常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

神棚に追加メンバー

2008年09月23日 | 日常

政界の動きが、ずいぶんと慌しくなってきて、一部の方々は、次に出てくるであろう新しい体制に期待を寄せられているようです。しかし私は、今の二大政党に頼らざるを得ない仕組みでいる限り、日本の社会はほとんど好転することはないと考えています。むしろ、今回の一連の動きの結果が出る頃(3~4年くらいかかるかもしれません)には、「もはや、何をやってもうまくいかない」という絶望感が残るでしょう。正直、今の日本の問題は、政治家個人が頑張ったり、あるいは政党の総裁や政権政党が代わる程度で、解決できるほど生易しいものではないのです。

しかし、その失敗は悪いことばかりではありません。そこまでやり切ってダメだったとき、全国民があらためて、次へのステップを真剣に考えるであろうということからすると、こうした動きも、これはこれで意味があると思います。またこの間、私なりに進めている、次の大きな枠組み作りへの時間をいただいているという意味でも、こうした動きは大切です。

と、こういう政治の堅苦しい話は、あらためて記事にするとして、ここではちょっと別の話を・・・。


綾波レイ


女神三姉妹

ケンシロウ

先日、那須に出かけたときに、那須ハイランドパークというところにある、海洋堂のフィギュアワールドに立ち寄ってきました。同社で販売しているフィギュアはもちろん、有名キャラクターの実物大フィギュアも多々あって、大いに楽しんでまいりました。そしてまた、そこでふと購入してしまったものを含めて、最近、我が神棚に新しいメンバーが加わったので、それらを簡単にご紹介しておきたいと思います(「「自分教」の神社」、「偶像崇拝とフィギュア」参照)。


正面に立つセイバー


屋上の劉備&関羽

劉備兄貴

一人はセイバー。言わずと知れた(?)Fate/stay nightのヒロインです。女であるにもかかわらず、マスターである衛宮士郎のために、剣を振るって命がけで戦う姿に惚れました。

もちろん、我が最愛のヒロインはベルダンディーであり、彼女こそが、自分が人生を戦っているなかで癒されたい、守られたいと願う対象です。そういう意味で、彼女が自分にとっての理想の女性像ではありますが、今回、ちょっとした変化も欲しいと思い、セイバーを加えてみました。

セイバーは、ベルダンディーと真逆です。あくまでも戦士として生き、女であることすら捨て、命がけで士郎を守るために戦います。これがあまりにも健気で、ベルダンディーのように守ってもらいたいというよりも、どうしても守ってあげたくなってしまうような感覚になってしまうのです。これも、女性としてのセイバーの立派な魅力でしょう。

それから、もう一組は劉備&関羽です。関羽と言えば信義に厚く、商売の神様としても有名です。今回、我が神棚には、関羽が劉備兄貴を引き連れて、神棚に加わってくれました。

新しいメンバーも増えて、だいぶ神棚も賑やかになってきました。そろそろ、神棚自体も、もう少し盛り上がるところに移設したいところです。 

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ユニット結成に思うこと

2008年09月21日 | ヒーロー&アニメ

「プリ!キバ!ゴー!夏のキャラクターまつり」に行ったときの話は、既にブログでも書いたとおりです(「ヒーローたちに魂を」参照)。その時に渡された袋に、「正義のヒロインとガイアークがアイドルユニット結成!?」という資料が入っていました。炎神戦隊ゴーオンジャーに出てくる女性3人で、「G3プリンセス」ということだったのですが、私個人的には番組制作者 / 提供者側の商売っ気をムンムン感じてしまい、少々引き気味に見ていました。

それが、本日の放送で、実際にデビューしてしまいました。今後の作品におけるストーリーにどのような意味があるのかは不明ですが、少なくともこれまでの話の流れからすると、あまりにも唐突で、単純に「彼女たちをエサにして、商売したいのね・・・?」と突っ込みを入れたくなるような展開でした。それと同時に、そこまで商業主義を貫かなければならない現在のメディアの仕組みに限界を感じます。

番組制作者 / 提供者側が、こういう売込みをしたくなる気持ちはよく分かります。スーパー戦隊モノの視聴者は、子供たちだけではなく、それを一緒に見ているお父さんたちも含まれます。お父さんたちのハートをガッチリ掴めば、そこから新しいヒロインやアイドルが誕生する可能性は十分にあるわけです。

実際、昨年の獣拳戦隊ゲキレンジャーに出てきていた悪役ヒロインのメレ様こと平田裕香さんの人気は、ものすごかったのではないかと思います(すみません。私が個人的にメレのファンであるため、勝手に「様」を付けさせていただきます)。人によっては、獣拳戦隊ゲキレンジャーという作品は、ゲキレンジャーが主役なのではなく、ゲキレンジャーと力を合わせて戦う悪役、理央とメレ様のラブストーリーという評がなされるほどです。

