常識について思うこと

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「特殊な存在」という自任

2008年12月03日 | 宗教

見えやすいもの、分かりやすいものというのは、少々厄介です。何故ならば、人間には、そうした表面的で分かりやすいものに心を奪われ、本質的に何が大切かを見失ってしまう性質があるからです。一部の宗教は、人間の心を救済するという目的を達成させるべく、心の本質を分かりやすく表現するために、偶像崇拝という矛盾を抱えています(「偶像崇拝とフィギュア」参照)。これなどは、偶像崇拝に傾倒してしまうことで、本質にある大切なものを見失ってしまうという危険性をはらんでおり、実際にそういう状況に陥っている事例のひとつであると思います。

少々、別の話になりますが、先日、ネパールの瞑想を続ける少年のニュースを目にしました。もうずいぶん前から、時折話題になる少年のようですが、非常に多くの謎に包まれています。その謎のひとつが、彼が瞑想ばかりしていて、まったく食事をしていないということです。事の真偽は、分かりませんが、大変不思議なことではあります。こうした類の話は、確かめることが難しく、だからこそ謎なわけですが、ここで私が危険性を感じるのは、周囲に集まる人々が、彼をものすごい人間として特別視してしまうことに終始することです。もちろん、ものすごい人間であることは確かなのでしょう。彼の実態の真偽を別にしても、少なくとも、そのように見えるというだけでも、ものすごい人間だと言うことができます。ただし、それを見ている周りの人々が、「仏陀の化身」などといって祀り上げ、彼によって自分、あるいは人類全体が救われると思ってしまうことがあるとするならば、それは大きな問題だと考えます。

それは、これからの人類の未来において、その少年が果たすであろう役割を否定するものではありません。端的に言えば、彼の行いによって、多くの人々が瞑想の魅力や不思議さに関心を覚えたはずです。そのように、多くの人々が瞑想に関心を寄せることで、人々の気の持ち方が変わったり、生きるべき道を見つけたりできるとするならば、それは大変結構なことです。そうした個人の変化は、人類の未来を切り開いていく力にもなっていくことでしょうから、そういう意味で、彼は彼なりに、これからの未来において、人類を救済していくという役割の一端を果たしていくという言うことができると思います。

しかし、瞑想そのものによって、全世界が動いていくということはあり得ないと考えるべきです。瞑想という、いわば四次元的な行いによって、三次元の世界が影響を受けるということは、否定すべきものではありませんが、ただ実際に、この世界を動かしていくのは、人間の意思によって生み出される三次元上の行動であることも事実なのです。瞑想によって、どんな超常的な現象が起ころうとも、それのみによって、世界が決定付けられることはありません。あくまでも世界の事象は、人間たちの実際の行動が、集積していくことで決定付けられるのであり、瞑想というのは、そうした行動を支える人間の意思や精神を、強く清らかに保つための手法に過ぎないということがポイントです。

そうしたポイントを踏まえたうえで、瞑想の名人たる彼が、瞑想の魅力や不思議さを、多くの人々に伝えていくということは、各個人の行動に大きくプラスの影響を及ぼすであろうことから、歓迎すべきことであるとは思います。

明確にしておくべきことは、彼にすがりさえすれば、自分が救われるとか、人類が救済されるなどと考えるべきではないということです。自分にしても、人類にしても、それらの未来を切り開くのは、自分自身にほかなりません。

自分はともかく、人類の未来までも、自分自身が切り開くという言葉に違和感を覚えるという人がいるとするならば、それは自分自身が人類の一員であることを忘れているに過ぎません。人類の未来は、突き詰めれば、人類の一員たる各個人が負っているのです。最終的に自分を救うのも、人類全体を救済するのも、自分という個人にかかっているということは、絶対に忘れてはなりません。

ネパールの少年は、分かりやすい「特殊な存在」です。人間は、こうした特殊に見える存在を知ってしまうと、その特殊性に目を奪われがちになります。彼を特別視してしまうが故に、自らが果たすべき役割や、持っている力を見失ってしまいがちになるのです。「特殊な存在」には、それが持つ魅力があることも事実ながら、反面で、それ以外の人々の重要性を打ち消してしまう恐ろしさがあるのです。こうした問題には、十分に注意しなければなりません。

本来のあるべき見方として、彼が「特殊な存在」であると同時に、自分も同じように「特殊な存在」たり得ると考えることが肝要です。そして、そのように自分も「特殊な存在」であると考えるときには、彼と同じように、瞑想という分野で秀でた存在になろうなどと考える必要はありません。人間は、それぞれがまったく異なる存在なのであり、その異なることに、自分を含めたそれぞれの個体に存在意義があると考えるべきなのです(「人間の優劣と競争社会」参照)。

宗教では、それが宗教としてのかたちを成すために、多くの人々を惹きつけるだけの魅力を持たなければなりません。したがって、とくにその宗教の中心にいる教主などの人物が、教義などと結びついて、非常に「特殊な存在」として神格化される傾向があります。そうした神格化された「特殊な存在」は、たしかに「特殊な存在」としての魅力を放ちますが、一方で、そこに集まる大勢の人々も同じように「特殊な存在」であることを忘れさせてしまうという弊害を生む可能性があるのです。

こうしたことは、世界宗教と言われるものも含めて、宗教には、ほぼ共通して言えることだと思われます。神格化されるほどに、輝きを放つ「特殊な存在」は、それはそれとしてあっていいのですが、そこから読み取るべきことは、そうした人物が「特殊な存在」であるということと同時に、自分たちも異なる分野、能力において、同じように「特殊な存在」でいられるはずであるということに思えてなりません。

どんなにすごい人がいるとしても、またはどんなに偉大な人物がいたとしても、自分にとっては、自分自身に勝る存在はあり得ません(「歴史上の誰よりも偉い人」参照)。人間には、目に見えないものを信じる力があるものだと思います。目に見えるものに惑わされず、自分自身の可能性について、強く信じられる者から、世界は変わっていくように思うのです(「「自分教」の薦め」参照)。

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