常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

ニュースはさらりと見る

2009年06月30日 | 社会

7月から新しいアニメが始まります。そのなかには、続編のような作品もあるので、そういう場合には、一応きちんと前作を見ることにしています。そんなわけで、最近、見ているのが「狼と香辛料」です(「狼と香辛料Ⅱ」が始まるのです)。

「狼と香辛料」では、中世ヨーロッパのような世界のなかで、行商人・ロレンスと狼神・ホロが、共に旅をしていくのですが、この二人の会話がとても楽しめます。お互い何となく話をしている感じなのですが、それが非常に知性に富んでいるというか、知的な匂いがして心地良いのです。現実世界においては、テレビのようなマスメディアを通じて、知識人のように振舞われる方々が、それらしい話をされたりしますが、そうした内容よりも格段に面白いですし、知的な感じがするのです。

マスメディアで語られる政治、経済等、比較的堅いテーマの話は、その雰囲気から、それらを見てこそ、自らの知的レベルが維持されると思われる方々も多いと思います。それはそれで、間違ってはいないと思いますが、けっしてそれだけでもないでしょう。差し迫っている問題について、限られた枠組みのなかで、限られた議論しかできていない時、その外側の世界を知らずして展開されているそれは、むしろ「迷える子羊たちの嘆き」のようなものでしかありません。無意味であるとは言いませんが、それほど取り立てて高尚だったり、レベルが高いと言う必要もないでしょう。

私としては、ニュースについても同じようなものを感じます。バラエティ番組が氾濫しているなかで、「せめてニュースでも見て賢くなろう」という感覚も分からないではないですが、分野を問わず、ニュースを見たから知的レベルが上がるというような単純な話でもないと思います。

ニュースの場合は、現状からの発展や変更点をまとめて伝えることが多くなります。これはこれで、意味があることですが、見方によっては、「まだそこか」とか、あるいは「そっちに行っちゃったか」というようなかたちで、未来型に辿り着いていないことへのフラストレーションばかりが積もることにもなるでしょう(少なくとも、私の場合はその連続です)。

この世界は、複雑な計算では導き出せない事象で溢れています。それは時に、カオスという言葉で表現されたりします。カオスの読み解き方については、本ブログでも既に取り上げている通りです(「カオス世界の読み取り方」参照)が、上記の未来型というのは、そのカオス世界における大きな「チェックポイント」のようなものだと考えればよいでしょう(右図参照)。こうしたカオスの流れのなかで、ひとつひとつのニュースは、現状が「ここまで来た」ということを教えてくれはしますが、必ずしも、その先の未来を指し示しているわけではないのです。何故なら、それらはさらに互いに干渉し合いながら、計算できない動きを繰り返しつつ、時間と共に未来に向かって進んでいくからです。

ニュースをじっくり見るということは、時によって必要でしょうし、そこから得られるものがないわけではないと思います。しかし、ニュースを見て、分かったような気になってしまうと、本来見たいものや見るべき本質を見失う危険性もあるようにも考えます。

そうした意味で、私はニュースの見過ぎには気をつけた方がいいと思いますし、お堅い議論にドップリはまってしまうことにも注意を要すると考えます。そんなわけで、「ニュースはさらりと見る」くらいでどうでしょう、というのが「狼と香辛料」を見ながら思ったことなのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仕事を選ぶ大切さ

2009年06月29日 | 会社

自分の会社を立ち上げて、まだ一年も経っておりません。資金が潤沢にあるわけでもなく、仕事を選ぶような余裕があるはずもないのですが、それでも仕事は選んでいかなければならないと思います。

仕事というのは、他人の役に立つためにするものであり、報酬は、単にその対価として支払われるものです(「報酬は感謝・感動の証」参照)。当たり前すぎて、何のことか分からないという方もいらっしゃるかもしれませんが、重要なポイントは、「他人の役に立つこと」が仕事の目的であり、報酬は、あくまでもその付随物に過ぎないということです。もちろん、こうした見方が全てではありませんが、少なくとも、私の場合はそのように考えています(「道具の目的化の危険性」参照)。

例えば、コンサルティングというのは、困っている方を助ける仕事です。助けるという意味で、コンサルティングは、他人の役に立ってなんぼといった仕事なのだろうと思います。

ただし、あくまでも、コンサルティングで主体となるべきは、クライアントの側であり、何とかするためには、クライアントの「何とかしたい」という強い意思がなければ、助けることができません。特に、事が重大であればあるほど、私としても、相当真剣に取り組んでいかなければなりませんし、クライアントの側にも、それをきちんと認識していただいた上で、こちらの言を重く受け止めていただく必要があります。

ところが、「コンサルティング=助けてくれるサービス」という意識ばかりが先行すると、本来あるべき、クライアント側の「何とかしたい」という意思は、「何とかしてくれるはず」という過度な期待にすり替わってしまいます。こうなると、どんなに優秀なコンサルタントであっても、そのクライアントを助けてあげることができなくなってしまうのです。

仮に、こうしたクライアントの仕事を受けてしまうと、結果が出ないばかりか、その結果が出ないなか、延々とうまくいかせるための方策を打ち続けなければなりません。こうなってしまうと、コンサルタントは時間と労力を浪費するだけでなく、クライアントの「何とかしてくれるはず」という過度な期待が、反感や疑心となって、跳ね返ってくるという負の結果まで受け止めなければならなくなります。延々と時間と労力を費やしながら、クライアントから悪く思われたり、言われたりするといったことでは、まったく割が合いません。また、それはお互いのためにも良くありません。

もちろん、そうしたクライアントでも、一度仕事としてお受けすれば、まずは報酬をいただけるので、資金的にはそれなりに潤うことになります。

それは別の言い方をすれば、一所懸命やっているにもかかわらず、クライアントからいろいろと不満を言われたり、ダメ出しをされたりする仕事をしている人には、それなりの理由があるかもしれないということです。つまり、そうした環境にあるというのは、その仕事におけるクライアント側の問題もさることながら、それと引き換えに、ひとまずサービスを買っていただくという意味で、資金的には潤うことができたという自分側のメリットもあったはずだろうということです。このように考えると、仕事上で、たとえ愚痴をこぼすような状況があったとしても、そこに至るまでの間、自分の側に、それ相応の「うま味」があったことも忘れてはならないということになります。

こうした仕事についての考え方は、何も「コンサルティング業」だけに限ったことではありません。例えば、一般的なサラリーマンで、会社勤めをされているとして、直接、顧客に触れていなくても、その人の仕事は、より直接的には部署や会社など、非常に近い周囲の人々の役に立つための仕事をしているわけでもあり、そういう意味で、直属の上司や部下が、その人のクライアントと考えることができるはずです。経営トップの地位にある人であれば、その会社の株主が、直接的なクライアントという見方ができます。政治家であれば、有権者がクライアントということになるでしょう。

そうしたクライアントが、真剣に「何とかして欲しい」、「何とかしたい」と願っているかどうかは、後の仕事の成否において、大変重要な問題です。そして一旦、そのクライアント(あるいはその組織や仕組み)から報酬を受け取って、仕事を始めてしまったら、それ相応の結果を出す責任が生じることだけは、極めて明白なのです。

私は、こうした問題意識のなかで、とにかくスタートの時点で、誤った始め方をしないように細心の注意を払いたいと考えています。

お金、報酬は大切です。報酬を得ることなく、ただ一方的に奉仕をし続けるというのは、ある意味で不健全であるとも言えるでしょう。しかし、お金や報酬を目的化させてしまって(お金に魂を売ってしまって)は、後々になって、大きな代償を払うことになるのではないかとも思うのです。仕事を進めてしまってから、愚痴をこぼすような状況に陥るくらいなら、最初から、その仕事をお断りする方が双方のためなのではないかと考えます。「うま味」も大切ですが、その結果として、仕事がうまく回らなくなるようでは本末転倒なのです。

そうした意味で、私自身は、事の大小を問わず、きちんと仕事やクライアントを選んでいかなければならないと思います。またそれが、数十年後の大きな枠組み作りへと繋がっていくことを想定すればするほど、その選定作業は、極めて重要な意味を持つのではないかと考えます。

《おまけ》
仕事を選ぶ、クライアントを選ぶというのは、選ばなかった対象を切り捨てるということではありません。人生においては、それぞれ巡り合わせや適切なタイミングがあるため、その時々の状況に応じて、判断をしていくという意味にほかなりません。ある時点において、距離を置かざるを得ない人々に対しても、常に未来に向けて門戸は開かれているのであり、その人々が「真剣に何とかしたい」と思うようになった瞬間、その関係は、全く別のステージに移行していくでしょう。その際には、あらためて、一緒に仕事をさせていただく、あるいはクライアントとしてお付き合いいただくようなかたちになっていくのではないかと考えます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カブト様のご降臨

2009年06月28日 | 日常

この週末、海外からの客人に対して、日本観光のお手伝いをさせていただきました。少々、若い方でもあったので、私流にアキバ文化にも触れていただくべく、フィギュアショップなんかにも寄ってきました。

そのうち、私自身が黙っていられなくなり、カブトのフィギュアに手を出してしまったり、UFOキャッチャーみたいなもので、同じポーズのでっかいカブトが取れてしまったりで、急遽、わが自分神社(「「自分教」の神社」参照)の神棚に、新しい「カブト様」が二体加わりました。


大小決めポーズのカブト


「天の道を司る男」

降臨メンバー揃い踏み

大きい方は、アミューズメント景品なので、それなりの品質といったところなのでしょうが、小さい方は、きちんとお金を出して買ったもので、相変わらず「よくできているものだ」と、つくづく感心してしまいます。客人も「フィギュア」と聞いて、最初はそれほど期待をしていなかったようですが、見ていくうちに、とてもビックリして、各店舗の品揃えの豊富さもさることながら、それぞれの品質の良さを、とても熱心に褒めてくれていました。

これと言って、何があったわけではないですが、神棚に「かっこいいカブト様」が新たに加わったので、ひとまずそのご報告です。

《おまけ》
私は、これまでメイドカフェなるものに行ったことがなかったのです(「ツンデレに見る世界」参照)が、今回の客人案内をきっかけに、初めて足を踏み入れてまいりました。率直な感想として、ものすごく楽しかったのです。店内の装飾や店員さん(メイドさん)たちの雰囲気も明るく、女性でも十分に楽しめると思いました。実際に、私たちも女性が一緒でしたし、他にも女性同士のグループも遊びに来ていました。また何かの機会があれば、是非、足を運んでみたいと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仕事と遊びの方程式

2009年06月27日 | 人生

こんな方程式があるとするとします。

「人生=仕事+遊び」

人生の総時間が決まっていると考えるとすると、仕事をすれば遊びの時間が減り、遊びをすれば仕事の時間が減ることになります。これはこれで、ひとつの考え方ですし、実際にこのように考えざるを得ない方々が、多くいらっしゃることも理解します。

しかし、私の場合は、ちょっと違います。

「人生=仕事=遊び」

こうなっていると、人生の総時間が決まっているとしても、その範囲内で何をやってもプラスに向いていきますし、一瞬たりとも、無駄な時間がなくなります。別の言い方をすれば、一瞬一瞬を大切に生きていくことができるようになるのです(「時間との付き合い方」参照)。

「アニメ見て、野球やって、ショッピングして、子供たちと遊んで、ガッツリ眠って・・・」

PCで文書を作成したり、打合せに出たりという活動はもちろんですが、それ以外のこうしたこと全てが、私にとって欠かすことのできない、とても大切な仕事なのです。

このように言い切るようになるためには、自分自身の変革はもちろんのこと、それなりの環境作りが必要でしたし、それ相応の時間がかかりました。そして何よりも、こうした遊びを目一杯楽しめることが、よりたくさんの人々を喜ばせる大きな仕事に繋がっていくのではないかと思うのです。

人生には、正解等ないであろうことから、これをもって「べき論」を展開するつもりはありません。ただ、一言だけ言わせてください。

-楽しいですっ!-

《おまけ》
「けいおん!」で、梓が直面した「楽しむことの大切さ」の問題は、今日、実に多くの大人たちの仕事に対する姿勢に対しても、共通して言えることなのではないかと思うのでした(「笑いすぎに注意」参照)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自民党総裁の限界

2009年06月26日 | 政治

東国原さんの「自民党総裁候補」発言が話題になっています。「何を抜かすのか」という冷ややかな意見もあるようですし、実際、私自身、たとえもし自民党という枠に収まったとしても、これからの時代における新しい社会構築を進めるようなことはできないと思います。

組織の生い立ちというのは、非常に重要であり、ある特定の組織があるとして、それは時代の流れとともに変革を重ねながらも、根っこのところで、源流に遡るような大きな転換はできないと考えます。自民党に限らず、既存の政党には、それぞれ立派な生い立ちや歴史があり、そのなかで培われた精神や仕組みは脈々と受け継がれているものです。ただし、それはあくまでも、良い言い方をした場合のことであり、これをネガティブな言い方で表現するならば、「しがらみ」であり、新しい時代における限界ということになるでしょう。

戦後、焼け野原となった日本にとって、国の再興は何よりも重要な課題でしたし、天皇の位置づけが大きく変わるなかで、主権在民の新しい政治システムを構築していきながら、それを進めていくためには、当時、アメリカのサポートが必須でした。日本におけるアメリカの影響力は、政治のみに留まらず、よく知られているとおり経済、軍事、文化等のあらゆる面において絶大であり、そのパラダイムのなかで、既存政党の源流を作った先人たちは政権運営を行ってきたわけです。

しかし、これからの時代において、私たちが直面していく問題は、そのパラダイムが使い物にならなくなるということであり、アメリカという国のリーダーシップが低下してくなかで、どのように日本という国を動かしていくかということになるでしょう。

現在、民主主義、自由主義の旗印とも言えるアメリカで起こっていることは、彼らが構築してきたパラダイムの限界であり、ジェネラルモーターズ(GM)に対する国家介入等に代表されるような社会主義化の流れです。他のどこでもなく、こうした現象がアメリカで起こっているということは、ひとつの象徴であり、既存の概念や考え方を再構築、再定義しなければならないことを意味していると考えます。それは例えば、民主主義というときの「民」のあり方や、その結果としての政権運営等にも表れています(「無策国家の責任」参照)。当然のことながら、これに代わる新しい考え方やビジョンは、現在の日本の指導者層に示されていません。そしてまた、そうした大切なことについて、主権を有する多くの国民たちも気付けずにいるというのが現状ではないかと思います(「投票の権利と責任」参照)。

蛇足ですが、私はアメリカが抱える問題として、政治の分野以外でも、以下のようなテーマがあると考えています。

①経済(産業)的側面
-コンピューターやインターネットの概念や考え方に対する再構築
 (「新コンピューターシステム」、「次世代インターネット」等参照)

②軍事的側面
-戦争という概念や考え方に対する再構築
 (「四次元戦争の時代」等参照)

③宗教的側面
-キリスト教に代表される宗教の概念や考え方に対する再構築
 (「生き方の裏側にある死に方」等参照)

④文化的側面
-上記を包括したアメリカの限界受容と日本的文化の見直し
 (「脱亜入欧の終焉」、「日本人の大切なゼロ」等参照)

いずれにせよ、こうしたパラダイムシフトを見据えて、自民党という政党が大きく変わり、アメリカを超えるような新しいビジョンを示して、政権運営を行っていけるということであれば、それは大変結構なことです。そしてまた、是非、推し進めていただければと思います。ただ、率直に言って、私自身は到底できる気がしませんし、残念ながら、それができる方がいらっしゃるとも思いません(これは政界に限らず、財界、学界、宗教界等、あらゆる方面において共通して言えることのように思います)。

そうした意味で、私は自民党(正確に言うと既存政党)に何かを期待することはできないと考えていますし、東国原さんのご発言については、あれしか言いようがなかったのではないかと思うほどです。国を憂うという気持ちは大切です。そして、その憂う気持ちをかたちにするという観点からすると、それくらいの主体性や責任感をもって、何かをされようとすること自体は、非常に立派だと思います。

ただ、本当にやり切るお気持ちがあるのならば、「しがらみ」だらけの他人のふんどしで相撲を取るようなことは考えず、自ら与党になり得るような政党をゼロから作る意気込みと、それを実現するための裏付けが必要なのでしょう。それは到底、既出の「政治の専門家」たちでは務まりませんが、きっとそう遠くない次のフェーズで、日本の指導者たちに求められることになるのだろうと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

救世主自身が救われる

2009年06月25日 | 短編

世界で、救世主の出現を信じていると言う人々がいます。その言が、どれだけの真剣味を持って発せられているのかは分かりませんが、本当にそう思っているとするならば、そのように願っている間は、救世主に救われるのは難しいかもしれません。

自助努力というのは、非常に大切なことです。困っている人がいるとして、その人を助けたい、何とかしてあげたいと思っていても、まず当の本人が「何とかしよう」と思ってくれていなければ、救ってあげることはできません。まず「自らを助ける努力」、自助努力をしてくれなければ、真の意味で、救ってあげることはできないのです。

救世主等に頼らず、むしろ、自ら進んで「救世主たらん」と思うくらいの方が、結果として救われるのにはちょうどいいのではないかと思うのです。

《参考》
欲するものへの心持ち
全員が真のリーダーたれ
「自分教」の薦め

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

禁欲と失欲

2009年06月24日 | 宗教

宗教には、目に見えないものを可視化するという働きがあります。可視化させるということには石像等、目に見える物を作ること以外に、言葉として表現するということも含まれます。つまり、精神世界の分かりにくい問題について、私たちが認知しやすい物質世界のルール(文字や言葉も含む)に従って、表現しようというのが宗教のひとつの役割だろうということです。

ところが、宗教で扱っている精神世界の事柄は、物質世界のルールで表現してしまった瞬間に、その表現が本質から離れてしまうという重大な問題をも孕んでいます(「偶像崇拝とフィギュア」、「「天国に行ける」という罠」等参照)。目に見えない精神世界の真理を伝えたい、究めたい、あるいはそれによって人々を救いたい等という様々な思いから、生まれたであろう宗教の存在を否定するわけではありません。しかし、それには限界があるということについては、きちんと認識しておく必要もあるのだろうと考えます。

そうした視点に立って、宗教で言われる「禁欲」については、その本質が「失欲」にあるのではないかと思うことがあります。

もちろん、宗教で目指すような「精神を清らかにする」ということと、「禁欲」とは密接に結びついており、「精神を清らかにするために禁欲する」というのは、それはそれで、ひとつの手法として合理的なのだろうと思います。しかし、「禁欲」ばかりに目が向けられると、それは問題の本質から離れるばかりでなく、破綻をきたすのではないかとも思うのです。特に欲望を抑えるというのは、ある意味で人間に無理強いしていることに間違いはなく、そうした無理を続けるということは、何か別のものを歪めさせたり、あるいはその反動で、その押さえつけられていた欲望が爆発したりということもあるのではないかと考えます。

私としては、宗教でなされているような、物質世界上での表現を否定するわけではありません。そもそも、私が、こうして文字で表現している以上、それを否定することはできないだろうと考えます。しかし、せっかく表現をするのならば、「欲を禁じる」というネガティブなかたちよりも、もう少しポジティブな表現の延長線上で、「禁欲」の対象となる「欲望」について、語ってはどうかと思うのです。

それは、自分という存在が、多くの人々の役に立つ、たくさんの人々の幸せに貢献できるという喜びを見出すことと「欲望」との関係性です。

よく言われることなので、あまり詳しくは書きませんが、自分という存在が、多くの人々の役に立っていると思うことができ、さらにそこに大きな喜びを見出すことができれば、その人の心は大いに満たされていきます(「生きがいと幸せ」等参照)。このとき、その対象となる人々が多ければ多いほど、また役に立っている度合いが大きければ大きいほど、その人はより大きな喜びで満たされていくことになるはずです。

これを「欲望」との関係性で語るならば、こうした数多くの他者の喜びにより、自分自身の心が満たされ、自ずと自分の「欲望」が消失してしまうというのが、精神世界のひとつの側面であろうということです。

そういう意味で、例えば「聖人」と呼ばれるような人々が、禁欲生活をしているように見えるのは、実際に「禁欲」をしていたというよりは、他者を喜ばせる、他者の役に立っているという喜びに満たされてしまい、単に他の欲望を失っていた、つまり「失欲」していたという側面があるのではないかと考えます。

そして、もしそうだとするならば、何かにつけて「禁欲せよ」と戒めるよりも、「他者を喜ばせる幸せがある」ことを語り、「欲望」については、その結果として「失欲」という現象が起こることを説明するに留まるというのも、ひとつの考え方ではないかと思うのです。

私が述べ申したいことは、「禁欲」ではなく「失欲」にこそ本質があるということではありません。「欲望」のレベルは、単なるバロメーターに過ぎないということです。

「禁欲」を目指す人>
「禁欲」だけに本質があるわけでもないので、あまり「禁欲すべし」等と肩肘張らずに、少し気楽にいっていいのではないでしょうか。

「失欲」できていない人>
仕事や趣味の世界等、社会との繋がりのなかで、もう少し他者を喜ばせるという幸せに気付いてみてはいかがでしょうか。

《おまけ》
本記事で言うところの「欲望」とは、一般的に宗教等で戒めているとされているものを指しています。本来、「他者を喜ばせたい」というのも、人間のひとつの欲望のかたちですが、それについては、ひとまず除外して整理したことをご理解ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お節介な救世主の悪性

2009年06月23日 | 宗教

先日、ブログの記事のなかで、「余計なお節介をしない救世主」という表現を使いました(「ノブレスオブリージュ」参照)が、こうした表現に、多少なりとも違和感を覚えた方がいらっしゃったかもしれません。救世主ならば、救世主らしく何かをするべきだというご指摘もあるでしょう。そこで、ここでは逆に「お節介な救世主」について、整理してみたいと思います。

自分が世界の救世主たらんと努力する人、全体のために命を捧げようと頑張る人は、大変立派な人だと思います。そのことの重要性については、このブログでも大いに取り上げていることです(「夢を持てる社会」等参照)。

しかし、そう考える個人が、全体のためだからという理由で、自らの考え方を押し付けるようになった瞬間、それは全体ではなく、単にその個人のためのものにすり替わってしまう危険性があります。たとえ、それがどんなに立派な考え方であったとしても、全体の意思に反して、押し通すようなかたちになってしまっては、結果として全体が望まないこと、全体のためにはならないことになってしまう可能性があるのです。こうした全体の意思に反するような、「お節介な救世主」は、その信念が強いだけに、大変危ういものを持っていると言えます。

心底、「世界を救いたい」と思う人には、他の多くの人々には見えていない問題が見えていたりするものです。だからこそ、全体のために何かしらの行動を取りたいと願うのでしょうし、その使命感に燃えて、一所懸命になるのでしょう。また、自分が見えているものが、ほとんどの人々に見えていないため、そうした目の塞がった人々が、誠に愚かしく見えたりするのも分かります。愚かしく見えれば見えるほど、ますます全体に対する危機感が増していき、さらに自分が何とかしなければならないという思いに駆られます。

こうした循環が始まると、居ても立ってもいられなくなり、とにかく行動を起こさなければ気がすまなくなるという感覚は、何となく理解できるところです。

しかし、全体が愚かしく見えるというのは、とても危険なサインです(「他人は自分の鏡」参照)。また、居ても立ってもいられなくなり、やみくもに行動するというのは、その人自身の弱さであるということもできます(「一番難しい「山」」参照)。

少々、別の視点からの話になりますが、子供向け番組やアニメ等に出てくる悪役には、「時間をかけられない」という共通点があるように思います。「時間をかけられない」のには、いろいろな理由がありますが、そのうちのひとつが、「人間の可能性を信じられない」ということが挙げられます。これは、人間が愚かであったり、罪深かったりすることに耐えられず、そうした多くの人間たちに代わって、早く自分が何とかしなければならないという危機感が、悪役を悪役たらしめている部分があるということです。

こうしたことを踏まえると、悪役には悪役なりの正義があり、悪役にとってみれば、人間の存在こそが悪になってしまうということです。少々、おかしなことと感じるかもしれませんが、つまり「悪役=正義、大多数の人間=悪」という図式が成り立つということです。

この図式は、「お節介な救世主」にも、そっくり当てはまることです。即ち、世界を救おうと思っている自らの正義に対して、そうした重大ことに気付かない大多数の愚かな人間たちこそが悪であるという考え方から、「お節介な救世主=正義、大多数の人間=悪」ということが成り立つわけです。

このように整理していくと、「お節介な救世主」が悪役と重なって見えてきてしまいます。

今後、世界が困窮すればするほど、こうした「お節介な救世主」は増えてくることでしょう。このことは、多くの強い正義が濫立することを意味するのだろうと思います。それは上記のように、「悪役」との共通点があり、別の言い方をすれば、「悪の濫立」ということもできると考えます。しかし、私としては、彼らが最初から「悪役」を目指しているわけではないという点が重要であり、世界を何とかしたいという彼らの善意を信じてあげたいと思います(「性善説と性悪説の決着」参照)。

ちなみに、私自身は絶対的なひとつの正義があることを信じつつ(「正義がひとつになる時代」参照)、「余計なお節介をしない救世主」たらんということで、「万が一、人間が真に愚かな存在で、本当に大切なことに気付けないのならば、自ら滅ぶという道を選ぶ権利もある」と思っています。これは、たとえ人類が滅ぶとしても、その責任を私個人ではなく、人類全体に押し付けているもので、見方によってはとんでもない悪です(「交錯する正義と悪」参照)。

常日頃、そんなことを考えている私としては、「お節介な救世主」のような人々が、そうした重大な責任を人類全体に押し付けず、自らの責任で何とかしようとしている、とても一所懸命で優しい人に思えてなりません。ただ一方で、どうしても彼らの悪性にも目が行ってしまうので、それが彼らの本意ではないとするならば、そのことだけは、「余計なお節介をしない救世主」として、こんなかたちででもきちんと伝えておきたいと思うのでした。

《おまけ》
この記事を書くにあたり、以前書いた「正義の味方と悪役キャラ」という記事を見直してみましたが、少々問題が発生していました。それは、悪役キャラの特徴として、「厳格な身分制度(大ボスには絶対服従)」という項目を挙げているのですが、「侍戦隊シンケンジャー」のシンケンレッドを「殿様」と仰ぐ厳格な身分制度は、悪役キャラ的なのかという問題です。残念ながら、一般的なヒーローものやアニメ等の見方からすると、はっきり言って悪役キャラ的なのでしょう。でも、シンケンジャーの場合、あの主従関係がはっきりしているところが、魅力なんですよね。それに、時には殿に噛みつく、千明みたいな跳ね返りがいるのも、単純に悪役キャラの組織とは違って、いいんじゃないでしょうか。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Twitterでのつぶやき

2009年06月22日 | 日常

「Twitter」の使い方については、既に述べたとおりですが、とりあえずということで、ここしばらく使ってみています(「Twitterの検討」参照)。

「Twitter」は、一般的に「つぶやき」を投稿するところということなので、まずは文字通り、「つぶやく」ことに徹しているところです。通常、ユーザー同士が、自分たちの「つぶやき」をフォローし合ったりするのですが、私の場合は、本当に「つぶやき」なので、他者との関わりを一切持たず、ほとんど短編日記のような使い方をしています。

まるで意味がなさそうな使い方かもしれませんが、まずはこれによって、ブログの「独り言」カテゴリーへの投稿を減らし、ブログ記事の内容を充実化させようという意識が働くようになるので、これはこれで意味があるように思います。

ただ、そうかと言って、「独り言」カテゴリーを完全になくすつもりもありません。ブログ記事に深く関わると感じる「つぶやき」については、引き続き、こちらに投稿することになると思います。

どうでもいい話ですが、とりあえず、そういうことで・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

優等生なアインシュタイン

2009年06月21日 | 科学

アインシュタインの相対性理論については、いろいろな書籍が出ていますが、その中には、それを否定するような論調のものも数多くあるようです。各論は置いておくとして、私はそうした見方を否定することはいたしません。アインシュタインの理論には、やはりどうしても腑に落ちない点があることは確かです。しかし、そうかと言って、アインシュタインの理論が、絶対に間違っていると言うつもりもありません。

むしろ私は、アインシュタインの理論に限界があるのだろうと考えています。それは合っているとか間違っているとかいう議論よりも、この世界をキレイに見たいと願うアインシュタインのこだわりのような観点から、捉えた方がいいように思うのです。彼は科学者として、この世界の仕組みについて「曖昧模糊」なものはなく、何事においても「白黒はっきりさせる」ことを願ったのではないかと思えてなりません。しかし実際の世界は、そんなにキレイに説明できるようなものではなく、極めて曖昧で、いい加減な要素に満ち溢れており、とてもアインシュタインが「そう見たい」と願うようなものではないらしいということです。

量子論において、物質は必ずしも「きまってその場所にある」のではなく、観測してはじめて「その場所にある」と言える状態になるといいます。量子論については、多数の書籍が出ているので、詳述はしませんが、あるミクロの物質が存在するときに、それは観測されない限り、「ここにもあると言えるし、あそこにもあると言える」というのが、ミクロの世界の理だとされています。これは「観測していないから、ここにあるのか、あそこにあるのか分からない」ということではないというところがポイントです。「光は粒であると同時に波である」という言葉は、聞いたことがあるかもしれませんが、ミクロの世界の物質は、粒のように一点で観測できるようなものであると同時に、観測していないときには、揺らめく波のような性質を持っており、それは「ここにもあると言えるし、あそこにもあると言える」ということなのです(「揺らめく現実世界」参照)。このように考えるといろいろと難しい問題が出てきます。

ひとつ簡単な例を挙げましょう。ここにひとつの箱があり、そのなかにひとつのミクロの物質を入れるとします。箱に入れるとき、そのミクロの物質は確認されているので、それはひとつの粒子のかたちをしています。この箱のふたを閉じると、そのミクロの物質は「ここにもあると言えるし、あそこにもあると言える」という波のような状態となり、箱のどこにでも存在をするようなかたちになります。次に、この箱を閉じた状態のまま、真ん中で二つに割ります。二つに割られた箱のふたを開けたとき、そのミクロの物質は、どうなっているのかというのが問題です。

箱に入れられたミクロの物質は、それ以上、割ることができないだけの「ミクロな存在」であるため、二つの箱に割られて存在するということはありません。もちろん、両方の箱に入っている(総量として2倍になる)ということもないので、どちらか一方の箱にしか入らないということになります。このように、どちらか一方の箱で、ミクロの物質が確認されるということについて、「確率」をもって解釈するという考え方があります。つまり、右の箱で確認される確率、左の箱で確認される確率が、それぞれ50%であるということです。

少々、乱暴かもしれませんが、言い方を変えるならば、「未来は分からなくて当たり前。確率論的に考えざるを得ない」というのが、こうした思考実験から導き出されるひとつの結論なわけです。こんな出たとこ勝負のような考え方に対して、アインシュタインは、強く反対の立場をとっていたようです。私は、彼が科学者として、このような立場をとったのは、より決定論的に世界を解き明かしたいと考えていた彼の信条故ではないかと思えてなりません。

ところで、こうした問題については、他にも多くの枝分かれした世界があることを認め、多世界解釈を用いてしまえば、とてもスムーズに説明がつくことになります。そして私自身は、たまたま(無数の他世界があるなかで)この世界が、あまりにもキレイにできてしまっているが故に、そうした多世界解釈を受け入れることが難しい状況にあるだけで、本質的には、そうした論理にこそ、真理があると思っています(「妄想と現実の狭間」参照)。つまり、上記の例で言えば、世界は、ミクロの物質が右の箱で確認される世界、左の箱で確認される世界の二つに分かれるようにできているということです。

しかし、アインシュタインには、そうした多世界解釈を行うだけの「型破り」な思考はなかったのでしょう。その点においては、彼の限界(あるいは、その時代の限界)があったと言うことができるのではないかと思います。これを換言するならば、彼は現代における「優等生」的存在ではないかということです。これは良いも悪いもなく、ある意味では、科学の世界において、その時代で守るべきものを守る存在であったということなのでしょう。

ただ、ここでひとつ重大なことを付け加えなければならず、それは、彼が最初から「優等生」的存在ではなかったであろうということです。当時の科学の世界で、彼は奇抜とも言える論理を繰り広げ、それはとても現代のような「優等生」のイメージとは、だいぶかけ離れた振舞いであったと思われます。それが時代の変遷とともに、現代のような彼の評価につながっていったであろうことは、けっして忘れてはなりません。

そういう意味で、アインシュタインのような人物が、「優等生」的存在になるような現代において、多少奇抜に思われるとしても、それを乗り越えるような新しい論理が、どんどんと出てくるのは、とても自然のことではないかと思います。

歴史上の偉人たちは、いつの時代においても変わらぬ偉人ながら、いつまでも彼らの偉業にすがりつかなければならないほど、現代を生きている私たちの存在意義は薄くないと思うのです(「歴史上の誰よりも偉い人」参照)。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノブレスオブリージュ

2009年06月19日 | ヒーロー&アニメ

「東のエデン」の最終回、面白かったです。同作品の説明は、適当に他のインターネットサイト等に譲りたいと思いますが、ポイントとなるキーワードは「ニート」と「救世主」でしょう。

■「ニート」の力
一般的に、「ニート」は仕事をしない「社会のムダ」というような捉われ方をしていますが、こうした人々の力を軽視するのは、大変危険であると思います。むしろ、彼らを「ニート」たらしめているのは、彼らを無力化してしまっている「社会の側」の問題でもあり、社会で大きな責任や権限を有している人々(「ニート」の反対側の人々)に反省すべき重大な問題があると考えることもできます(「ニートたちの言い分」参照)。

「東のエデン」の主人公・滝沢は、ニートの力を活かしながら、日本を救っていきます。その具体的な手法や行動はさておき、ニートの力を結集して、社会を守るという考え方、それ自体は現代の日本において、社会的地位を有する方々に是非とも見習っていただきたいと思います。

■余計なお節介をしない「救世主」
滝沢は、都市へのミサイル攻撃から、多くの人々を守りました。「救世主」と呼べるレベルかどうかは分かりませんが、少なくとも、彼は「英雄」だろうと思います。そして、重要なポイントは、彼が多くの人々を助けるために、自ら悪名を被ったということです。結果として、彼は、助けた人々から裏切られ、自らの記憶を消すという行動を取ることになりました。

「救世主」には、このように全体を救うための自己犠牲の精神が付きまとうものであり、また実際に、そうした精神があってこそ、救えるものがあるのも事実だと思います。多くの人々(全体)を救うためには、自らの命と引き換えにするだけの「自己犠牲の覚悟」は大変重要です。これを全く否定するつもりはありません(「夢を持てる社会」等参照)。

しかし、だからと言って、度が過ぎるのも問題でしょう。自らの命すらも顧みない「自己犠牲の覚悟」は、極めて重要ながらも、本当に自らの命を捨ててしまってはならない(あるいは、捨てさせてはならない)ということについて、既に、私たちは学べているはずだと思うのです(「イエスから学ぶこと」、「クリスマスシーズンを迎えて」参照)。

そういう意味で、滝沢は生き残ったわけですし、よく頑張ったと思います。

私も「自己犠牲の覚悟」については、一通り考え抜いてきました。そして今は、その上で自分自身を大切にし、滝沢のように恨まれたりするような状況下では、わざわざそんな人々までをも助けようなどとは思わないだろうと思います(「自分を大切にしていい理由」参照)。真に私という人間を信じるとか、あるいは頼らざるを得ないような人々ならともかく、そうでない人々を助けられる自信もありません(「信頼されるための心構え」参照)。

そうした観点から、私が目指すのは、「余計なお節介をしない救世主」といったところです。そして実際に、それくらいの方が、ひとりひとりの自我や責任感がきちんと芽生え、結果として、人類は真の意味で救われていくのではないかと思うのです。お節介をやいて、人類を救う「救世主」になったところで、そんなかたちで救われてしまった人類には、下手な甘えが残ってしまうだけでしょう。

-ノブレスオブリージュ。貴方も「余計なお節介をしない救世主」たらんことを。-

《おまけ》
「けいおん!」、一応来週もあるようですが、今週がひとまずの最終回でした。いやぁ、それにしてももったいない(泣)。これは1年間(50回くらい)やってくれても、絶対にいけると思うのですが・・・。「かんなぎ」、「バンブーブレード」あたりも、2期目やってほしいですねぇ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

責任範囲内の公開

2009年06月18日 | 自分

ブログの公開に対するスタンスついてには、いろいろとあると思いますが、私としては、これまで実名を伏せて公開してきました。それには、いくつかの理由がありますが、そのうちのひとつは、実名公開をすることによって及ぼされる影響が、私の責任範囲を超える可能性があったためです。

人間は、一人で生きているわけではなく、実に様々な社会的な仕組みに組み込まれており、そのなかで多くの利害関係者と共に生きています。一人の行動は、その利害を共有する人々に対しても影響を与えるため、自分が取れる責任範囲を超えるであろう行動は、慎まなければなりません。

これまでの私は、私に関係する人々に対して、取り返しのつかない損害を与えてしまう可能性を否定できませんでした。言うまでもなく、ブログの記事を書く際に、いちいち利害関係者の方々に了解を得てからアップするなどという、まどろっこしいことができるはずもありません。そうした与件のなかで、私という個人が特定できるかたちで、他の利害関係者の方々の了承も得ずに、情報発信をしてしまう結果によって、取り返しのつかない影響が出てしまう可能性を否定できない以上、私としては、私個人を特定できる表現を極力避けなければならなかったのです。

しかし一方で、私自身、本ブログのなかで、インターネットやメディアにおける「オープン性」の重要性を繰り返し述べており、それは自分の実名を伏せる(オープンにしない)という行為とは、明らかに矛盾しています。そういう意味で、私の言を実践するという観点から、実名公開は必須であると考えていました。

ここ数年間、私を取り巻く状況は大きく変化してきており、だいぶ整理もついてきました。そしてようやく、そうした利害関係を考慮した上で、それらが自分の責任範囲内に納まっていると判断できる状況になったため、これまでのブログ公開のスタンスを変えることにいたしました。

大した話ではないのですが、このブログの位置づけという意味では、ひとつの大切な転換点ではあるので、ひとまずのご報告でした。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「死の恐怖」との戦い

2009年06月17日 | 人生

先日、ある方と話をしている中で、「夜になると死ぬのが怖い」という話を聞かされました。その方の話によると、そんな話を周囲にすると「何かに打ち込んだらいいんじゃない?」等というアドバイスを受けるそうです。

ところで、「夜になると死ぬのが怖い」という感覚は、私には非常によく分かります。かつて、幼かった頃の私はそうでした(「無意識の記憶の力」参照)し、そのときの自分は「死ぬことを恐れない大人」は、ものすごい強い存在なのだろうと思い込んでいました。しかし、後になって(つい数年前)分かったことは、非常に多くの大人たちは、「死の恐怖」を克服しているわけではなく、単に「死の恐怖」から目を背けているだけらしいということでした。

「何かに打ち込んだらいいんじゃない?」というアドバイスは、けっして無意味ではなく、それはそれとして意味のあることだろうとは思います。しかし、それで問題が解決するわけではなく、結局は「死の恐怖」から目を背けるだけであるという言い方もできるのだろうと考えます。ある意味では、そうしたことを繰り返しながら、人生を過ごしていると、単に「死の恐怖」から目を背けるだけの大人になってしまう可能性もあるのです。

「死」は、必ずやって来るのです。いずれ向き合わなければならない、そうした重大な問題を先送りするのもいいですが、そうではなく、それと向き合いつつ、もがき苦しむ人は、それと引き換えに何か大きなものをちゃんと掴むような気がします。

きちんと「死の恐怖」と向き合って、それを乗り越えた人は、きっと別の次元の自我を感じつつ、強く生きられるようになると思うのです。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大魔王のレストラン

2009年06月13日 | 日常

本日、「ハンバーグ大魔王」というところで食事をしてきました。これは、アニメ「ハクション大魔王」をもとにして、作られたレストランなのですが、なかなか面白かったです。


入り口の大魔王


店内の雰囲気

額縁に収まったキャラ

かねてから、日本のアニメキャラクターの使い方には、いろいろと述べてきました(「ヒーローたちに魂を」、「テディベアに見る可能性」、「別世界の演出ができる国」参照)が、こうした活用法もひとつの可能性を示唆しているのではないかと思います。

個人的には、「ハクション大魔王」をあまり知らないため、なかなかその世界にドップリ浸かるという感覚にはなれませんでしたが、それでも、それなりに「ハクション大魔王」のアニメの世界に溶け込めたような気がしました。似たような感覚で言うと、ディズニーランド内にあるレストランにいるような感じです。店内にいた女子高生のグループは、メニューや壁のキャラクターの絵を活かして、しきりに写真を撮っていましたが、こういう楽しみ方は間違いなくアリでしょう。

秋葉原にメイドカフェがあるのも結構ですが、こうした日本のアニメキャラクターを活かしたレストランが多くできると、日本のコンテンツ産業はもちろん、他の産業(例えば、こうした外食産業)を巻き込んで、もっと盛り上がっていくように思います。

もちろん、昔、プラネット・ハリウッドのようなレストランが、流行ったことがありましたが、それらがうまくいかなかった理由等についても、きちんと分析していくことも必要です。それでも、こうした類の話は、「仮面ライダーでやったら?」、「いや、ガンダム?」、「フェイントでコードギアス?」等々々・・・想像するだけで、とても楽しいものです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Twitterの検討

2009年06月11日 | 自分

今朝、ある打ち合わせで、「Twitter」が話題になりました。「Twitter」については、インターネットで検索すればすぐ分かると思うので、特段、ここでは説明いたしません。

その「Twitter」ですが、私は、今のところ使っていません。ただ、私なりにブログとの関係性を考慮して、今後は必要であれば、そういうツールを使うことについても考えなければいけないとも思っています。

このブログを始めて、そろそろ3年になろうとしています。このブログを書き始めた当初は、「常識について思うこと」というタイトル通り、ちょっと奇抜だったり、非常識とされることにも真理の一側面があるという思いがあり、そうしたことを書き連ねていこうと考えていました。

それらは、けっしてひとつの分野に収まるような話ではなく、突き詰めていくと、どうしても広く大きな視点から捉えていかなければならないことばかりでした。結果、このブログのカテゴリーにもあるとおり、いくつかの大きな分野設定をすることになり、またそれらのテーマが絡み合うようなかたちで展開されるようになりました。

時代が大きく変わりいくなかで、これまでブログを通じて述べてきたことや、そうした各分野におけるそれぞれの記事について、何ら修正や変更を加えるつもりはありません。ただ一方で、私が思うことについての表現方法に関しては、若干、変化があってもいいのかもしれないと思うに至っています。

それは、問題の本質を抉るように表現するのとは違って、それらを包み込むように、柔らかく受け止めるような表現をするということです。それはいわば、「無言の言によって表現する」、「無によって有を制する」といったことに近いと思います。もちろん、これは大変難しいことです。

ただ、それでも敢えてはっきりしておきたいことは、この世界は矛盾に満ちており、どんな言葉であれ、けっして絶対的なものはなく、常に限界を孕んでいるということです。これを換言すれば、「ひとつの記事を書く」という行為が、「ひとつの矛盾を生み出す」行為に繋がるということでもあります(「矛盾との付き合い方」参照)。

真の「武」とは、それを行使しないこと、つまり戦わないことであるという点については、既にこのブログでも、繰り返し述べてきました(「風林火山と「武」のあり方」等参照)が、それを言論の世界に当てはめるとするならば、何も言わないことこそが、本来のあるべき姿ではないかとも考えるのです。

少々、話が横道に逸れますが、そういう意味で、言葉を発しないウルトラマン(超人)は、私にとって、つくづく人類のあるべき未来像に思えてなりません。人間は、言葉を発することができますし、それによって自らの意思を自由に表現できます。それは大変素晴らしいことですが、一方で、一切の言葉を発さず、じっと堪えるような強さが大切であるという側面もあるのではないかと思うのです。その他、ウルトラマンの魅力については、他の記事でも書いている通りです(「ウルトラマンで思うこと」参照)。

いずれにせよ、言葉を封じるとするならば、あとは実践あるのみです(「実践への誓い」参照)。そして、私としては、そうした流れのなかで、ブログのなかに「独り言」や「日常」といった新しいカテゴリーを設け、そこに時折、「遊び」のような記事を書くことによって、上記の「柔らかく受け止めるような表現」に努めたいと考えています。

ただし、その結果アップされた記事は、以前に比べて、だいぶ弛緩しており、わざわざこのブログにアクセスしていただいている方には、少々申し訳ないとも思うのも事実です。そうした問題意識から、冒頭の「Twitter」については、表現のひとつのかたちとして、多少なりとも真面目に考えてみようと思うのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする