常識について思うこと

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最後の日本兵の言葉

2012年08月15日 | 日本

67回目の終戦記念日を迎えました。この戦争に関しては、私なりにいろいろと勉強したいと思うことが多くあり、いつかそれらを纏めてみたいという思いもあります。ただ、それらについては、既に多くの方々が論じられているところでもあるので、今、ここで述べることはいたしません。

その代わりというわけではありませんが、ここに最後の日本兵として帰還した小野田寛郎さんの言葉を引用したいと思います。

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戦前、人々は「命を惜しむな」と教えられ、死を覚悟して生きた。
戦後、日本人は何かを命がけでやることを否定してしまった。
覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。
だが死を意識しないことで、 日本人は「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。
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小野田さんの言葉は、戦後世代の私たちの「命」や「生き方」に対する考え方について、ひとつのきっかけを与えてくれているように思います。

戦後、日本人の意識が大きく変わったのは本当でしょう。日本人の「命」に対する考え方も小野田さんのおっしゃる通り、変化していったことは否めないだろうと思います。

ただ個人的に、私は私を含めた世代より下の人々が、「命がけでやることを否定した」わけでもないのではないかと考えています。もう少し言い方を変えるならば、「何に命をかけるかを慎重に選んでいる」だけではないかと思うのです(「一番難しい「山」」、」「リスクをとるということ」等参照)。

多くの先人たちが命がけで作り上げてきたもの、守ってきたものは、どれもみな重みのあるものばかりです。生きている私たちは、それらを先人たちと同じように、なお命がけで次の世代に引き継いでいくための道を進んでこそ、各々の「命」を輝かせることができるのでしょう。

終戦記念日にあっては、それぞれの立場からいろいろな思いをされている方々がいると思います。そのなかで、一人の戦後世代として育ってきた私は、今日の日にあらためて、この国を守ってくれた多くの日本の先人たち、そして敵味方関係なく歴史の大渦のなかでこの世を去った無数の人々の御魂に感謝したいと思います。

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出雲への国譲り

2012年04月15日 | 日本

国譲り神話と言ったら、まずは「出雲の国譲り」でしょう。国を作った大国主大神が、天照大神に国を譲る神話のことです。これについては、私なりに思うことがあり、本ブログでも別の記事でまとめているところです(「「国譲り」の二面性」、「日本建国史の再考」参照)。この視点からすると、出雲は国譲りをした側ということになります。

しかし最近、少々別の視点を意識するようになりました。それは、神武東征の際、九州からやってきた神武天皇に王権を譲った饒速日命のことです。もし仮に、饒速日命の行動を神武に対する「国譲り」と称するのならば、これはもしかすると、出雲勢力に対する「国譲り」に当たるかもしれないと思えてならないからです。

この話を進める前に、まずは出雲と国譲り神話について、簡単に考察してみたいと思います。

記紀の記述には、当時の権力者に都合よく書かれた側面があり、国譲り神話は、大化の改新以降、政権をもぎ取った天智天皇-持統天皇(さらには中臣鎌足-藤原不比等)親子の正当化に使われているような気がしています(「東国の神々へのご挨拶」参照)。

ただし、出雲の国譲り神話には、持統朝の思惑だけでなく、実際に出雲勢力が政権を追われた歴史を映し出しているとも考えています。それは、初期の大和朝廷において、まだまだ緩やかな連合体でしかなかった政権が内輪もめを起こし、その過程で出雲を追い出したのではないかということです。このあたりについては、別の記事で述べている(「日本建国史の再考」参照)ので、あまり多くは繰り返しませんが、ポイントを整理すると以下の通りとなります。

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(1)建国:出雲朝(大国主大神)による建国
初期の大和政権。ただし、実体は出雲朝と言えるほど、出雲派が政権運営をしていたというものではなく、有力な首長が集まってできた連合政権だったのではないかと考えます。

(2)討伐:出雲朝の九州(邪馬台国)討伐
中国大陸からの文物の流通ルートを抑えることは、大和政権にとって死活問題だったはずです。当時、北九州にあって、中国との関係を深めていく邪馬台国(私は邪馬台国北九州説をとります)は、大和政権にとって大いなる脅威だったことでしょう。私は、これを討伐したのが、主として出雲の人々だったのではないかと推察しています。神功皇后の三韓征伐などは、出雲勢力の北九州(邪馬台国)遠征と関係しているのではないかと考えます。

(3)反乱:大和における出雲朝に対する反乱
邪馬台国征伐は、大和政権にとって、物流ルート確保のための戦いでありながらも、当時、大和政権内で出雲に並ぶ力を持つ瀬戸内勢力からは、新たなる脅威にみえたことでしょう。何故なら、出雲が北九州を抑えてしまったら、中国大陸から大和への物流が、完全に出雲勢力に牛耳られるからです。そこで、これを恐れた瀬戸内勢力が、九州に遠征している出雲勢力に対して反乱を起こしたのではないかと考えます。結果として、出雲勢力は、九州に取り残された可能性があります。

(4)鎮圧:九州からの大和鎮圧(いわゆる「神武東征」)
出雲勢力を追い出した大和政権は、なかなか国をまとめることができず、九州に追いやった出雲勢力を迎え入れるという決断をしたと思われます。神話的に表現するならば、当時、政権の中枢にいた饒速日命が、神武天皇を迎え入れたのでしょう。いわゆる「神武東征」というのは征服戦争ではなく、平和的な出雲王家の復権だったのではないかと思うのです。饒速日命が「天神の御子」ながらも、 神武も同じく「天神の御子」と認めたのはそのためでしょう。

(5)再建:出雲系大和朝の樹立(いわゆる「神武朝」の始まり)
ここから、神武天皇を初代とした歴史が始まります。ただし、これ以降も王権の権力争いは繰り返され、その中で歴史書の焼失・編纂などが行われてました。そのため、古代日本の天皇家の系譜は、実際の歴史と神話の世界が相俟って、時間軸そのものが前後するなどを含めて、複雑怪奇なものに仕上がってしまったと考えられます。

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このように考えてみると、神話の中で国を譲ったとされる出雲は、きちんと国を譲られた側としても存在することになります。歴史の真実を証明するには、タブーを越えた調査も必要であり、すべてを白日の下にさらすというわけにはいかないかもしれません。しかし、こうした視点、あるいは仮説は、大変重要な意味を持っているように思います。

日本は、言わずと知れた「和」の国です。大和も、大いなる「和」の国たらんと欲したことでしょう。その中にあって、争うことなく「国譲り」をするという精神は、それを見事に表しているのではないかと思えてなりません(「全国民のための建国記念日」参照)。出雲はただ国を譲っただけではなく、国を譲られる側でもあったとするならば、そうした平和的譲位を通じた「和」の精神が、循環しつつ、日本の根底に流れていると考えることができると思います。

先日、長髄彦の墳墓とされる鍋塚古墳に行ってきました。長髄彦は、神武東征の際、饒速日命の指示に従わず、あくまでも神武を拒み続けて戦い、結果として、主君である饒速日命に殺された人物です。饒速日命は、神武に国譲りをするために、部下を殺すという代償を払ったわけであり、その国譲りには、長髄彦の死という犠牲を伴ったわけです。

鍋塚古墳周辺の案内図

長髄彦の墓とされる古墳

鍋塚古墳の上

かつての先人たちは、「和」の国を実現しようとしながらも、いくつもの犠牲を払わざるを得なかった現実と向き合ってきたのでしょう。しかし、次の新しい時代、国造りを進めていく上での環境、諸条件は大きく変わってきています。かつての建国の歴史を紐解き、それらに敬意を払いながら、同時に、大いにこれを参考にしつつ、次時代の新しい仕組みを作っていければと思うのでした。

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住吉大社へのお参り

2012年03月17日 | 日本

住吉大社に行ってきました。住吉大社のご祭神は、住吉大神ということになっていますが、これは底筒男命、中筒男命、表筒男命の総称であり、場合によっては、息長帯姫命(神功皇后)を含むとされています。

関裕二さんによると「武内宿禰」、「塩土老翁」、「住吉大神」が同一との話があります。今回行ってみて、私自身もあらためてそう思いました。

古代の神話というのは、なかなか紐解くのが難しいものです。歴史書が編纂される過程において、真実を隠さなければならぬこともあったでしょう。隠し通せぬものの辻褄あわせをしなければならないこともあったと思われます。そのなかで、作り出される偶像もあり、それらが実在のものと絡み合うように混在するので、ただ「同一人物」といっても、きれいにピッタリ重なり合うようなものではないかもしれません。蘇我入鹿と聖徳太子、ヤマトタケルノミコトと武内宿禰・天武天皇、神武天皇と応神天皇、饒速日命と崇神天皇・大物主大神、神功皇后とトヨ・・・考えていくとキリがありません。しかし、それでもこうした人々(あるいは神々)同士の一致性というのは、それなりに注目すべきものがあるのではないかと思います。

住吉大神の三神は底筒男命、中筒男命、表筒男命を指します。、「筒」と言えば「塩筒老翁(塩土老翁)」を連想せずにはいられません。塩土老翁は、神武天皇に東征を促した人物です。私なりに、神武天皇の「武」の字と、武内宿禰のそれとの間には、何らかの意味が隠されているような気がしてなりません。そして、共に祀られている神功皇后は、武内宿禰とも深い絆で結ばれていた人物でもあります。

住吉大社には、初代天皇である神武天皇(あるいは応神天皇?)を九州からヤマトへ送り込もうとした武内宿禰・神功皇后というお二人の姿を、私なりに感じたのでした。

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出雲地方へのご挨拶

2012年01月16日 | 日本

新年に入って、現在、私たちが構築を進めているIZMOシステムの立ち上げ祈願をしてまいりました。

IZMOシステムとは、出雲(いずも)をもじったものであり、これからの産業インフラとして機能することを想定して作っているものです。ここには、次の時代の世界における日本の役割、その日本の源流としての出雲の位置づけを強く意識しています(「全国民のための建国記念日」参照)。さらに、日本建国には竹内宿禰という人物も深く関わっており、私なりに、その重要性を鑑みて、本ブログのアカウント名も、彼にちなんで「sukune888」としています(「竹内宿禰の魂」参照)。

今回は、そんなことを思いつつ、出雲を含む山陰地方への挨拶回りをしてきました。


宇倍神社本殿


双履石の説明文

竹内宿禰が残した双履石

まずは、竹内宿禰さんが姿を消したという宇倍神社への参拝です。宇倍神社は、因幡国一宮となっています。ここには、「武内宿禰終焉の地」という石碑があり、竹内宿禰さんが双履を残したところとされる双履石なるものがあります。

こちらでは、自分なりに竹内宿禰さんを感じたくお参りしてきました。あまり知られていませんが、竹内宿禰さんは、紙幣の肖像画にもなられている方で、日本の大臣の祖とも言われています。せっかくなので、紙幣を模ったお守りを購入させていただきました。

宇倍神社での参拝が終わると、いよいよメインの出雲へのお参りです。

ただ、出雲に入ったからといって、すぐに出雲大社へお参りするわけでなく、まずは松江市にある出雲国二宮の佐太神社、エビス様の総本山でもある美保神社、竹内宿禰さんを祀った平濱八幡宮・武内神社へご挨拶をさせていただきました。


佐太神社


美保神社

平濱八幡宮・武内神社

これらの神社は、きっと出雲の国造りに大きく貢献した方々をお祀りしているのでしょう。とくに美保神社のご祭神は、出雲大社の大国主大神の后である三穂津姫命、息子の事代主神になっておりますが、それだけでなく、美保神社がある美保関は、大国主大神が建国パートナーである少彦名神と出会った場所であるということで、なかなか興味深いところでした。個人的には、少彦名神と事代主神というのが、とても重なったイメージで見えているので、そういう意味でも美保神社には大きな関心を覚えました。

その後、出雲市に入って、出雲大社をはじめとして、その近隣の神社へのご挨拶をさせていただきました。

それぞれのご祭神は、日御碕神社(天照大神、素戔男尊)、出雲手斧神社(手置帆負命、彦狭知命)、恵美須神社(エビス様)、須佐神社(素戔男尊)となっていました。このうち、出雲手斧神社というのは、出雲大社の西にある奉納山の山頂にあり、そこに祀られた神様は、出雲大社を造営した建築業者の守護神とのことでした。


日御碕神社


出雲手斧神社

恵美須神社


須佐神社


出雲大社

大国主大神の像

そして出雲大社への参拝です。

出雲大社の大国主大神は、縁結びの神様として有名ですが、読んで字のごとく、元々、国を作られた神様です。日本で最も有名な神様としては、現在、日本の神社を束ねている神社本庁の総本山、伊勢神宮の天照大神かもしれません。それは、今の日本の神社制度の仕組みで言えば、日本の神様のトップということになるのでしょう。


巨大な宇豆柱


出雲大社の
大きさを示すイメージ図


大量に出てきた銅剣

しかし、元々、国を作ったのは、この出雲の大国主大神なのです。出雲の特殊性については、本ブログでも度々言及しています(「始まった神在祭」等参照)が、今回はそれを再確認してきました。「雲太、和二、京三」という口遊(くちずさみ)にある通り、50m近かったとも推定される本殿の巨大さ、それまでの全国銅剣出土数の合算を上回る、358本という銅剣が一箇所から大量出土したという事実、全国において「神無月」と呼ばれる時期を「神在月」とする特異性・・・。どれも古代日本における、出雲の突出した重要性を示していると言えるでしょう。

伊勢の天照大神は、その特殊な出雲の大国主大神から国を譲り受けたことになっているわけです。これが、いわゆる「出雲の国譲り」神話です。しかし、ここには、「国譲り」という平和的な側面だけでなく、伊勢の天照大神による高圧的な「国獲り」という観点も外せないだろうと考えます(「国譲り」の二面性」参照)。

これらを鑑みたとき、私は、日本が真に「和の国」であるとするならば、国を作っておきながら、国を譲れという者に国を譲る決断ができる大国主大神にこそ、和を尊ぶ日本のあるべき精神が宿っているのではないかと思います。逆に、国を譲れと迫った天照大神側には、どのような「和」の精神があったのか、きちんと見極める必要があるでしょう。少なくとも、それに対して、明確な答えが見つからないまま、安易に伊勢の天照大神を「和の国」、「大和の国」である日本において、最高神のように崇め奉るべきではないと考えます。
※ただし、記紀に登場する天照大神の姿は、歪曲された可能性があり、実際、私個人は伊勢に祀られている天照大神が、「国獲り」をしたとは考えていません(「東国の神々へのご挨拶」参照)。

2003年、皇后・美智子さんが出雲大社に参られ、以下のように詠まれたといいます。

 - 国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず -

天皇家といえば、天照大神からの男系の血を受け継いできているとされる方々です。大国主大神から国を譲り受けた(あるいは国を獲った)とされる家の方が、このような歌を詠まれるというのは、とても意義深いことだと思います。日本が「和の国」としての姿を追求し、またそれを世界に示していくにあたっては、大国主大神の精神が、極めて重要であると言えるでしょう。

今回は、そうしたことを考えながら、出雲をはじめとした各地にご挨拶ができて、とてもよかったと思います。

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力の源泉たるソフトパワー

2011年04月08日 | 日本

地震によって、多くの命が奪われました。このことは大変悲しいことであり、また残念なことでもあります。昨晩も大きな余震があるなど、被災地の方々には大変厳しい状況が続いています。

こうした状況のなか、被災地から離れた場所で経済活動を営む日本人には、一日も早い復興のため、産業界を再び隆盛させる使命が課せられているのではないかと考えます。

ただし、現実的な問題として、その産業界も非常に大きな打撃を受けています。今後の停電の見通しや原発の状況などから察するに、事態を好転させるには、大変な時間と労力を要することが予見されます。多くの工場が動かなくなったりで、製造業の機能が海外に移ってしまうような事態も想定しなければなりません。こうしたことにより、世界における日本のプレゼンスが低下することは、十分考えられることです。