先日もある超大企業の方とお話をさせていただいていた折、いつの間にか日本のコンテンツの話になり、このメレ様の話題になったのですが、その途端、ガッチリと握手を求められました。

「私も大ファンなんです。自分だけかと思って、恥ずかしくて言えませんでした。」

どうやら、隠れメレ様ファンだったようです。すかさず、私は返しました。

「大丈夫、あなただけではありません。」

そのやり取りはともかく、あれだけ一途に一人の男性に恋焦がれるメレ様が、魅力的でないはずがありません。その人気にあやかって、いろいろな商売が成立し得たことは事実だろうと思います。

しかし実際には、ゲキレンジャーの関連グッズとして、メレ様の商品が出回ることはほとんどありませんでした。ゲキレンジャーの人形やアイテムが大量に売り出されているのに対して、メレ様のそれがなかったことは、商売として明らかに失敗だったのではないかと思うほどです。以前、東京ドームシティにゲキレンジャーショーを見に行って、玩具売り場を覗いたとき、一応、メレ様グッズを探してみたのですが、メレ様ではなく、平田裕香さんのDVDが置いてありました。事情は分かりませんが、ゲキレンジャーにおけるヒロイン関連の商品戦略は、後手に回ってしまった可能性があります。

今回の「G3プリンセス」結成は、メレ様のときの教訓を活かして、綿密なヒロインたちの商品化戦略に基づいて、行われたのではないかと思えてなりません。実際に(これも個人的な感性ですが)ゴーオンイエローの逢沢りなさんは、とても可愛らしいと思います。アイドルユニット結成も大いに結構なことでしょう。

ただし、メレ様が多くの人々に支持されたのは、あくまでも一途な愛に自らの命を捧げた彼女の生き様にあったのであり、それが彼女の魅力だったのだろうと思います。モノを売るための人気は、その作品が人々を感動させていることによって生まれているという点を見逃してはならないということです。そういう観点において、今回の「G3プリンセス」誕生のプロセスは、炎神戦隊ゴーオンジャーという作品のなかで、彼女たちが視聴者を感動させ惹きつける前に、モノ売りに走ってしまった感が否めません。

①純粋に良い作品を生み出し、②人々を感動させ、③それを想起させるようなグッズを販売していくという当たり前の順序で物事が運べば、作品の制作者や提供者、そして視聴者や消費者たちが、皆ハッピーになれるはずです。テレビというメディアが生まれ、それが発展してきた過程で、その「当たり前の法則」は、当たり前に機能してきました。それは時代の要求でもあったのでしょう。

しかし、それが通じなくなってきたとき、そこに軋みが生じます。誰が悪いというわけではありません。

別の作品ですが、最近、ゴーオンジャーの直前に放映されるようになった「バトルスピリッツ少年突破バシン」は、まさに「バトルスピリッツ」というカードゲームを売るための番組になっているようです。グッズを売ることを主目的として制作される番組に、いったいどれだけの人々を惹きつける魅力があるのか、非常に興味深いところです。今のところ、私が見る限りでは、カードゲームを行うときのCGはよくできていると思います。しかし、それ以外の普通のアニメーション部分は、作画やモーションなどについて、けっして高いクオリティーを感じませんし、またストーリーについても非常に安直に作り上げられた感があります。

私は、テレビというメディアの仕組みが、時代の流れとともに古くなったと考えるべきだろうと思っています。それぞれの関係者の方々が、その古くなった仕組みのなかで、一所懸命にベストを尽くしている結果について、誰も批判することはできません。ただし、無条件に、その結果を受け入れることもないだろうとも思います。時代が移り変わっていくにしたがい、①純粋に良い作品を生み出し、②人々を感動させ、③それを想起させるようなグッズを販売していくという当たり前の順序で、当たり前のように制作者 / 提供者、視聴者 / 消費者の皆がハッピーになるような仕組みがなくなるのならば、それに代わる仕組みを新しく作っていくことが、現在を生きる私たちにとって、とても大切なことではないかと思うのです。

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世界一周旅行!?

2008年09月19日 | 日本

世界一周旅行に行ってきました。というのは冗談で、ちょっと鬼怒川まで足を伸ばして、私のお気に入りスポットである東武ワールドスクエアに行ってきました。意外とこの施設について、ご存じない方も多いようなので、ごく簡単に紹介しておくと、日本を含めた世界中の有名な建築物が、25分の1スケールで再現されて集まっているところです。 同施設のカタログの副題には、「世界建築博物館」と書かれていますが、まさにそんな感じで、世界中の建築物が所狭しと展示されており、ヨーロッパの建築物の向こう側にマンハッタンが見えてしまったりするところも、この施設の面白みのひとつです。


ニューヨーク


 ウェストミンスター寺院

姫路城


薬師寺

しかし、これらの展示物を単に模型として上から眺めるのでは、もったいないような気がしてなりません。ちょっと視点を変えて下から眺めてみたりすると、何だか本当にその場所に行ったような錯覚に陥ります。文字通り、視点を変えて見るだけで、「単なる模型」が「単なる模型」に見えないところが、この施設の楽しみ方のような気がするのです。


交通事故現場


ピラミッド

雲崗の石窟

景福宮

二条城

夏祭りの風景

円覚寺

田園風景

サクレクール寺院

こうした展示物が、まるで本物のように見えるのは、単に建築物だけではなく、人間や乗り物までをも含めて、再現しているところにあるように思います。

以下の写真群は、ひとつの展示物を上から何となく撮影したもの(上段)と、視点を落として撮影したもの(下段)とを比較したものです。上段のような視点から眺めるだけなら、何となく通り過ぎて終わってしまう感覚が伝わるでしょうか。一方、下段の写真は視線を地面スレスレにして、まるでその世界に入ったかのような視点から眺めたものです。


↓ 

サン・ピエトロ大聖堂



バルセロナ大聖堂
 


マスジット・イ・シャー



アーナンダ寺院
 


故宮

 


唐招提寺

 


駅前の風景
 


道後温泉
 


アンコール・ワット

こうして眺め始めると、時間はいくらあっても足りません。例えば、視点を右から左、左から右、手前から奥、奥から手前と動かすだけで、まったく違った風景が見えますし、それを通じて、その場所に行ったような擬似的な体験をするのです。

これを展示されている世界中の建築物毎にやっていると、ものすごい時間がかかってしまいます。そして、終わった頃には、まるで世界一周旅行に行ってきたような感覚になってしまうのです。そういう意味で、冒頭の「世界一周旅行に行ってきました」というのは、意外と正直な気持ちかもしれません。

ただ同時に、ひとつ残念に思ったことは、この施設をもっと日本の観光産業のなかで、活かせないかということでした。この施設に展示されている作品の精巧さや細やかさは、本当に素晴らしいものがあると思います。こうした感性は、日本人が得意とするところでもありますし、同施設の展示物にはそれがよく発揮されているのではないかと感じるのです。そういう意味で、この施設はとても日本的であり、もっと自信を持って、世界に誇ってよいと思います。そして、海外の方々を含めて、さらに多くの人々が楽しめるように、交通アクセスやマーケティングの工夫ができたら、もっといろいろな発展があるのではないかと思ったりするのでした。

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偶像崇拝とフィギュア

2008年09月07日 | 宗教

宗教において、偶像崇拝が許されないということがあります。これは宗教の本質が、私たちが通常視認している物質世界に対して、精神世界などの別次元の世界から向き合おうとしていることにあると思います。つまり、目に見える物質世界に生きていながら、目に見えないものの重要性を説いているのが宗教であり、そうであるが故に、その核心を目に見えるかたちにすると、物事の本質が失われるということです。目に見えないものの重要性を説くのに、それを目に見えるかたちにしてしまっては、それは矛盾でしかありません。ここに、宗教と偶像崇拝との間にある問題が浮かび上がるのです。こうした問題について、最も厳格なかたちで向き合っている代表的な宗教として、ユダヤ教やイスラム教などが挙げられます。偶像崇拝を許さないということは、なかなか難しいことではありますが、これを守り通すという理念を掲げ、それを実践していくということは、宗教として非常に大きな役割を果たしていると言えるでしょう。

ただ一方で、宗教の本質には、苦しんでいる人々を救うという側面もあります。人間の心は、それほど強くできておらず、厳しい現実世界を生きているなかで、時には信じたくても信じられない心の弱さを補うことが必要になります。こうしたことから、目に見えないものを信じるための手助けとして、目に見える偶像が生み出され、それを崇拝することで心の安らぎを得るということが広まっていくのです。このことは、本来の宗教が伝えるべき本質からは外れてしまう可能性を孕みつつも、そもそも物質世界で生きていかざるを得ない人間の心を守るためには、必要なことだったのだろうと言えます。

こうしたことは、日本に広く普及している仏教においても例外ではありません。もともと、初期の仏教においては、仏像など存在していませんでした。仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタ(釈迦)の時代から数百年の間、偶像崇拝などはまったく行われず、仏塔や仏足石などが生まれるような経緯があって、最終的に仏像なるものが誕生するようになったのです。このことは善悪の問題ではなく、仏像が弱い人間の心を救済するために生み出されたものであり、それがきちんと機能したと解釈するべきでしょう。仏の教えたる仏教そのものの本質を伝えることも大切ですが、それはけっして目に見えるものではなく、厳しい現実世界のなかで、何かにすがりたいと救済を願う人々にとっては、とても残酷なことにもなり得ます。時には仏像というかたちで、目に見えるものとして、人々の心を救済するということが、必要であったと考えるべきだと思うのです(なかには仏像をもって、仏教に偶像崇拝があると考えるべきではないとする立場もあるようでが、信ずべき目に見えないものを可視化させ、それを崇拝するということが偶像崇拝の本質であり、その本質的な意味と照らし合わせたとき、仏像はあきらかに仏教における偶像崇拝だと思います)。

繰り返しになりますが、偶像崇拝について、善悪を断じることはできないと考えます。偶像崇拝を禁ずることには意味があるし、偶像崇拝を行うことにも立派な機能や役割が存在します。ただし、一点だけ忘れてはいけないことは、宗教が伝えるべき本質は、本来、その偶像には宿らない、あるいは宿り続けないということです。偶像崇拝は、人間の心の弱さ故に存在しているだけであり、もともと人間は偶像崇拝をせずとも、その目に見えないものの重要性を理解しなければならないということです。自分の心の弱さを問いただすこともなく、ただひたすら便利な偶像崇拝に寄りかかり、目に見えないものの重要性を見ようとしなければ、いずれ破綻をきたします。

偶像崇拝を通じて心の安らぎを得ることは、大変結構なことではあります。しかし、それはあくまでも人間が強い心を手に入れるまでの一時的な手段に過ぎず、それをきちんと理解して、使っていく必要があるということです(「道具の目的化の危険性」)。心の弱い人間は、偶像崇拝をしながらも、常に自分の心を鍛錬していく努力を怠ってはならないのです。

こうしたことは、日本の新しい文化でもあるフィギュアについても言えると思います。秋葉原のフィギュアショップに行けば、日本が生み出したあらゆるコンテンツのキャラクターフィギュアが所狭しと並んでいます。

自分にはない強さをもった憧れのヒーローのフィギュア、戦場での勇姿が輝くロボットのフィギュア、実在し得ない可愛さや優しさをもつヒロインのフィギュア・・・。

こうしたたくさんのフィギュアたちが買われていき、数多くの人々の心に勇気や希望を与えるということは、実に結構なことだと思うのです。逆に、こうした文化に対して、無思考のまま批判したり、忌み嫌ったりするというのは、あまり褒められたものではありません。

フィギュアは、宗教でいうところの偶像です。この現実世界は、生きていくには厳しく、また自分が望むようなことばかりではありません。そうした現実世界のなかで、勇気や希望を求め、実際にはあり得ないものやあり得ないことを望んでしまうことは、極めて自然なことでもあります。そうした望んだものを実体化させたものがフィギュアなのです。そういう意味で、フィギュアは人間の心の弱さが生み出したものであると言うことができると思います。

このように、人間の心の弱さ故に生まれたものという意味においては、仏像などの偶像もキャラクターのフィギュアも同じです。人間の心に、フィギュアの文化を生み出すような弱さがあることは、数千年の宗教の歴史が既に証明しているのです。そのことは、ただ受け入れるしかないのだろうと思います。

そうした人間の心の弱さを受け入れた上で、これからの時代において考えなければならないポイントは、偶像やフィギュアには物事の本質が宿らない、あるいは宿り続けないということをきちんと理解することでしょう。そして、自らが成すべきことを考えるのです。

 -清らかな偶像崇拝をする人は、自分の心を清らかに磨くこと。
 -強いヒーローフィギュアを飾っている人は、自分の心を強く持つこと。
 -純真なヒロインフィギュアを眺めている人は、自分の心を純真に保つこと。

それぞれ、成すべきことがあるのです。

偶像崇拝やフィギュアは、厳しい現実世界の中でさらけ出された人間の心の弱さから生み出されたものです。しかし、自分が弱いからと言って、ただひたすらそれに頼るのではなく、それらをうまく活用していきながら、常に自分自身を磨き、鍛えることが肝要です。そうすることで、自分自身はもちろん、厳しかったはずの現実世界も大きく変わっていくことになるでしょう。そして最終的には、偶像崇拝もフィギュアも必要なくなり、それらは「所詮ツールに過ぎなかった」と言い切れる存在になるはずです。この結論から考えて、逆の言い方をすれば、所詮ツールに過ぎないのだから、偶像崇拝にしても、フィギュアにしても、単純に楽しむくらいの余裕があっていいのだろうと思うのでした(「「自分教」の神社」参照)。

コメント (2)
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