常識について思うこと

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お遊びが過ぎたら

2008年11月29日 | 社会

遊ぶことは大切なことです。遊びを知らずに、肩肘張った生き方ばかりでは、とても長続きしませんし、楽しくもありません。せっかくの人生を過ごすのであれば、目一杯楽しんだ方がいいと思います。

ところで、遊びをするにあたっては、「正しい遊び方」というものがあります。この遊び方を間違えると、他人に迷惑をかけることにもなりますし、単なる悪ノリになり兼ねません。下手をすると、犯罪にまで発展します。大切なことは、守るべきものを守りつつ、目一杯正しく遊びを楽しむということです。

そして、どんなことをするにしても、人間は遊びの感覚を持つことができるし、それを楽しむということができる生き物だと思います。たとえば、ビジネスマンが仕事をする上で、いくら「仕事が命だ」と言ったとしても、そこには「金儲け=マネーゲーム」という遊びの側面があることも事実でしょう。そして、金融システムが高度に発達し、人間のあらゆる社会行動が、それと密接に関わるようになっている現代において、「マネーゲーム」は、何もビジネスマンに限ったものではなく、ビジネスと直接関係のない個人、法人、国家等のあらゆる主体が、「マネーゲーム」のなかで動いているとも言えるわけです。

このように表現してしまうと、全てが「マネーゲーム」で動いており、世の中が悪い方向にでも向かっているような印象を与えてしまうかもしれませんが、けっしてそうでもないと思います。冒頭に述べた通り、少なくとも元来、人間が生きていく上で、遊びの感覚が必要であるということからすれば、「マネーゲーム」そのものが悪であると決め付けることはできないでしょう。むしろ、それが楽しいのであれば、それを大いに楽しむべきだと思います。

このように遊びの必要性を認めた上で、重要になってくるのは、きちんとルールを守るということです。

現代社会における「マネーゲーム」のネガティブな側面というのは、所詮、遊びに過ぎない余計なおカネに、さぞかし全ての価値があるかの如く錯覚してしまう人々が出てきていることではないかと考えます。そして、世の中のほとんどの人々が、こうした価値観に支配されると、ルールそっちのけで、ひたすらおカネを求めることばかりに執着する風潮が蔓延してしまい、楽しく遊ぶべき「マネーゲーム」が、つまらない争いの原因になったりしてしまうのです。

繰り返しですが「マネーゲーム」は、所詮、遊びであり、参加するにあたっては、そのルールに則って楽しまなければなりません。しかし、厄介なことに、そのルールは人間によって作られているもので、破ろうと思えば破ることもできるし、実際に多くの人々がそれを破って、不当な利を得ている、あるいは得てきたという現実があります(「社会ルールの欠陥」参照)。こうした問題を論っていったら、おそらくキリがないでしょう。ただ一方で、そうは言っても、遊びの参加者たる世界中の大多数の人々が、それを良しとしている以上、ルール違反があることを理由に、遊びを終わらせる必要はないのかもしれません。その大多数の人々が、ルール違反があるという現実を知らないのか、あるいは知っていて知らぬふりをしているのかは関係ありません。どんなかたちであれ、ひとまずは気が済むまで、その「マネーゲーム」のなかで、「勝った」、「負けた」を楽しめばいいということのような気がします。

しかし、あまり遊びが過ぎるのも問題です。「マネーゲーム」に没頭するあまり、おカネのためなら人を殺すとか、戦争をしかけるというように、遊びのルールの次元を超えたレベルで、人として守るべき「道」を外すということは、けっして許されるものではありません。

遊びを楽しむにあたって、ルールを破る程度のことは、その遊びの破綻を意味するくらいのもので、それほど重大なことではないと言うこともできます。それに対して、人間の根源的な問題たる「生命」をも弄ぶような行為は、人間の「道」を外すことでもあります。「道」は、遊びのルールよりも高い次元に存在する、また別のルールです。「マネーゲーム」を楽しむにあたり、人としての「道」すらも守れなくなってしまうようでは、それは「遊びが過ぎる」ということであり、ゲームオーバーにしなければなりません。

残念ながら、これまでの世界において、「マネーゲーム」の駆け引きのために、数多くの人命が奪われてきたという歴史があることも、事実であると言わざるを得ないでしょう。そして、近年においては、科学の力が高度に発達して、人間が地球全体に及ぼす影響が極めて大きくなっており、殺人や戦争の大規模化はもちろん、もっと単純な「マネーゲーム」の結果すらも、地球破壊に繋がるようになってきました。こうした変化によって、「マネーゲーム」がもたらす負の側面が、一部の人命が奪われるといったレベルの話ではなく、人類全体の生命が奪われるということに発展しつつあるのです。

こうした状況を鑑みて、既存の「マネーゲーム」のプレイヤーには、そろそろゲームオーバーを宣告しなければならないかもしれません。ただ、ゲームオーバーが、人生の終わりを意味するものではありません。所詮、お遊びです。やり直したければ、やり直しもきくはずです。

いずれにせよ、しばらくは大丈夫でしょうが、この状態が続けば、いずれ人類は取り返しのつかないツケを払わされることになるのです。物事の本質を見失い、「マネーゲーム」ばかりにのめり込んでしまった人々は、少々、度が過ぎました。

「お遊びはここまでだ」

そろそろ、こんな言葉を発しつつ、新しい「マネーゲーム」を支配していくプレイヤーが登場するようになると思います。

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「運も実力のうち」の真意

2008年11月27日 | 人生

「運も実力のうち」などと言ったりしますが、その通りだと思います。

ただ、「運」という言葉の使い方には、少々気をつけなければいけません。この表現だと「運が良い」ことが、あくまでも「偶然の産物」のような印象を与えてしまい、必ずしも適当でない可能性もあります。

「運任せ」という言葉があったりもします。もはや、自分ではどうにもならず、どうなるかも分からないから、あとは成り行きに任せるということですが、その「運任せ」と「運も実力のうち」とを掛け合わせると、「運」で成功した実力者は、何もせずに偶然成功してしまったということになり兼ねません。もちろん、そういう側面もあるかと思います。あるいは、そのように見えて当然と言える部分もあるでしょう。

しかし、世界で起こっていることの偶然は、全て必然であるという考え方もあります。そのように考えた場合、一見偶然のように思われる必然の事象に命運を託すということが、極めて高度なテクニックであるということにもなるのです。こうした高度なテクニックを使いこなすためには、物事における必然とは何かを見抜き、それにしたがって行動する力が求められます。この力こそが、「運」で成功する実力者の力の源泉であるとも言えるわけです。

こうなると、「運」は単なる「運」ではなくなります。一般的に偶然と解され兼ねない「運」は、実力者から見たときには明白なる必然なのです。こうした視点で捉えたとき、「運任せ」という意味の解釈は、「運」に身を任せるという消極的な側面だけではなく、「運」を積極的に使っていくというような意味合いをも含まなければなりません。

また、まずもって「運」とは何かということについて考えることも、非常に重要なことでしょう。一言で「運」と片付けてしまっていた偶然に見える事象に対して、必然性があると考えるとしたら、その正体を突き詰めて考察することは、極めて大切です。ひとつ明らかなことは、「運」の正体を表層意識のレベルで、感じ取るということは、なかなか難しいことだということでしょう。しかし、答えに結びつくヒントは、たくさんあると思います。言葉とは、非常に便利なもので、何かひとつの表現をすることで、伝えたい概念をある程度明確にすることはできますが、一方でそれに囚われた概念に繋ぎ止めてしまう効果を生んでしまいます。「運」という言葉が表す概念には、いわゆる一般的に言われる「運」ということ以外に、もっと深いところで別の顔を持つということに気付けるかどうかということかもしれません(「既にある結論」、「集合的無意識の力」、「宗教が説く真理」等参照)。

いずれにせよ、「運」という言葉について、私自身の感覚を述べるならば、私にとっての「運」とは頼るべき対象ではないということです。それは即ち、「運」とは自分が制御すべき対象であり、あくまでも目的を果たすための道具であるということです。

若干、異なる事例になるかもしれませんが、ある人物の紹介をするナレーションで「○○さんは時代の波に乗り・・・」云々という言葉を聞いたことがあります。言葉の使い方として、こうした表現を否定するつもりはありませんが、私にとって「時代の波」というのは、けっして乗るものではありません。時代と自分とは、既に一体化しているものであり、むしろ自分自身が「時代の波」そのものであるという感覚です。こういう感覚にある状態において、「運」を掴むとか、「運」に委ねるという言葉は、少々私の感覚とズレているように思うのです。あらゆる「時代の波」は、私にとっての必然であり、それを大きく動かしている「運」は、見えないながらも、自ずと手の中に納まっている感覚です。

「運も実力のうち」という言葉について、いろいろと考えてみると、実力とは何か、実力を行使した結果の成功とは何か、その成功ための秘訣とは何か等、いろいろと見えてくるものがあるかもしれません。

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社会を作る「実力」の時代

2008年11月26日 | 社会

社会生活を営む上で、地位や肩書きは重要なことでありながらも、それが全てではありません。とくに時代の転換期というのは、年齢や実績、それに伴う地位や肩書きの重要性が低下し、それらとは無関係の「実力」が物をいう時代であるとも言えます。

ここで「実力」という言葉の意味について、きちんと定義しておきたいと思います。ここで言う「実力」とは、これからの時代を創造していく力です。もう少し、分解して考えるならば「ビジョン」と「実行力」ということになるかもしれません。それは、けっして過去を作り上げてきた力ではなく、過去を踏まえた上で未来を作り上げていく力です。そしてまた、それは潜在的なものであり、可視化させることが極めて難しいものでもあります。それが故に、なかなか認められるものではなく、過去を作り上げてきた力を可視化させた地位や肩書きとは、無関係にならざるを得ません。この点が、非常に重要なポイントです。

こうした意味での「実力ある人間」が、地位や肩書きを手にしている場合、社会は力強く前に進んでいきます。地位や肩書きは、社会を大きく変えていくためのツールであり、武器です。それらが「実力ある人間」に委ねられていれば、社会はその者の意思に従って、大きく前進していくことになります。逆に、閉塞感がある社会というのは、全体として、地位や肩書きと実力のバランスが不釣合いの状態であると言えるでしょう。

もちろん、地位や肩書きのある方々が、一様に実力が欠如しているといった不釣合いばかりではありません。それ相応の釣り合いがとれている方々もいらっしゃいます。したがって、私がある程度の地位や肩書きがある方々とお会いするときには、私なりに、彼らに時代を変えられる実力があるのか、次の時代を切り拓ける力を秘めているのかを測っています。

そして、その測定結果について、現時点における私の感想を述べるならば、やはり時代の傾向を反映しており、ほとんどの方々にその実力はないと思われます。非常に残念なことですが、大多数の地位や肩書きある方々は、それを築くまでに得た成功体験が邪魔をして、新しい時代における問題の本質や解決策を見極めらない状態にあるようです。

「これは誰が言っているのですか?」

私が、ひとつの解決策を示したときに、こんな返答をされる方がいらっしゃいます。「誰が言っているのか?」という質問は、自分の頭で問題を考えたり、本質を見極めたりする実力がなく、その判断をどういう地位や肩書きのある人が言っているのかに委ねていることを意味しています。「誰が言っているのか?」という質問は、私にとって驚愕するほどの愚問なのです。最も正確に答えるとするならば、目の前にいる「私が言っている」ということになるでしょう。しかしもちろん、そういう質問をされる方にとって、「私が言っています」などというのは、答えになりません。

もしかすると、こういう質問をされる方は、その質問が持つ重大な意味に気付かれていないのかもしれません。しかし、その質問が持つ意味は、明らかに「私は自分の頭で考えていません」という告白なのです。自らの実力不足を吐露してしまっているに等しい発言を平然としてしまう方々に、もはや次の時代を担うことなどできるはずがありません。

地位や肩書きは、分かりやすいものです。自分の力で考えずとも、地位や肩書きがある人の発言ということで、その発言自体に、何かしらの効力があるような錯覚に陥ってしまうことは、ある意味で仕方のないことだろうと思います。実際に、そうした発言をされる地位や肩書きのある方々が、「実力がある人」であれば、それは確かに効力があるとみるべきです。

しかし、冒頭に述べたように、時代の転換期たる現在において、過去の積み重ねの結果を「実力」と定義しないとするならば、「実力がない人」のみならず、「実力」とは何たるかを見極められないで軽はずみな言動をとってしまう人も、やはり「実力のない人間」になってしまいます。そういう人は、それに見合うように地位や肩書きを返上して、時代の表舞台から退出するほかなくなるでしょう。

逆に、地位や肩書きを備えた「実力がある人」は、表舞台に立ち続けることができます。その理由の説明には、いくつかの仕方がありますが、そのうちのひとつが、地位や肩書きを備えた「実力がある人」は、「苦労している人」だからです。

「実力がある人」が、地位や肩書きを手に入れて、社会から認められるまでには、非常に大変な苦労をしなければなりません。このことは極めて重要で、苦労をしている人というのは、その経験があるからこそ、安易に他人を否定したりせず、謙虚に新しい人々の言に耳を傾け、次の時代を共に作り上げていくことができるのです。この「次の時代を共に作り上げていくことができる」という点で、その人は地位や肩書きを備えた「実力がある人」と言うことができます。

しかし、既述のように、そうした地位や肩書きを備えた「実力がある人」は、残念ながら極めて少数になってしまっているのではないかと思えてなりません。もちろん、地位や肩書きばかりで、本質を見極める能力のない「実力のない人々」が、増えてしまっているというのは、社会の状況を鑑みれば、ある意味当然のことだろうとも思います。

そうした「実力のない人々」には、これからの社会において、一旦、表舞台から退出していただくことになるでしょう。しかし、大切なことは、けっしてそれで終わりでもないということです。今一度、苦労し直すことで、自らの過ちや驕りに気付き、あらためて新しい時代に求められる「実力」を身につけたうえで、表舞台に復帰することはできるはずです。

歴史は繰り返します。失敗を成功に繋げ、成功しては失敗するという循環は巡り続けるのです。機会はオープンであり、成功のあとに失敗をし、そこからさらに成功を目指せるかどうかは本人次第です。少々気が早いですが、地位や肩書きばかりで「実力のない人々」には、私から今のうちにエールを送っておきたいと思います。

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ラムダ・ドライバの発動

2008年11月24日 | ヒーロー&アニメ

連休中、アニメ「フルメタル・パニック」を観賞していました。いい作品です。

ロボットモノながら、主人公・宗介のキャラクターによって、学園モノとしての出来も映えているように思いました。シリアスな感じもいいのですが、「フルメタル・パニック?ふもっふ」やOVA「わりとヒマな戦隊長の一日」などに含まれているギャグの仕上がりも最高です。

ところで、この「フルメタル・パニック」には、最強兵器ラムダ・ドライバなるものが出てきます。この兵器は敵の銃弾を撥ね返したり、敵機を一気に殲滅したりする圧倒的な威力を持っています。個人的に、これの存在には、かなり興味深いものを感じます。

このラムダ・ドライバは、主人公の宗介が操縦するロボット、アーバレストに搭載されていますが、なかなか簡単には動きません。なぜなら、それの作動は、操縦者である宗介の精神と深く関係しており、安定的にコントロールすることができないからです。したかって、ラムダ・ドライバは、味方からあまり頼りにされることがありません。しかし、それは最後に味方を救う切り札です。宗介の精神状態が極限状態に達したときに作動し、その最強無比の圧倒的な力で、敵を瞬時に殲滅するのです。

私は、ラムダ・ドライバのこうした不思議で圧倒的な力が、人間なら誰にでも宿るものだと考えます。

史実かどうかは別として、ナポレオンは「我輩の辞書に不可能の文字はない」と言ったといいます。ナポレオンが、実際にこの言葉を発したかどうかは問題ではありません。ただ私自身、この言葉の意味が、非常によく分かる気がするのです。人間に不可能はありません。

こんなことを言うと、「それなら羽を生やして飛んでみろ」などと意地悪な言葉を浴びせる人がいるかもしれません。そういう意地悪な言葉に対して、私は敢えて「Yes」と答えることもできます。ただし、前提条件があります。それは「本当にその必要があるのなら」です。

「不可能はない」などと言うと、軽はずみに「何でもできる」という意味として捉える人がいるかもしれませんが、けっしてそうではありません。真に必要とされていることは、必ずできるという意味です。真に必要とすることのみを行う者にとって、あらゆる行動は必然であり、その「必ずできる」ということが、「不可能はない」という言葉の意味なのです。そういう意味で、「羽を生やして飛ぶ」ことが、真に必要ならば、それは「必ずできる」ということです。

話をラムダ・ドライバに戻します。

ラムダ・ドライバが発動するときというのは、操縦者・宗介にとって、後がない状況です。絶対に負けてはならないという思いが極限に達したとき、真に負けないことが求められていると感じたとき、はじめて発動するのがラムダ・ドライバなのです。このことは、「力」の本質を突いています。つまり、真の「力」とは、ただ「力」を求める者に宿るものではなく、極限状態において真に「力」を必要とする者にのみ宿るということです(「女神さまたちのお話」参照)。

これは、私が実感として、持っている「力」のイメージとも合致します。真の「力」とは、むやみに与えられるものではなく、本当に必要とされる時に、必要とする者だけに与えられるものです。

今、この世界は、大変な状況に陥りつつあります。いろいろな人々が、それぞれの立場から解決策について考え、それらを実践しているようですが、問題の根は極めて深く、とてもそれら全てを解決できるような状況にはないと思われます。

しかし、そんな中で今、私は意識的に遊んでいます。それは、まだ時が満ちていないからです。別の言い方をすれば、遊びが許される状況にあるからです。「風林火山」で言えば、「林」といったところでしょうか。「林」のように事を静かに進めてはいるものの、「如火」には至らないのです。事を進めるのにはメリハリが大切なのであり、まだ遊びが許される状況においては、目一杯遊んでおくことが重要です(「風林火山と「武」のあり方」参照)。

しかし、時は流れています。いつまでも、同じ状態が続くわけではありません。遊びの時間が、際限なくあるわけではなく、あるタイミングを持って、遊びが許されなくなる状態になるのです。それは、「如火」のフェーズと言えるかもしれません。私のビジョンにおいて、その時は刻々と近づいてきています。そして、その時が満ちたとき、遊びが許されない極限状態になるわけです。

その時、私は真に「力」を必要とするのであり、その瞬間を迎えることで、はじめて私は私のラムダ・ドライバを発動させることができます。その瞬間から物事は大きく変わり始めるのです(ちなみに、私のラムダ・ドライバはアニメに出てくるような「兵器」とは程遠く、その対極にあって最強のものです。分かりにくいでしょうから、それは追々お見せすることにしたいと思います)。

人間はそれぞれが、そうしたラムダ・ドライバを持ち合わせているのだと思います。それがひとつずつ発動していったとき、それらは大きなうねりとなって、この世界を大きく変えていくことになるでしょう。今、この時代に生きるということは、各人がそうした各自のラムダ・ドライバを探すことではないかと思います。

《おまけ》
「フルメタル・パニック」に出てくるテレサ・テスタロッサ大佐役のゆかなさんは、相変わらず素晴らしい演技をしてくれます。ゆかなさんの演技によって、私は完全に「テッサ萌え」してしまいました。感情が露になったときのテッサは、本当にいい感じです。あらためて、アニメにおける声優さんの演技の重要性を感じます。

少々、別の話ですが、昔のアニメで「ウィングマン」という作品がありました。私は、このアニメに出てくるアオイさんが大好きでした。「ウィングマン」は、コミックから始まっているもので、それも読んでいたのですが、コミックのアオイさんはそれほど好きではありませんでした。ところが、アニメのアオイさんは、とにかく声がいいのです。アオイさんの声優は、川浪葉子さんという方ですが、私のアオイさん好きは、ほとんどその川浪さんの力によるものです。

こんなことを含めて、アニメにおける声優さんの重要性をあらためて思うのでした。

それとせっかくの「おまけ」なので、ついでに言っておくと、今週の「かんなぎ」は、かなり面白かったです。エンディングまで含めて、大爆笑してしまいました。あのアニメは、本当に面白いです。上記の絡みで、戸松遥さんの演技が素晴らしいのはもちろんですが、スタッフの方々は、相当遊びながら作っているのでしょう。皆さんが、とても楽しくアニメ制作をされているように感じます。

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命を張る仕事

2008年11月23日 | 社会

元事務次官夫妻が殺害されるという事件がありました。まずもって、こうした行為は正当化されるべきものではなく、いかなる理由があろうとも、殺人行為は許されてはなりません。

ところで、この事件の読み解き方には、いろいろあるとは思いますが、そのうちのひとつとして、年金問題に関わるテロ行為であるという見方がありました。しかし、今朝からさかんに報道されている内容によると、犯人が自首をしてきて、その供述では「保健所にペットを殺されて」云々ということのようです。

もちろん、真相は分かりません。ただ率直な感想を言うと、とても報道されているままの内容だけが、真実ではないだろうということです。人の思考パターンは、極めて多様であると考えるべきです。保健所にペットを殺されて、事務次官経験者を殺害するという思考もあり得ると考えるべきなのでしょう。しかし、そうした思考があり得るとしても、ただ、それが故に今回の犯人の供述を鵜呑みにするという必要もありません。

この事件の背後には、非常に巨大な権力や勢力が関係しており、それらの人々が裏側でさまざまなメッセージを交換していると考える必要もあるでしょう。年金問題は、非常に大きな問題です。そうしたこととも関連して、国家運営の根幹に関わる人々の関与も否定できません。

事件の真相はさておき、ここで被害に遭われた官僚の方々について、考えてみたいと思います。

年金問題を含め、関わった全ての案件について、被害に遭われた方々は、国のためと思って仕事をされてきたのでしょう。逆に、それくらいの信念がなければ、そうした重要な仕事をこなすことはできないだろうと考えます。しかし結果として、年金問題では、多くの国民の怒りを買うことになりました。私自身、もともと年金制度には、大きな疑問を感じていましたが、それは全国民的な規模で決定的となり、「国家詐欺」という喩えが使われるほどに至るのです。もしかすると、そうしうた国民の怨嗟の声が、今回の事件に利用された可能性もあります。そして、もしそうだとすれば、今回の事件は、国民の怒りが引き起こしたとも言えます。

この可能性を考慮した場合、問題の本質は、「国家と国民の乖離現象」にあるのではないかと考えます。つまり、「国家のため」にしたことが、必ずしも「国民のため」にしたことに結びつかないということです。

本来、国家は国民のためにあるのであり、それは今日においても、厳然たる事実であるとは思います。しかし、大きなパラダイムシフトを迎える時代にあって、「国家のため」のことと、「国民のため」のことが、徐々に乖離してしまう現象が起こっているのです。このことは、何となく理解できることかもしれません。そして、もっとも大切なことは、これは時代の流れであり、こうした現象は、時が進むにつれて顕著になっていくだろうということです。今は、何となくでしか理解できないことが、非常に分かりやすいかたちで多発するようになるということでもあります。

こうなってくると、現在、社会において責任ある方々、例えば今回被害に遭われたような中央官庁のトップの地位にある方々は、極めて大変な時期に、ものすごい重責を担っているということになります。それは、もしかしたら、自らの命を懸けなければならないほどの責任を負っているということでもあるのです。国民のためだと思ってやったことなのに、国民に殺されるなど、たまったものではありません。

しかし、この問題の答えは、実に簡単です。自分の頭で考えればよいのです。

これからの時代にあって、国家の仕組みのなかで、ただ与えられた仕事だけに埋没してしまうようでは、真に国民のための仕事はできません。国家の限界を見極めたうえで、真に国民のためになることとは何かを考えればよいのです。国家は、万能ではないのです。制度や仕組みは、古くなっていきます。これからの時代は、国家という大きな箱が、とんでもな壁にぶち当たることを感じ取り、それを理解し、そのことを見極めつつ、真に国民のためになることとは何かについて、自分の頭で考えればよいのです。

先日、ある中央官庁の要職にある方にお会いしました。私の印象では、その方は、こうした時代の流れを読めておらず、相変わらず、現在ある国家の仕組みや制度のみに縛られた発想をされているように見受けられました。同席していた私の仲間は、その方の的外れな発言に対して、「将来的に、きっちり責任を取らせる」と言っていましたが、私は、それはそれで当然のことだと思います。

繰り返しですが、答えは簡単です。想像してみることです。自分の頭で考えるのです。真に求められていることが何なのか、国民のための仕事とは何なのかについて、枠組みに囚われないことが大切です。命を張る覚悟で、考えてみれば、きっと答えは見つかります。

今後、国民のためにやったのに、国民によって殺されるなどという悲劇が起こらないことを祈るばかりです。

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大衆文化と教養

2008年11月20日 | 独り言

とんでもない人がいます。

その人は、極めて短期間で、マンガやアニメの社会的地位を大きく失墜させているようです。その人なりに、一所懸命頑張っているのでしょうから、いちいち細かい批判をするつもりはありません。けれども、その人の言動によって、「マンガ好き」や「アニメ好き」が、全員「無教養」であるかの如き扱いを受けるというのも、なかなか忍びがたいものです。

マンガ本よりは、どちらかというとアニメ派の私ですが、日本の大衆文化を世界に発信していこうと志している人間としては、これに関する最近の議論は、少々気になってしまいます。

ただ、これからマンガやアニメが、きちんと復権していくにあたっては、一度失墜しているくらいがちょうどいいのかもしれません。

本当に、マンガやアニメが好きならば、周りが何と言おうと、胸を張って「私はマンガが好きです」、「僕はアニメを愛しています」と言ってやればいいのです。そして、そのことと「無教養」とを短絡的に結びつけるような見方には、真正面から反論できるだけの教養(できれば品格まで)を身に付けてやればいいでしょう。

大衆文化と教養は、きちんと両立するのだと思います。

マンガやアニメファンにとって、ここ最近の話題が、一部で災難となって降りかかっている側面はありますが、一方で今後、そうした文化が社会的な地位を獲得していくうえでは、ひとつの大きなチャンスにもなり得るような気がします。

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新コンピューターシステム

2008年11月14日 | 産業

通信システムは、極めて高度に発達してきています。併せて非常に多岐に渡るソフトウェアが、それらのネットワークを通じて利用されるようになり、また端末の小型化や多様化も急速に進んできました。こうしたネットワークの発達とは裏腹に、コンピューター全体におけるメンテナンスやセキュリティーの問題は、日増しに深刻化してきています。

これまでコンピューター業界をリードしてきた企業群から提供されているパソコンの仕組みは、限界を見せつつあります。とくに、近年において顕著なのは、ソフトウェア(OS)とハードウェア(CPU)の性能差の拡大です。これにより、コンピューターの利用においては、メンテナンスやセキュリティーの問題のみならず、処理速度や消費電力(とくに携帯型端末では顕著)といった、新しい問題が引き起こされるようになってきました。

こうした問題は、コンピューターをそれ単体として発展させてきた既存業界の功績である一方、ネットワークの発達や端末の多様化が進む中で、今後解決されなければならないものです。そして、その解は従来の「重い端末」から「軽い端末」への転換であると考えます。コンピューターを「軽い端末」にすることで、ユーザーはメンテナンスやセキュリティー等について意識することなく、利用できるようになります。さらに、多様な端末形態にも対応し、電子機器の利便性向上が期待できます。

真剣にユビキタス社会の実現を目指すのであれば、散在するそれぞれのコンピューターに対するメンテナンスやセキュリティーに係るコストを考慮しなければならず、それは従来の「重い端末」では、極めて困難であると言わざるを得ません。逆に、こうしたコンピューターシステムを整えることができれば、「軽い端末」と化したコンピューターは、通信ネットワークを取り込みつつ、広くさまざまなデバイスに組み込まれていくことになります。

例えば、カーナビゲーションシステムであれば、地図情報の更新はもちろん、最新の渋滞情報や近隣の店舗情報等について、メンテナンスすることなく、手軽に利用できることになります。ミュージックプレイヤーやデジタルカメラ等の場合、それらで扱う音楽や画像ファイルについて、ストレージサービスとリンクさせることで、バックアップ機能等の利用はもちろんのこと、コミュニティーサービスと連携させ、公開設定機能等を使うことで、ユーザー同士が共有して楽しむといった利用も可能となります。単純にパソコンの例で言えば、パソコンをほぼメールとウェブ閲覧にしか利用しないというユーザーの場合、これまでのように過剰にスペックが高い機器を購入することなく、手軽にインターネットを利用できる環境を提供することができるようになります。当然、モバイルワークで、コンピューターを利用する企業等においては、紛失や盗難に伴うリスクを大きく軽減する効果を得られます。

ここで言及しているような、新しいコンピューターシステムを実現するには、どこでも繋がるネットワークが必要であり、それには無線通信システムが、極めて重要な役割を果たすだろうと言えます。そうした意味で、今後の電波利用においては、そのような新しいコンピューターシステムの構築を十分に考慮するべきであると考えます。

ところで、そうしたコンピューターシステムを構築するにあたっては、①ビジネスモデル/業界の壁、②海外展開への道筋、③コアシステムの開発等の課題をクリアしていかなければなりません。

①ビジネスモデル/業界の壁

新しいコンピューターシステムにおいては、これまでのコンピューター(端末やサーバー)とネットワークが融合することになると考えられます(「シン・クライアントの潜在力」参照)。現在、広く普及しているコンピューターは、スタンドアローン型でリーズナブルなパフォーマンスを実現できるパソコンを中心に発達してきました。一方のネットワークは、電話や携帯電話をはじめとした音声通信を中心に発達した後、近年のブロードバンド化の進展により、パソコン同士を繋ぐようになってきました。こうした経緯からも明らかなように、それぞれが異なる業界として発達してきており、各々独立したビジネスモデルが成立してきたのです。

しかし、将来的に、これまでのコンピューターとネットワークが融合し、ひとつのコンピューターシステムとして機能するという場合、既存のビジネスモデルでは、それは成立し得ず、双方の業界の垣根を越えた全く新しいビジネスモデルが必要となります。これは、新しいアプリケーションやサービスにおいて、ビジネスとして成立させるための仕組みであると考えられますが、これまでのところ、こうした仕組みで大きく成功していると認められているところの多くは、広告モデルをその軸に据えており、直接的な料金回収を通じて、ビジネスとして成立していないところに、大きな問題があると思われます。

②海外展開への道筋

コンピューターとは、いわゆるパソコンのみならず、ミュージックプレイヤーやデジタルカメラ、電子辞書等の家電製品はもちろん、自動車のナビゲーションシステムや各種制御装置等を含む、あらゆる電子機器に組み込まれる、文字通り産業インフラとして機能すべきものです。そして、それは世界に向けて展開されるべきものでなければなりません。そうした意味で、日本が新しいコンピューターシステムを作っていくうえでは、それを輸出産業として成り立たせるための道筋を立てていく必要があります。

これまでのスタンドアローンのコンピューターは、ネットワークなしに機能するため、それ単体で海外に持ち出しても、まったく問題なく動作します。これに対して、新しいネットワーク融合型のコンピューターは、通信インフラを前提に機能するため、それ単体は輸出の対象とはなり得ず、必ず並行して、通信インフラの構築を行っていかなければなりません。こうした海外展開への道筋については企業、あるいは業界を挙げた努力はもちろんのこと、国家としてのリーダーシップが必要になるものと思われます。

③コアシステムの開発

新しいコンピューターシステムである「軽い端末」を、従来のパソコンベースで実現し、サービス提供している会社もあります。ただし、そうしたサービスを大規模に展開している会社の場合、ビジネスモデル自体を通信ネットワークと融合させているわけではなく、従来のコンピューターと通信ネットワークの仕組みを流用し、あくまでも擬似的に「軽い端末」を実現させているだけであるところに限界があります。

コンピューター事業が通信事業と融合するということは、事業者がサービスを提供する上で、通信事業者のように、ユーザーの認証と課金が行えるということでもあります。このことは、提供するサービスに対して、細かな課金を行えるということを意味しており、これを通じて、直接的にアプリケーションやサービスの市場を活性化させることを可能にします。インターネットのオープン性を活用する場合、こうした直接的な課金システムを整備した上で、広くプログラマーにアプリケーション開発をしてもらえる環境を整えることが肝要になってきます。

これに対して、ネットワークを融合させていない、既存の「軽い端末」のビジネスモデルでは、ユーザーの認証や課金を行えず、広告モデルを中心に事業を展開していかざるを得ません。またアプリケーションやサービスの開発体制については、インターネットのオープン性を活かしきれず、原則として企業が雇用したプログラマー等によるアプリケーション開発しか期待できないため、マーケットの規模としても、アプリケーションのクオリティにおいても、高い拡張性を確保できなくなります。インターネットの本質は、そのオープン性にあり、アプリケーションやサービスを開発したり、提供したりする上で、従来の閉じられた提供モデルから、如何に開かれた提供モデルに転換できるかが、大きなポイントになります。

こうした問題点を踏まえ、新しいコンピューターシステムを構築する上では、通信ネットワーク事業を取り込む重要性、インターネットのオープン性を活用できるコアシステムがなければなりません。

無線通信ネットワークの高速化、大容量化が進む中で、ますます通信ネットワーク上で、動画を含む大容量コンテンツの視聴が可能になってくることが予想されます。さらに、上記のような、新しいコンピューターシステムは、非常に多様な端末形態を実現できるため、いわゆるテレビのような受像機、あるいはそれに接続して利用するようなコンピューターを実現することも可能にします。

こうした通信ネットワークの発達は、そうした動画等のコンテンツのみならず、新しいコンピューターシステムを支えるアプリケーションやソフトウェアについても、著作権の問題を深刻化させることになります。従来のメディアシステムにおける例を挙げれば、コンテンツの著作権は、それを市場に送り込むまでに関係する組織や個人が、複雑に関わり合っています。それらを管理、整理することは、従来のDBシステムで十分に可能でした。これは、従来のDBシステムが、基本的にテーブル構造に依拠した2次元的な構造をしていることとも関係していると思われます。つまり、上図からも明らかなように、著作権の関係は、基本的に一本の線(1次元)の集合体(2次元)であり、それを整理するのには、原則として2次元的なDBシステムで事足りるということです。

しかし、インターネットの本質は3次元です(「次世代インターネット」参照)。そのことを理解し、それに沿ったDBシステムがなければ、インターネットのオープン性を活かしたコンピューターやメディアシステムの構築は難しいと思われます。

視聴者が直接、著作物を扱うようになり、そこに自由な創作活動が行われるようになると、従来のDBシステムで、それらの著作権を整理することは非常に困難です。このことは結果として、著作権者が、本来得るべき著作権料を回収できなくなることを意味しており、最終的にこうしたオープンな市場が立ち上がらないことに繋がってしまいます。この問題の深刻性は、従来のメディアシステムにおける著作物に限らず、新しいコンピューターシステムにおけるアプリケーションやソフトウェアの開発や流通においても、共通して言えることです。

従来、「ウェブ(くもの巣)」という概念で始まったインターネットですが、それは(くもの巣の)中心点があって、はじめて成り立つ概念です。著作権の関係で言えば、著作物を制作した側と、著作物を利用する側がはっきり分かれているという関係において、ウェブの概念は、単一のものとして機能します。しかし、インターネットの発達に伴い、そのオープン性(参加型の特性)が、顕著になるに従い、著作物の利用者は、単に利用者だけの振る舞いをすることがなくなり、著作物の制作者としての顔を持つようになります。

このことによって、それまで単一の「ウェブ」として捉えられていたインターネットは、複数の「ウェブ」の集合体となり、2次元のDBシステムでの補足ができなくなるわけです。つまり、「ウェブ」という2次元の集合体は、あくまでも3次元的な概念で捉えられなければならないということです。幸いにして、こうしたDBシステムを構築するための基礎技術はできあがっています。今後、新しいコンピューターやメディアシステムを実現する上では、こうした技術を大いに活用して、次世代コンピューターのコアシステムとして機能するように、開発を進めていかなければならなくなるでしょう。

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無策国家の責任

2008年11月13日 | 政治

最近、政治の話題として、定額給付金なるものが挙がっていますが、私はここに至り、いよいよ日本という国を任されている方々には、この国を引っ張っていくだけのビジョンも策も尽きてきたように感じます。

国家にビジョンがあれば、それに伴う国家の事業があって然るべきであり、それにかかるお金が必要になって当然です。国家が国民から集めたお金を、逆に返すということはあり得ないと思うのです。とくに、ずいぶん前から、日本経済は構造的な問題を抱えていると言われており、その構造をきちんと変えることなく、国民にお金を返すだけでは、何の解決にもならないことは、至極当たり前のことです。さらに滑稽なのは、定額給付金というかたちで、国民の消費を促すような政策を打っておきながら、消費税率の引き上げを示唆しているという点です。定額給付金の分配から、消費税アップまでのタイムラグを利用して、日本経済を大転換させるだけの、大きな構造改革をするというのであれば、それはそれで合点がいきます。しかし、そういった議論抜きで、単にお金の出し入れだけで、あたかも経済が活性化するかの如き幻想を抱いている点、日本の未来を切り開くべき立場にある人々の選択としては、あまりにも無策に思えてなりません。

しかし私自身、これをもって、そうした人々の責任を追及すべきだとも考えていません。能力の有無はさておき、ひとまず与えられた職務については、一所懸命取り組んでいるわけであり、むしろ、よくやっていると思います。

現在の内閣総理大臣は、明治維新で活躍した大久保利通の血筋を引いているといいます。明治維新は、近代国家日本の礎を築き上げた大変な大事業でありましたし、その血筋を引かれる方が、その流れを受け継いで、今日の日本を支えているというのは、非常に美しいストーリーであるとも思います。

ただし私は、明治維新の評価について、完全肯定すべきではないと考えています。もちろん、当時としては、あれしかなかったのでしょうが、江戸幕府が倒れ、近代国家日本を築き上げる過程では、いろいろと無茶や妥協をしてしまったし、時代の流れとともに、それらの問題は、日本の足かせとなっているという側面が、多々あるように思うのです。詳細を語るつもりはありません。ただ少なくとも、明治維新で作り上げた枠組みは、今日から未来にかけて通ずるほど万能ではなく、今後はそれを乗り越えていくような発想がないといけないと思います。そうしたことまでを、大久保利通の血筋を引くということが、現在の地位やアイデンティティーの形成に大きく関わっているであろう方に求めるのは、少々、酷ではないかと思うのです。もちろん、できることなら、大いにやっていただきたいのですが、歴史的な先祖の遺業を超えろというのは、やはり難しいことでしょう。

そういう観点からも、能力の有無は別として、おそらく今、政権を担っている方々は、一所懸命やっていると解釈するしかないと思うのです。むしろ今日、そうした無策にも見える人々に、政権を委ねざるを得ないことについては、私自身、国民のひとりとして、大きな力不足を痛感しています。

制度や仕組みが、どのように運用されているかという問題があるにせよ、日本の政治は民主主義であり、主権はあくまでも国民にあります。どんなに不適切に思える人々が政権を担っているとしても、その事実を持ってして、その座にいる人々だけが責められるべきではありません。そうした人々に政権を預けているのは、主権者たる国民の総意であり、日本政治に関する全ての問題は、日本国民にこそ、最も大きな責任があるということです。

もちろん、間接民主制を支える制度や仕組みとして、例えば一票の格差といった問題もあり、これらを含めて、国民個々人への責任をどう考えるかという論点はあるかと思います。しかし、それでも原則として、国民に責任が帰結するという意味で、逃れることはできないし、それはひとりひとりの国民の責任であると考えるほかないと解釈するべきだろうと考えます。私自身、そうした解釈に基づいて、ひとりの国民として、その責任と向き合わなければいけないと思うのです。

これだけ問題だらけの社会だと、問題指摘だけならば極めて簡単です。問題を複雑化させるまでもなく、あそこが悪い、誰が悪いという指摘をすることだけで言えば、小学生にでもできる話です。問題を複雑化させ、分析力や解析力を発揮して、細かい問題指摘をするのも構いません。しかし究極的には、それらも「大元」を正せば、全て解決する類の話になります。主権在民の日本という国において、この「大元」と表現されるべき対象は、けっして与党や内閣総理大臣ではありません。あくまでも国民です。たとえ、制度の仕組みや運用に大きな問題があるとしても、それらをひっくるめた原則論として、為政者を為政者たらしめているのは、国民たる我々の責任であることには変わりないということです。

そういう意味で、現状を持って、誰かを批判するというのは、鬱憤を晴らすといった効果はあるでしょうが、根本的な解決には結びつくものではないと考えます。批判も結構ですが、それよりも何よりも、ひとりの国民としてやるべきことをやるという姿勢が、大切だと思うのです。別の言い方をすれば、国政の責任者を批判するということは、回りまわって、その人物を国政の責任者たらしめている国民のひとりである、自分を批判していることにも繋がるということです。

そういう観点からも、こうした社会における問題指摘については、極めて慎重になる必要があると思います。同時に、私自身はひとりの国民として、現在の日本政治に思いを馳せながら、自らの力不足を痛感させられています。今、私がひとりの国民としてできることは、内閣総理大臣をはじめとする、国政を預かる人々の批判よりも、淡々と社会を改善していくための努力と行動だと思うのです。

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妄想と現実の狭間

2008年11月12日 | 科学

アニメの世界から何を読み取るかは、その人の感性によるということに異論の余地はないと思います。要は、その人次第ということです(「アニメ楽しんでる?」参照)。「他愛もない馬鹿げた妄想」、「くだらない幻想の世界」と切り捨てるのも結構でしょう。ただ、せっかくのストーリーを単なる「妄想」と切り捨てるのは、もったいないような気がします。

現在、私が毎週視聴している「カオスヘッド」という作品は、そうした「妄想」をテーマにしており、主人公の拓巳は自らの「妄想」と現実世界とが混同してしまい、常に混乱した状態のなかで生きています。通常、あり得ない「妄想」が現実になっていたり、それがまた元に戻ったりということは、この世界ではなかなかあり得ません。しかし、それを単にあり得ないことと切り捨てるのも、少々危険ではないかと思うのです。

既に、本ブログのなかで、何度も述べている通り、この3次元世界だけが、唯一絶対の世界であると考える必要はないと思います。これは単なる「妄想」ではなく、証明されているかは別にして、既に科学の分野でも論じられていることであり、これを切り捨てることはできないでしょう(これを否定しきる科学者がいるとしたら、そもそも科学が未知を探求する道であること、科学がその連続で成り立ってきたという歴史を忘れた三流科学者ということになるかもしれません)。つまり、別の3次元世界が無数に存在しており、そこには同じように、私やあなたが存在しているかもしれないということです(「アイディアの重要性」参照)。

こう考えたときのひとつの可能性ですが、私たちが認識している、この3次元世界において、「妄想」が単なる「妄想」たり得るのは、4次元など高次元世界からの干渉が、たまたま一般的に認められるほど、頻繁に起こっていないからだと考えられます。つまり、この3次元世界は、ほぼ閉じられたまま、非常にきれいな状態で存在しており、そのなかで起こっているほとんどの現象について、3次元の法則だけで説明できるような状態にあるということです。

しかし、この3次元世界がほぼ閉じられていて、きれいな状態にあるからといって、他に存在するであろう大多数の3次元世界も、全く同じであるとは言い切れないはずです。

ひとつ次元を下げてイメージしてみます。

私たちが認知している3次元世界から見て、2次元世界は無数に存在します。画用紙を一枚持ってくれば、そこにひとつの2次元世界が存在すると言えるわけです。これが曲げられたり、折られたり、他の画用紙と重ねられたり(他の画用紙と重ねることで、他の2次元世界からの干渉や統合と解釈し得るため)されないまま、きれいな状態できちんと保管されていれば、それはずっと「きれいな2次元世界」として存在し続けることができ、またその世界における事象は、すべて2次元の法則のみで説明できるということになります。

しかし実際には、そういう「きれいな画用紙(きれいな2次元世界)」ばかりではありません。折られる、曲げられる、他の画用紙と重なり合うなどはもちろんのこと、破られたり、燃やされたりという3次元的な処理(3次元世界での処理)を通じて、画用紙(2次元世界)はさまざまなかたちに化けるのです。これらは「きれいな画用紙」、「きれいな2次元世界」からすると、ほとんど経験したこともない、理解をはるかに超えた現象です。けれども、他の大多数の画用紙(2次元世界)からすると、そうした3次元的な処理は、常に当たり前のように認められる現象である可能性があるのです。

これを、元の次元に戻して整理します。

私たちが認知している3次元世界では、ほとんど4次元的な不思議な現象が起こっていないと言えます。多少、テレパシーとか超能力、心霊現象、ポルターガイスト現象といった、オカルトがかった話もありますが、それらは一般的に認められているとは言えず、聞いたことがある「不思議な現象」といったところでしょう。これを4次元的現象と呼ぶならば、そうした4次元的現象は、私たちが認知している3次元世界では、ほとんど起こっておらず、私たちの世界は、いわば「きれいな3次元世界」であると言えるということです(ただしこのことは、この3次元世界が、完全に閉じた「きれいな3次元世界」であるということを意味するものではありません。実際には、この3次元世界と他の3次元世界は、ブラックホールのようなトンネルを通じて、繋がっていると考える必要があり、完璧なる「きれいな3次元世界」ではないと思います。詳細については、「宇宙が膨張を続けるカラクリ」を参照)。

しかし、他にも無数の3次元世界が存在するという場合、私たちが考えているように「きれいな3次元世界」の状態を保っているのは、むしろ極めて少数で、他の大多数の3次元世界においては、4次元的現象が頻発しているといことも、十分に考えられるということです。つまり、私たちの世界の外には、「不思議な現象」に満ち満ちた別の3次元世界が、無数に存在し得るということなのです。

こうした世界が存在すると仮定した場合、それは「妄想」と現実が混同してしまうような世界かもしれません。「妄想」のはずだったものが現実となり、現実と思っていたものが「妄想」として処理される、まさにカオスのような世界です。

冒頭のアニメ「カオスヘッド」という作品は、そうした世界を描いており、これは私たちが認知している3次元世界の外側にある、別の3次元世界の姿、あるいはその可能性を示唆するものとして、非常に興味深いと思うのです。そしてまた、このことは、4次元世界における精神世界と物質世界の関係という観点からも、非常に大きなヒントを与えてくれているように思います。

それはさておき、他の3次元世界がどうであれ、私たちが認知している世界においては、やはり「妄想」は、所詮「妄想」でしかないと言うこともできると思います。「妄想」と現実が混同してしまい、例えば、現実が「妄想」化するということはありません。ただし、「妄想」が、現実と結びつくという現象を否定することもできないでしょう。そして、そのときの「妄想」という概念は、「夢」、「ビジョン」、「希望」という言葉に置き換えて、表現できるのではないかと思うのです。

「妄想」、大いに結構なことだと思います。健全なる「妄想」は、この世界を前に進めていく原動力になるはずです。

《おまけ》
「カオスヘッド」というアニメは、まだ5話程度しか進んでいないのですが、その短いなかでも、なかなか興味深い台詞が並んだりします。以下がその例です。本当は注釈を加えながら説明したいのですが、分量の問題もあるため、ひとまず引用だけに留めておきます。世界の本質を見極めるうえで、参考になる言葉がいくつも秘められているように思います。

■セナの台詞
完璧な世界があると思うか?あるはずはない。エラーはたしかに存在する。すべてのものは、人も含めて電気仕掛けだからな。何を見ているかじゃない。何を見せられているかだ。人は体の外からの情報を五感によって得ているが、その受け取る情報の80%は視覚から入ってくるんだ。そして視覚から得られた情報は、パルス信号となって視神経を通って、脳に送られる。(中略)そして、ある意図的な情報を神経パルスへコンバートすることが可能なら、人の五感すべて、さらに人の意思そのものをコントロールできるんじゃないか?さっき言ったように、人は電気仕掛けだ。脳だけじゃなく、全身の神経にも電気が通っている。つまり肉体的な動きまで操れるということになるんだ。理論的にはな。(中略)この世の中は、腐った連中ばかりだ。倫理を無視して、自分の利益のためだけに、他者を平気で犠牲にするような連中がいる。もはや涙も出ない。無知は罪だ。知らない方が幸せなこともあるという人間もいるが、そんなものは、ただの甘えだ。世界を疑え。仕組みを知れ。この世界は完璧じゃない。

■あやせの台詞
それなら、それはきっと導きなのよ。大いなる存在によるね。(中略)君が見たものが事実だったか、幻だったかは些細な事。君が抱いている苦しみや怒りは、必要なものだったということよ。だから早く見つけて。剣を見つけて。(中略)この剣は命運を握るもの。この剣は嘆きを収束させたもの。この剣は超越した場所に干渉するためのもの。(中略)異空間のようなもの。同一次元上にあるもうひとつの可能性。あるいは妄想。(中略)言い方にあまり意味はないわ。唯一確かなのは、この剣もその領域に存在しているということ。(中略)見つけなくちゃいけない、自分自身で。方法なんて、私たちにも分からないのよ。ただ、ディソードは力を持つ者にしか映らない。君には、私の剣が見えているでしょう?それが意味するのは一つだけ。感じて。世界の選択した意思を。

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アニメ楽しんでる?