しかし、それをあまり悲観することもないと思います。

私は、日本が世界のリーダーたるべきということを繰り返し述べてきました(「世界のリーダーたるべき日本」等参照)。このことは、日本の産業界が世界をリードするということも含まれますが、こうした事態になっても何ら変わりません。

焼け野原のなか敗戦を迎えた日本が、経済大国と呼ばれるようになった背景には、さまざまな要因が考えられます。そこには内的要因、外的要因を含めて、挙げていったらきりがないと思いますが、私なりには、日本人のソフトパワーを挙げないわけにはいきません。「経済大国日本」を作り上げたという目に見える結果の裏側には、日本人の勤勉さや発想力、文化など、目に見えない多くのソフト的な要因が働いたのだろうと思うのです。

そして、そのソフトパワーは、今の日本人のなかにも生き続けています(「日本人の大切な「ゼロ」」等参照)。

震災直後、落ち着いて秩序を守りながら行動する日本人の姿は、海外メディアでも大きく取り上げられました。こうしたことも、日本人が持つソフトパワーのひとつの表れと言えるでしょう。このソフトパワーが日本人に宿る限り、何度でもやり直しがきくと考えます。いやむしろ、そのソフトパワーによって、これまで以上に大きく飛躍することができるのではないかと考えています。

ソフトパワーこそが、日本を日本たらしめている力の源泉なのです。

今回の震災は、大変不幸な結果をもたらしました。これによって、非常に多くのものを失いましたし、これから先も失い続けるものがあるでしょう。しかし、未来を生きる私たちは、それらをすべて前向きに捉えていかなければなりません。そういう意味で、この震災をバネにして、日本人はそのソフトパワーによって産業を大きく成長させなければいけませんし、また日本人にはそれができると思っています。

日本という国の真価、ソフトパワーの威力が発揮されるのは、まだまだこれからだと思います。

《おまけ》
ソフトパワーは、それを伝播させることで非常に大きな力を発揮します。インターネットやコンピューターが発達した現代社会は、ソフトパワーが威力を発揮するうえで、とても都合よくできていると言えるでしょう。そういう意味でも、インターネットやコンピューター産業をさらに隆盛させるということは、日本を再興させるためにも大変重要なのではないかと考えます。

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「てんちゃん」という愛称

2010年12月16日 | 日本

ちょっと前のことですが、仲間と古代史の話をしていた際、ふと仲間の口から「てんちゃん」という言葉が飛び出しました。この「てんちゃん」、天皇のことを指していたのですが、同席していた一部の人々は、少々びっくりしたような顔つきになっていました。天皇に限らず、皇族というだけでも、「殿下」や「様」を付けるのが一般的なのに、天皇陛下を指して「てんちゃん」とは何事かといった空気でした。しかし、その彼からすると、天皇をバカにしているようなつもりは一切なく、親しみと愛情を込めた呼び名として、「てんちゃん」と言ったというのです。私としては、この気持ちとてもよく分かる気がしています。

天皇には、「陛下」という敬称があります。これをウィキペディアで調べると、「「玉座、高御座(たかみくら)の陛(階段)の下においでのお取り次ぎの方にまで申し上げます」程度の意味」と出てきますが、要は、君臣の関係に由来しているわけです。

しかし、私個人は天皇と君臣の関係にありません。したがって、「陛下」と呼ぶのにはいささか抵抗感があるのです。かといって、天皇と呼び捨てにするのも、少々気が引けるので、私の場合、日常会話の中では「天皇さん」と呼ばさせていただいています。これは、どこかの社長を「社長」とだけ呼ぶのは、少々横柄な気がして、「社長さん」と呼ぶのと同じ感覚です。そういう意味で、私はさすがに「てんちゃん」とは呼びませんが、愛称としての「てんちゃん」という呼び名自体、それほど悪いものではないと思うのです。

そもそも、天皇だけでなく、皇族の方々に限って「殿下」や「様」を付けるのは、私の世界観からすると、いささか歪な感じがしています。人間平等であり、天皇はあくまでも国家、国民を象徴するという立場にある人間なのですから、そこには君臣関係も、上下の関係もありません。仮に、相手に対して「様」をつけるのであれば、先方も自分に対して「様」付けで呼ぶべきでしょう(「ミラーマンな自分」、「他人は自分の鏡」等参照)。これは手紙の宛名書きと同じです。天皇や皇族の方々が、私に対して「様」付けされるのであれば、私の側からも「様」付けでお返しするのが筋だとは思います。しかし、そうでない以上、相手を尊重する意味合いが含まれる「さん」付けで十分ではないかと思うのです。他の日本国民の方々がどう考えるかは知りません。ただ少なくとも、私自身はそう思っています。

しかし、政府のお仕事をされている方々は、若干、事情が異なるのかもしれません。特に政府の要職である大臣は、読んで字のごとく「臣」の字が入っているのであり、その長たる総理大臣は、天皇によって任命されています。ここには、見方によっては、主権者である国民を象徴する天皇との間に君臣関係が成り立っていると言えなくもありません(「臣下の長たる内閣総理大臣」参照)。

「てんちゃん」という愛称が、良いか悪いかの議論ではありません。それぞれの立場や考え方によって、その呼び方が実に様々なものに変わり得るということ自体、多様性という意味で、とても面白いのではないかと思います。そして、そういう多様性が認められるということに、今の日本社会の素晴らしさをを感じるのでした。

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漫画で読む「神武の東征」

2010年10月25日 | 日本

安彦良和さんの「ナムジ」と「神武」を読みました。日本の古代史を漫画の世界から読み解くというのは、なかなか楽しいものです。この漫画が描かれたのは、もう10年以上も前なので、その間の発見やらを盛り込めていないのでしょうから、そんなことをとやかく言う必要はないでしょう。ただ、いずれにせよ、謎が多いとされている古代史のストーリーを描写するという意味で、漫画というのは、とても効果的な手段ではないかと感じました。

そしてまた、神武の東征が、所謂、軍隊が制圧していくような性格のものではなく、畿内の大和政権に呼び出されて行った平和的な一行だったという点、私なりにはとても共感できるものがあります。こうした解釈のうえで、歴史を見つめ直すというのは、いろいろと発見のチャンスを得ることにもなるでしょう。

ところで、この作品において、私が思い描く古代史とは、若干ずれるところが、以下のポイントについてでした。

-邪馬台国の卑弥呼

作品中、邪馬台国の卑弥呼が、とても大きな存在として描かれていました。邪馬台国が九州にあったという点は、私も同意するところです。しかし、同国を過大評価しているのではないかというのが、私の率直な感想です。邪馬台国は、北九州をその支配下に治め、大陸からの情報やモノの流れを抑えていたという点で、畿内の大和政権にとっては、大いなる脅威であったと思います。しかし、それが大和政権の本流に食い込む程の力はなく、むしろ大和政権の中心的役割を担っていた出雲勢力に滅ぼされていたのではないかというのが私見です。

もし、邪馬台国の流れが畿内の大和政権の中枢に入り込んでいたのならば、魏志倭人伝のような中国側の書物だけでなく、日本側の書物にも、それと確信させる記録が残されて然るべきでしょう(女神説がある天照大神を卑弥呼と看做す考え方もありますが、私はこれを女帝・持統天皇の正統化と考えており、卑弥呼とする考え方には賛同しかねます)。それが見当たらないのは、邪馬台国が畿内の大和政権の中枢には入り込んでおらず、むしろ「中国に太いパイプを持つことができていた国」という位置付けで捉えるべきであり、それは上記を説明し得ると考えます。

そうした観点から、卑弥呼に代わって立った台与は、邪馬台国の人間ではなく、邪馬台国の乱に乗じて、中国大陸から干渉されることを恐れて作られた(出雲の)人物ではないかという気がします。つまり、邪馬台国はよく治まっているので中国の介入は要らない、という出雲からのメッセージだったということです。

