常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

国民に導きを与える政治家

2011年12月30日 | 歌詞&台詞

政治家の方々の言に、時折、違和感を覚えることがあります。それは、政治家の方々こそが、日本という国を変えていくかのような、あるいは救っていくかのような発言に対してです。日本という国は、国民ひとりひとりのものであり、自分たちが変えていく、あるいは救っていく国でなければなりません。政治家の方々が、頑張られるのは結構なことですが、国家のありようというのは、本質的に国民ひとりひとりにかかっているものであり、政治家は、そのお手伝いとみなすこともできるように思います。逆に、あまり政治家の方々ばかりが気張ってしまうと、国民ひとりひとりの責任感が薄れ、かえって国をダメにすることにも繋がりかねません。

そういう意味で、政治家は、ただ国家を変えたり、国民を救ったりというのではなく、自らが一国民としての手本を示すという存在であってもいいのではないかと思うのです。以下、「Fate/Zero」での台詞回しを聞いて、あらためてそう思いました。

=======================
《セイバー》
私はわが故郷の救済を願う。(中略)ブリテンの滅びの運命を変える。

《ライダー》
なぁ、騎士王。貴様、今、運命を変えると言ったか?それは過去の歴史を覆すということか。(中略)貴様、よりにもよって、自らが歴史に刻んだ行いを否定するというのか。

《セイバー》
そうとも。(中略)王たる者ならば、身を挺して治める国の繁栄を願うはず。

《ライダー》
いいや、違う。(中略)自らの治世を、その結末を悔やむ王がいるとしたら、それはただの暗君だ。(中略)余の決断、余に付き従った臣下たちの生き様の果てにたどり着いた結末であるならば、その滅びは必定だ。(中略)けっして悔やみはしない。ましてそれを覆すなど、そんな愚行は余とともに時代を築いた全ての人間に対する侮辱である。

   (中略)

《セイバー》
力なき者を守らずしてどうする。正しき統制、正しき治世。それこそが王の本懐だろう。

  (中略)

《ライダー》
ただ救われただけの連中が、どういう末路をたどったか。それを知らぬ貴様ではあるまい。貴様は臣下を救うばかりで、導くことをしなかった。王の欲のかたちを示すこともなく、道を見失った臣下を捨ておき、ただ一人ですまし顔のまま、こぎれいな理想とやらを思い焦がれていただけよ。
=======================

以上の台詞、私なりに「王」を「政治家」と読み替えて、国家のありようなるものを考えてみました。

政治家が、政治家の本分として、自ら与えられた職務を全うすべきであることは言うに及びません。しかし、その職務たるものは、ただ国民を救う、国民の生活を改善することではないでしょう。国民自身が、いかにこの国を良くしていくべきか、その道と手本を示し、導いていくことこそが、これからの時代において、真に求められることなのではないかと思うのです。

国民にもいろいろといるはずです。自らの至らぬ点を認め、それを他人のせいにせず、ただひたすら懸命に生きようとする国民と、自分で歩く力があるにもかかわらず、責任を他人になすりつけ、自らの足でまともに歩こうともしない国民・・・これらを一緒くたに救おうといのが、土台、無理な話です。前者は救う必要があるとしても、後者はそれに値しないとも言えます。そういう意味で、新しい時代の政治家の姿勢を考える上で、上記のような台詞回しに、大きなヒントがあるように思うのでした。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父親としての生き様

2011年11月10日 | 歌詞&台詞

真剣で私に恋しなさい!!」を見ていたら、少々、共感する台詞回しがありました。

===========================
■直江大和
父さんは日本を捨てたんだよ。

(中略)

この国は腐りきった政治家が食い物にした腐りきった国なんだってさ。国と癒着してる大企業もやりたい放題。何も知らない庶民は馬鹿を見るばかり。父さんが見限ったのもよく分かるよ。

■謎の男
そうか、残念だな。あいつも負け犬に成り下がったか。直江ももうちっとは根性あると思っていたが、尻尾巻いて逃げちまうとは情けねえ。

■直江大和
逃げたんじゃない。父さんはこの国を捨てたんだ。

■謎の男
同じことだろう。
===========================

この部分、100%謎の男に同意です。

どんなにカッコイイことを言ったところで、「国を捨てた」というのは、逃げたと一緒でしょう。真に強さを備えた者ならば、どんなに腐りきっていようが、どんなに絶望的な状況だろうが、その国に留まって困難に立ち向かっていくはずです。大和の父親は、幾分知恵が働き、自分のことを「何も知らない庶民」ではないと思っているのでしょう。そして、確かに賢い人なのかもしれません。しかし、困難に立ち向かうことができない中途半端な知恵者など、所詮、三流と言わざるを得ません。

自分も子を持つ父親として、自分の子供に、このような言葉を言わしめるような情けない親にはなるまいと肝に銘じておきたいと思います。

さらに会話は続きます。

===========================
■謎の男
分かっちゃねえな。あいつが馬鹿にしたのはよ、直江大和、お前自身だぜ。お前、大事な人はいるか?

