいかないように思います。そういう意味で、あえて以下、その講演で語られた「ゆとり教育」から学ぶべきことについて、私なりに整理をしたいと思います。

① 多様性を認めるなら社会作りまで
「ゆとり教育」の柱のひとつは、多様性への対応だったようです。昭和というのは、画一的な人材を育ててきたし、それが良しとされてきた時代だったといいます。たしかにその通りなのでしょう。昭和のように成長を続ける社会というのは、社会全体の方向性が定まっており、ある特定の才能を決まった方向に活かすことで、きちんとその社会における生産活動を展開することが可能でした。画一的という見方もありますが、それだけ社会の方向性が定まっていたが故に、それに合わせて人材を輩出すればよかったのだろうと思います。

これに対して、平成では社会の方向性が定まらず、社会全体が進むべき道を見出すところから始めなければなりません。平成というのは、そういう状況にあっては、あらゆる人材が、それぞれの才能を活かして、各自の役割を果たしていかなければいけない時代であるということなのでしょう。この考え方にしたがって、教育の場でも、特定の限られた科目での学力だけではなく、いろいろな体験を通じて、それぞれの才能を伸ばしていくという発想は、非常に良いことなのではないかと思います。

しかし、せっかくそのようにして、多様な才能を伸ばしたところで、社会においてそれらが評価されなければ、結局、社会的には厳しい地位に甘んずるしかなかったり、場合によっては、いわゆる「負け組」のレッテルを貼られて、痛い目に遭ってしまったりということにもなるでしょう。教育をする側が、「このやり方で大丈夫だ。頑張れ、できるはず」と言ったところで、実際の社会に出ていくのは、教育を受けた側の人間です。そのやり方が、きちんと実社会において評価されていなければ、辛い思いをするのは教育を受けた側の人間なのです。

このような観点から、教育者がよかれと思う教育を進めていくことは重要ですが、その教育を受けた人間が、きちんと評価されるような社会作りを怠ってもいけないと思います。社会作りは、教育者の仕事ではなく、政治家の仕事であるという言い方もあるかもしれません。しかし、そうであるならば、その教育者は自らの教育方針について、「これが絶対に正しい」と自信を持って、推し進めてはならないし、そこには謙虚に自分の限界を受け入れる必要があるのだろうと思います。多様な才能を育てるということは、同時にそうした多様性を受容する社会作りをしていくということも求められるわけで、これからの教育にとっては、こうしたことが非常に大切なことになるのではないかと考えるのです。

② 評価尺度の限界を教えよ
学力などのテストの点数だけではなく、多様な才能を伸ばすということは、とても素晴らしいことなのだと思います。そうした考え方の一環として、勤労体験や自然体験を通じて、多くのことを学んでもらうということも重要でしょう。テストは、あくまでも自分ひとりの力を試すものですが、勤労体験を通じて他者と協力する重要性を知ることもあるでしょうし、自然体験を通じて人間が他生物との関わり合いのなかで存在していることに気付くかもしれません。教育の現場において、いわゆる頭の良さだけではなく、人格や人間性を育てていこうという視点を持つことは、非常に大切なことだと思います。

しかし、一方で学力が低下している、あるいは他国と比べて落ちているといった議論があるなかで、そうした批判に対して、どのように答えるのかという解を持つ必要もあるかと思います。

学力には、いくつかの考え方があるでしょう。そのなかで私は、一般的にテストの点数に反映される学力というのは、単純な知識や(非常に複雑なものも含めて)合理的とされる思考法、あるいはそれらの組み合わせを確認するものがほとんどではないかと考えます。こうしたテストの中身は、今までを生きてきた大人たちにとってはとても大切なことで、目に見えるかたちで、分かりやすいものではあります。しかし、現代社会は行き先を見失っているのであり、大きなパラダイムシフトが起ころうとしているという意味で、今求められるのは、最先端の科学でも分からないことをどのように探求していくか、今まで認められていなかったような思考法をいかにして生み出していくか(このことがまさにパラダイムシフト)ということです。そして、これらはいわゆる一般的なテストの点数には、反映されないということです。こうした意味で、「テストには限界がある」ということが、もう少しきちんと主張されてもいいように思うのです。

そして、同時に必要なことは、これからの時代において、いかにそうした新しい才能が求められるかを語ることでしょう。テストは、所詮テストであると堂々と言うからには、社会的ニーズや時代の潮流を交えながら、何が求められるかをきちんと説明する必要があります。それらをきちんと説明したうえで、テストという評価尺度に限界があることについて語ることは、極めて大切なことなのではないかと思うのです。

③ 明確なビジョンと理念を持つ
教育が方向性を見失ってしまう理由は、社会全体が進むべき道を明確に示せていないからでしょう。そういう意味で、子供たちに対して、そうした不透明な時代において、進むべき方向性を見出せる能力を伸ばしてもらうというのも結構なことでしょう。しかし、それを教育の場を通じて、子供たちに一方的に押し付けるのは、大人の傲慢ではないかとも考えます。つまり、大人ができもしないことを子供に押し付けるなどというのは、あまり見栄えがいいものではないと思うのです。もし大人たちが、これからの社会が進むべき方向性を見失っているのであれば、大人は子供たちに対してもっと謙虚であるべきです。

反対に、大人が教育者として、堂々と子供たちに接しようというのであれば、大人たち自身がきちんと明確なビジョンと理念を持つことが求められて当然ではないかと思います。教育者たるものが、そういう明確なビジョンや理念を持つことをせず、それは政治家の仕事であるなどと言ってしまうということは、許されないのではないかと考えます。

上記のような意味において、現代社会における教育者が、教育のことだけを考えるというのは適切ではないと思います。社会全体をいかにリードしていくかという理念やビジョンが投影されたところに、自ずと教育のあるべき姿が見えてくるのではないかと思いますし、教育者自身が、そうした理念やビジョンを持つことが、現在、最も求められているのではないかと思うのです。

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教育は共育なり

2008年01月18日 | 教育

昨日、文部科学相の諮問機関である中央教育審議会が、次期学習指導要領の改定方針をまとめたというニュースがありました。以下、同審議会によってまとめられた「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」答申からの抜粋を含めて、私が思ったことを簡単に整理したいと思います(答申は151ページから成り立っており、分量の問題もあるため、その中身について細かく取り上げることができない点は、ご容赦いただきたいと思います)。

まず総論として、書かれている内容は大変素晴らしいと思います。また、現在の閉塞感ある社会状況のなかで、教育という観点から、何とかしてこれを打開していこうという試みを続けているということ自体、評価されるべきことでしょう。具体的な方策や実質的な効果が望めるかといった議論はさておき、とにかく次世代のためにできることとして、教育を何とかしようという問題意識から、大人としての責任を果たそうとすることは、非常に大切なことだと思います。

続いて内容についてですが、この答申は「生きる力」を育むことを基本理念においています。答申によると、その理念と「生きる力」の関係については、以下のとおり述べられています。

「変化の激しい社会を担う子どもたちに必要な力は、基礎・基本を確実に身に付け、いかに社会が変化しようと、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性、たくましく生きるための健康や体力などの「生きる力」であるとの理念に立脚している。」

このなかで私は、とくに「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え」という部分が重要であろうと考えます。また別のページでは、以下のようにも記述されています。

「基礎的・基本的な知識・技能の習得やそれらを活用して課題を見いだし、解決するための思考力・判断力・表現力等が必要」

つまり単純明快。教育の要は、「自ら課題を見出し、それを解決していく力を伸ばすこと」にあるわけです。

それと、もうひとつ、けっして見逃すことができない重要なポイントがあります。以下も、答申からの抜粋です。

「しかも、知識・技能は、陳腐化しないよう常に更新する必要がある。生涯にわたって学ぶことが求められており、学校教育はそのための重要な基盤である。」

当たり前のことですが、学習は生涯にわたって必要であり、学校はその基盤に過ぎないということです。つまり、学校教育が終わったとしても、生きている限り大人も学び続けなければいけないということです。さらに別の場所では、次のような表現が使われています。

「社会の構造的な変化の中で大人自身が変化に対応する能力を求められている。そのことを前提に・・・(以下略)」

私がこの答申を素晴らしいと思ったのは、子供にだけ一方的に「教育のなんたるか」を押し付けるのではなく、これをとりまとめた大人自身が、「生きる力」を育んでいくことを宣言しているところです。そして、もう少し突っ込んで言うならば、子供に対する教育の現場で、大人のそうした姿勢をきちんと示していくことが肝要であると思います。

「大人も学んでいる。子供も学べ。」
「大人も「生きる力」を育てている。子供も「生きる力」を育てよ。」

このことは、大変勇気がいることです。大人にも至らない点があると素直に認めることは、なかなか受け入れ難いことかもしれません。しかし、それはとても大切なことです。

今、社会を動かしている大人にとっての課題とは何でしょう。今の大人は、「生きる力」の根幹である「自ら課題を見つけ、それを解決する力」を持ち合わせているでしょうか。

目前に迫りつつある人類にとっての最大の課題、「いかに地球に住み続けるか」という問題をきちんと見つめ、それについての解決策を見出し、実行し、実現できていない限り、大人はいつまでたっても「至らない」存在です。その点、大人は謙虚にならなければいけません(至らない存在であることを認めて謙虚になることは、卑屈になるのとは大いに違うので、その点は注意が必要です)。

もう少し具体的に、例えば科学の教育の現場において、科学で分かっていることを教えることだけが、教育ではないという点は重要です。教育者は科学の教育現場で、今の科学をもってしても、いかに分かっていないことが多いかを、子供たちに伝えていくことも立派な教育のかたちであることを認識しなければなりません(「万能でない科学」、「アイディアの重要性」等参照)。いかに科学が至らないかを伝える教育者は、自ずと自らを「至らない」存在であることを認め、謙虚になることができるし、また子供からしてみれば、「科学」の未知の分野を発掘・開拓していこうという意欲を掻き立てることになります。

教育という観点から、子供はもちろん、大人にもしっかりと頑張ってもらいましょう。そしてまた、共に頑張っていきましょう。

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強い子供の育て方

2007年11月19日 | 教育

~~「やられたら、やり返せ!やっつけるまで帰ってくるな!」~~
~~私は、いつも親にこう言われて、強く育てられました。~~

テレビ番組などで、子供のたくましい育て方として、こういった親の言葉が紹介されることがあります。私は、こうしたやり方を否定するわけではありません。実際、いじめっ子になめられると後々まで引きずるし、どこかでガツンとやってやることは重要なことだとは思います。

けれども「やられたら、やり返す」、「目には目を、歯には歯を」的な発想から、そろそろ抜け出していかないといけない時代に入ってきているのではないかとも思います。兎角、今の時代は競争社会で、子供から大人までの誰もが先を争って生きていますが、「力をもって、力を制す」といった考え方や価値観には限界がきているし、このままでは人間も世界もひどく疲弊し、いずれ破綻をきたすような気がしてなりません。

たとえば、子供でいえば学校の成績。社会人でいえば年収やキャリア。企業でいえば業界シェア。国家でいえば軍事力や経済力。

みんなが先を争えば争うほど、それがエネルギーとなって、世の中が便利になったり、技術が上がったりするのも事実ですが、一方で戦争やら環境破壊やらで、目に届かないところで多くの人々が苦しめられたり、自分たちが住む地球をダメにしてしまうような事態が引き起こされつつあるのも、紛れもない事実ではないかと思うのです。

「やられても、グッと我慢しろ。お前が正しければ、いつか相手がその間違いに気付くはずだ!」

私は明示的に子供たちに対して、こんなことを言っているわけではありませんが、これからの世界のあり方として、私はこれからの子供たちには、こう言ってあげたいと思います。

先日、ある子供向けのプレイランドでの出来事。

プレイランドで息子を遊ばせて、私はボーッとベンチに座っていましたが、プレイランド内で遊んでいた息子が、ふとやって来て、私の横に座り込みました。

「もう遊ぶのを止めたのかな?」と思っていると、息子を追ってくるように、少し大きめの男の子がやって来て、息子に対して「パズル、一緒にやろうぜ!」と言ってきました。

しかし息子は、悔しさを押し殺したような表情で「やらない」と言いました。それからしばらくの間、その大きめの男の子は、息子に対してパズルの勧誘を続けていたのですが、息子があまりに頑なに断るので、結局、その子は諦めて、私たちのもとを去って行きました。

私はどうにも息子の様子がおかしいと思い、「パズル、やらないのか?」と聞いてみると、今度は悔しさをこらえきれなくなったようで、息子は泣き出して「あの子は、僕が作ったパズルを壊すんだ」と訴えました。

-なるほど、そういうことか-

私は息子を抱きかかえ、頭を撫でてやりながら「ま、時間もあんまりないし、せっかく来たんだから、何か他のモノで遊んで行こう」と言ってやりました。すると息子は無言のままうなずいて、またプレイランドの奥の方に向かっていきました。

しばらくすると、プレイランドの中央あたりで、その大きめの男の子と息子が一緒にいました。その大きめの男の子は、息子に「ごめんね」と謝り、息子は別に気にかけないといった様子で、二人は一緒に仲良く遊び始めました。

どうも、その大きめの男の子は、私が息子を抱きかかえて、慰めていた様子もみていたらしく、その後、私のところにも頻繁にやって来て、いろいろと話しかけてきました。

-この子なりに、悪いことをしたと思っているんだろうな-

結局、その日は閉館まで、その大きめの男の子と私を含めて、何やら楽しい時間を過ごすことができました。大きめの男の子は、その後、息子と相撲などもしましたが、今度は、わざと負けてあげたりというお兄ちゃんらしい優しさまでみせてくれました。

「パズルを壊されたから、壊し返す」のではなく、パズルを壊された悔しさをグッとこらえるという息子の心の強さが、その大きめの男の子の心を動かしたのであり、その日の楽しい時間は、息子が私たちにくれたプレゼントだと思いました。

「やられたら、やり返す」ではなく、「やられても、グッと我慢する」という心の強さ。それが真の強さであり、これからの時代、私たちに求められている強さであると思えてなりません。

一方で、そうした心の強さを持つことはものすごく大変で、ときに子供にとってとても残酷なことでもあります。「情けない!」と切り捨てるのではなく、そうした心の強さをもっている子供に対しては、大いに褒めてやり、自信を持たせてやる。ときには、泣いたりするだろうけれど、元気づけて送り出す。子供の強さを育てるために、「やり返せ!」とは、ちょっと違う親の優しさや愛情があってもいいと思うのです。

※「抜かせてはならぬ最強の剣」参照

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心に響く叱り方

2007年01月27日 | 教育

今日、ちょっと街に繰り出して、買い物をしていました。

食べ物屋さんの前で並んでいると、すぐそばに親子連れが一組。子供が小石を拾い上げて、建物に傷を付けようとしていました。すかさず、お母さんが注意しました。

「ほら、ダメよ。すぐそこに、おまわりさんもいるでしょう!」

そうそう。その建物の隣は交番。おまわりさんにみられたら大変です。子供はびっくりして、小石を地面に戻しました。お母さんは、子供が建物に傷をつけるという行為を止めることに成功したのです。

ところで、これは本当に正しい叱り方なのだろうか・・・?疑問が沸いてきます。

おまわりさんがいるからいけないのか?
建物に傷を付けることがいけないのか?

子供にはよく分からなかったのではないでしょうか。本来、子供に対して、建物に傷を付けることが悪いことであるということをきちんと理解させるべきでしょうが、お母さんにしてみれば、「おまわりさん」を引き合いに出したほうが説明しやすかったし、子供の行為を制止するのに近道だったのでしょう。けれども、「おまわりさん」を引き合いに出してしまったことによって、子供には何がいけないことなのか、結果としてうまく伝わらなかったのではないかと思います。実際、注意を受けた子供は、「おまわりさん」の言葉に敏感に反応し、びっくりした様子で石を地面に戻していました。これでは、「おまわりさん」にみつからなければ、建物に傷をつけても大丈夫なのではないか、という誤解を与えてしまいかねません。

以前、私の娘がアリを踏みつけたときのこと。

私は、「こらっ、アリがかわいそうじゃないか!」といった具合で娘を叱りませんでした。代わりに、踏みつけられて、もがき苦しむアリのところに娘を呼んでこう言いました。

「ほら、みてごらん。今、○○ちゃんが踏みつけちゃったアリさん、苦しそうだね。○○ちゃんが踏みつけたからだよ、かわいそうだね」

娘は5秒も一緒に見ていられません。辛そうな表情で私に訴えました。

「パパ、もう言うの止めて」

それからというもの、娘はけっしてアリを殺さなくなりました。そして、同じように虫をいじめる弟には、「ほら、みてごらん。虫がかわいそうでしょう」と言って、弟を諭すようにもなりました。

人間は、善悪の判断ができる動物であると思います。そして、その善悪の判断基準は、教え込まれる以前に、人間が生まれながらにして、純粋な心のなかに持ち合わせているのではないかと、私は思うのです。

しかし、大人は善悪の判断結果を子供に教え込み勝ちとなります。

ぬいぐるみを乱暴に殴りまくる息子に対して、どう接するべきでしょうか。たとえ、ぬいぐるみとはいえ、やはりモノを乱暴に扱ってはいけないし、ましてやぬいぐるみのようなものを殴る、蹴るというのは、けっしていいことではありません。

しかし、だからといって「こらっ、やめなさい!」と叱ったところで、子供にとっては何がいけないのかよく分からないのです。たとえそれで殴ることを止めたとしても、それはひとまず、親が怒っていて、怖いから止めるだけです。それでは、親がいないところで、同じことを繰り返してしまいます。

子供は表現力が未熟であり、社会的に弱者でもあるため、子供の言うことを無視しようと思えばいくらでも無視できるし、無視したらかといって、当面大きな不都合が起こるということはほとんどないでしょう。だから、大人は子供の表現力の未熟さや、社会的地位の弱さにつけこんで、頭ごなしに言うことを聞かせようとするのです。そして実際に、子供はそれで言うことを聞くものです。いくら言うことを聞かない子供でも、(どこまでやるかの問題はあるが)究極的に力でやり込めれば、結果的に子供は言うことを聞かざるを得ません。この力関係を利用すれば、子供にはいくらでも言うことを聞かすことができるし、このことは大人にとって非常に楽だし、都合がいいでしょう。しかし、それはその場限りであることを忘れてはなりません。

そこで、「痛い、痛い。ぬいぐるみがかわいそう・・・」と言ってみます。

子供は素直だし、想像力があります。表現力が未熟な子供でも、ひとつの人格を立派にもっており、その感受性や想像力は実に見事です。その言葉を聞いて、子供は「あれ、そうかな?かわいそうなのかな」と思うのです。なかには、照れくさがって、その場ですぐに殴ることをやめない子供もいるでしょうが、心の中では「かわいそうかもしれない、悪いことかもしれないな」という思いを抱くようになるのです。すると、いずれ子供はぬいぐるみを殴らなくなります。

ある事柄について、善か悪かを教えることは簡単なことであり、その結果だけを大人と子供の力関係を利用して教え込むことは、本当の教育ではありません。そのように善悪を押し付けられた子供は、本当にそれが良いことなのか、あるいは悪いことなのか、いつまでも心をもって感じ、判断することができないままになってしまいます。

本当に子供のことを思って、叱るのであれば、子供自身に善悪の判断をさせ、それを言動につなげられるように、心に響くような叱り方をしていくべきではないかと思うのです。

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