-大物主大神や饒速日尊の正体

三輪山の大物主大神は、スサノオの息子であり、同時に饒速日尊であるということになっていますが、そこはよく分かりません。

大物主大神は、出雲の大国主大神の和魂(にきみたま)等と言われます。つまり、大国主大神と同一であると同時に、その片割れであるといったことのようです。安彦さんの作品では、この点を否定してしまっているようですが、私は、このことの意味がとても深いような気がしています。つまり、大物主大神は、大国主大神の分身として、三輪山に招かれたのではないかということです。

畿内にあった大和政権は、緩やかな連合国家であり、出雲以外にも有力な地域の勢力が、権力の中枢にいたのではないかと考えられます。そして、出雲(大国主大神)の一族は、大陸からの物流ルートを牛耳り、大和政権を脅かす邪馬台国征伐等の関係で九州に出たものの、そのまま畿内から追い出されてしまい、残った勢力が畿内・大和を治めるようになったのではないか、というのが私の仮説です。

しかし、畿内の大和政権の中には、出雲一族を追い出して、国の運営がままならず、これを「出雲の祟り」と畏れた人々もいたことでしょう。そうした畏れを払拭するために、出雲の大国主大神を勧請して、その分身を大物主大神として三輪山に祀ったという仮説はあり得るような気がするのです。

そして、こうした時勢のなか、出雲を除いた残った勢力を畿内・大和で取りまとめていたのが、饒速日尊だったのではないかというのが、私が思うところです。即ち、饒速日尊はスサノオの息子といった出雲系ではなく、むしろ出雲系の大王を追い出した人々の長だったということです。彼らは出雲系の人々の怨念を抑えるために大物主大神を三輪山に祀ってみたものの、結局、国家運営の行き詰まりは改善されず、九州に追い出された出雲系の神武を呼び戻さざるを得なかったというのが、神武の東征の実態だったのではないかということです。

-紀伊半島を廻った理由

安彦さんの作品にあるとおり、神武の東征が、紀伊半島を迂回して成ったというのは、なかなか面白いと思います。つまり、畿内に入ろうとするならば、本来、大阪湾あたりから上陸するのが自然ですが、そこからは上陸することができずに、ぐるりと廻って、紀伊半島の反対側から上陸しているというのです。ここには、神武一行に、それだけの執念を持って、畿内に入らなければならなかった理由があったはずであるという点、私もそうだろうと思います。ただし、その執念の理由が、女王・卑弥呼の意向だったからというのは、イマイチ腑に落ちません。それは、私自身が卑弥呼の存在をそれほど高く評価していないからという理由があるかもしれません。

ただ私としては、それ以上に、神武が畿内の大和に入るというのは、かつて政権の中枢にいた出雲勢力の復活を意味しており、それだけ一族にとって、重い意味があったからではないかと考えるのです。それは例えば、越から継体天皇が呼び出されて即位したようなものを連想させます。つまり、神武の東征は、一旦王家から離れた者が、呼び戻されるという復活劇であり、神武一行としても、これは何としても果たしたかった夢だったのでしょう。

一方で、神武の復権を快く思わなかった者たちもいたと思われます。それは、安彦さんの作品にも描かれているような長髄彦や安日彦といった人々です。私は、こうした人々がいたからこそ、神武が畿内・大和から呼び出されたにもかかわらず、簡単に同地に入ることができなかったのだろうと考えます。

ちなみに、長髄彦や安日彦の一族は、神武の東征後、東北に落延びていくことになったとされています。このあたりは諸説ありますが、彼らの後裔が安東氏や秋田氏だという話は、それなりに信じるに値する話ではないかと思っています。それは例えば、後の朝廷が、征夷大将軍という地位を作って、歴史的に「東夷」を意識したスタンスをとっていたり、明治維新後、政府が華族を定める際に、三春藩主・秋田映季から提出された秋田氏の系図で、長髄彦の兄・安日彦(天皇の逆賊)を遠祖とするといったこと等にも表れていると思います。

いずれにしても、たかが漫画ではありますが、こんな感じで、いろいろな思考をしながら読ませていただいたという意味で、とても楽しめました。同時に、そうした楽しく読める漫画作品として、謎が多いとされる古代史を扱うものが、もっともっと出てきてくれたら面白いのではないかと思うのでした。

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位山に見る日本古代史

2010年08月21日 | 日本

飛騨高山にある位山に行ってきました(外部ブログ「飛騨に行ってきました」参照)。

地元の方に案内していただき、興味深い話を聞きながらのお参りになりました。


飛騨一宮水無神社


奥宮がある位山


位山の天の岩戸

位山には、「天の岩戸」なるものがあります。「天の岩戸」といえば、天照大神が隠れた伝説で有名です。それがここにあるというのは、ちょっと不思議な気がします。

地元の方の話によると、古事記や日本書紀等、いわゆる記紀に書かれていることというのは、すべて真実でないとのことでした。それには大いに同感です(「日本建国史の再考」参照)。

一方で、竹内文書についても聞かされました。竹内文書とは、古代日本において、長らく大臣を務めたとされる竹内宿禰に関わる古文書です。その方によると、この位山は「竹内の山」であり、そこにある「天の岩戸」というのは「竹内の神社」であるという話でした。

その方のお宅にお邪魔すると、神功皇后と竹内宿禰、竹内宿禰に抱かれた赤子の応神天皇の三人の像が置かれていました。私自身、応神天皇が祀られている鶴岡八幡宮は地元であり、幼い頃から訪れている場所でもあるので、こうした置物にはとても愛着を感じます。そして、同時に思ったのは、そもそも天皇とは何者かということを議論するならば、竹内宿禰とは何者だったのかということについても、きちんと検証されなければならないだろうということです。それは、記紀に囚われた歴史観では割り出せません。しかし、それを乗り越えてでも、真実を見極めようとすることが何よりも肝要なのであり、歴史を学問とし扱っている方々にとっても、非常に大切なことなのではないかと思うのです。

もちろん、実際のところ、何が本当なのかは分かりません。その方もおっしゃっていたことですが、竹内文書にしても、すべてが真実であるとは思えません。しかし、記紀の記述に真実でないことが含まれているとしたら、それを補うに足る内容が、竹内文書に書かれている可能性は、けっして否定できないだろうと思います。

今回の位山での旅では、そんなことを思いながら、しばし天皇や日本古代史について考えさせられたのでした。

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全国民のための建国記念日

2010年02月11日 | 日本

今日は、建国記念日です。この日は、初代天皇の神武天皇が即位された日とされています。

しかし、本ブログにて繰り返し述べているとおり、私は記紀に傾倒した日本史観というものに対しては、一定の距離を保ちたいと考えており、また神武天皇や日本の建国史についても、少々、違った見方から、この祝日を捉えたいと思っています。

つまり、あくまでもこの国を建国したのは出雲大社の大国主大神であり、日本建国から「出雲の国譲り」に至るまでの過程で、本当に「和の精神」を体現したのは、この人物にほかならないのではないかということです(「「国譲り」の二面性」参照)。神武天皇というのは、「神武の東征」という言葉があるとおり、九州に発して大和の国を治めることになりますが、これは「出雲の国譲り」の後、和が乱れた大和政権内部を取り成すかたちで、大和を追われた出雲系の大王として召還されたのではないかというのが私の仮説です(「日本建国史の再考」参照)。

そういう意味で、神武天皇というのは出雲系であり、本来の建国の主・大国主大神側の人物として、それを素直に祝えばよいのかもしれません。ただし、記紀というのは、天照大神をはじめとした「国を奪った」側の正当化に使われている可能性があり、それ以降の歴史解釈に関しては、慎重を期す必要があるだろうという点は変わりませんし、また本来の建国主は、やはり大国主大神ではなかったということは、忘れてはならないように思うのです。

ところで、そのように本来の建国主が大国主大神であったとしたら、その子孫こそが、本当の意味での「和の精神」を体現した正統なる大王の血を引く人々ということになります。「出雲の国譲り」というのは、あくまでも平和的譲位であり、当時において一族郎党皆殺しのような血生臭い事件があったとは考えられません。そうだとすれば、この日本には出雲の大国主大神の血を引く人々が、多数いると考えられるわけです。むしろ当時の人口から、今日の人口に膨れ上がる過程における血の交わり方を考えるならば、国民ひとりひとりが大国主大神の子孫かもしれないとも言えます。

そういう意味で、本日の建国記念日は、国民ひとりひとりの先祖かもしれない大国主大神の建国を考える日と思ってもよいかもしれません。そして、そう考えると、今日は全国民にとっての建国記念日と考えてもよいのではないかと思うわけです。そんなわけで、本日のブログのタイトルバナーには、その大国主大神を入れてみました。

蛇足ですが、一緒にいるのは、本ブログのアカウント名の源にもなっている「武内宿禰」です。彼は長らく国政を支えた大臣とされておりますが、私の解釈では、彼は出雲系の人物です。そしてまた、正統なる大王と非常に深く結びついていた人物、あるいはそれそのものであり、私が出雲系と考える神武天皇や、正統なる大王を葬ったかもしれない天智・天照大神系の持統天皇や藤原家(「東国の神々へのご挨拶」参照)と一線を画す天武天皇等に、それぞれ「武」の字が入っていることとも関係しているように思っています。

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龍馬がやり残した仕事

2010年01月08日 | 日本

今年のNHK大河ドラマの主人公が、坂本龍馬であるため、年初から何かと龍馬の話題が目につきます。坂本龍馬については、私もずいぶんと関心を持っていた時期があり、それなりに思い入れもあります。もう20年近くも前ですが、龍馬が襲われたとされる寺田屋(どうやら偽物だったようですが・・・)に宿泊して、彼が撃った弾丸の跡や、お龍が裸で抜け出したというお風呂等を目前にしたのは、当時の私にとって、非常に貴重な体験であり、今ではとてもいい思い出でもあります。そういう意味で、もしその頃に、「龍馬伝」が放送されていたとしたら、きっと噛り付いて見ていただろうと思います。

しかし、今の私からすると、幕末から明治にかけて日本で起こったこと、龍馬が成したこと、今日まで引きずっている問題等が、一応、一通り整理されており、その中で自分が成すべきことが既に定まっているため、特段、今更になって、「龍馬伝」を見なければならない理由を失ってしまったように思うのです。

この点、非常に重要です。歴史を学ぶ以上、それは活かしていかなければなりませんし、自分の生き方に反映していかなければなりません。貴重な時間を費やして、わざわざ番組を見るのであれば、そこにはそれなりの問題意識と理由を持って、臨む必要があると考えるのです。そういう意味で、今の私にとって、「龍馬伝」を見ることと、自分のミッションにおける龍馬という人物の位置づけや功績、限界を明確にすることは、とても重要なことなのです。そう考えた時、今の私は「龍馬伝」を見るよりも、むしろ私なりに結論が出ている、「龍馬がやり残した仕事」を片付けなければならないと考えるわけです。

それには、いくつかのポイントが挙げられるでしょうが、そのうちの大きなひとつが、薩長と幕府側勢力の和解です。

周知の通り、坂本龍馬の偉大な功績のひとつとして、薩長同盟が挙げられます。龍馬が仲立ちした薩長同盟によって、幕藩体制は綻びを見せ、それが後々の明治政府樹立へと繋がってくるわけです。しかし、彼はこれを見届けることなく亡くなってしまいました。龍馬暗殺の真相には諸説ありますが、少なくとも、彼が亡くなってしまったことで、明治政府の顔ぶれが、薩長の色合いを濃くしたことは間違いないと思われます。龍馬は、薩長同盟を成した後、徳川慶喜を副関白に据える人事構想を立てる等、幕府側勢力を明治の新体制に取り込もうと考えていた節があります。もしこれが成っていれば、幕府側陣営が軍事的に痛めつけられる戊辰戦争のような摩擦は生じなかったかもしれません。

翻って、現代の日本については、言う人に言わせると、かなり真面目な話として、「今も薩長体制は続いている」と言います。そしてまた、当時、幕府側に付いて死闘を演じた人々(例えば会津藩)の関係者の中には、今もなお薩長に対して、強い憎悪と警戒心を持っている方々がいることも事実です。この裏には、当時の薩長が、天皇の扱いなど、相当強引なことをしてきたらしいこととも関係していると思いますが、この際、ポイントはそこにはありません。

要は、そうした一世紀半近くも昔の薩長と幕府側勢力との間に生じたシコリが、今もなお残っているということです。これは、これからの時代において、日本が一致団結して世界の問題に取り組もうという時に、大きな障害になり得るという意味で、私にとっては看過できない問題でもあります。そして、それは紛れもなく、幕末から明治にかけての時代に端を発する問題であり、見方によっては、幕府側勢力を平和的に新政権へ取り込むことに失敗し、志半ばにして倒れた龍馬の残課題であるとも言えると思うのです。

実際のところ、こうした歴史的な問題は、日常生活を営んでいく上で、ほとんど関係のない世界の話とも言えます。しかし、私の経験上、巨視的な課題に取り組もうとすればするほど、けっして無視のできないものとなっていくものだと考えています。

いずれにせよ、私としては、上記のような問題意識から、薩長同盟を成立させ、明治維新に至る道筋をつけた坂本龍馬という人物の功績を大いに認めつつも、彼の限界を知り、彼がやり残した仕事についても、きっちりとこなしていく必要があるのだろうと思う次第です。

なかなか楽しみな時代になってきました。

《おまけ》
明治維新時の真相について議論を始めると、「そんなのはトンデモ話だ」等とおっしゃるような方々がいらっしゃいます。その方々は、その方々なりに勉強されており、そうした知識の裏付けをもって「トンデモ話である」と言われているのだろうと思います。それはそれで、そう信じるのは結構なことですし、それは各人の自由だとも考えます。しかし、もし余裕があるならば、こうした重い問題については、座学ではなく、是非、直接いろいろな関係者の方々とお会いになって、お話を伺ってはどうかとも思います。問題が核心に迫れば迫るほど、到底、座学では見えない部分があるものです。ただし、こうした問題は、極めてセンシティブな事柄でもあるため、ヒアリングをされる際には、それなりの覚悟と真剣味を持って臨む必要があることも事実です。そうでなければ、相手の方々はなかなか口を開かないでしょうし、また場合によっては、とんもない代償を支払うことになると思います。ご興味を持たれ、追求をされる場合には、その点、くれぐれもご注意ください。

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始まった神在祭

2009年11月27日 | 日本

昨日から、出雲大社では「神在祭」が始まりました。このお祭りの期間中、日本中の神様は出雲に集まって会議をすると言われています。

そして、このことは10月を「神無月」と呼ぶこととも関係しています。つまり、「神無月」では、日本中の神様が出雲に出かけられてしまうので、「神がいない月」ということで、「神無月」と呼ぶという見方があるのです。したがって、神々が集う出雲においては、逆に「神がいる月」になるので、10月は「神在月」と呼ばれます。「神在祭」は、旧暦の10月に行われるものであり、今年は昨日から始まったということです。

ところで、こうした月の呼び名を含めて、出雲はとても不思議な場所だと思います。昔の口遊(くちずさみ)で「雲太、和二、京三」というのがあるそうです。これは川について、「坂東太郎」(利根川)、筑紫二郎(筑後川)、四国三郎(吉野川)等と言われるのと同じように、建物の大きさの順番を表していると考えられています。即ち、「出雲の出雲大社、奈良の東大寺大仏殿、京都の大極殿」の順番で大きかったということです。

出雲大社の大きさについては、かつての本殿が16丈(48m)や32丈(96m)だったという話もあります。それは長らく根拠もない伝説という見方もあったようですが、2000年、出雲大社で巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発見され、「巨大な建造物」は実在していたことが、広く認められるようになりました。最近の研究によると、これは13世紀に巨大な建造物が建てられたことを裏付けるものであるとの説が有力のようですが、いずれにせよ、出雲の地にそれだけ大きなものが建てられるだけの理由があったということは間違いないでしょう。

その理由に関しては、既に本ブログの中でも、何度か言及している通りであり、そもそもの日本建国の祖は、出雲の大国主大神であったからだろうというものです。(「東国の神々へのご挨拶」、「日本建国史の再考」、「「国譲り」の二面性」参照)。このあたりの歴史の真相は、もうしばらく時間をかけて解明していくことになるのだろうと思います。

ちなみに余談ですが、日本の古代史については、先日、纒向遺跡で大型の建物群が発見されたことで、邪馬台国の話題が盛んになりました。その議論の中で、一部では邪馬台国畿内説も声高に叫ばれたような印象も受けますが、私見は、邪馬台国は北九州にあり、畿内には、それとは別の王朝(出雲や吉備等の連合国家)が存在したのではないかというものです。

北九州にあった邪馬台国は、中国大陸のゲートである朝鮮半島から近く、その要所を抑えることで、中国大陸に対して、畿内の大和王朝等、他を寄せ付けない存在感を持つことができたのではないかと考えます。邪馬台国の記述は、「魏志倭人伝」という中国側の文献で多く取り上げられている一方で、日本国内における記述は不十分であると言われています。このあたりは、文献が限られているが故の問題なので、一概に結論を導き出すことはできませんが、逆に考えれば、中国側の文献ばかりで取り上げられるということ自体に、邪馬台国が北九州にあったのではないかと考えさせるポイントがあるのではないかと思うのです。

いずれにせよ、もし日本建国の祖が出雲大社の大国主大神であるとしたら、日本の神々が、そこに集まってどんな何を話しているのかは、大変興味深いところです。本来、「神在祭」は縁結び等の協議をすることになっているそうですが、今後の日本の行く末についても、きっと神様同士で話をしたりするのだろう等とも考えてしまいます。きっと下界で行われている「事業仕分け」のような殺伐とした会議ではなく、もう少し談笑に近い会議ではないかと勝手に想像してみたり・・・。

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与件として考えない天皇制

2009年11月24日 | 日本

天皇制については、いろいろな考え方があると思います。私は、特に維持論者でも、廃止論者でもなく、国民にとって必要であれば維持をすればいいし、必要ないなら廃止をすればいい程度にしか思っていません。ただ少なくとも、天皇制を聖域化して、その存廃の議論すらさせないような考え方があるとするのなら、それには真っ向反対したいと思います。

天皇は、この国唯一の主ではなく、この国及びこの国の主たる国民の象徴です。天皇制の存廃は、当然、この国の主たる国民が決められて然るべきです。憲法第1条の条文は以下の通りとなっています。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

天皇制については、まずこの基本的な大原則をきちんと押さえておく必要があるでしょう。

そして私自身は、天皇の「象徴」という位置付けからすると、今日の天皇に対する敬語の使われ方に、少なからぬ違和感を覚えています。天皇に対しては、他の一般の人々に対するものとは異なる尊敬語を用いることが多いようですが、これは天皇を「象徴」以上の存在として、捉えているような印象を受けるのです。

もし、天皇が「国民統合の象徴」であるならば、それは自分たちを含めた国民を鏡に映したような存在です。この関係は対等であり、けっして上下ではありません。もちろん、「一国民」と「国民統合の象徴」では、「個体 vs 全体象徴」であり、「全体象徴」が「個体」より重いという論理はあるかもしれません。しかし、「全体」はあくまでも「個体」の集合に過ぎず、「個体」を軽んじる「全体」が、まともに機能するはずはありません。「個体」と「全体象徴」は、互いに尊重し合わなければならず、それは上下関係というよりも、むしろ役割分担と考えるべきではないかと思うのです。

したがって私は、「一国民」と「国民統合の象徴」とを目前に置いて、事の軽重を論じようということ自体が、そもそも意味のないものと考えます。その上で、天皇を軽んじることは、自分自身や他の国民の方々を軽んじることにもなるでしょうから、それは控えるべきだと考えます。しかし、天皇ばかりを一方的に上に奉るような敬語を用いるのは、「象徴天皇」に対して適切ではないだろうと思うのです。もし、そうした敬語を使うのであれば、一律に全ての国民に対して、それを用いるべきでしょう。

このように考えていくと、天皇や皇族の方々ばかりを特別扱いした言葉遣いや接し方に対しては、少なからぬ疑問を覚えざるを得ないのです。

また天皇については、日本国を統べた偉大な存在であり、長い歴史を引き継いできたトップという見方もあるでしょう。そうした歴史的見地から、天皇を特別扱いする立場も分からないではありません。

しかし、長い歴史を真剣に見つめていくと、天皇に関しては、必ずしもポジティブな部分だけでなく、裏切りや反逆といったネガティブな側面も見逃すわけにはいかなくなります。このことは、天皇の正統性を根本から揺るがすのであり、正直、「必要ならいればいいし、不要ならいなくてもいい」程度の存在にしかなり得ないということにもなるのです(「日本建国史の再考」、「「右翼」との向き合い方」等参照)。

こうした歴史的な見地を含めてみても、必ずしも、天皇制の議論を聖域化して、未来永劫守り続けなければいけないというのは当たらないと考えます。そういう意味で、この国の国民は、天皇制を動かすことのできない与件として考えず、常にその必要性を吟味したうえで、広く議論をしていけばよいのだろうと思うのです。

《おまけ》
ここでは、天皇制の存廃について、国民の立場から考えてみましたが、一方で天皇ご本人、あるいは皇族の方々の立場から、それを考えるということもあり得るのだろうと思います。現在の皇太子は、天皇制と自らの家庭という狭間の中で、いろいろと悩まれている部分もあるのではないかと考えます。この問題は、国民にとっての問題であると同時に、天皇やその周辺にいらっしゃる皇族の方々にとっての重大な問題でもあるのです。天皇制に関しては、こうした皇族の方々においても、動かすことのできない与件として考えるのではなく、常にその必要性を熟考してみることが許されてもよいのではないかと思うのでした。

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「右翼」との向き合い方

2009年09月28日 | 日本

ここ最近、日本建国史について、あらためて見直しています。いずれにせよ、大枠に関しては、既に本ブログでも記事化している通りです(「日本建国史の再考」参照)。

ところで、私がこのように日本の建国史に関して調べているのは、単に「趣味だから」という理由ではありません。私が、人生において、必要なことを推し進めるにあたっては、どうしても必要な作業なのです。

国や世界の根幹に関わるような仕事をしようとなると、実にいろいろな方々と接することになります。その中には、いわゆる「右翼」と呼ばれるような方々も含まれます。一般的に「右翼」と言うと、街宣車を乗り回して、大音量で自分たちの主義主張を述べ立てる人々をイメージするかもしれません。もちろん、それはそれで間違いではないと思いますが、もっと大きな力を発揮するような「右翼」の方々のあり様は、もう少し違っていると考えた方がいいでしょう。こうした方々は、近現代の日本における国家運営に関して、非常に大きな影響力を有し続けてきた方々であり、おいそれと表舞台に出てくるような簡単な存在ではありません。私なりに、「右翼」は日本という国家の成り立ちについて、深く関わってきた方々であり、だからこそ日本という国に対しての思い、あるいはその頂点とされた天皇に対しての思いが、他の人々とは比べ物にならないくらい特別なのだろうと理解しています。

現代の天皇制について、あるいはその存在について異議を唱える人々がいます。例えば、近代日本の歴史からいえば、明治維新を成し遂げる過程で、大きな過ちがあったと指摘する人々がいることは事実です。それを(過激な表現ながら)端的に言ってしまうと、明治天皇は逆族の一味であり、その末裔たる人々を天皇として崇め奉るのはおかしいのではないかということです(「責める前に学ぶこと」参照)。こうした類のテーマについて、「右翼」の方々との議論になると、大変な不快感を示しつつ、「足利尊氏こそが逆族である」等という展開になったりします。足利氏については、たしかに三代将軍義光あたりで、ずいぶんと問題があったらしいことは、いろいろなところで言われていますが、「右翼」の方々の主張には、それだけではない事情が隠されているようです。

ただ私としては、この問題について「誰が逆賊か」というようなかたちで、あまり明確なスタンスを取ったり、結論を出したりするつもりはありません。仮に、明治天皇が逆族の一味なら逆族の一味で構わないし、それはそれとして承知の上で、認めていけばいいだけのことでしょう。当時の欧米列強が押し寄せてくるような情勢にあっては、明治政府樹立のために、相応の無理が生じたとしても仕方がないと思いますし、それは、それを為した方々のギリギリの選択であっただろうと推察します。ただし、それと同時に、少なくとも「足利尊氏が逆族である」からこそ、それを正した明治天皇以降こそが正統であるという論法に賛同するつもりもありません。もう少し踏み込んでいえば、次の時代に向けて、新しい日本を作り上げていくためには、そうした思想や歴史観に囚われないことが肝要だと思うのです。つまり、「天皇制」や「天皇の存在意義」といったテーマについては、「右翼」の方々とも、きちんと向き合いつつ、建設的な議論ができるように準備をしておく必要があるということです。

こうした問題意識に立つと、日本建国史を見つめ直す意味が高まります。つまり、「右翼」の方々が南北朝時代まで遡って、自らの正統性を語られるのであれば、問題の原因を、それよりもさらに遡ったポイントから見つめ直すことによって、それを包含するようなロジックを組み立てられることが可能になってくるということです。それは自分自身が、今日の「右翼」を越える程、「果てない極右」になるということでもあるでしょう。そうした意味で、日本建国史を紐解き、例えば「大国主大神と天照大神」、「神武と饒速日」、「蘇我と物部」の関係性を知るということは、「楠正成と足利尊氏」の関係性を知ること以上に、重要な意味や強大な力を持ち得ることになるのだと思います。

こうした姿勢は、「右翼」の方々と向き合いながら、次の時代を構築していく上で極めて重要であると考えます。「右翼」を制するのは、その逆に位置する「左翼」ではないと思います。それは、今の「右翼」よりももっと深く、大きく、重い「果てない極右」になることが、「右翼」と向き合いつつ、新しい時代を構築するためには必要なことだと考えるからです。

少々、脱線しますが、これは「左翼」についても言えることです。「左翼」を制するのは、「果てない極左」です。少々、奇異に思われるかも知れますが、「果てない極右」と「果てない極左」は交わるものであり、全くの別物ではありません。それはあたかも、地上が平面とされている時代においては、「東」と「西」が反対概念であったにも関わらず、地球が丸いことが分かってしまえば、「果てない東」と「果てない西」が交わるようなものです。

私は、次の時代において、恒久的な世界平和実現のための仕組みを作っていこうと考えています。それは見方によっては、「果てない極左」的な思想と解されるであろうと考えます(「四次元戦争の時代」参照)。一方で、それを実現するためには、私自身が日本人としての立場から、徹底的に日本という国の成り立ちを紐解き、その重要性と役割について、真剣に考えていかなければならないと思っています。それは、ある意味で「果てない極右」的な思想であるとも言えるでしょう。

このように、これら相反するかのような二つの思想が同居することについて、従来の概念の延長線上からでは、けっして理解できないものだろうと考えます。しかし、これらは間違いなく両立するものだと思います。「右翼」や「左翼」というものを、これまでのような平面的な概念ではなく、より立体的な概念から捉えられる時代は、きっと到来することでしょう。

それはさておき、いずれにせよ、これから先の時代において、「右翼」の方々とも、きちんとお話ができるように、「果てない極右(あるいは極左)」になるための準備を進めておくことは、とても重要なことだと思うのでした。

《おまけ》
私、竹内一斉の経歴についてインターネットで検索をすると、私が「サムスン出身の経歴を持つチョソ系」という書き込みがヒットするようです。ここで言われている「チョソ系」というのが、何を指しているのかよく分かりませんが、少なくとも、私は純然たる日本人です。そしてまた上記の通り、きっとその中でも「果てない極右」的な思想の持ち主でもあろうと思います。この書き込みをされた方とは(私からは見えない相手であり、私が永遠に気付かない存在であるとしても)、いずれどこかで、きちんとお話をしてみたいと思っています。私の職歴や経歴から、いろいろな憶測をされるのは勝手ですが、事実に反することを平然と言いのけられたり、また言いっ放しを許してしまったりするのは、けっして良いことではありません。また、蔑視思想とも取られかねない発言をされていることに対しては、同じ日本人として大変恥ずかしく思います。ただ、こうした行為がまかり通ってしまうというのは、今日のインターネットの構造上の限界でしょうから、その問題解消については、自分自身のテーマとして、きちんと人生をかけて取り組んでいきたいと思います(「責任を伴う「場」の提供」参照)。ちなみに、その書き込みの中には、私が「一般常識もなく口の利き方も知らない」といった指摘もあるようですが、これについては単純にそうかもしれませんので、素直に「なるほど!」と返したいところです(笑)。

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違うことを伝える気遣い

2009年08月15日 | 日本

今日は、終戦記念日です。この時期になると、きまって話題になるのが靖国神社問題です。靖国神社への参拝は、中国や韓国等の近隣諸国への配慮という点から、これだけの問題となっているものだと認識しています。しかし、そのような配慮が、本当にそうした国々にとっても正しいものなのかは甚だ疑問です。海外からの指摘というのを、全く排除するわけではありませんが、彼らと日本とでは戦争に対する立場が違うということを、きちんと伝えることも大切ではないかと思うのです。国家として別々に存在し、それぞれが異なる歴史を持つ以上、その違いはいわば必然であり、それを互いに認め合い尊重していくことも重要です。

靖国神社の問題は、戦没者に対する参拝自体が問題になっているわけではありません。靖国神社には、いわゆる東京裁判でA級戦犯とされる方々が含まれており、そうした戦犯を祀った神社に参拝をするのが問題だというのが、最大のポイントであろうと思われます。それ故に、A級戦犯分祀案が挙がったり、そうした問題をクリアした国立追悼施設の建設といった案が挙がったりするわけです。

ところで、この東京裁判については、様々な問題が取りざたされています。この問題は長らく議論が続いており、多くの書籍も出ているため、ここでの詳述は避けますが、要するに戦勝国による一方的な裁判だったということです。そして、靖国問題での焦点となるA級戦犯については、「平和に対する罪」を犯した者とされている一方、事後法に拠っていたため、法的要件を全く満たしていないとも言われています。

もちろん、東京裁判の法的不備を論って、日本の戦争行為を正当化すべきではないというのは、極めて当たり前のことであり、そこを履き違えるようなことがあってはならないでしょう。しかし同時に、東京裁判での結論に全くの疑問を寄せず、そればかりを尊重できるほど、日本という国家及び国民の立場は単純でないことも間違いありません。こうした事情がある中で、靖国神社からA級戦犯を分祀したり、別途国立追悼施設を建設したりということは、そのような日本の複雑な立場を、安易に誤ったかたちで海外にメッセージングしてしまうことになり兼ねません。

議論することは、大いに結構です。他国の理解を得るために、自国のあり方を議論し、改めるべきを改めるという姿勢も大切なことでしょう。しかし一方で、「国が違えば、事情が違う」というのは、国家という枠組みが存在する以上、どうしようもないことでもあります。そして私は、本問題における経緯を見る限り、配慮の対象となる近隣諸国と呼ばれる国々の指導者が、「国が違えば、事情が違う」ということを理解できていない可能性を恐れます(本当のところ、国民レベルでどうなのかは分かりません)。そういう意味でも、日本は本問題について、「私たちの立場は違う」ということを、毅然とした態度で示していくことも重要ではないかと思うのです。それは、日本という自国のためであることはもちろん、国家とは何かの本質を理解しない国があるとするならば、そうした他国に対する気遣いであるとも言えると思います。

《おまけ》
靖国神社問題については、総理大臣や閣僚(またはその経験者)が終戦記念日に参拝をするかどうかというのも、ひとつのポイントになっています。しかしこれは、彼らの立場から公人云々の問題として捉えるのもどうかと思います。靖国神社への参拝については、それぞれその人がどう考えるかに基づいた行動であり、それ以上でも、それ以下でもないという解釈で十分ではないかと思うのです。普段から、8月15日に参拝されている方が大臣になったのならば、引き続き参拝されれば良いことですし、そうでないなら、従来どおり参拝しなければ良いというだけのことでしょう。この問題については、取り立てて政治問題化すること自体に、そもそもの問題があるように思いますし、それを望むような勢力や影響力の有無を含めて、ちょっとした違和感を覚えてしまいます。

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英語は必須でもない

2009年07月25日 | 日本

「英語が必須」等と言われたりします。しかし、私は英語が苦手です。まったく勉強しなかったわけでもないと思うのですが、何故だか、昔からどうしても頭に入りません。これは一時期、私にとってのコンプレックスでもありましたが、今は、英語が苦手であること自体が、自分の大きな武器であるとも思っています。

言語は、コミュニケーション、互いの意思を伝え合うためのツールとして、非常に大切なものです。その重要性を無視することはできませんが、あくまでもツールはツールであるという認識も大切です(「道具の目的化の危険性」参照)。言語がツールとして存在する目的は、「伝えるべきことを伝える」ことにあります。私は、言語の問題を考えるにあたっては、この目的をきちんと踏まえておく必要があるものと考えます。

言語さえあれば、伝えるべきことが必ず伝わると考えるのは、安易に過ぎるというものでしょう。伝えたい事の本質が分からない人に対しては、100時間話し続けても、けっして分かってもらえるものではありません。その時間が、無駄であるとは言いませんが、「伝えるべきことを伝える」という意味では、本来の目的を達成することはできないのです。

逆に、本当に聞く姿勢がある人には、たった一言によって、その人生が大きく変わるほど、たくさんの事が伝わったりもします。その一言は、得てして、何でもない言葉だったりもするため、言語としては他愛もないことであることも多々ありますが、「伝えるべきことを伝える」という観点からすれば、とてつもない役割を果たすことになります。

このように、まず言語というのは、「伝えるべきことを伝える」ツールとしての役割を担うに過ぎないということが大前提です(一部、これを専門に扱われている方々もいらっしゃり、その方々にとっては、違った見方があることも、重々承知しております。しかし、言語の根源的な存在意義を考えた場合、言語は「伝えるべきことを伝える」ツールに過ぎないものという大前提を置くことについて、然したる問題はないものと考えます)。その上で、本当に「英語が必須」であるかどうかについて、考えてみたいと思います。

以前の会社で、私が仕事をしていくなかで、英語での会議というのも多々ありました。英語が苦手な私としては、基本的に英語ができる仲間に同席してもらって、ボーっと座っているだけでした。英語が全く分からないわけでもないので、話の大筋は、何となく理解できるにしても、私自身が懸命になって、その議論についていくようなことはしません。しばらくすると、議論の途中で、仲間から「先方がこう言っているけど、この条件でいいのか?」等と聞かれたりします。私が、「それは大丈夫」と答えれば、また流暢な英語で議論が再開されます。1時間の会議があったとして、私に質問がなされるのは、大した回数でもなく、そんな調子で議論は恙なく進行します。会議の結果は、私が共有すべきポイントのみ、数秒から数分間の会話で整理することができますし、これによって全体は回っていきます。

この話のポイントは、「中身」にあります。

自分が持っている他者との差別化が、その「中身」においてなされていれば、自分のルールに合わせて相手がコミュニケーションを取ってくれるようになります。「中身」とは、言葉によって表現される手前にあるもので、それを上記の例で言えば、判断力、責任能力、アイディア、思考方法といった目に見えないところにあるものだと言えます。そうした「中身」の部分において、他者との差別化がなされていれば、相手は自分にプロトコルに合わせて、それを聞きに来ざるを得ないということです。「その条件で良いか?」という質問に対して、「Yes」と答えるか、「No」と答えるかという判断力(中身)において、差別化がなされている以上、自分がその判断力を発揮するために必要な情報は、全て自分の言語である日本語に変換されて、伝えてもらえるようになるということです。

もう少し、平易に表現するならば、自分に「中身」があれば、多くの人々が、「あの人には聞いておこう」、「あの人には確認しておこう」、「あの人には伝えておこう」という風に思ってくれるため、ツールとしての言語が、本質的な問題になることはないということです。

しかし、よく考えてみれば、これはごく当たり前のことです。そもそも、「英語が必須」というのは、英語を話す人々の「中身」が、他者に比べて差別化されており、そこに優位性があったからだと言うことができるでしょう。単純な言い方をすれば、「中身」とは文化でもあります。英語圏の人々が、世界において文化的に進んでいると認知される状況になったが故に、英語が世界の共通言語になったのです。そして、その結果、「英語が必須」という考え方も根付いていったのでしょう。

元来、文化に優劣が存在するものだとは思いません。しかし、現実問題として、ある特定の文化が進んでいると認知されることはあるのであり、そのことは、「文化的な優位性」があるとも表現することができると思います。そして、ここで言う「文化的な優位性」という言葉には、実に様々な意味が込められなければならないと考えます。つまり、その「文化」には、いわゆる生活様式や娯楽といった一般的な「文化」のみならず、ビジネス、学術、芸術、国家としての経済力や軍事力といったことを含めて、英語圏が世界的に優位性を持っていたと考えなければならないように思うのです。

しかし、世界の事情は、大きく変わってきています。私は、これから先の時代においても、英語圏が、その「文化的な優位性」を保てるとは考えていません(「脱亜入欧の終焉」参照)。その兆しは、既に様々な場面、分野で表れているように思います。そして私は、これからの時代においては、日本という国が持つ文化的価値が、大きく上がってくるのではないかと考えています(「日本人の大切な「ゼロ」」、「世界のリーダーたるべき日本」参照)。

中国から学ぶべき時代には、必死に漢文を学ぶ必要がありました。140年前、欧米から学習しなければならない時には、時代を担っていく人々が、懸命になって英語を学ぶようになりました。しかし、時代は大きく変わっているのです。

これからの時代は、日本自らが発信していく「中身」を磨いていかなければなりません。もしかしたら、これまでの長い人類史において、そういう時代はなかったかもしれません。そういう意味で、全く新しいフェーズかもしれませんが、多くの外国の方々に、日本の「中身」を学んでいただけるように努力することが、これからの日本人に求められることではないかと思うのです。

「英語が必須」といって、必至になって、英語を勉強する努力を否定するわけではありません。しかし、自分のプロトコルに合わせてコミュニケーションをしていただけるように、「伝えるべきことを伝える」という目的に忠実に、その伝えるべき「中身」を磨いていくことの重要性は、けっして忘れてはいけないと考えるのです。

《おまけ》
最近、インターネットでは、日本で放送されたアニメが一日も待たずして、外国語の字幕付きでアップされたりしています。それを見ていると、日本の文化を理解していないと、分からないものも多々あります。ツチノコ、お年玉、先輩、番長・・・。わざわざ、ご丁寧に注釈を入れているものもありますが、こうしたコンテンツが力を持てば持つほど、その理解には言語のみならず、幅広い日本の文化に対する知識が必要になってくるでしょう。それは例えば、これまで英語文化圏中心の世界において、「クリスマス」を題材にした作品を楽しむためには、意識するしないに関わらず、キリスト教から発する「クリスマス」という文化に対する知識を必要としていたということです。そんな観点からも、日本は多くの外国の方々から、言語に留まらず、広く文化について学んでいただける国になるため、それに恥じない存在になっていかなければならないと思います。

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