(中略)

大事な人が集まって家族。家族が集まって町。町が集まって、集まって、そんで国だ!国ってのは、そんな大事な人の集まりだ。お前の親父はよ、その大事な人を捨てたんだよ。

■直江大和
違う!親父が捨てたのは腐った連中だ。

■謎の男
その腐った連中を選んだのも国民だ。
===========================

国の定義、まさにその通りです。そして、国を捨てたということは、その国に住んでいる子供や子供にとっての大事な人たちをも捨てたことになるという点、極めて的確な指摘だと思います。「父親は背中で語る」などと言いますが、父親がこんな生き様であるが故に、息子もこの程度のことしか言えないのだろうという感じがしてなりません。

私は、自分なりに子供たちのための社会を作っていこうと考えています(「子供たちへのバトンタッチ」等参照)。それを子供たちに理解してもらおうとか、そういうことではありません。ただ少なくとも、この物語に出ているように、自分の子供たちから「父はこの国を捨てた」などと言われぬよう、子供たちが住む国、あるいは世界を守っていくという父親としての責務は、きちんと果たしていきたいと思います。

人生は多くのものを背負ってこそ、厚みや重みが増すものだと考えます。それが良い悪いの話ではないですが、私なりに多くのものを背負った方が、より豊かな人生になるのではないかと思えてなりません(「過去への感謝、未来の創造」参照)。私はより豊かな人生を求めて進んでいきたいと思います。そのことは、自分自身のためでもあり、同時に子供たちに父親としての生き様を示すためでもあります。

生き様などというのは、100人いれば100通りのそれがあるのでしょうから、何が正しいなどという言い方をするつもりはありません。ただ、こうした台詞を通じて、子供から見た父親像なるものを考えさせられた時、少なくとも、自分は常に子供たちに対して、堂々と胸を張っていられる生き方をしてきたいと思うし、世界中の他の父親たちにもそうあって欲しいと願うのでした。

世のパパたち、ファイトです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タイムトラベラーはいてもいい

2011年07月13日 | 歌詞&台詞

先日、「戦国乙女~桃色パラドックス~」に、こんな台詞がありました。

=========================
■伊達
私たちは、あなた方にとって、遠い未来の世界からやってきたものなのです。

□信長
未来じゃと?

■伊達
ええ、でもより正しく言うと、時空連続体の時間軸的にははるか未来ですが、多世界解釈論的には、複数の異なる次元の事象平面を横断する形で、もっとも波動関数が・・・

□信長
つまりお前たちは別の国からまいったということか?
=========================

ここで言われている時間移動の話、何となく分かる気がしています。

私は、かねがねこの宇宙なるものが唯一絶対のものではなく、多世界解釈論のようなものを積極的に受け入れ、その外に広がる無数の別世界(あるいは別宇宙)の存在を認めていくことが、これからの科学において必要なのではないかと考えています(「「五次元世界へのヒント」、「多世界解釈の不思議」等参照)。上記、「戦国乙女~桃色パラドックス~」に出てきた台詞は、時間の移動を、多世界解釈論に基づく他世界(他宇宙)への移動と捉えたのだろうと解し得ます。

時間というのは、本来、不可逆的なものであり、これを遡ることはできません。しかし、時空という言葉が示すとおり、時間と空間はセットで存在します。それはつまり、多世界解釈論的な意味での他世界(あるいは他宇宙)にまたがって移動することができれば、結果として、(あくまでも他の世界ではあるけれども)時間を遡ることが可能になるということを指すのだと思われます。

同様の観点から、「Steins;Gate」の第2話に出てきた台詞も、実に興味深いです。

=========================
タイムマシンはセルンによって独占されています。一般人も企業も手に入れることはできません。彼らは自身の利益のためだけに用いて、世界にディストピアをもたらしました。私は、未来を変えるためにやってきました。セルンによって作られたディストピアを破壊し、再び自由を手にするためです。

(中略)

過去の自分に会うことも可能です。その場合、世界線が移動します。まず時間は、過去から未来へと流れる一本の線ではありません。世界線という無数に並行に流れる川のようなもので形成されています。例えば、あなたが今日通り魔に殺されるとします。それを未来からきた私が防いだとすれば、あなたが殺された世界と生き延びた世界に世界は分岐するというわけです。
=========================

このアニメでは、「世界線」という概念が登場しますが、時空の考え方自体は、「戦国乙女~桃色パラドックス~」のものと同じでしょう。時間を越えるということは、空間を越える(つまり、別の世界に移動する)ということと、深く関係していると言えると思うのです。

私なりには、多世界解釈論的な無数の世界が存在しているとして、それらが互いに干渉しているのではないかという仮説を置いています。それは、ブラックホールなどの切り口から、いずれ明らかになっていくことでしょう(「宇宙が膨張を続けるカラクリ」参照)。そして私は、そういう意味で、無数の世界間をまたがって移動する行為は、けっして不可能ではなく、その結果としてのタイムトラベルもあり得るのではないかと考えます。

ところで、仮にタイムトラベルが可能だとして、「Steins;Gate」に登場するような(悪の?)組織が、そのメリットを独占するような事態に、どう対処すべきかという問題が懸念されるかもしれません。同作品での「セルン」は「SERNと」表記されていますが、実際、「CERN」という研究機関は実在していますし、そこではブラックホールなどの研究がされていることも事実です。

ただし、この点について、もし心配するような人がいるとしたら、杞憂だろうと言っておきたいと思います。

以下、そう考える根拠について、簡単に触れておきます。

我々が視認している三次元空間・宇宙(上図で言うところの「我々全員が認識している宇宙)は、他の宇宙からの干渉を受けながらも、その干渉レベルが極めて低いものであると考えられます。それは、この宇宙が、そこに生きている全生命体が思い描く、最大公約数的なイメージの結果として、存在していると考えられるからです(交差点としてのこの宇宙」参照)。別の言い方をすると、この宇宙では、特定の人々だけに都合がいい超常現象は起こらないということです。

しかし、「Steins;Gate」にあるような、一部の人々だけがタイムトラベルできるという世界は、あくまでも彼らの想いであって、全生命体の最大公約数的なイメージからは外れてしまいます。つまり、もし一部の特定の人々が、タイムトラベルをすることになったとしても、それは上図で言う「我々全員が認識している宇宙」ではない(彼らだけが望む)宇宙間で、勝手にタイムトラベルしているだけということになるのです。

私は、この宇宙を唯一絶対のものとは考えていませんが、それでもこの宇宙に生きている存在であり、ここでどう生きるかが最も大切なことだと考えています。そして、この宇宙が他の全生命体が望むかたちとして成り立っているならば、ここが一部の特定な人々のタイムトラベルの影響を受けて、乱されるということはないと思うのです。

そういう意味で、「タイムトラベルはご勝手に」と思います。タイムトラベラーはいてもらって構わないし、好きなだけタイムトラベルをすればいいだろうと考えます。ただし、タイムトラベルをした先は、きっと「我々全員が認識している宇宙」とは、違う宇宙になっていると思うのです。

いずれにしても、こうしたことを考えさせてくれるアニメなるもの、いつものことがら、なかなか大したものだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇宙消滅をかけた戦い

2010年12月01日 | 歌詞&台詞

とある人に薦められて、「ぼくらの」を見ました。このアニメ、昔、インターネットラジオでメレ様・平田裕香さんがおススメしていたこともある作品だったので、一度、見てみたいと思っていました。作品全体を通じて、宇宙とは何か、生きるとは何か、戦うとは何かというメッセージが込められていたように思います。

特に13話に出てきたコエムシの台詞は、とても印象的だったので、以下、抜粋しておきます。

=====================
宇宙が無限で無数の星が存在するのと同様に
時間と空間を越えた場所
つまり無数の時空も存在する
その時空のひとつひとつには、
おまえたちのと同じ地球も存在するってわけさ

(中略)

平行世界って言ったほうがしっくりくるかもな

(中略)

テメエらが負けるとテメエらの地球が消滅する
つまりなかったことになる
だが、それだけじゃねえ
テメエらの地球の時空に囚われている
宇宙全体が消滅するのさ

(中略)

よその宇宙を消し去ってお前らはここに生きてんだ
強いものだけが生き残る
それがこの宇宙のルールさ
=====================

この抜粋の前半部分は、いわゆる科学の分野で言われるところの「多世界解釈」と見なせばよいでしょう。つまり、私たちが同時に認識できないだけで、実は無数の時空なるものが存在しており、その無数の時空には、私たちが住んでいる地球もあるわけです。このことは、たとえ突飛な話に聞こえたとしても、現代科学の見地から考えて、何も辻褄が合わない話ではなく、むしろ、現代科学が解明できない謎について、こう考えた方がスッキリすると考える人々がいるのです(「優等生なアインシュタイン」、「揺らめく現実世界」等参照)。

私としては、物語のテーマとして、これを持ってくるあたり、とても興味深いアニメだと思いました。

さらに、上記抜粋の後半部分は、これからの戦いを考えるという点で、誠に意味深い内容を含んでいるように思います。「負けると宇宙全体が消滅する」というのは、宇宙と人間の関係を考える上で、とても重要なメッセージが込められていると思うのです。

私の解釈は、以下のような思考を通じて行われています。

1.人間は一人一人の四次元世界(精神世界)を持っている
※「確からしい四次元の存在」参照

人間に限らず、あらゆる生命体はそれぞれ精神世界を持っているであろうと考えられます。これは私たちが視認できる物質世界(三次元の空間世界、あるいは宇宙)の上の次元として存在すると思われます。

2.各四次元世界は無数の三次元世界(宇宙)を内包している

三次元世界(空間)の中に、無数の二次元世界(平面)が存在しているのと同様に、一人一人が持つ四次元世界には、無数の三次元世界(宇宙)が存在するであろうと考えられます。それは、四次元世界的(精神世界的)作用である妄想や夢、単なるイマジネーションのようなもので形成が可能と考えることができます。

3.無数の宇宙は各人の精神葛藤の末、淘汰されている
※「四次元戦争の時代」参照

人間はいろいろな妄想や夢を見たり、多くの葛藤を重ねながら、無数の可能性(無数の宇宙)の中から一つを選択していきます。この時、選ばれなかった可能性、つまり捨てられた三次元世界(宇宙)があることになり、これが「他宇宙の消滅」を意味し、「よその宇宙を消し去ってお前らはここに生きてんだ」の台詞に繋がってくるものと思われます。

4.この淘汰により、無数の宇宙は一つに収束してきている
※「宇宙が膨張を続けるカラクリ」参照

ただし、淘汰された宇宙は、単に消滅するのではなく、選択された宇宙に吸収されるものと考えることができます。即ち、夢が単なる「妄想」と化し、現実にならなかったものとして、選択された宇宙に吸収されるということです。これの繰り返しにより、宇宙は膨張を続けていきます。このことは、この宇宙自体が超巨大ホワイトホールであるという仮説を立てることにより、説明できるのではないかと思われます。

5.無数の四次元世界(個々の精神世界)は、五次元世界に存在する
※「五次元世界へのヒント」参照

魂を持つあらゆる生命体に、それぞれ精神世界(四次元世界)が存在するということは、即ち、この無数の四次元世界を存在させ得る、さらに高次元の世界があると考えなければなりません。そうすると、ここに五次元世界の存在を認めることになります。

6.全生命が等しく認識する宇宙は、各四次元世界の交点にある
※「交差点としてのこの宇宙」参照

ある一人の人間が視認している宇宙は、一人の四次元世界が収束した結果(「4」の結果物)ですが、さらにそれが他の人間や生命体にも視認されているということは、「この宇宙」がそれら無数の四次元世界の交差するところに存在していると言えます。

7.無数の四次元世界内の無数の三次元世界が一つに収束している

したがって現在、私たち全員が認識している、この三次元世界の収束は、単にひとつ(一人)の四次元世界(精神世界)のなかにおける無数の三次元世(宇宙)が収束しているのではなく、無数(全生命体)の四次元世界内の無数の三次元世界がひとつに収束していると解されるわけです。つまり、宇宙の膨張は、五次元世界のレベルで起こるほど、とてつもない規模で進行している可能性があるということです。

こうして解していくと、「ぼくらの」で語られる、宇宙消滅をかけた戦いというのは、本来、一人一人の精神世界における戦いであり、さらには共存する無数の生命体間での精神戦を指すのではないかと思うに至ります。そして、その結果として、この宇宙は膨張を続けるのであり、その戦いに敗れた宇宙は消滅し、勝利した宇宙に吸収されていくということになるわけです。

「ぼくらの」は、アニメ作品ですので、そうした精神戦を分かりやすく視覚化し、ロボット同士の戦いとしたように思います。この作品を、どのように解釈するかは、それこそ各人の自由でしょう。ただ、私なりには、そこに見えない四次元戦、五次元戦の姿があるような気がして、またそれが、非常に的確に宇宙の真理を突いている気がして、とても楽しく見ることができました。

《おまけ》
だから、みんな神様なんだってばさ!(「「創造主」の正体」、「「自分教」の薦め」等参照)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白い奴と黒い奴

2010年07月01日 | 歌詞&台詞

鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST」、いよいよ佳境に入ってきました。来週、ついに最終回です。そんな中、先日なかなか興味深い台詞のやり取りがありました。キャラの名前が分からないので、以下、「白い奴」と「黒い奴」でまとめさせていただきました(「黒い奴」は、フラスコの中の小人・ホムンクルスですね)。私なりに、これらはそれぞれ「神」と「悪魔」に置き換えて呼んでもよいのだろうと思っています。

=============================
■黒い奴
なぜだ?なぜ私の物にならん?
神よ、何が気に入らないのだ。

□白い奴
お前は己を信じないからだ。
他人の力を盗み、人から生まれたもののくせに神とやらにしがみついていただけだ。
お前自身が成長しておらん。
7つの欲を切り離せば、人を超えられるとでも思ったか?
笑わせるな。

■黒い奴
私は完全な存在になりたかった。
この世のすべてを知りたかった。
欲して何が悪い。望んで何が悪い。願い求めて何が悪い。
・・・何だ?何だ、お前は?何だっていうんだ?
何様のつもりだ、お前は?!

□白い奴
私は、お前たちが世界と呼ぶ存在。
あるいは宇宙。あるいは神。あるいは真理。あるいは善。あるいは一。
そして、私はお前だ。
思い上がらぬよう、正しい絶望を与えるのが真理。
(中略)
だから、お前にも絶望を与えよう。

■黒い奴
戻りたくない。嫌だ。
やめろ、そこに縛られ続けるのは嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。

□白い奴
思い上がった者に絶望を。

■黒い奴
私はどうすればよかったのだ。

□白い奴
お前が望んだ結末だ。

■黒い奴
どうすればよかったのだ。

□白い奴
お前はその答えを見ていただろうに。
=============================

特に、「欲して何が悪い。望んで何が悪い。願い求めて何が悪い」という部分、個人的には大好きです。

-悪いとは言わないが、身の丈に合わぬ物を欲した責任は取られよ-

やり取りを見ながら、思わず間に割って入って、こう答えたくなる自分がいました。

自分の馬鹿さ加減に気付かないのが、本当の馬鹿です。黒い奴、即ち悪魔は、自分の実力をわきまえず、分不相応な欲に支配された救いようのない「大馬鹿君」なわけです。「大馬鹿君」が大そうな物を欲すると、世界に大きな歪みが生じ、周りが大変な迷惑を被ります。「大馬鹿君」はそのことに対する責任、自分が「大馬鹿君」であることに気付けなかった責任をきっちりと取らなければなりません。酷ですが、それが摂理というものでしょう。

そして一方で、「大馬鹿君」ほど可愛いものもありません。

-お前はその答えを見ていただろうに-

「白い奴」からしてみれば、「黒い奴」が何度も答えを目の前にしていることを知っているわけです。それが分からない「大馬鹿君」は、ある意味、可愛くも見えるでしょう。しかし、そうかと言って、そのまま見逃してあげるほど甘くもありません。「大馬鹿君」には、それに相応しい罰が下ることになりますし、欲してしまった以上の代償を支払うことになるわけです。

世界を語るもよし、他者を批判するもよし、天才を気取るもよし・・・しかし、フラスコの中の小人は、所詮、それまでの存在です。それをわきまえることができない以上、きちんとフラスコの中に納まっていなければいけないということでしょう。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正しかったと思える生き方

2010年06月30日 | 歌詞&台詞

のだめカンタービレ フィナーレ」のエンディングテーマだった「風と丘のバラード」、私の大好きな曲です。先日、ある方とこの曲について話していたので、ちょっと思い出しました。その曲にはこんな歌詞があります。

====================
いま正しいかより 正しかったと思い出せるように
太陽の下 手を振って歩く
====================

このフレーズには、多くの人々にとっての「正しさ」を考える上で、非常に重要なヒントがあるように思います。

「正しさ」は多様であり、「人の数だけ正義がある」と言ったりします。そして、その通りだろうと思います。だからこそ、「何が正しいか分からない」と言う人もいるわけで、そういう人々の考えを否定するつもりは、毛頭ありません。むしろそれは、安直な正義を振りかざすような人よりも、ずっと真面目に自分の人生と向き合っている人かもしれないという意味で、きちんと評価されなければならないでしょう。

ただし、それだけではいけないだろうとも考えます(「交錯する正義と悪」参照)。「何が正しいか分からない」というのは、自らの言動の過ちを正さない言い訳にも使えてしまいます。人間には、何が正しいかを知らなくとも、何が正しいかを模索し続ける義務があるはずです。そして、何が正しいかが分からない人にとって、正しいことを実践するためのヒントは、この歌詞にあるのではないかと思うのです。

即ちそれは、この歌詞にあるように、せめて「正しかったと思い出せるように」行動することでしょう。今、正しいかどうかが分からなくても、あとから正しいと思えるのであれば、それはきっと正しいものになるはずです。

そして、この「正しかったと思い出せるように」生きるコツは、限りない可能性(最悪から最良までの極めて幅広い結果)をイメージした上で、絶対に後悔しないように生きることだと考えます。後悔しない生き方をしていれば、あとで振り返った人生は、最終的に「正しかったと思えるもの」になっているでしょう。このことは、果てなく流れる時間を味方にするということでもあります(「時間との付き合い方」参照)。

既に、「正しさ」の本質を理解している人がいるかもしれません。それはそれで、大変結構なことです。しかし、その逆が必ずしも悪いわけではありません。何が正しいのかが分からなければ、あとで正しかったと思えるような生き方をしてみてはどうかと思うのでした。

《おまけ》
逆に安直な正義を振りかざした人、「正しさ」を履き違えてしまった人は、あとで自分が間違っていたことについて、大いに思い知らされることになるでしょう。その際には、それに相応しい代償を支払うことになります。この場合の代償とは、本文で述べているような、イメージすべき「限りない可能性」の内、見落としていた最悪の結果(あるいは見て見ぬふりをした最悪の結果)になるような気がします。それは、昔からの言葉で「自業自得」と表されるものなのかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

預言者の振る舞い

2010年05月21日 | 歌詞&台詞

閃光のナイトレイド」を見ていたら、こんなやり取りがありました。

============================
《軍人》
あんたには見えているのか?この先の行方やこの国の進む道筋が。

《預言者》
(コクリ)

《軍人》
ならば答えよ。我々の成すべきことを。

《預言者》
それは聞いてはなりません。

(中略)

《軍人》
預言者は具体的には道を示さず、可能性を語るだけだと聞く。
============================

これは、大変興味深いやり取りです。

預言者を超能力者のように捉える人もいるかと思いますが、私は、必ずしもそうではないと考えます。預言者の能力というのは、本来、誰にでも備わっているものでしょう。つまり、無我や滅私の境地を経て、「神と呼べる存在」と一体化した者には、ビジョンが見えるということです。ここで言う「神と呼べる存在」について、「コードギアス 反逆のルルーシュR2」に登場するC.C.の言葉を借りるならば、「集合の意識、人の心と記憶の集合体、輪廻の海、大いなる意思、神と呼ぶものもいる」ということにでもなるのでしょう(「既にある結論」参照)。

いずれにせよ、預言者なる存在は、それほど特別なものではなく、自分を滅して全体に向けられた目を見開いている者であり、そうした大局を眺めているからこそ、未来を見通すことができるのだろうと考えます。

ただ一方で、世界の未来が、それを構成する一人一人の振る舞いによって決定するということも、またひとつの事実です。だからこそ、預言者は、その未来に対して無責任な断定をするのではなく、(たとえそれが見えていても)世界の構成員である人々の力こそが、それを決めるという意味も込めて、上記の通り、「具体的には道を示さず、可能性を語るだけ」ということになるのだろうと思うのです。

-具体的に言及しないのは、外れた時の予防線を張っているだけだ-

こう決めつけてしまうのも結構です。しかし、それは預言者の本質、世界の仕組みを理解していないだけかもしれない点、注意が必要です。

そうしたことを思いつつ、他者の具体的な言動に対して、「それは聞いてはなりません」と答えるあたり、これこそが本物の預言者の振る舞いだろうという気がするのでした。

《おまけ》
預言者とは、ビジョンが見えていても、ただ「言葉を預かる者」ということになります。一方で、たとえ預言者と言えども、世界の構成員の一人であり、能動的に動くことができる存在でもあります。このことを意識した預言者は、ビジョンを持ちつつも、能動的に動くことができる「リーダー」ということになるのだろうと考えます。私なりには、預言者も結構ですが、これからの世界では、どうせなら一人一人がビジョンを持って、能動的に動ける「リーダー」になるくらいが、ちょうどいいのではないかと思っています(「全員が真のリーダーたれ」参照)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「賢者の石」を使う覚悟

2010年04月05日 | 歌詞&台詞

鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST」に出てきた台詞に、生命を食らわねば生きていけない自分たちのあるべき心構えを感じました。

以下、絶体絶命の場面で、人間の命で生成された「賢者の石」を使うことを躊躇うアルフォンスに放たれた言葉です。

===========================
あぁ知ってる。こいつは人の命でできてるってんだろ?(中略)だったら、お前のためじゃなく、世界を守るために使ってやれ。こんな石ころになってるのに、まだ人の命として認めてるお前だから頼むんだ。(中略)どんな見てくれになったって、大事なものを守るために戦いたいんだよ。こいつらにも戦わせてやってくれ。
===========================

この言葉を聞いてふっ切れたアルフォンスは、「賢者の石」を使うことを決めました。私なりには、このことが私たちの食事のあり方と結びつくような気がするのです。

私たちは、生命の大切さについて語りますし、それを守るために生きています。しかし一方で、他の生命を犠牲にして食べていかなければ、自分の生命を保つことができないという矛盾を抱えています。ただ、その矛盾について、「賢者の石」を使うことを躊躇うアルフォンスのように躊躇するわけにはいきません。通常、私たちは、何か特別なことがない限り、毎日、「いただきます」と言って、そうした生命を口にしなければいけないのです。そして、それが宿命ならば、そうした生命を口にしながら生きながらえる自分の命を、自分のためだけではなく、世界を守るために使うことが求められて当然ではないかと思います。

少々、横道に逸れるかもしれませんが、人類は「霊長類」として分類されます。つまり、全ての霊の長たる存在なのです。その人類が、全ての生命についてきちんと思いを馳せ、他の生命たちのために生きるというのは、とても重要ではないかと思うのです。それと同時に、食事というのは、その人類が他の生命を犠牲にするのですから、それなりの覚悟を持って望むべきは、至極、当然だろうとも考えます。

そのように考えると、毎日の食事に出てくる「終わった生命」が、かたちを変えた「賢者の石」に見えてくるかもしれません。そして、それは大変に重いものであることも理解できるようになるでしょう(「「いただきます」の言い方」)。

そういう意味で、食事というのは、とても神聖なものなのだろうと思いますし、アルフォンスが「賢者の石」を使うときのような覚悟が必要なのではないかと思ったりするのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道具の効用と使う心

2010年03月01日 | 歌詞&台詞

トミカヒーロー レスキューファイアー」は、総じて良いです(「トミカヒーローの良い所」参照)。前回放送分の台詞回しも、なかなか気に入りました。

==========================
《子供1》
俺、絶対レスキューファイアーになる。それで、トライバッシャーで火炎魔人をコテンパにやっつけるんだ。

《子供2》
だな。俺も火炎魔人をぶっ飛ばしてやる。

《タツヤ》
あのね、ファイアースーツもビークルも魔人をやっつけるためにあるんじゃないんだ。

《子供2》
え?だって火炎魔人をやっつけてるじゃないか。

《タツヤ》
ファイアースーツとビークルは、超火災からみんなを守るためにあるんだ。分かる?

《子供1&2》
うーん・・・。

《先生》
どんなに素晴らしい道具でも、それを使う人の心が捻じ曲がってたら、恐ろしいものになってしまうのよ。魔人をやっつけるより、火災で困っている人たちを助けたい。そういう気持ちを持っているタツヤ君たちが使うから、スーツもビークルも頼もしい道具になるのよ。
==========================

もう当たり前すぎて、あまり論じる必要もないだろうと思います。物心両面から見ることの重要性、見えるもののみならず、見えないものを見ることの大切さが述べられているという解釈で良いでしょう。「魔人をやっつける」という目に見える表面ばかりに囚われていては、人々を助けたいと思う心が軽んじられ、主従違えた過ちを犯す危険性があるということです。

また、ここで言う「道具」とは、広く「力(権力、武力、金力等を含む)」に置き換えても良いだろうと思います。そういう意味で、今、力を持っている方々は、それらに溺れないよう十分に注意する必要があります。力には、「それを使う人の心が捻じ曲がっていたら、恐ろしいものになってしまう」だけではなく、そういう心で使ってしまった本人(国家を含む組織)を破滅に追い込むことにもなるからです。

まぁ、こういう方々は、言っても分からないことが多いので、どれだけ意味があるのかは分かりません。ただ一応、私なりに警告の意味を込めて述べておくのでした(例えば、電子レンジにしても、みんなの生活が豊かになるようにという心で、きちんと使え続けたらいいんですがね・・・)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノロティの優しさと力

2010年02月14日 | 歌詞&台詞

戦う司書 The Book of Bantorra」の第20話の冒頭、ノロティとエンリケのやり取りは、思わず書き留めてしまいたくなりました。

======================
<エンリケ>
ひとつ聞く。けっして敗北を認めず、命を狙ってくる敵がいるとしよう。お前は、その敵を殺すか否か。

<ノロティ>
殺しません。叩きのめして捕まえます。

<エンリケ>
生かしておいて、また戦いを挑んできたらどうする?

<ノロティ>
また、戦います。・・・エンリケさん、容赦ないんだから。戦って、また勝ちます。

<エンリケ>
なぜそこまで、殺すのを厭う?

<ノロティ>
うーん・・・。何というか、難しいなぁ・・・。誰に言っても分かってくれないんですよ。実は、この世界は私のものなんです。

<エンリケ>
何処から、何処まで?

<ノロティ>
全ての国と人と、海と山と街の全部です。あと、エンリケさんもです。・・・うん、私の世界なんですよ。エンリケさんが今、こうして一緒に生きているのも。
======================

はっきり言って、ノロティ自身の神宣言です。「この世界は私のものなんです」だって?!・・・惚れました。ノロティ、すごいです。これについては、おそらくこの物語のなかで、至高の存在である「楽園管理者(神の化身?)」の発言からも読み取れることと思います。

======================
思い返せば、奇妙な話だ。ハミュッツにマットアラスト、イレイアにユキゾナ。キラ星の如く実力者はいたが、誰も私を追い詰めはしなかった。彼らは結局、私の手の内から一歩も出ていない。ただ一人、ノロティ・マルチェだけが、私の想定の外に出た。不思議なことだよ。あの心優しいだけの少女が、最も私を追い詰めたのだ。
======================

まったくの同感です。ハミュッツ・メセタ、恐るるに足らずといったところでしょう。

ところで、この話の展開、どう考えてもノロティは死んでしまっています。まだ、ストーリーがそこまで至っていませんが、とてもとても残念です。ひとつ言えることは、自身の神宣言というのは、それだけのリスクを伴うし、またそれに見合う強さを持っていなければならないということなのでしょう。ただ、それでもノロティの心意気、考え方そのものについて、私としては全面的に賛同したいと思います。

「楽園管理者」には、いずれ辿り着くはずです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すべては君のためにある

2009年12月27日 | 歌詞&台詞

普段から、アニソンばかり聞いておりますが、「しゅごキャラ!!どきっ」のEDテーマだったBuono!の「MY BOY」に、こんな歌詞があります。この歌詞、相当深いと思うのです。

-すべては君のためにあるってことならどうする?-

こうした自己中心的な思考は、私が考える「自分こそが神である」という自分教とも通じるものがあり、大変、重要なことではないかと思います(「「自分教」の薦め」参照)。

一方で、「こんな自己中心的な考え方はけしからん!」というご意見もあるでしょう。たしかに、この世のすべてが例外なく自分のためにあるなど、究極の自分勝手であり、勘違い甚だしいとも言えます。しかし私は、この言葉が持つ意味を、そんなに生易しいものと捉えていません。そしてまた、万が一、こうしたご指摘をされる方がいらっしゃるならば、その方自身が、この言葉の意味の重さを、きちんと理解していないだけなのではないかと逆に問い質したいと思います。

ここでは、「すべて」と言っています。

良いことと悪いこと、嬉しいことと辛いこと、楽しいことと悲しいこと、得ることと失うこと、愛されることと憎まれること・・・。これらすべてが、自分のためにあると考えたら、それがどれほど大変なことか、想像に難しくないだろうと考えます。

現世の快楽ばかりを追い求めてしまうような人間は、自分にとって都合の悪い事象を「他人のせい」であったり、「自分とは関係ないこと」として、整理しがちになるものです。こういう人の場合、都合の悪いことは、自分とは切り離して、消し去ってしまうのであり、言い方によっては手のつけられない「自己チュー」とも言えるでしょう。

そういう意味で、「すべては自分のためにある」という言葉に対して、「けしからん」とおっしゃる方の場合、その方自身が、自分が考える「すべて」において、都合の悪い事象を日常的に消し去っているのであり、それこそ自分勝手で、都合の良いようにしか生きていない「自己チューな人」である可能性がある点、注意が必要です。

良いことも悪いことも、何もかもが「すべて」、自分のためにあるとしたら、それは結構大変なことなのです。そして、この世のあらゆる事象に対して、それが表面上、どんなに良いことでも、あるいはどんなに悪いことでも、一旦、自分のためにあると思ったら、人生、そんなに退屈しないはずです。

-何故こうなった?このことは、自分にどんなメッセージを送っている?-

多くの人々が、常にこうした自問自答を続けられるようになったら、人間という存在はもっと変わっていけるでしょうし、世界全体も、もっと良い方向に動いていくことになるでしょう。

そんなことを思いつつ、あらためて問いかけてみたいと思うのです。

-すべてが自分のためにあるとしたら、あなたはどうします?さ、どうします?-

ま、ゆっくり、時間をかけて考えていきましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイディアと魔法の共通点

2009年12月24日 | 歌詞&台詞

「発想が面白いですね」とか、「そんなアイディア、どうやって思いつくんですか?」などと言われることがあります。こうした質問に対して、きちんとお答えするのは、なかなか難しいのですが、一応、私なりの感覚から言えば、アイディアというものはふと降ってくるものだと思っています。別の言い方をすると、ヒラメキということになるのでしょう。それは必ずしも考えに考え抜いて、「どうしよう」とか、「こうしてやろう」とかいう発想の延長線上に、アイディアが存在するわけではないということです。

そして、それが降ってくる原理を考えてみると、以下のように表現できるような気がします。

-愚痴を言わずに悩みを溜めると、アイディアは降ってくる-

以前の会社で、「貴方が真面目にやらないから、EC市場が政府の予測通りに立ち上がらないんだ」と叱られたことがあります。当然のことながら、私はその予測を行った当人ではありませんし、それを立ち上げる責任を負っている人間でもありません。今から、冷静に考えてみると、ずいぶんと理不尽なお叱りを受けたものだと思いますが、当時の私としては、そうしたお叱りに対して、素直に「そうですか、すみません」と返していましたし、実際、それを自分の問題として考えていました。そしてまた、今日現在も、それを自分の問題として考えています。

私にアイディアが降ってくるようになるまでには、こうしたことの積み重ねが大きく影響しているのではないかと思うのです。そして基本的に、そうした生き方を続けていくことで、アイディアというのは適宜、絶妙なタイミングで、降り続けてくるのではないかと思っています。

常日頃、そんなことを思っているなか、先日の「うみねこのなく頃に」にこんな台詞が出てきました。なかなか興味深いものだったので、少々長いですが、引用しておきます。

=============================
右代宮家の長女としての様々な苦しみを味わってきた絵羽おばさんは、その鬱憤を妹の楼座おばさんにぶつけた。楼座おばさんは、自分の鬱憤を娘の真里亞お姉ちゃんにぶつけた。そうしなければ、その苦しみから逃れられなかったから。

だからこそ、真里亞お姉ちゃんの魔法はすごかった。

彼女は、自分の怒りや悲しみを誰にもぶつけようとしなかった。すべて魔法で癒し、溶かしたのだ。右代宮家に続いてきた悲しみと苦しみ。いったいどれほどの長きに渡って受け継がれ、押し付けられてきたか分からない。その苦しみと悲しみの連鎖を真里亞お姉ちゃんの魔法は断ち切ったのだ。
=============================

「あれ?ここで言う魔法は、私が言うアイディアと同じだ」と思ったのです。しかも、その苦しみや悲しみが大きくなればなるほど、背負えば背負うほど、魔法がすごくなっていくというところもポイントです。

これをアイディアと表現するのか、魔法と呼ぶべきなのかは分かりません。ただ、もしかすると、この両者にはとんでもない共通点があるように思ったのでした。

皆さんも、試されてはいかがでしょう?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽園と神々と偉大なる人間

2009年12月09日 | 歌詞&台詞

戦う司書」を見ていたら、こんな台詞が出てきました。

=========================
遥か二千年もの昔、
人々は多くを語らず、足るを知り、互いに幸せに満ち溢れて暮らしていたと聞く。

それ即ち、楽園時代。

神々は去り、この世には嘆き悲しむ人間たちだけが残された。

だが彼らは知らぬ。天国は未だこの世に留まっていることを。
=========================

いえいえ、きっちり知っています(笑)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王者の暴力と平和実現

2009年12月08日 | 歌詞&台詞

うみねこのなく頃に」を見ていたら、以下のような台詞が出てきました。この台詞には、常日頃、私が考える精神戦の極意が含まれているような気がします。

================================
者の暴力とはね、見せるだけなんだよ。
敵対すれば無傷では済まないという抑止の力、それが王者の暴力だ。

(中略)

助っ人かい?降伏拒否、了解したよ。
以後は、君の攻撃を受けたに等しい分だけ、君に実害が及ぶことを宣言する。
================================

これまで「戦い」というと、物理的な殺し合いである戦争が主流だったかもしれません。しかし、これからの世界における「戦い」とは、もっと精神的な意味での「戦い」になっていくのではないかと考えます(「四次元戦争の時代」参照)。そして、その新しい戦争における武器とは、従来のような物理的兵器ではないと考えるべきです。精神戦で頼りになる武器は、紛れもなくその人自身の精神力であり、それを強力に支える正義や大義です(「正義がひとつになる時代」参照)。

常日頃から、そんなことを思いつつ生活をしている私にとって、この類の台詞は、しょっちゅう脳内を巡っているものでもあるため、思わず書き留めたくなってしまうのです。特に「助っ人かい?」以降の部分等は、まさに私が考える「武」の極みであり、私が日常的に繰り広げている精神戦のあり様が、そのまま映し出されているような気がしてなりません(「正中線を保つことの重要性」参照)。

そして、ちょっと逆説的ではありますが、そんな新しい「戦い」を制するために、みんなが自分を磨き上げ、こうした台詞に隠された極意を会得できるようになったとしたら、自ずとそのような「戦い」自体が起きなくなり、真の平和が実現するのではないかと思います。

「暴力」という言葉が適切かどうかは分かりません。しかし、台詞の中で言われる「王者の暴力」の真意について、みんなが単に頭ではなく、感覚として(あるいは魂で感じるようなレベルで)理解することができるようになれば、真の意味での平和は間違いなく実現することになると思うのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケンシロウから学ぶ呪文

2009年12月01日 | 歌詞&台詞

世の中、不条理な事というのは多々あります。こちらが真面目に、一所懸命やっているのに対して失礼な態度を取られたり、無視をされたりということがあると、無性に腹が立ったりします。

こういう時は、腹を立てるばかりでなく自省も大切です。もしかしたら、自分自身に問題があるかもしれません。例えば、ある組織の中に身を置いているとして、その失礼な相手が、自分の上司だったりする場合、そもそもそんな組織に身を置いてしまっている自分自身に問題があると考える必要もあるでしょう。そんな組織に身を置きつつ、それなりにうまい汁を吸ってきた自分自身を顧みることなく、その組織やその一部である上司の悪口ばかり言っても、何も始まりません。もしかすると、腹を立てるより前に、まず自分がすべきことは、その組織から抜けることかもしれません。

ただし、この考え方を突き詰めていくと、そもそも「そんな社会に身を置いてしまっている自分」、「そんな国家に身を置いてしまっている自分」というところまでいってしまうため、どこかで開き直ることも必要だと思います。

そのように自省することを怠らず、一方で、どこかの時点で開き直ることができたとして、どう考えても相手がおかしいと思ったら、あとは結果で勝負するまでです。そして、その勝負に絶対的な自信を持っていられるのなら、この言葉をこっそり唱えるのです。

-お前はもう死んでいる-

これは「北斗の拳」で、主人公・ケンシロウが、必殺の経絡秘孔を突いて、既に死が決まっている相手に対して放つ台詞です。秘孔を突いた直後では、まだ相手は生きており、ピンピンとしているわけですが、秘孔を突いた時点で、既に相手の死は決まっているのです。このちょっとした時間差を用いて、自分だけが知っている「相手の死」を予告するような言葉を放つことができたら、それはとても痛快だろうと思います。

けれども、ケンシロウのように物理的な経絡秘孔を突いて、相手を殺してしまうのは、絶対にいけません(うん?あ、できないか・・・)。しかし私は、精神的な意味でこれを行うことは可能であり、また大いに許されることなのではないかと思います。

何かを一所懸命やっている自分に対して、たとえ失礼な態度を取られたり、無視をされたりしたとしても、もし本当に自分が正しければ、後になって、相手が自らの過ちを認めなければならず、自分に対しては詫びを入れるしかなくなります。結果として、それは(精神的な意味で)過去の相手が死んだとも言えます。したがって、もし自分が、そうなるであろうことに確信を持てるのであれば、大いにその時間差を利用して、ケンシロウの言葉を呪文のように唱えてみてもいいのではないかと思うのです。

ただし、その失礼だった相手が、自らの過ちを認めて、それなりのけじめをつけた時には、すんなりと受け入れてあげることも大切でしょう。自分の過ちを認め、けじめをつけたというのは、相手がその「精神的な死」を乗り越えて、新しく生まれ変わったとも言えるのであり、その生まれ変わった相手に対しては、いつまでもウジウジと突っかかってはならないと考えます。「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉がありますが、過去の過ちを悔いて、それなりのけじめをつけた人に対しては、あくまでも寛容であるべきです。

そして、このように新しく生まれ変わった相手をきちんと許すことは、極めて重要であると考えます。私が、物理的な意味で、人間を殺すことはけっして許されないことながらも、精神的な意味で、相手に死を突きつけることが許されると考える理由は、ここにあります。つまり、「物理的な死」は二度と甦ることがありませんが、「精神的な死」は、本人が自らの過ちを受け入れることで、新しい人間に生まれ変わることができる、即ち甦ることができるからです。そんな新しく甦った人間を、いつまでも受け入れることができないと言うのならば、その「精神的な死」は、二度と甦らない「物理的な死」と何ら変わらなくなってしまいます。

「アイツが許せん」、「あの人は失礼だ」、「呼びかけを無視しやがって」・・・。

いろいろとあるかもしれませんが、まず自分に呪文を唱える資格があるかを熟考の上、問題がなさそうなら、ケンシロウを真似てみるのも良いかもしれません。とにかく、後々になって、自分が「ひでぶっ!」とならないように気をつけましょう(笑)。

《おまけ》
ここでは、「呪文」という言葉を使いました。「呪文」とは、言うまでもなく呪いの言葉ですが、私はこれにネガティブな意味しかないとは考えません。古来より、神様と呪術は深い関係にあったのであり、神様が畏怖、畏敬の念を持って、人々に崇められたのには、神様自身が呪術に長けていたからだと思います。私としては、自分自身を信じることができる人間が、そうした力を積極的に使っていくことも、あって良いのではないかと考える次第です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする