最近、口でいろいろ言うよりも、行動で示すことの方がより重要な気がしています。
それだけでなく、近頃は諸々の生活や環境の変化もあり、ブログは少々休憩します。
ここは一旦、「躬行実践以って」、進んでいきたいと思います。
最近、口でいろいろ言うよりも、行動で示すことの方がより重要な気がしています。
それだけでなく、近頃は諸々の生活や環境の変化もあり、ブログは少々休憩します。
ここは一旦、「躬行実践以って」、進んでいきたいと思います。
竹内宿禰さんの一円札を入手しました。
そこで早速、ブログのタイトル画面にお顔を貼らせていただきました。
先人たちの魂を受け継ぐこと、歴史を作ってきた人々の思いを背負うことは、きっと我々にとって未来を作っていく大きな力になるでしょう。
私自身、竹内の人間として、できることをしていきたいと思います。
2008年に会社を立ち上げ、新しいインターネットやコンピューターの仕組みを構築するための準備を進めてきました。これは、新しい時代に求められる世界観や価値観をシステムとして具現化するものであり、社会的ニーズの高まりとともに、必ずや実現することになるだろうと考えています。
ただし、私自身は技術者でないため、これまでの活動は、本ブログでも書いているような、そうした新しいインターネットやコンピューターの概念的な説明等が中心であり、具体的な構築作業には踏み込めていませんでした。
しかし、今春から新しい仲間が加わり、小さいながらも具体的なシステム構築のための歩を進め始めました。まだまだ、始まったばかりではありますが、それでも最近、そうした仲間の参加によって、この分野における私の役割や負担がだいぶ軽減されてきたように思います。
代わって、最近、私の身の回りでは、今まで経験したことがない新しいことばかりが起こっています。
元来、私にとっての事業とは、全地球規模での危機的状況を乗り越えるためだけでなく、次の時代における宇宙的規模のパラダイムシフトにも対応して(「宇宙人としての自覚」参照)、次の世代の子供たちにバトンタッチできるだけの社会を残すためのものです(「事業の本質と存在価値」参照)。
そういう意味で、当然のことながら、その事業範囲がインターネットやコンピューター等、ITに留まるはずがありません。
農業、教育、エネルギー、政治・・・予見していたことではありますが、ますます楽しい展開になってきました。
「理想主義」と言われることがあります。一般的に、この言葉は「現実主義」の対極にある概念ですが、私の場合、果たしてそうなのかという気がしています。
少なくとも、私にとっての「理想主義」と呼ばれるそれは、何もないところから生まれたわけではありません。社会や世界の現実と向き合い、それを直視するなかで、その大きく深刻な問題を打開すべく必然として生まれてきたように思うのです。感覚的には、「必要は発明の母」といったところでしょう。目を背けてはならない現実を打開するという必要性から、生まれてくるヒラメキ(発明)であり、ビジョンといった感覚です。
そういう意味で、私の場合、「究極の現実主義」から「究極の理想主義」が生まれたと言ってもよいと考えます。
中途半端な「現実主義」から、「理想主義」を否定して欲しくはないし、中途半端な「理想主義」によって、「現実主義」を軽視してもいけません。否、真剣に「現実主義」的思考をするのならば、それはいずれ本当の「理想主義」に辿り着くであろうし、また真剣に「理想主義」を突き詰めると、結果として本当の「現実主義」に行き当たるのだと考えます。
私たちの世界が球でできていると分かってから、ある意味で、「東」と「西」は対極概念ではなくなりました。果てしなく東に向かう人と、果てしなく西に向かう人は、いつか交わるということが分かったのです。対極の概念で、物事を決め付けられる時代は、そろそろ終わるような気がします。
「個」と「全体」、「保守」と「革新」、「右翼」と「左翼」、「科学」と「宗教」・・・。突き詰めていくと、それらが意味するところは同じであり、そこにはこれまでの人類が知り得なかった新しい発見、ヒラメキ、気づきがあるのだと思います。
しばしお休みをしていたブログでしたが、(自分の中のことながら)何となく諸々の整理がついたこともあり、お休みを解除することにしました。
既述の通り(「ブログの目的と小休止」参照)、このブログを立ち上げた当初は、自分なりにブログの目的と問題意識を明確に持っていたのですが、今後は、あまりそういうことに囚われず、もっとお気楽な感じで、単純に「書きたいことを、書きたいときに、書きたいように書く」ことにしたいと思います。
何となくこの心境になれたことが、自分としては、きちんと次のフェーズに入れたような感じがして、ちょっと嬉しい気がします。
PCがイカレテしまいました。一応、こうして書き込みをすることはできますが、あまり気持ちの良い環境ではありません。気乗りもしないことですし、しばらくの間、Twitterへの投稿を含めて、書き込みをお休みしようかと思います。自分なりに、ブログへの投稿は「1ヶ月に最低1回」と決めているので、質や量の問題はともかく、毎月、何かしらの投稿はしようと思いますが、私としては、このブログの当初の目的を達成したような気もしており、小休止もいいだろうと思う次第です。
このブログの目的は、当初、以下の二つでした。
1.「常識」とされるものが、あまりに脆いことを伝える
私にとって、このブログを始めたキッカケは、アイピーモバイルという会社にいた頃でした。その会社での仕事は、携帯電話の電波を使って、通信インフラを構築しようというものだったため、普通では味わえないような、様々な体験をさせていただいたと思います。
電波というのは、周波数帯ごとに免許が与えられたりするだけあって、無尽蔵にあるわけではなく、ある意味では、国が有する資源とも言えるものです。しかも、その与奪は、そんなに簡単ではない上、社会に与える影響力や事業規模が極めて大きいため、どうしても既得権益化しやすい側面があります。アイピーモバイルという会社は、小さなベンチャーながらも、そこに食い込んだ会社だったので、その中で、普通の生活をしていては、到底、お会いすることがないような、とても不思議な方々とも接触することになりました。
そこで感じたことは、この世界が大きく依存してしまっている仕組みや組織の危うさであったり、社会で「常識」とされていることの裏側に潜むものの姿でした。こうした類の話は、普通に周りに話しても、単なるバカ扱いされておしまいですが、私なりに何かをしなければならないとも思いました。しかし、当時の私の立場では、それを外に発信していく術はなく、できることと言ったら、(今でこそ、実名顔出しですが、当時としては)匿名のブログで何かを書くといったことくらいでした。それで何が変わるというわけでもありませんが、とりあえずは、それだけでもしておこうということで、「常識について思うこと」というタイトルで、このブログをスタートさせたわけです。
今日に至るまで、そのテーマに合わせて、いくつかの分野に分けて整理してきました。そして、当時想定していた一通りのことは言及できたのではないかと思います。
2.「成功」とされるものに、必要な本質を書き留める
これも、同じくアイピーモバイルという会社で経験したことです。私なりに真剣になって、窮地に追い込まれている仕事仲間にアドバイスをしていたときのことでした。
-それは、貴方が役員だから言えるんですよ-
この言葉を聞いて、唖然としました。この言葉を出されてしまった瞬間、私のあらゆる言葉は、全て死んでしまったも同然です。私にとっては、地位や肩書きを気にする人が、言葉というものを地位や肩書きから発せられるものだと考えるということを知った瞬間でもありました。同時に、冷静に考えてみたのですが、私は、たとえ役員でなくても、同じことを言っていましたし、逆に言うと、そうした思考をしたからこそ、役員としての責務を全うできているのだろうと思いました。そして、そこで痛烈に感じたのです。
-まず精神や思考法、その後に地位や肩書きが存在する-
これは、いまだに私にとって、揺ぎない信念でもあります。しかし、地位や肩書きが固まってからでは証明できないものでもあります。地位や肩書きが固まっている人間が、いくら偉そうなことを言っても、それはその地位や肩書きがあってこそだと思われてしまう余地があるわけです。それでは、全く面白くありません。
このテーマは、あくまでも地位や肩書きを失っている人間こそが、証明できるものなのではないかと思えてなりません。地位や肩書きもない人間が、精神や思考法を予めオープンにしておいて、その結果としての地位や肩書きが固まってきたときに、それを時系列で整理することで、はじめて上記の命題を証明することになるのではないかと思うわけです。
幸い、私はアイピーモバイルという会社を解任され、一度、きっちりと地位も肩書きも失うことができました。そういう意味で、それ以降、私が成すべきは、自分の精神や思考法を極力オープンにしてくることだったわけです。そして、それはこのブログを通じて、凡そ達成できたのではないかと思います。
このように、ブログを設定した当初の目的は、大体、達成できた感もあるので、今回起こったPCの不具合を機に、一旦の小休止に入りたいと思います。とりあえず最低限の月一ペースを守りつつ、また状況が変わって、いろいろと気乗りする環境になったら、再開するようにいたします。
数年前、単なる景気云々のような次元の話ではなく、国家や社会、世界の構造自体の問題、またはそれらの未来に関する問題について、言い知れぬ大きな危機感を抱き、とてつもない使命感を覚えました。
-子供たちのために何とかしなければいけない-
そう感じるようになってから、かなり意識的に一瞬一瞬を生きるようになり、また動き始めてからは、子供たちに希望を残せる未来を創造できると確信できるようにもなりました(「子供たちへのバトンタッチ」参照)。ただ、それにはそれなりの時間がかかるだろうと考えています。
私が、ひとつの目安にしているのは2039年です。
この年については、諸説ありますが、それらに関わらず、私が思い描く世界を創造していくためには、30年くらいの年月を要して、至極当然だろうと思っています。もう少し別の言い方をすると、2039年には、私の息子が現在の私の年齢に達します。私が、子供たちの世代にバトンタッチする上で、少なくとも息子が、今の自分の年齢になるまで踏ん張って、自分の分身たる息子にさらなる未来を託していくというのは、なかなかストーリー性もあって、良いのではないかと思うのです。
そのように、2039年をひとつの区切りとして考え、これを30年計画として捉えると、2010年は最初の一年、つまり元年ということになるのです。そして今日は、その元年の元旦にあたるという意味で、少々特別な感じがしています。
他の多くの人々にとっては、特にどうということではないでしょう。ただ自分的には、これからの「30年計画」を進めていく上で、ちょっとした記念日だと思ったので、記しておきました。
いずれにせよ、今日からの30年間、とてもとても楽しみです。
2009年も、あと数時間を残すのみとなりました。今年をあらためて振り返ってみると、自分なりには、「垢落としが終わった年」と位置づけてよいのではないかと思っています。
新しいことを実現するためには、余計なものを巻き込んではいけません。下手に余計なものを身の近くに置いてしまったら、それが後々災いとなって、自分の身に降りかかってきてしまいます。結果として、志を遂げることはできません。私としては、今年の総括として、これまで自分が成長していく過程の中で、どうしても必要だったもの、けれども「垢」に成り果てたものを整理することができた、とても貴重な一年であったと振り返ることができるのではないかと思うのです。
一応、念のため付け加えておきますが、「垢」はけっして悪ではありません。「垢」は、それが「垢」に成り果てる直前まで、紛れもなく自分の身体の一部だったものであり、それに対しては、大いに感謝しなければならないと考えます。したがって、「垢」が「垢」に成り果てたこと自体は、むしろ悲しむべきことなのだろうとも考えます。
しかし、それが自分の成長とともに、「垢」に成り果てた瞬間、それを自分の身体の一部として、置いておくことができなくなるのも事実です。これは、非常に悲しいことではありますが、ただやはり、どうしても新しい身体をきちんと動かしていくためには必要なことでもあります。
そういう意味で、2010年という大変貴重で大切なスタートを切るにあたり、今年はきっちりと「垢落とし」ができました。いよいよこれから、次の時代を共に切り開いていくことになる仲間たちが、順次、集い始めることになるのだろうと考えます。
Twitterをやっていて、面白いと思うことは、普段、なかなか目にしないような価値観や考え方について、他人のつぶやきから感じ取ることができる点です。
親バカというのも、そのひとつです。少なくとも、私の場合、普段の生活をしていて、あまり親バカぶりをさらけ出すという人には会いませんが、Twitterの中には、四六時中、子供のことを考えて、それについてつぶやいてばかりいるような方もいらっしゃるわけです。
私は、子供の愛し方にはいろいろあって然るべきだと思うので、それ自体に関して、とやかく言うつもりはありません。ただし、こうした諸々の変化が激しく、社会的に不安定要素が満ち溢れるような時代にあっては、その愛しい子供を守るのに、相当の覚悟と実行力が求められるということも、また事実だろうと思います。
これまでの私の人生において、いくつか転機と呼べる時がありました。そのうちのひとつが、5年ほど前に子供を抱いている時でした。当たり前のことながら、自分の子供はとても可愛く、その瞬間の幸福感というのは、言い知れぬものだといって良いと思います。一方で、その子を抱きながら、テレビを見ていると、暗いニュースの数々が放送されており、社会の行く末に暗澹たる気持ちになっていくのです。そこで思ったことは、その瞬間、自分が胸に抱いている子供のことでした。
-将来この子は、今の自分と同じように子供を抱く幸せを感じられるだろうか?-
国の財政問題、エネルギー問題、食糧問題、環境問題・・・。どれをとっても30年、60年の単位で考えた時、この子が大変なことになると思えてなりませんでした。もちろん、その時の自分にできることは、大変限られていますが、それでもできることはたくさんあると思うほかありませんでした。
-この子たちの世代に、将来の希望を残してバトンタッチするのが親の仕事だ-
子供を愛し、子供を守るということには、いろいろなかたちがあろうかと思います。常に彼らの傍らに寄り添って、十分な愛情を注げることができるのであれば、それに越したことはありません。しかし、それだけでは、子供たちの将来を守ることができないかもしれない時代、しばし子供から離れることがあっても、やるべき事をやる覚悟と実行力が求められるのではないかと思うのです。
親から子供へのバトンタッチというのは、きっとそういうものなのでしょう。おそらく、歴史とは、そうした世代交代を繰り返しながら成り立っているのであり、私自身、そういう繋がりの中に存在しているのだろうと思います。
いずれにせよ、そんなことを踏まえつつ、今、親をやっている方々にとっては、これからが頑張り時だと思うのです。
《おまけ》
「北斗の拳」のケンシロウにとって、ラオウとの決戦までの間、リンとバットはただ守るだけの対象でした。しかし、ラオウとの戦いの後、リンやバットと再会したケンシロウは、彼らを共に戦う仲間として受け入れました。
今、私にとっての子供たちは、ラオウ決戦前のリンとバットなのです。彼らに望むことは、ただ生き延びてくれること、そして自分がやるべき事は、彼らに希望を繋ぐことです。彼らを守り抜き、希望を繋ぎ、共に地球の未来を切り拓くための戦いができるようになった時、私は彼らに堂々と言えるようになるでしょう。
「ここまではパパが頑張ったんだから、あとはお前たちも頑張ってみろ」ってね。
-最近、ブログを更新していませんね-
先日、ある方からこんな言葉をいただきました。たしかに、そのとおりです。
私の場合、ブログを書く時期、書かない時期というちょっとした波があるように思います。
今までの経験から言うと、私がブログを書いている時期というのは、ちょっとした準備期間に入っている感じです。それは、実生活においては、それほど大きな変化がなく、比較的自分と向き合う時間が多い時期になります。自問自答をしていくなかで生じる気付きや、普段からまとめたいと考えていたテーマについての切り口が頭に浮かび、それを文字に落としていくといったことが多い局面です。
これに対して、ブログを書かない時期というのは、それらを実行に移しているフェーズであると言えます。溜めていたものを掃き出し、実世界のなかでかたちにしていくような時期です。ある意味では、こちらの方が重要であるとも言えます。
私としては、9月に入ってから、私を取り巻くあらゆる環境が、少しずつこちらに移行してきているように感じています。ブログの更新頻度が減るという意味では、ちょっと残念ではありますが、風林火山で言えば、山のような「静」から、風や林のようにちょっとした「動」が生じたということで、これはこれで良いことだろうと考えています。
あ、ただTwitterでは、相変わらず、くだらない事ばかり書いていますけどね・・・。
他人は自分の鏡だと思います(「他人は自分の鏡参照」)。これは、今も変わりません。しかし一方で、私自身、あるポイントを超えて以降、自分という存在については、まったく逆のことを感じています。
それは、「自分自身が他人の鏡である」ということです。
このことは、けっしてその逆を否定するものではなく、これらが相矛盾する考え方ながらも、きちんと両立するものだと考えているということです。そして、この「自分が他人の鏡である」ことを意識するためのポイントを一言で表現すれば、「誰に対しても、一定の態度で臨むこと」になろうかと思います。
これは、古武術の世界で言うところの、正中線のようなものだと考えていただいて良いかもしれません。相手がどんな人間であろうとも、ひとつの中心軸(正中線)を崩さず、相手の出方に応じて無限に変化できれば、特に枝葉末節における、こちらのスタイルにこだわる必要はなくなります。斬りかかってくる相手には、きちんと斬り返すことができるし、投げを打とうとする相手には、きちんと投げ返すことも可能です。この時、「どう斬り返すか」、「どう投げ返すか」の技術論は、相手の動作によってのみしか決まらないため、予めそれを定めることができないのです。そのような意味でも、こうした戦いにおいて大切なことは、常に自分の中心軸を保つことであり、どんな相手に対しても一定の態度(構え)で臨むことになるわけです(「正中線を保つことの重要性」参照)。
逆説的ではありますが、このように「一定の態度で臨むこと」は、結果として自分自身を変幻自在の存在たらしめることになるのです。
武術の世界ではなく、日常生活において、このように思えるようになると、自分自身が他人にどう映っているかということを全く気にしなくなります。自分は、あくまでも「一定の態度」で臨んでおり、それ以降のコミュニケーションは、相手の出方に合わせて返しているだけです。そういう意味で、所詮、他人に映っている自分の姿は、自分そのものではなく、自分を鏡として見ているその人自身の姿なわけですから、それをいちいち気にするほど、馬鹿げたことはないと思うしかならなくなるのです。
ふざけている人、真面目な人、バカな人、賢い人、開放的な人、閉鎖的な人、意地悪な人、優しい人、ポジティブな人、ネガティブな人、現実主義的な人、理想主義的な人、男らしい人、女々しい人、思慮深い人、単純思考な人、ケチな人、太っ腹な人・・・。
実に、いろいろな見方があることでしょう。敢えて、私から答えるとするならば、これらはいずれも正解だと言えると思います。だからこそ、各他人様の考え方には、いちいち立ち入るつもりもありませんし、気にすることもありません。私としては、たとえ自分をどう見ているかという他人のコメントや態度に触れることがあったとしても、それを自分自身の問題として考えるよりも、むしろその「他人」自身の問題として、結構楽しめてしまうのです。
そうしたことを考えている関係もあり、最近のわが子による「逆コナン(見た目は大人、頭脳は子供)」発言は、私にとって極めて興味深く、結構いい感じでツボにはまってしまったのでした。
-一を話せば、百を知る人がいる-
-百を話しても、一すら分からない人がいる-
自らを磨いていけば、きっと良い仲間に恵まれることになるのでしょう。互いに尊重し、耳を傾け、共感できる仲間と出会えれば、仕事が楽しくなるだけでなく、一切の時間的ムダがなくなり、効率の良い仕事ができるようになります。
一を話して百が伝わり、その百から万が生まれる・・・。
そして、そんな加速度的な「創造の連鎖」は、極めてミクロながらも、既に始まっていると思うのです。
説得?
それは、話す相手が間違っているのかもしれません。分からない人に伝えようとする努力を否定するつもりはありませんが、私からしたら、私の時間がもったいなくて堪らないのです。また、そもそも、その相手が真剣に分かろうとしているのかどうかも疑問です。
そんな時、私だったら、さっさと切り上げて、アニメでも見てしまうでしょう。
傲慢?生意気?さぁ、どうでしょうか(「傲慢と生意気」参照)。
《おまけ》
人生には、いろいろなフェーズがあると思います。私自身、今日に至るまで、ずっと上記のような生き方をしてきたわけではありません。ただ、私なりに一通りの経験や考え方を整理していくなかで、今からしばらくの間は、こうした生き方をしていくフェーズなのだろうと考えております。
実名でブログを公開しており、今更、隠すことでもないので、オープンに書きますが、以前、私は電波に関わる仕事をしておりました。現在、あらためて、このブログに書いているようなことを含めて、新しい事業展開のための諸々の準備を進めております。そのなかで、一部の方からは「電波の仕事は、もう終わったんでしょ?」といった類の言葉もいただきます。
率直に言わせていただければ、とんでもございません。むしろ、電波の事業は、これからが本番を迎えると思っています。それは、以下の理由によります。
従来、電波というのは既得権益化しやすいものであったことは、否定し得ないだろうと思います。実際、過去において、電波の割当ということになると、複数の事業者が様々な戦略を練りながら、互いにそれを獲りあうという構図があったことは、紛れもない事実です。それは、既に証明されたビジネスモデルがあり、電波さえあれば、凡そそれに沿って事業を展開することで、儲かることが確実だと思われていたからだと言えるでしょう。そこには、少なからず「電波=儲かるもの」という考え方があったのではないかと思います。
しかし、これから先の時代においても、引き続き「電波=儲かるもの」という図式は、必ずしも成立しないのではないかと思えてなりません。
これまで、右肩上がりで伸びてきた携帯電話の加入者数は、1億人を超えて、明らかに飽和状態に達しています。各携帯電話事業者は、その決められたパイのなかで、自社のシェアを伸ばすことを余儀なくされるわけですが、それは他社から、シェアを獲られることとの競争になるため、ほとんど消耗戦にならざるを得ません。この戦いのなかで、「電波=儲かるもの」という思考から生み出された戦略に基づき、財務的に背伸びをしているような事業者は、必ずやどこかで破綻を迎えることになるでしょう。この問題を回避するには、これまで証明されてきたビジネスモデルを、全く新しいものに書き換えていかなければなりません。しかし、既にビジネスを回している事業者にとって、これには短期的な意味で、大きなロスを伴うため、現在のような株価重視型経営の枠組みのなかでは、まずもって不可能であると見なければならないと考えます。
こうした電波に関わる既存プレイヤーの限界は、何も携帯電話だけに限りません。この数十年間、常にメディアの中心に据えられていたテレビにおいても、その広告業という業態の限界について、早晩、向き合わざるを得なくなると考えます。広告業の限界については、既に別の記事においても指摘しているとおりです(「広告業が直面する問題点」参照)。
こうした問題整理から導き出されるポイントは、これから中期的(一部の企業にとっては短期的)な視野において、そうした企業群が直面するであろう課題が、持っている電波を如何に有効に使うかということになるだろうということです。この課題を克服できなければ、一部の企業においては、経営破たんを含めて、極めて深刻な事態も起こり得るでしょう。
これを別の表現で言えば、「電波を獲れば金になる」という考え方が、過去のものとなり、むしろ電波を持っている企業が、経営危機に陥っていくようななかで、「電波を有効に使ってくれ」という要求が、社会的ニーズとして高まってくるであろうということです。
こうした問題意識を持ち、またそれらについて整理を行っていくなかで、私は、ここ十年以内の間で、電波を巡る事業環境は大いに変わるであろうと思っています。かつて、「電波をくれ」と多くの企業が先を争った時代は過ぎ去り、むしろ社会の側が「電波を有効に使ってくれ」と叫び出す時代になったとき、そこで浮き足立つことなく、スムーズにあらゆるオペレーションが進められるように、今は淡々と準備を進めているところです。
《おまけ》
時折、電波の話になると、「早くやらないといけないんじゃないの?」、「誰かに獲られちゃうんじゃないの?」等ということをおっしゃられる方がいます。私としては、一向にそうは思いません。まず第一に、私は社会のための事業を行おうと思っているのであり、本稿にも書いたとおり、あくまでも「社会ニーズ」に応えたかたちで、事業を立ち上げないと意味がないと思っております。「早くやる」、「誰かに獲られる」という発想は、「自己のための事業」という考え方に立脚するものであり、私の信念に沿いません。第二に、私以外の誰かが、きちんと電波を有効に活用できる仕組みを構築できるというのであれば、それはそれで、是非、お手並みを拝見したいと思っています。そして、それがうまくいくのであれば、それはそれとして、大きな問題が解決したという意味で、大いに歓迎すべきだと考えております。どうなるのかは知りませんが、いずれにしても、これからが非常に楽しみです。
「Twitterの検討」という記事で、書かぬことの重要性、「無言の言」の大切さについて整理をし、そのなかで、私としても「そうあるべきである」と思うことについて言及しました。しかし、その内容とは裏腹に、それ以降のブログの更新頻度は高まっており、これらは明らかに矛盾していると考えなければならないと思います。
冒頭から話が変わりますが、先日、ある方とお話をしているなかで、その方が「弁が立つようになりたい」とおっしゃいました。それに対して、私からは「言葉は溢れ出るものである」というお話をいたしました。つまり、「弁が立つ」ということは、それはそれで結構なことながら、まずもって、何を話したいかということの方が大切であり、本当にそれが大切だと思えれば、それを強く伝えたいと願うようにもなり、結果として、自ずときちんと伝わるようなかたちで表現されるようになるだろうということです。そのように溢れ出た言葉は、いわゆる「魂がこもった言葉」となって、他人の心を揺さぶるようにもなるでしょう。「弁が立つ」という技術論も大切でしょうが、聞く人の心を揺さぶるような「弁が立つ」話し方には、それ相応の見えない力が秘められていると考えることも必要ではないかと思うのです。
こうしたことは言葉に限らず、音楽、絵画、彫刻といった芸術の表現然り、製品、サービスといった経済活動の結果物然り、さらには法律、制度、国家といった社会生活に深く関わる仕組み然りといった具合に、ありとあらゆるものの裏側には、それらを生み出した人々の魂や思いがこもっていると考えられます。そして私としては、技術論ばかりに目を奪われ、こうした裏側にあるであろう世界に目を向けることなくして、事の本質を見極めることは、大変難しいのではないかと思うのです。
前置きが長くなりましたが、私の場合、「Twitter」は少々体験してみるくらいの感覚で、気楽にダラダラと書くだけのつもりでした。それは、今も続いているのですが、そこには私のなかに留めている「思い」を、「Twitter」で適当に吐き出していれば、ブログの更新をしなくて済むかもしれないといった考えがありました。ブログの更新を抑えられれば、少しでも私が目指すべき「無言」の状態にも近づくため、そういう意味で、大いに「Twitter」で遊んでみようと考えていたわけです。
しかし、実際に「Twitter」への書き込みを始めると、自分の「思い」が活性化してしまい、押さえつけていたものが誘発されるかのように溢れ出すようになりました。結果として、ブログの更新頻度が上がってしまったので、そういう意味で、「Twitter」は、全くの逆効果であったと言うことができます。
ただ、溢れ出てしまうものを、無理に抑える必要もないと思うので、ひとまずは「Twitter」で遊びながら、溢れ出るものは、それはそれとして受け入れ、積極的に活かしていこうと思います。そういうことで、しばらくの間は、こうして思うことを思うがまま、ブログに書き連ねていく行為を楽しんでいきたいと思うのでした。
《おまけ》
相変わらず、矛盾と共生していかざるを得ない、自分の人間としての三次元的存在の限界を感じます。ただ、自分が三次元の存在であるということは、それはそれで事実だし、悪いことでもないでしょう。いずれにせよ、最近は、以前に比べて、三次元的存在としての自分を、強く意識するようになってきました。ただし、それは四次元的存在としての自分を見失っているわけではなく、別次元に存在する自分についての探求は、ちょっと一段落ついてしまったような感覚です(四次元的存在としての自分に関する記述については、「考える前に感じること」参照)。こんな「おまけ」、よく分からない方もいらっしゃるでしょうが、そんな方々も、いずれ分かるような時が来るかもしれません。
ブログの公開に対するスタンスついてには、いろいろとあると思いますが、私としては、これまで実名を伏せて公開してきました。それには、いくつかの理由がありますが、そのうちのひとつは、実名公開をすることによって及ぼされる影響が、私の責任範囲を超える可能性があったためです。
人間は、一人で生きているわけではなく、実に様々な社会的な仕組みに組み込まれており、そのなかで多くの利害関係者と共に生きています。一人の行動は、その利害を共有する人々に対しても影響を与えるため、自分が取れる責任範囲を超えるであろう行動は、慎まなければなりません。
これまでの私は、私に関係する人々に対して、取り返しのつかない損害を与えてしまう可能性を否定できませんでした。言うまでもなく、ブログの記事を書く際に、いちいち利害関係者の方々に了解を得てからアップするなどという、まどろっこしいことができるはずもありません。そうした与件のなかで、私という個人が特定できるかたちで、他の利害関係者の方々の了承も得ずに、情報発信をしてしまう結果によって、取り返しのつかない影響が出てしまう可能性を否定できない以上、私としては、私個人を特定できる表現を極力避けなければならなかったのです。
しかし一方で、私自身、本ブログのなかで、インターネットやメディアにおける「オープン性」の重要性を繰り返し述べており、それは自分の実名を伏せる(オープンにしない)という行為とは、明らかに矛盾しています。そういう意味で、私の言を実践するという観点から、実名公開は必須であると考えていました。
ここ数年間、私を取り巻く状況は大きく変化してきており、だいぶ整理もついてきました。そしてようやく、そうした利害関係を考慮した上で、それらが自分の責任範囲内に納まっていると判断できる状況になったため、これまでのブログ公開のスタンスを変えることにいたしました。
大した話ではないのですが、このブログの位置づけという意味では、ひとつの大切な転換点ではあるので、ひとまずのご報告でした。