2008年11月11日 | ヒーロー&アニメ

「普通の人でも見られるアニメ見てるの?」

こんな質問も受けるのですが、これはちょっとアニメに対する偏見があるように思います。普通の人でも見られるアニメはたくさんあります。ただ残念なことに、放送枠や人々の生活スタイルなどの問題で、そうしたアニメのほとんどが、多くの普通の人々の目に触れられることがないのは事実でしょう。

ここ1~2ヶ月で、私が見ている(あるいは見終わった)アニメは、25タイトル程度ですが、そのうち半数以上が、現在放送されている深夜アニメなので、積極的に見に行く姿勢がない限り、出会うことがない作品のはずです。以下が、その作品群です。

「とらドラ!」、「かんなぎ」、「スクラップド・プリンセス」、「スクールランブル」、「カオスヘッド」、「スキップ・ビート!」、「喰霊-零-」、「魍魎の匣」、「Yes!プリキュア5GoGo!」、「図書館戦争」、「絶対可憐チルドレン」、「機動戦士ガンダムOOセカンドシーズン」、「まかでみ・WAっしょい!」、「伯爵と妖精」、「ヒャッコ」、「のだめカンタービレ 巴里編」、「夜桜四重奏」、「CLANNAD ~AFTER STORY~」、「黒執事」、「鉄のラインバレル」、「しゅごキャラ!!どきっ」、「屍姫 赫」、「とある魔術の禁書目録」、「フルメタル・パニック」

このなかで、個人的に気に入っている作品を挙げるとすると「とらドラ!」、「かんなぎ」、「スクラップド・プリンセス」、「スクールランブル」、「カオスヘッド」といったところでしょうか。このうち「カオスヘッド」は、少々特殊な感じがしますが、それを除けば、これら4つの作品は、アニメをあまり見ない人にも、薦められるような気がします。

■とらドラ!
毎週、かなり楽しみに見ている作品です。ストーリーもキャラも非常にユニークな感じがします。キャラの点では、もちろん主人公のヒロイン・大河が可愛いです。普段、竜児にはハチャメチャな態度をとっている大河が、北村君の前では緊張しすぎて、まったくの機能不全に陥る姿は、非常に微笑ましい感じがします。ただ自分的には、大河以上に実乃梨の天然で明るい感じが大好きです。天真爛漫というか、邪気をまったく感じさせない元気な女の子という印象は、清清しいものがあります。オープニングやエンディングのアニメーションで、実乃梨が歩いている姿は、いかにも「実乃梨」らしい感じで、これも結構ポイントが高いです。

■かんなぎ
何と言っても、ナギが良いです。一応、ナギは神様なので、言葉遣いから「神様っぽい」のですが、それが現代社会の空気からズレていて、そのズレがそのまま彼女のキャラを引き立てている感じがします。そしてまた、最近、妹のザンゲちゃんが出てきたり、アイドルを目指し始めたりという新しい展開で、さらに興味を惹かれています。とくに個人的には、神様がその力を発揮するために偶像(アイドル)になるというナギやザンゲの発想は、非常にいいポイントを突いていると感心しているところです。これは、私が兼ねてから感じている宗教と偶像崇拝に通ずるポイント(「偶像崇拝とフィギュア」参照)を突いている感じがするのです。それから、ちょっと別の話で、ナギ役声優の戸松遥さんが、オープニングとエンディングで曲を歌っているのですが、それぞれの曲の雰囲気に合わせて、歌い分けている感じがして、すごいと思いました。

■スクラップド・プリンセス
少々、昔の作品のようですが、世界宗教の役割や人間が何を信じるべきかといった非常に重く大切なテーマを扱っており、なかなか面白かったです。またテーマの割には、とても明るいタッチの世界観で構成されているのも良かったように思います。この明るいタッチというのは、主人公のパシフィカの性格の明るさ故と言えるかもしれません。悲劇のヒロインになってもおかしくない状況で、常に底抜けの明るさを振りまく彼女に救われる感じがします。世界の大半の人々が、宗教に頼りながら生きているという意味で、まだこうした作品が訴えている価値観が、世界的に認められるということは難しいのかもしれません。しかし、この作品は、宗教とは何かという問いに対して、いずれ世界人類における、教科書的な役割を果たしてもいいのではないかと思うような内容でした。

■スクールランブル
あまり難しいことを考えず、ただひたすら楽しめる作品でした。天満の底抜けな明るさ、姉思いの八雲の優しさ、播磨のとことん不器用で一途な性格・・・。どのキャラも活き活きしていて、とてもリラックスしながら、普通に笑えるアニメだと思います。少々、別の視点で言うと、主人公・天満役の小清水亜美さんに興味を覚えました。「コードギアス」では、あのカレン役なので、ものすごく戦闘的なイメージがあったり、「まかでみ・WAっしょい!」では男の子役だったりしていますが、それとは全く違う天満の「抜けた感じの女の子」の雰囲気は、これはこれでいい感じです。

■カオスヘッド
この作品は「妄想」と現実世界の狭間を描いたものだと思います。そして、これは高度な科学の話にも通ずるような気がしています。「妄想」と現実世界との間で、その境界線が曖昧になるというのは、世界に多くのバグが発生(「妄想」と現実が交錯)したときだと思うのです。この場合のバグとは、通常あり得ないとされる「不思議な現象」と言い換えてもいいかもしれません。そうしたバグがバグであり続けるためには、それが頻繁に発生しないからだと言えると思いますが、それはバグが存在しないということにはならないとも思うのです。このことは、意外とこれからの宇宙論や別の3次元世界との説明にも使われることになるのではないかと考えていますが、少々長くなるので、このテーマについては、機会をあらためて整理したいと思います(「妄想と現実の狭間」参照)。

もちろん、上記タイトル以外にも、甲乙つけがたい作品もたくさんあり、アニメをあまり見ない人でも、十分楽しめるものがあるように思います。

例えば、「スキップ・ビート!」のストーリーは、普通に連続ドラマになってもいいようなものですし、ドラマ以上にアニメならではの面白い表現手法もあって、相当楽しめるような気がします。「魍魎の匣」は、少々不気味な感じがしますが、ちょっとした推理小説を読んでいるような感覚で楽しめるような感じです。「鉄のラインバレル」は、ガンダムやエヴァンゲリオンのように、ロボットに乗るようなアニメとして、普通に面白いと思います・・・等々、書いていたらキリがないので、これくらいにします。

ただ、少なくとも一言で「アニメ」と言っても、それはひとつの価値観で語り切れるほど単純ではなく、それぞれ独特で、ユニークなストーリーやキャラクター、あるいは世界観を持っているのだと思います。そしてそれは、どんな人の心にも、引っかかるような要素を秘めているのであり、その良さを引き出せるかどうかは、それを見る人に依存しているのだと思うのです。

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死の淵から得られるもの

2008年11月09日 | 自分

死んでしまってはいけませんが、強く生きることの意味を知ったり、その重みを感じたりするために、「死」と向かい合うことは、けっして悪いことではないと思います。私は、出生のときに危険な体験をしているせいか、物心ついた頃から、死ぬことばかり考えていました(「無意識の記憶の力」参照)。ただし、その危険な体験というのは、あくまでも無意識レベルのもので、表層意識で感じることではなく、またしたがって、その体験を通じて感じたことを論理立てて説明することは難しいものです。

ところが、ちょうど1年前の私は、明確に表層意識のレベルで「死」と向かい合っていました。

自殺は悪いことです。ただそれでも、「もうこの世に存在したくない」と思うことがあって、当たり前だと思います。私の場合、この世界があまりにも酷いと感じてしまい、「そんな世界で自分の貴重な生命を費やすなど、バカバカし過ぎる」などという思いから、「こんな世界からは、さっさと失礼させていただく」という意味で、「死」と向き合っていました。明らかに矛盾です。貴重であるはずの自分の生命を、自ら返上しようなど、とても道理が通っているとは思えません。しかし、当時の私にとって、そう思えても仕方がないことが、多々あったことも事実ですし、今振り返ってみても、そうせざるを得なかったと思っています。

ところで私は、この経験を通じて、実に多くのことに気付かされました。そのうちのひとつは、人間が「死ぬ!」などと叫んだり、実際に死んでやるなどと思えているうちは、まだ生きるのに必要なエネルギーがきちんと残っているということです。

以前、製薬会社に勤めていた友人から、「抗うつ剤は危ない」という話を聞いたことがあります。もちろん、処方の仕方にもよるのでしょうが、彼が言わんとしたことは、本当にどん底にいる人に対して、抗うつ剤を投与してしまうと、自殺できるだけの力が回復してしまい、実際に死んでしまったりすることがあるというのです。

この話を聞いた当時、私は「そんなものだろうか」と聞き流していましたが、これは、私が身を持って体験したことであり、今では十分にあり得る話だと思います。

「この世から失礼させていただく」と本気で思ってはいても、それは最終的な結果が確定したときでないといけません。結果が確定したときというのは、可能性が途絶え、完全に絶望したときであって、その時点ではじめて「この世から失礼させていただく」ことができるということです。

1年前の今日、ある非常に大切なことについて、いよいよ可能性がなくなってきたと思っていた私は、昼頃からだんだん体に力が入らない状態になっていました。歩こうと思ってもままならず、かろうじて交互に足を前に運ぶことの連続で、少しずつ前に進めるといった状態です。何となく予感はしていましたが、昼過ぎになって、ある電話を受けたことで、いよいよ最終的な結果が確定しました。その瞬間、私はもうどうすることもできぬほど、絶望のなかにありました。

「この世から失礼させていただく」

そう思っていたはずでした。最終的な結果が確定したのだから、当初、考えていたとおり、プランを実行に移せばいいだけのはずです。しかしその時点で、私にはもう身動きするエネルギーが、一切残されていませんでした。ただ、ベンチにうなだれたまま、何もできないでいる自分がいるのです。もはや「自殺」どころではありません。立ち上がることもできぬほど、まったく力が残されていないのです。

-うん?なんで生きてるんだ?-
-死ぬべきなのに、死ぬことすらできないのか?-

ただひたすら、こんな言葉が、頭のなかを巡りました。しかし、こんな状態が長く続くこともありませんでした。きちんとは分かりませんが、時間にして1分もなかったように思います。

-うん?死ねないなら生きるしかないぞ-
-あれ?生きるなら、まずこうすればいいのでは?-
-しまった!こうしなければいけなかったんだっ!-

結局、甘えていた自分に気付いたのです。そして、その瞬間から自分がやるべきことが、はっきりと見えました。それ以降、今日に至るまでの1年間、そのときのイメージ通りに生きてきているように思います。そのイメージとは今日、そして明日を生きる私にとってのビジョンであり、表層意識のレベルで「死」と向き合い続けた結果、得られたものだと考えます。

これこそが、冒頭に述べたように、「死」と向き合うことで、強い「生」を得る、あるいは「生」の重みを知るということです。「生」を知りたくば「死」を知り、「死」を知りたくば「生」を知れ、といったところでしょうか。なかなか、面白いものだと思います。

《おまけ》
最近の殺人事件で、世の中に絶望したり、それに関連して自分が死にたかったからというような動機を聞くことがあります。私は、本記事で書いた自らの体験から、そうした人々の心境もわかるような気がしています。もちろん、他人を殺めるなど、絶対に許されることではありません。ただ、今の世の中には、そうした犯罪には手を染めていなくても、非常に多くの人々がそういう心境や境遇にあるのではないかと考えます。そういう方々に、伝えるべきことがあるとするならば、以下のとおりです。

「他人を殺めようとか、自分を殺してしまおうとか考えているうちは、まだまだ生きる力があると思ってください。絶望しているのなら、とことん絶望して、本当に死ぬしかないと思えるところまで行った方がいいかもしれません。本当に死ぬしかないときというのは、生きる力がまったく残されていない状態です。そのときは他人にしろ、自分にしろ、殺すことなんてできないはずです。そうしたら、今まで見えていなかった、新しい生きる道が見えてくるかもしれません。手を差し伸べてくれる人もいるかもしれません。自分に負けず、生きる希望と努力を忘れずに、本当のギリギリまで行ってみることも大切だと思います。」

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実現した「夢の競演」

2008年11月08日 | ヒーロー&アニメ

視聴者として願う「夢の競演」」という記事のなかで、歴代プリキュアが一斉に出てくるストーリーが見たいという内容を書きました。プリキュアシリーズは、大きく3つのタイトル(正確には5つ)から成り立っており、それぞれがバラバラのストーリーとして独立しているため、同じ「プリキュア」という名前を冠しながら、互いのキャラクターが関係し合うということがありません。初期のウルトラマンや仮面ライダーシリーズであれば、違うシリーズの主人公同士が助け合ったりするのは、至って当たり前のことです。しかし、プリキュアシリーズでは、これまでそうしたことが全くありませんでした。

ところで今日、プリキュアの新しい映画「Yes!プリキュア5GoGo!お菓子の国のハッピーバースディ」の初日でした。初日から行くのもどうかと思いつつ、思い切って行ってきました。そしてまず、映画館のチケット売り場でもらったカードで、少々上機嫌になっていました。カードのタイトルは「プリキュアオールスターズ」。歴代プリキュアのキャラクターがズラリと並んでいます。一堂に会することがないメンバーが、勢揃いしている姿は圧巻です。

-おぉ、画風が微妙ながら、なかなかいいのでは!?-

しかし今回は、もっと嬉しいことに、映画本編の前に「ちょ~短編プリキュアオールスターズ」なる短編フィルムの上映があったのです。そこには、極めて短い時間ながら、私が願っていたプリキュアの「夢の競演」がありました。戦闘シーンにおける、プリキュアのアクション部分は、そのほとんどが既に何度も見たものではありましたが、それでも「夢の競演」は、やっぱりいいものだと思いました。とても「スペシャル」な感じがするのです。

ちなみに、歴代プリキュアのなかで、私が好きなのはキュアイーグレットの舞です。もちろん、他のキャラクターもそれぞれ個性があって大好きなのですが、そのなかでも一番隙がないというか、完璧に見えてしまうのです。容姿、性格ともに「出来すぎた子」という印象です。

逆に、隙だらけで、共感を覚えてしまうのが、ネット上で「バカピンク」とか「アホの子」とまで言われてしまうキュアドリームののぞみです。彼女の場合は、その「バカっぷり」が何にも勝る、愛すべき魅力のような気がします。過去のシリーズでは、割と能天気で、底抜けに明るいキャラクターとして、なぎさや咲がいますが、それでものぞみのように「頭のなか空っぽ」的な印象は、なかったように思います。その点、のぞみはピカイチです。私が、そんなのぞみに共感を覚えてしまうのは、自分自身を「頭のなかは空っぽ、何も考えていない」人間だと感じている(「考える前に感じること」参照)ことに起因しているようにも思います。

それにしても、この「夢の競演」に関しては、さらなる良い知らせがありました。なんと来春には、きちんと長編で「プリキュアオールスターズ」が上映されるというのです。是非とも、それぞれのキャラクターを活かしたストーリーで、良い作品を作っていただければと思います。

率直に言って、テレビで見られるような「変身シーン」や、「キュアフルーレ」のような武器やらのシーンは、適当にしていただいて構わないと思います。とくに最近のプリキュアは、メンバーが5人(ミルクを入れたら6人)になっており、変身シーンと必殺技のシーンだけでも結構な時間になってしまっています。こうしたシーンに時間を割いてしまうことで、スポンサー商品の露出が増える反面、ストーリーが軽薄になっていくリスクを抱えてしまいます。実際、最近のプリキュアに比べて、「ふたりはプリキュア」(Max Heart、Splash Starを含む)時代の方が、物語が重厚だったようにも感じます。

そうした諸々の心配事はありながらも、来春の映画では、これまでのテレビでは味わえなかった「スペシャル」感を与えていただきたいと切に願いますし、また一人のプリキュアファンとして、それを楽しみにしたいと思います。

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頭のなかに広がる宇宙

2008年11月03日 | 自分

私の頭のなかが、どうなっているかという質問に対しては、「空っぽ、何も考えていません」と「宇宙が広がっています」という二つの答えがあり、そのうち、前者については、既に別の記事で書いているとおりです(「考える前に感じること」参照)。「空っぽ、何も考えていません」と答える理由としては、感じることに集中しているからということが挙げられます。ただ、誤解があってはいけないので、付け加えておきますが、ただ感じるだけで終わらせてしまっているわけではありません。

感じたものに対しては、そこに思考を働かせ、論理的な裏付けを探してみたり、解釈を加えたりします。その過程で、後者の答えである「宇宙が広がっています」というイメージに繋がっていきます。

感性というのは、非常に大切ではありますが、少なくとも私の場合、ただそれだけを強く信じることはできません。新しい何かを感じたとき、そこに思考を働かせ、それが論理的に説明できるのか、あるいは他の場面で感じたことを論理化したときにできた法則と合致しているのか等の検証を行い、それらがクリアされたときに、その新たに感じたことを強く信じられるようになるのです。この積み重ねによって、自分の感性は、強く信じられる対象になっていきます。

そのような検証の積み重ねの結果、いくつかの強い法則が生まれてきます。それらの法則のいくつかは、非常に普遍的な「大原則」であり、ほとんどの事象が説明できる類のものとなります。

こうした「大原則」ができあがると、ひとつの事象について思考を働かせたとき、それはそうした「大原則」によって、いちいち説明することができるようになります。そしてまた、その事象は、そうした「大原則」で説明できる他のほとんどの事象とも、「大原則」を通じて関係性を持つことになります。ここで言う「他のほとんどの事象」とは、普遍的な「大原則」で説明できる類のものであり、極めて多数に及びます。したがって、ひとつの事象は、そうした「大原則」はもちろん、他の極めて多岐に渡る事象を通じても、間接的に説明することが可能になります(これは、本ブログの記事で、ときどき他の記事を「参照」させていることとも通じます)。

これをイメージにすると、右図のようになります。ひとつひとつの事象は、それぞれ独立して存在しますが、それらは数多くの事象と関わり合いを持ちながら、それが無数に広がっていくようなイメージです。

もう少し、分かりやすい例を挙げたいと思います。

本ブログでは、便宜上、いくつかのカテゴリーで記事を整理していますが、それらはすべて繋がっています。「政治」、「教育」、「社会」、「産業」で書かれていることの相互の結びつきは言うに及ばず、それらは「人生」や「宗教」とも強く結びついており、さらに「科学」や「武術」、「日本」といったカテゴリーの記事とも深い関係性を持っているのです。それに留まらず、「異次元」という一見得体の知れないカテゴリーの記事や、「ヒーロー&アニメ」という他愛もなさそうな内容とも、非常に密接に関係しています。それらの記事の関係性を整理するだけでも、多少、図のようなイメージに近くなるだろうと思います。

そうしたイメージが、私の頭のなかには広がっています。冒頭にある「宇宙が広がっています」というのは、そのイメージを「宇宙」と表現したものです。そのイメージを「宇宙」と呼ぶのには、他に適切な表現が見つからないという消極的な理由もありますが、積極的な理由を挙げるとするならば、そのイメージが、無秩序に展開されているわけではなく「大原則」に基づいて生み出されているものであり、それがあたかも「宇宙」が「自然の摂理」によって生まれ、成長しているように感じるからと言えると思います。

そして、私のイメージは、今日も成長を続けています。日常的に見聞きしているものは、非常に細かく、くだらないものに至るまで、「大原則」のチェックを受け、他の事象との関係性のなかで整理され、自動的にそのイメージのなかに組み込まれつつ、そのイメージ全体を広げていくのです。

これが、私の頭のなかに広がる「宇宙」です。

ところで、これに関連して、もうひとつ重要だと思うことがあります。それは、人間は誰しも、それぞれの宇宙を持っているということです。気付くか、気付かないかはその人次第でしょうが、深く考えること以上に、きちんと感性を磨くことができたなら、きっとそれは「宇宙」となって、その人の頭のなかに広がっていくようになると思うのです。

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ツンデレに見る世界

2008年11月02日 | 人生

そもそも、ツンデレとは何かという説明が必要かもしれません。

ツンデレとは、いわゆる「萌え」のひとつの代表的な構成要素であると言えます。例えば、あるアニメの女の子キャラクターが、好きな人に対して「ツンツン」とした冷たい態度をとってみたり、「デレデレ」と甘えてみたりということを指して、「ツンデレ」と表現するわけです。そうしたツンデレなキャラクターがウケタこともあり、秋葉原のような場所を中心に、メイドカフェと組み合わさったツンデレカフェなるものがあると言います。私は行ったことがありませんし、詳しくもないので、この説明はいたしませんが、いずれにせよツンデレとは、愛情の表現として、大きく矛盾した態度をとることを指していると言えるでしょう。

ところで、このツンデレは、ごく自然のことであると思います。それは、人間という存在が矛盾した行動をとる(「大きな矛盾を抱えるべし」参照)ことを宿命づけられており、「好き」とか、「愛している」という表現自体が、矛盾したかたちで表出するということは、極めて当然であると言えるからです。とくに深く大きな愛情を持てば持つほど、ツンデレは激しくなるはずです。

アニメキャラクターが、そうしたツンデレを通じて見せてくれるのは、その世界における純粋な愛です。ある女の子が、男の子にとるツンデレは、真にその男の子を愛しているからこそ成立するのであり、また信じているからこそ成せる態度なのだろうと思います。現実世界に希望を失いかけている男子は、こうしたツンデレを通じて、「あんな純粋な女の子がいたら、かわいいはずだ」と思ったり、「自分もあのように愛されたい」と願うのでしょう。この心境は、十分理解し得ますし、またそれが、ツンデレがウケル理由だとも思います。もちろん「愛されたい」と思うなら、その前に自分自身が愛されるに値する人間になるように、日頃から努力するということの重要性は言うに及びません。したがって、自分自身が一所懸命生きている、頑張って自己を高めているという努力をしているのであれば、そうした人々が、ツンデレキャラクターに憧れるくらいは、きちんと認められるべきだとは思います。

ところで、このツンデレは、何もアニメの世界だけではありません。具体的な表出形態や程度の差はあれ、現実世界の愛情表現についても、その多くがツンデレによって成り立っていると言えると思います。単純に言えば「深く包み込む愛」、「厳しく突き放す愛」のどちらも愛であることに変わりなく、その奥にあるものは、等しく相手を思う心から発するものなのです。その二つの間にあるものは、状況や立場の違いであり、それによって愛情の表現が変わるということです。

とくにツンデレのうち、「デレ」は分かりやすいでしょう。「デレ」のときというのは、その人に甘えたり、その人を甘えさせたりしているのであり、「愛している」とか「信じている」とかいう感情を表層意識のレベルで、分かりやすいかたちに表現していると言えます。

一方の「ツン」は、なかなか分かりにくいものです。そもそも「ツン」というのは、その人が「愛している」、「信じている」、あるいはその人に「愛されている」、「信じてもらえている」ということを認識することが難しい状態です。場合によっては「嫌っている」、「嫌われている」と受け取られるような態度になってしまうのが、「ツン」であるわけです。

この「ツン」を愛情の一表現であると感じるためには、「ツン」をしている側にも、されている側にも、人間として一定の成熟度が必要になります。それは、互いが「ツン」にならざるを得ない状況があることを認め、そのなかで双方において「ツン」を受け入れるという度量、あるいは勇気が必要であるとも言えます。

宗教を例に挙げて、説明したいと思います。

宗教というものは、困窮した人々を救済するという意味から、「デレ」の側面を強く有します。前述のとおり、「デレ」から愛を連想することは、容易いと言えます。しかし一方で、救済が完了し、もはやそれがなくても生きている人々に対してまで、「デレ」であり続けるということは、その人を甘やかせてしまい、結果として、その人を堕落させてしまうことに繋がります。こうした局面においては、突き放す愛たる「ツン」が必要なのです(「外れない補助輪と外す努力」参照)。しかし、突き放すには勇気が必要になりますし、それを受け止める側にも、それが愛であると理解する度量が求められるということです。これを換言すれば、「ツン」を愛と認めるためには、人間として成熟していることが必要だということなのです。

このことを、もう少し踏み込んだかたちで捉えると、「嫌い」も愛情の一形態であることを理解できるかもしれません。もし「嫌い」を愛情ではなく、単なる「嫌い」という感情でしか受け止められていないとしたら、それは「嫌い」と感じている人が、自分自身の人間としての成熟度を疑う必要性があるということにも繋がります(「他人は自分の鏡」参照)。

「好き」も「嫌い」も、愛情と捉えられるかどうかは、その感情を抱く本人次第です。そして、そうした感情を乗り越えることこそが、成熟した人間への道のりであり、生きていく意味になるのではないかと思います(「感情の主人たれ」参照)。

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考える前に感じること

2008年11月01日 | 自分

「あなたの頭のなか、どうなっているのか見てみたいよ」

私がいろいろな話をしているなかで、時折、こんなことを言われることがあります。この答えは、極めてシンプルです。

-空っぽ、何も考えていません-
(もうひとつの答えとして、「宇宙が広がっています」というのもありますが、どちらも同じ意味です。それは相矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、コインの表裏のようなものだと考えていただければいいと思います。詳しくは、「頭のなかに広がる宇宙」を参照してください)

このブログで書いていることを含めて、私は深く考えているわけではありません。学生時代、よく友人から「お前は何も考えていない」と言われることがありました。実際に、そのとおりでしたし、何も考えていないことに対して、負い目を感じることも多かったように記憶しています。

今は、感じるのです。別の言い方をすると、気付くということになるのかもしれません。悟るという表現もあるかと思います。

言葉とは、そうした感じたことを、分かりやすく表現する道具です。私が書く文章のなかに、「考える」、「思う」という言葉が使われはしますが、実際には「考える」、「思う」ということにエネルギーを使っている感覚はなく、むしろ普段は、きちんと感性が働くようにリラックスできるための環境づくりに、エネルギーを使っているような気がします。これは普段、たくさんのアニメを見たり、単に遊んで過ごしているということとも、大きく関係しているかもしれません。

ちなみに、このブログでは「異次元」というカテゴリーを用意していますが、この異次元についても、感じることが多々あります。そのうちのひとつが、「三次元に存在する自分以前に、四次元に存在する自分を感じる」というものです。これなどは、読み取る側にどのような印象を与えるのか分かりませんし、ちょっとした精神異常に見られるのかもしれません。しかし、自分の感性がそのように働いてしまう以上、どうしようもありません。

つまりは、この三次元世界に存在する自分は、単に四次元世界に存在する自分の延長線上にあるだけであり、所詮、四次元の自分が物質化したものだという感覚です。こんなことを深く考えて、考察して「そうであるらしい」などと、大真面目に書くのは、少々馬鹿げているとすら思います。したがって、こうしたことを深く考えたり、思ったりはしません。

ただ一方で、感性は留まるところを知りません。例えば、哲学的な表現で「肉体は魂の牢獄」などというものがあります。これなど、私が感じている三次元の自分と四次元のそれとの関係性を、分かりやすく表現したものだと強く感じます。せっかく自由でいられるはずの四次元の自分(魂)が、三次元の自分(肉体)として存在してしまったことで、いろいろと不便になってしまった(牢獄に入った)という感覚です。

しかしそれと同時に、その関係性をネガティブに「牢獄」と表現するよりも、「肉体は魂を表現する道具」といったかたちで、もう少しポジティブな言い方をした方がいいのではないかと思ったりもします。

そして正直、そういう感性をもってでないと、このブログに書かれているような内容は生まれてこなかったとも思います。例えば「創造主の正体とは何か?」、「カオスとは何か?」等については、考えれば考えるほど、答えが遠ざかっていくように感覚があります(「カオス世界の読み取り方」、「「創造主」の正体」等参照)。

いずれにせよ、これらはもはや私の感性の問題なので、これをもって何かを議論するという必要はないでしょう。人の思考法はそれぞれですし、感性にしても人によって異なるのが当たり前です。ただ時々、私が生活をするなかで、冒頭のような質問を受けることがあるので、ここで簡単にでも、書いておこうと思ったのでした。

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