「英語が必須」等と言われたりします。しかし、私は英語が苦手です。まったく勉強しなかったわけでもないと思うのですが、何故だか、昔からどうしても頭に入りません。これは一時期、私にとってのコンプレックスでもありましたが、今は、英語が苦手であること自体が、自分の大きな武器であるとも思っています。
言語は、コミュニケーション、互いの意思を伝え合うためのツールとして、非常に大切なものです。その重要性を無視することはできませんが、あくまでもツールはツールであるという認識も大切です(「道具の目的化の危険性」参照)。言語がツールとして存在する目的は、「伝えるべきことを伝える」ことにあります。私は、言語の問題を考えるにあたっては、この目的をきちんと踏まえておく必要があるものと考えます。
言語さえあれば、伝えるべきことが必ず伝わると考えるのは、安易に過ぎるというものでしょう。伝えたい事の本質が分からない人に対しては、100時間話し続けても、けっして分かってもらえるものではありません。その時間が、無駄であるとは言いませんが、「伝えるべきことを伝える」という意味では、本来の目的を達成することはできないのです。
逆に、本当に聞く姿勢がある人には、たった一言によって、その人生が大きく変わるほど、たくさんの事が伝わったりもします。その一言は、得てして、何でもない言葉だったりもするため、言語としては他愛もないことであることも多々ありますが、「伝えるべきことを伝える」という観点からすれば、とてつもない役割を果たすことになります。
このように、まず言語というのは、「伝えるべきことを伝える」ツールとしての役割を担うに過ぎないということが大前提です(一部、これを専門に扱われている方々もいらっしゃり、その方々にとっては、違った見方があることも、重々承知しております。しかし、言語の根源的な存在意義を考えた場合、言語は「伝えるべきことを伝える」ツールに過ぎないものという大前提を置くことについて、然したる問題はないものと考えます)。その上で、本当に「英語が必須」であるかどうかについて、考えてみたいと思います。
以前の会社で、私が仕事をしていくなかで、英語での会議というのも多々ありました。英語が苦手な私としては、基本的に英語ができる仲間に同席してもらって、ボーっと座っているだけでした。英語が全く分からないわけでもないので、話の大筋は、何となく理解できるにしても、私自身が懸命になって、その議論についていくようなことはしません。しばらくすると、議論の途中で、仲間から「先方がこう言っているけど、この条件でいいのか?」等と聞かれたりします。私が、「それは大丈夫」と答えれば、また流暢な英語で議論が再開されます。1時間の会議があったとして、私に質問がなされるのは、大した回数でもなく、そんな調子で議論は恙なく進行します。会議の結果は、私が共有すべきポイントのみ、数秒から数分間の会話で整理することができますし、これによって全体は回っていきます。
この話のポイントは、「中身」にあります。
自分が持っている他者との差別化が、その「中身」においてなされていれば、自分のルールに合わせて相手がコミュニケーションを取ってくれるようになります。「中身」とは、言葉によって表現される手前にあるもので、それを上記の例で言えば、判断力、責任能力、アイディア、思考方法といった目に見えないところにあるものだと言えます。そうした「中身」の部分において、他者との差別化がなされていれば、相手は自分にプロトコルに合わせて、それを聞きに来ざるを得ないということです。「その条件で良いか?」という質問に対して、「Yes」と答えるか、「No」と答えるかという判断力(中身)において、差別化がなされている以上、自分がその判断力を発揮するために必要な情報は、全て自分の言語である日本語に変換されて、伝えてもらえるようになるということです。
もう少し、平易に表現するならば、自分に「中身」があれば、多くの人々が、「あの人には聞いておこう」、「あの人には確認しておこう」、「あの人には伝えておこう」という風に思ってくれるため、ツールとしての言語が、本質的な問題になることはないということです。
しかし、よく考えてみれば、これはごく当たり前のことです。そもそも、「英語が必須」というのは、英語を話す人々の「中身」が、他者に比べて差別化されており、そこに優位性があったからだと言うことができるでしょう。単純な言い方をすれば、「中身」とは文化でもあります。英語圏の人々が、世界において文化的に進んでいると認知される状況になったが故に、英語が世界の共通言語になったのです。そして、その結果、「英語が必須」という考え方も根付いていったのでしょう。
元来、文化に優劣が存在するものだとは思いません。しかし、現実問題として、ある特定の文化が進んでいると認知されることはあるのであり、そのことは、「文化的な優位性」があるとも表現することができると思います。そして、ここで言う「文化的な優位性」という言葉には、実に様々な意味が込められなければならないと考えます。つまり、その「文化」には、いわゆる生活様式や娯楽といった一般的な「文化」のみならず、ビジネス、学術、芸術、国家としての経済力や軍事力といったことを含めて、英語圏が世界的に優位性を持っていたと考えなければならないように思うのです。
しかし、世界の事情は、大きく変わってきています。私は、これから先の時代においても、英語圏が、その「文化的な優位性」を保てるとは考えていません(「脱亜入欧の終焉」参照)。その兆しは、既に様々な場面、分野で表れているように思います。そして私は、これからの時代においては、日本という国が持つ文化的価値が、大きく上がってくるのではないかと考えています(「日本人の大切な「ゼロ」」、「世界のリーダーたるべき日本」参照)。
中国から学ぶべき時代には、必死に漢文を学ぶ必要がありました。140年前、欧米から学習しなければならない時には、時代を担っていく人々が、懸命になって英語を学ぶようになりました。しかし、時代は大きく変わっているのです。
これからの時代は、日本自らが発信していく「中身」を磨いていかなければなりません。もしかしたら、これまでの長い人類史において、そういう時代はなかったかもしれません。そういう意味で、全く新しいフェーズかもしれませんが、多くの外国の方々に、日本の「中身」を学んでいただけるように努力することが、これからの日本人に求められることではないかと思うのです。
「英語が必須」といって、必至になって、英語を勉強する努力を否定するわけではありません。しかし、自分のプロトコルに合わせてコミュニケーションをしていただけるように、「伝えるべきことを伝える」という目的に忠実に、その伝えるべき「中身」を磨いていくことの重要性は、けっして忘れてはいけないと考えるのです。
《おまけ》
最近、インターネットでは、日本で放送されたアニメが一日も待たずして、外国語の字幕付きでアップされたりしています。それを見ていると、日本の文化を理解していないと、分からないものも多々あります。ツチノコ、お年玉、先輩、番長・・・。わざわざ、ご丁寧に注釈を入れているものもありますが、こうしたコンテンツが力を持てば持つほど、その理解には言語のみならず、幅広い日本の文化に対する知識が必要になってくるでしょう。それは例えば、これまで英語文化圏中心の世界において、「クリスマス」を題材にした作品を楽しむためには、意識するしないに関わらず、キリスト教から発する「クリスマス」という文化に対する知識を必要としていたということです。そんな観点からも、日本は多くの外国の方々から、言語に留まらず、広く文化について学んでいただける国になるため、それに恥じない存在になっていかなければならないと思います。