常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

寂れた駅前のトンカツ屋

2008年03月28日 | 独り言

専門店だけど、専門店らしくないトンカツが出てきた。

A.なんだ、大したことないし、こんなところに来なきゃよかった。
B.こんな寂しいところでも、ちゃんと食べられてよかった。

さて、どっちが幸せな人?

僕?
こんな寂しいところでも商売を続けてくれていたお店の人、
そして、今までお店を支えてくれたお客さんたちに感謝、感謝なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

簡単な器の量り方

2008年03月26日 | 短編

同じ態度で接することができる幅=人間としての器の大きさ

弱い立場の人に対して、優しく丁寧に接する。
強い立場の人に対して、堂々と丁寧に接する。

まったく同じように「丁寧に接せられる幅」は、どれだけ?

気に入らない部下と大企業の社長さん・・・。
この程度で、アウトになっちゃだめだぞぉ~。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美味しい物のいただき方

2008年03月24日 | 短編

ズバリ、お腹を空かせるっ!

一流料理人がいなくたって、立派に美味しく食べられる。
美味しい物を求めて食べ回るのではなく、反対の発想もあっていいでしょ?
(「欲するものへの心持ち」、「腹式呼吸のコツ」等参照)

美味しい物を食べたいの?美味しく物を食べたいの?
(「道具の目的化の危険性」参照)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カオス世界の読み取り方

2008年03月22日 | 人生

私は、一般的に予測不能とされているカオスの世界でも、非常に大きな視野で捉えていけば、その流れを掴むことができるし、その流れに沿った予想や予測は十分に可能ではないかと思っています。カオス世界が、予測不能に陥ってしまう原因は、無数の外的要因が存在するためであり、それらひとつひとつについての計算を行うことが、極めて困難だからです(「予測不能なカオス社会」参照)。

たとえ、非常に複雑な計算に成功したように見えたとしても、実際にそれらの計算に使われている値は、あくまでも仮定の値に過ぎません。突き詰めていけば、それらの値も外的要因によって影響を受けることになっており、その結果、計算全体が狂う可能性があるのです。その誤差が微小であれば問題ありませんが、カオスの世界においては、それがどのような影響を及ぼすかは計り知れず、非常に大きな誤差を引き起こす可能性があるという点で、大変厄介なのです。

したがって、カオス世界を紐解いていくには、いかに外的要因を排除するかということが重要になってきます。外的要因を排除するというのは、外的要因を切り離すことではありません。外的要因と考えられるものを、自らの視野のなかに取り込んでいくということであり、それだけ広い視野を持つということです。そして、それは絶対に中途半端であってはなりません。カオス世界を読み取るためには、ひとつの取りこぼしもあってはならないのです。ひとつでも外的要因を残してしまっては、その影響により、せっかく視野のなかに取り込んだ世界も、その外的要因の影響を受けてしまい、結果として、どのように変化していくかが読めなくなってしまうからです。

難しいことだと思います。しかし、実に単純です。限りなく大きな視野を持つだけのことです。そこから導き出されて見えるものは、いかなる要因からの影響も受けない普遍的なものとなります。

これが見えるようになると、その大きな流れのなかで、いくつかのチェックポイントが分かるようになります。そして、そのチェックポイントは、その視野に含まれるすべての要因が通過するようになるということに気付きます。

この大きな視野のなかから、チェックポイントを見定めるということが、私が言う「将来を予見する」ということです。限りなく大きな視野から見えるものが、外的要因からの影響を受けないとするならば、その大きな視野から見えるチェックポイントだけは、間違いがないのです。そして、そのチェックポイントに行き着くまでの間、その内側にあって、互いに干渉を及ぼし合っている無数の要因たちは、極めて不規則に見える振る舞いを見せますが、そのチェックポイントだけは通っていくことが確実なのです。このことこそが、「この世界を予見する」ことであると思います。

これができるようになることで、いろいろな効果が生まれます。例えば、あまり目先のことで、ふらつくようなことがなくなります。チェックポイントに辿り着くまでの間は、目の前でいろいろな現象が起きます。しかし、最終的にどうなるかが分かっていれば、それらひとつひとつに動揺することなく、落ち着いて行動することができるわけです。(その他の事例については、このブログ全体を通して述べています)。

さて、ここからは、完全に私の個人的な宇宙観になります。こうした宇宙観は、誰から教えられて体得するものではありません。各個人が、人生を通じて、自問自答を繰り返していくなかで、それぞれが発見していくものだと思うので、あくまでも参考程度に読んでいただけたらと思います。

私にとって、究極に広げた視野から見えるものは「生と死」です。これは、単に私たちのような生命に限らず、宇宙そのもの、つまり「宇宙も生まれ、死ぬ」という意味も含めてです。

この世界全体は、「生きよう」とするものの力強い意思と、「生きられない」という厳しい現実との狭間にあり、それらが交差しながら成り立っていると考えます。そして、それらは大きく交差をしながら進んでいます。このカオスの世界において、その交差するポイントがどこになるのかを見定めていくことで、全体がどこに向かっているのかを掴むことができるのではないかと思うのです。教育、政治、国家、経済、医療、エネルギー、科学、宗教、地球、宇宙、人類、生命・・・、この世界のあらゆる事象は、落ち着くところに落ち着くでしょう。

地球の危機、人類の存亡・・・。そんなことが、現実の切実な問題として、議論されるようになってきました。大きく不安を感じる方々も、たくさんいらっしゃると思います。しかし、私は大丈夫だと考えています。この大きな問題は、ひとつの大きなチェックポイントに過ぎません。現在、まったく不規則で、バラバラに動いているように見える世界も、すべての事象が、いずれこの大きなチェックポイントを突破して、次の開かれた世界に抜けていくのだと思います。

それが、私の目から見えているヴィジョンであり、カオス世界から読み取っていることです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶対に裏切らないもの

2008年03月21日 | 短編

人間は裏切る。自分も嘘をつく。
お金も同じだというのなら、いったい何を信じればいいのか。
(「お金をどこまで信じるか」参照)

そういう人がいると思う。
そんな人に、絶対に裏切らないものがあるとするなら、時間だと言いたい。

人に裏切られても、お金に裏切られても大丈夫。
たとえ自分自身に失望したとしても、へっちゃら。

時間を信じ、時間を味方にできたら、絶対に負けないのです。
そういう生き方、してるでしょ?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プレシャス回収!

2008年03月21日 | 日常

分かる人しか分からないことを知っておきながら書きます。誰かと共有したいと思いつつも、それはできないんだろうな(「共有という楽しみ方」参照)。でも、書きたいんだからしょうがない。

「獣拳戦隊ゲキレンジャーvsボウケンジャー」を観ました。ヤバイッ、超面白かった。ネタバレが気になる人は、以下読まないでください。

今回の作品で、つくづく思うのだけれど、キャラ設定がしっかりしている。11人も出てくる(理央やメレ、風のシズカまで入れたら14人)のに、一人一人のキャラがきっちり立っているというのは、本当にものすごいと思う。細かいよぉ。一人一人のちょっとした仕草や言葉が、そのキャラをきちんと表現しているのだっ!それと今回の敵キャラ「獣人バーカー」も、いい味を出していた。自分の臨獣拳も覚えられない(たしかに難しい名前だけどね)ほど、ほんとにバカキャラだけど、メレとのコントは微笑ましかったし、かわいかったなぁ。

そして、やっぱりチーフがかっこよかった。あのかっこよさは異常。僕の期待と想像をはるかに超えていた。ボウケンジャーのメンバーが、チーフの強さをゲキレンジャーに語るところなんかも、「さすが、チーフ!!」などと思ってしまうのだ。最後のさくら姐さんとの結末も「おぉっ!」って感じで、「理央&メレ」みたいなラブストーリーが、ボウケンジャーにもあったことに嬉しくなってしまった。

ちなみに、愛しのメレ様は、やっぱり最後、理央と共にボウケン&ゲキレン側につきました。ここらあたりも、ゲキレンでの臨獣キャラは、単なる悪役でないという意味でいいですね。あ、そういう意味では、「風のシズカ」もいい娘だよね。

それから音楽。ところどころに出てくる、ボウケンやゲキレンの音楽は、観る者を熱くさせる(あれ?僕だけじゃないでしょ?)。ボウケンとゲキレン、それぞれチームとしての性格がまったく違うから、そのチームらしさが発揮されるところで、それぞれの音楽が流れると、自然と燃えてきてしまうのだっ!

それから、それから・・・。うん?しまった、ちょっと書き過ぎたかな。ま、何にせよ、とにかく楽しかったのだ。いい「プレシャス」をいただきました。制作スタッフの方々、出演された役者の方々、その他諸々の関係者の方々、お疲れ様でした。大変、大変面白かったです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お金をどこまで信じるか

2008年03月20日 | 社会

「信じられるのはお金だけ」。こう言いたくなる気持ちは分かります。実際に、そう思っている人も、たくさんいるでしょう。しかし、それは幻想だと思います。お金だって裏切ります。お金の価値が不変だと思うのは危険です。お金の価値などというものは、正直どうなるものか分かりません。分かりやすい例で言えば、円という通貨は、外国通貨との関係で、その価値が常に変動しています。

1945年、ドルを「金」との交換比率に固定し、さらに各国通貨もドルとの固定相場制により価値を定めた、いわゆる金本位制のブレトン・ウッズ体制以降、各国通貨は「金」との紐付けにより一定の価値を保ち、世界経済は安定的な貿易拡大を背景に発展してきました。円について言えば、「金」との交換比率が固定されているドルに対して、「1ドル360円」という固定相場により、一定の価値を保持し続けていたわけです。

ところが1971年、突如、ドルと「金」との交換停止を発表したニクソン・ショックにより、世界経済の枠組みは大きく変わることになります。それまで、「金」を背景に一定の価値を保障されていたドルの価値が揺らぐわけですから、世界経済システム全体への影響は言うに及びません。これ以降、ドルと各国通貨との相場は、次々と変動相場制に移行していきました。

こうした時代の流れのなかで、円は各国通貨との相対価値で量られるようになり、変動するようになったのです。

「いや、そうは言っても、ドルを中心に一定範囲内で、お金の価値は保障されているでしょう。」

そう言われるかもしれません。たしかに、今のところそうなっています。しかし、世界経済が「金」から切り離されて、40年も経っていないのです。「金」から切り離された通貨が、再び「金」と結び付けられたとき、その価値がどうなるかは、まったく分かりません(少なくとも、日本の金保有高は、それほど多くないと考えるべきだと思いますが・・・)。

そして、世界経済において、金融の力が巨大な影響力を持つようになり、実体を伴わない「バブル現象」が多くなればなるほど、「金」という実体を伴った経済システムへ戻す可能性は高まるのではないかと思うのです。この考え方は、何も突拍子のない発想ではありません。ニクソン・ショック以前のシステムに戻すだけであり、かつて、それで世界が回っていた時代があったのです(FRB議長だったグリーンスパン氏は、「金本位制」の重要性を主張されていました)。

ちなみに、「バブル現象」については、逆のことも起きています。即ち、株価等で企業価値を算定すると、実際に保有している現金を含めた資産等よりも低く見積もられるような会社があったりするのです。こういう会社を買収するときの手法として、レバレッジド・バイアウト(LBO)というものがありますが、要するに金融ルールに従って考えると、企業が実体に比して、過小評価されてしまうということです。これは、まさに「バブル現象」の反対です。

いずれにせよ、金融ルールの多用により、経済が実体から離れれば離れるほど、通貨の価値を「金」などの実体と結びつけることの意味は、大きくなると思われます。そして、このように考えていくと、今、手元にある円という通貨が、それほど信じるに足る対象とすべきではないことに、気付くかもしれません。

いや、実はもっと手前で、大変なことが起こる可能性もあります。日本の債務は、既に地方のものを合わせて、全体で1000兆円を超えています。いつ破産してもおかしくない状況にあると考えるべきでしょう。当然のことながら、お金の価値は、国家の信用で成り立っています。一所懸命、お金の価値を信じて、それを貯めたところで、国が破産してしまったら、それらの資産はほとんどの価値を失うことになるわけです。

信じるのは自由です。「信じられるのはお金だけ」という人々がいても、当然だろうと思います。しかし、一応お金には、そういう側面があるということを、知っておいた方がいいと思うのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子供たちへのメッセージ

2008年03月18日 | 独り言

===============================
地球のことを考えるなんて当たり前。
地球規模で発想し、行動するなんてのは、パパたちの世代がやること。
今、地球がどんなに大変なことになっているとしても、それは絶対に大丈夫。
パパたちが、必ず何とかするから、安心していればいい。
そして、お前たちの時代は、宇宙全体を考えるのが当たり前の時代。
ちなみに、パパですら宇宙全体のことを考えている。
こんなことは、当たり前のことになる。大変だけど、パパは頑張る。
お前たちも負けずに頑張れ。そして、どんどん世界を切り拓け。
===============================

常日頃から、子供たちに対して、こんなことを話していたら、「私もパパを助ける。私は、何をしたらいい?」と聞かれてしまいました。嬉しかったです。

でも、とりあえず、こう答えておきました。

「今は、とにかくたくさん遊んで。そして、たくさん楽しい思いをするんだ。そうしたら、この世界は素晴らしいと思えるようになるでしょう?そうしたら、この世界を守りたいと思うようになるでしょう?そう思ったまま大きくなってくれたら、パパのことをたくさん助けてくれるようになると思うよ」

この国のことも、地球のことも、次の世代に希望をつなぐ。そして、それまでは子供たちを絶対に守り抜く。それが親の世代の責任だと思う。

そうやって、何十年後かに子供たちの世代と一緒に、新しい世界を切り拓いていけるようになれたら、それはとても幸せなことだと思うのでした。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

予測不能なカオス社会

2008年03月16日 | 科学

カオスという言葉を聞いたことがあると思います。カオスは、混沌や無秩序という意味で使われていますが、単にそれだけではないという考え方があります。それがカオス理論と呼ばれるもので、不規則で非常に複雑に見えるカオスでも、簡単な方程式で書き表せるほど一定の規則性があるとされるものです。私は、こうした考え方には正しい側面があると思っています。また、そのような前提で、その簡単な方程式で表せるような規則性に従い、この世界の未来を予見することはできるのではないかと考えます。

カオスは、複雑系という言葉で表現されたりもしますが、一般に複雑系と呼ばれる社会を予見することは、非常に難しく、事実上不可能であると考えられています。複雑系の概念を説明するたとえとして、「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」という話があります。これはごく小さな初期入力値が、予想もつかないような、とんでもなく大きな結果を引き起こす、あるいは影響を及ぼすということを指しており、世界はそれほど非常に複雑であり、とても予見することなど不可能であるという意味だと解釈すればよいと思います。日本的な言い方をするならば、「春風が吹くと桶屋が儲かる」といったところでしょうか。

この複雑系で厄介なことは、常に無数の要因が存在するという点です。そしてまた、それらの要因すべてが、複雑系の一部として存在し、機能するため、相互に無限の干渉を引き起こしてしまい、それぞれどのように振舞うかが、まったく予測できないのです。

「ジュラシックパーク」という映画で、ひとりの科学者がカオスを説明するシーンがあります。そこで描かれたカオスは、ひとしずくの水滴を手に垂らすと、垂らされた水が、手の上でどのように振舞うかが、まったく予測できないというものでした。これは、まったく同じ条件で、「水を垂らす」ということができないためであると考えればいいでしょう。一見同じようにみえる「水を垂らす」という現象が、目の前で繰り返し起こっているとしても、非常にミクロにみていけば、垂らす位置(極めて微妙な手の震え等)、垂らされた水の量(分子レベルでの量)、水滴が落ちるまでの空気の状態(非常に僅かな空気の流れ等)、水滴が落ちるときのかたち(前者3つの要因の影響で微妙に変化することで変わる)、水滴が落ちる位置(前者4つの要因の影響や、水滴が落ちる人の手の極めて微妙な手の震え等)といったことが、毎回変わっており、結果として手に落ちた水滴がいろいろな動き方をするのです。このように、極めて様々な要因が、互いに影響しあっており、どのように変化するのか分からないため、「予測不可能」とするのがカオス・複雑系の考え方だと捉えればよいと思います。

こうしたことは、あらゆることに通じる考え方ではないかと思います。天気予報、競馬の予想、優勝チームの予想、事業計画の予測、日本経済の見通し、世界情勢の展望・・・。事の大小に関わらず、何かを予想・予測するためには、非常に多くの要因について、分析をしなければならないはずです。そしてまた、それらの予想・予測をする際の要因は、とりあえず「こうであろう」という前提条件を置いているだけであり、その要因自体が、予想・予測に使われていない別の要因(外的要因)によって、変化してしまう可能性は常にあると考えなければなりません。実際に、そうした外的要因の影響を受けて、予想・予測の計算を外れて、変化をしてしまうのが現実でしょう。

前述の「水滴」の例で言えば、最初の「水を垂らす位置」については、水を垂らす人の手の微妙な震えが影響するわけであり、それはその人のそのときの体調や心理状況によっても異なってきます。人間の体調のみならず、心理状況にまで影響を及ぼす要因まで洗い出そうとしたら、それはとても大変なことです。例えば、水滴を落とすその人の微妙な手の震えに、心的ストレスが働いていたとしたら、それは仕事の関係か?友人とのトラブルか?家族の問題か?仕事だとして、どんな仕事でどんな問題なのか。友人だとして、いつからの付き合いで、どんなトラブルになってしまったのか。家族だとして、親との問題なのか、子供との問題なのか、そもそも家族構成はどうなっているのか・・・。もはやその人を取り巻く環境すべてを考慮しなければならず、これらはとても特定できるようなものではありません。結局、予測・予想をするときには、それらの要因は外的要因として計算に入れずに、考えるようにするわけです。

このように整理すると、カオスの中身を計算するということが、きわめて難しく、一般的に予測不能とされることの意味が、分かってくるのではないかと思います。そして私自身は、こうしたカオスの中身を計算するということの限界を感じているが故に、敢えて計算をしない方がいいのではないかと考えています。カオスの中身を計算し、様々な予想や予測をされておられる方々の行為を否定するわけではありませんが、それらは、常に上記のような限界があるという意味において、別の視点も必要であろうと思うのです(カオス社会をどのように解いていくべきかについては、「カオス世界の読み取り方」を参照)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「夢の競演」スタートアップ!

2008年03月14日 | 独り言

今日は、「獣拳戦隊ゲキレンジャーvsボウケンジャー」のDVDレンタル開始日。できれば、今日借りて観たかったのだけれど、今朝は5時起きの出勤でNG。週末も旅行に出るため、ここ数日は難しそう。

でも正直、これは非常に楽しみなのだ。予告編をちらっと見たけれど、宇宙に旅立ったあのカッコイイチーフが、久々に登場。ゲキレンの赤であるジャンとは、全然違うタイプの正統派リーダーっぽいチーフは、大好きなのです。

その前にあった「轟轟戦隊ボウケンジャーvsスーパー戦隊」は、ちょっといろいろ出てきてしまい、混ぜこぜ感があったけれど、今回はもっとまとまっているような気がして、そんなところも期待したりしています。

こうなると、いよいよプリキュアは、まだぁ~?って感じだ(「視聴者として願う「夢の競演」」)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

権利と責任

2008年03月13日 | 短編

権利には、必ず責任が伴う。
権利を行使するということは、その責任を負うということ。

権利の大小は、責任の大小に比例する。
しかし、責任を負う・負わないは、その大小と一切関係ない。

たとえ小さいものであっても、権利を行使した以上は、必ず責任が発生しているし、それから逃げてはならない。それが権利を行使する者の当然たる心構えだと思う。

《付言》
ある知事の発言がいろいろと話題になっているようですが、当該の選ぶ権利を行使した方々には、この問題がけっして他人事ではない(自分自身の問題)ということを忘れないでいただきたいと思うのでした(「選んだ者の責任」参照)。
※責任を取れないと思うときは、権利行使は見送られなければならない。投票しないという権利行使を見送る行為自体、そういう意味で、責められない側面があるように思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失敗から学ぶこと

2008年03月12日 | 短編

失敗したときには、ふたつのことを学ばなければならない。

ひとつは、「してはいけない事」。
もうひとつは、「今度すべき事」。

失敗体験から、「してはいけない事」を学ぶのは容易い。
忘れてはいけない大切なことは、「今度すべき事」だと思う。

そして、このふたつを学んだとき、失敗は成功への入り口に変わる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コンテンツを愛する人々

2008年03月11日 | 産業

MADだろうが何だろうが、コンテンツを作成するというのは、それに愛情がないとできないことだと思います。アンパンマンを例にした記事、「熱くカッコイイアンパンマン」を書きましたが、これはあらゆるコンテンツ作成について、言えることだと思います。

アイドルマスターを使った動画にしても、プラモデルやフィギュアを使ったコマ撮り動画にしても、手書きアニメにしても、ボーカロイドに歌わせるにしても、その他MADでの音楽に合わせた編集作業等、皆さんものすごい根気を使った作業をしています。プロじゃないと言えば、プロじゃないですし、プロのレベルの根気じゃないと言えばそうかもしれません。しかし、それらの作業をお金ももらうことなくやっているということは、それらの根気強い作業を行う動機について、お金をもらっているプロよりも、むしろ純粋な側面もあると思うのです。すなわち、それが楽しいからであり、それで楽しむ人がいてくれたら嬉しいと思うからであり、そのコンテンツのテーマとなる対象を愛しているからだと思うわけです。「生活のため」とか「お金のため」とかいう動機が一切混じっていないという意味で、プロでない人々のコンテンツ作成は、これはこれで純粋にコンテンツを愛している人たちの為せる業ではないかと思います。

けっしてプロではないけれども、愛情を注いでコンテンツを作成する人がいる。そういうコンテンツを楽しんで、それを愛する人がいる。そして、それらをつなぐ技術があるとしたら・・・。

コンテンツを愛する人々が元気に気持ちよく活躍でき、またそれらを大いに楽しめるような仕組みは、必ず出来上がるでしょう。

ところで、一方で困った問題があるのも事実です。

例えば、ドナルドの「ランランルー」ネタのコンテンツは面白いですし、私の子供たちも大好きですが、R指定クオリティのものも多いため、子供たちに見せる際には、少々気を遣ったりします。こうしたところは、対策が必要な部分ではあります。

ただし、こうした問題も十分に解決が可能だと考えています。ここでは具体的な施策について述べませんが、新しいオープンメディア(オープンメディアの考え方については、「次時代のコンテンツ評価」参照)において、R指定をかける仕組みも必ずできます。逆の言い方をすると、そういう仕組みもセットでなければ、上記のような新しいコンテンツの仕組みは実現しないと思っています。

そして、ここでも大事なことは、コンテンツに対する愛情です。R指定クオリティの「ドナルド」コンテンツを作っている人々も、けっして悪意があるわけではなく、「ドナルド」を愛していると思うのです。

いろいろな問題があるにせよ、それに参加する全員が愛情を持って新しいものを作ろうとし、またそれらを楽しもうとしているのであれば、自ずとそうしたエネルギーの結晶体として、次の仕組みは生まれてくるのだろうと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熱くカッコイイアンパンマン

2008年03月10日 | 歌詞&台詞

アンパンマンというと、幼児向けの「ほのぼのアニメ」というイメージかもしれません。たしかに、そういうところはありますが、意外と泣けてしまうほど、いいお話が多かったり、アンパンマンがものすごくカッコよかったりします(こうしたところは、ドラえもんやクレヨンしんちゃんみたいなアニメでも同じでしょう・・・)。一般的に認知されている、いわゆる「アンパンマン」の画風や音楽では、なかなか伝わらないかもしれませんが、正直アンパンマンはカッコイイと思うのです。

ネット上では、アンパンマンのそうしたカッコよさを表現したMAD動画(一般の人々が編集して作成した動画)も数多くあります。仮面ライダーが好きな私としては、仮面ライダー龍騎の音楽を使用したMADがお気に入りだったりしますが、一番はウルトラマンネクサスのOPテーマ「英雄」を使った動画です。

まず曲が熱いです。そして歌詞もいいです。さらに編集も上手いと思います。

♪ 男なら 誰かのために強くなれ ♪
♪ 歯を食いしばって 思い切り守りぬけ ♪
♪ 転んでもいいよ また立ち上がればいい ♪
♪ ただそれだけできれば 英雄さ ♪

この歌詞の部分。アンパンマンが体を張って、ヒロインのドーリィを守るシーンは鳥肌ものです。焼かれてボロボロのアンパンマンは、ビジュアル的には、やられてしまっていてものすごくカッコ悪いはずなのに、これがめちゃくちゃカッコイイのです。

いわゆる一般的な「アンパンマン」ではなく、こうしたアンパンマンのカッコよさに焦点を当てた動画を作ってくれた方には感謝していますし、これからもいろいろな良い作品を作っていただきたいと思うのでした。

ところで、こうした作品には著作権等の問題があります。私はこういうMAD動画は大好きですし、できればアンパンマンに限らず、もっと沢山いろいろな良い作品に出会いたいと思っていますが、現在の仕組みのなかでは、実際なかなか難しいわけです。著作権を有する方々が、視聴者のいろいろなニーズに対応して、多様な作品を作ってくれるというのであれば、それでもいいでしょう。私自身、もしそういう作品が溢れるように出てくるのであれば、そのうちのいくつかに対しては、それに相応しいお金をお支払いしてもいいと思っています。ウルトラマンネクサスに限らず、いろいろな「カッコイイ曲」もありますから、それらを使った「アンパンマン動画」でもいいはずです。音楽というのは、人によってそれぞれ好みのジャンルや歌手が違ったりしますから、「カッコイイ曲」は千差万別です。またある人は、もっとしんみりとしたバラード系の音楽を使って、哀愁を感じるような「アンパンマン動画」がいいと言うかもしれません。このように考えると、ニーズは極めて多様であると考えるべきでしょう。実際、私のお気に入りは仮面ライダーシリーズですが、龍騎のその曲はそれほど好きではありません。「仮面ライダーカブトの曲だったらもっと燃えるのに・・・」等と考えたりもします。

こうして整理し始めてみると、極めて多様化したひとつひとつの視聴者のニーズについて、作り手側がどれだけ対応できるかという問題は、非常に深刻だろうと思わざるを得ません。そして私は、今のコンテンツ業界が、仮にそうしたニーズに対応しきれないというのならば、さまざまなMAD作品を作る人々に対して、著作権等の問題を含めて、いかに作品を作りやすい環境を提供していくかということを考えることも、重要なのではないかと思うのです。

一方で、MAD作品の内容や質の問題もあります。MAD作品のなかには、見るに耐えないようなものがあるのも事実です。原作者や著作権を有する方々からしたら、とても看過できないようなものもあるでしょう。そうした方々が意図する狙いや考え方と、MAD作品の内容や性格が合わなかったりすることもあると思います。それらが問題であるというのならば、それはそうかもしれません。

ただそれでも私は、その原作(上記の場合は、「アンパンマン」という作品)に愛情を持っている人々こそが、MAD制作をしているのではないかと思うのです。そして、各人なりに愛情を持って、MAD制作をしているというならば、そういう思いを何とか受け止めることができるような仕組みがあっていいのではないかと思います。また、そういう仕組みがあることで、コンテンツ業界は次の時代に向けて、もっともっと盛り上がるのではないかと考えます(「コンテンツ制作体制の未来」参照)。

具体的な方策については、ここでは言及しません。けれども、そうした仕組みはきっと出来上がると思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

格差社会の克服方法

2008年03月08日 | 独り言

現代社会のあらゆる問題の本質は、「格差」にあると思う。

経済格差、情報格差、機会格差・・・。
大企業と中小企業、都市と地方、先進国と発展途上国・・・。

公正で活気ある社会を実現するためには、これらの格差をなくしていかなければいけない。そして、その格差社会を正していくためには、そのなかでトップに立たなければならない。矛盾だ・・・。

-力を伴わない正義は、悪にも劣る!-

あるアニメで出てくる、そんなセリフが胸に突き刺さる。

格差社会をなくすために、格差社会のなかで、上の上のさらなる上を目指していく。こんな矛盾をかかえていくのが、生きていくことなのだろうと思う。

格差社会の下にいる今だから言えること。だから、今のうちに言っておく。

真に格差社会を正したいと思うから、その格差社会で究極の上を目指していく。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする