常識について思うこと

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「区別と差別」の区別

2010年03月17日 | 政治

高校無償化の問題で、その対象から朝鮮学校を除外することに対して、国連が懸念を表明するというニュースがありました。記事によると、日本で出されている朝鮮学校の除外は、「子供の教育に差別的な影響を与える行為」とし、「教育機会をめぐる差別が生じることがないよう適切な措置を求めた」ということです。

かなり違和感があります。

そして、この議論、区別と差別を混同しているように思うのです。差別の意味をネットであさってみると、「偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること」となっています。

ポイントは、「偏見や先入観などをもとに」ということでしょう。逆に言えば、偏見や先入観によらず、正当な理由をもって問題の切り分けをし、各種の意思決定を行った末、結果として「特定の人々に対して不利益・不平等な扱い」となってしまうのは、差別にはあたらないわけです。それは区別した結果にほかなりません。

国連が、こんなレベルかと思うと、少々、残念な気にもなります。

今回の高校無償化に対して、その対象から朝鮮学校を外すという議論に関しては、その論拠として、教育内容などについて、日本政府が関与できていないという点が挙げられています。高校無償化は、日本政府が費用負担をするものであり、お金を出しておいて、教育内容には手をつけられないというのは、税金を納めている一国民として、私も疑問に思わざるを得ません。

区別は必要です。すべてが同じはずもなく、民族や国家が入り乱れ、そのなかでさまざまな仕組みが交錯している現代世界において、区別は必然だろうと考えます。そうした区別の結果、一部の方々に対して、「不利益・不平等な扱い」と見えることがあるのは、ある意味、仕方のないこととも言えます。

そうした区別を差別と騒ぎ立てるのは、物事を区別する能力に欠けているからかもしれません。つまり、区別する能力を持たないため、その区別の意味を理解できず、さらにその理由を偏見や先入観であると思い込み、勝手に差別と考えているかもしれないということです。そして、もしそうだとしたら、これはとんでもないことです。私としては、自らの(区別するという)能力の未熟さを棚に上げて、他者のせいにするような行為に対しては、真正面から議論していくべきであろうと考えます。

また差別には、差別だと主張する人自身が、その差別の根源である可能性もある点、看過できません。「それは差別だ!」と批判をするような方のなかには、「そういう可哀相な人たちがいるのを知らないからだ!」という論を展開する方もいらっしゃいます。しかし、これはまったくのあべこべかもしれないのです。つまり、そういう方々は、自分と他者との違いを理解せず、区別できないまま、ただ一方的にそうした人々を可哀相な人々と、勝手に差別している可能性があるということです。

国連から指摘されているような、「教育機会をめぐる差別」についても、まったくの的外れである可能性があります。つまり、日本に居住する者の教育機会は、一般の日本の学校に通うという選択肢を取ることで、きちんと開かれているのです。朝鮮学校に通うことを考えている方でも、本当に無償で通いたいのであれば、普通の日本の学校に通えばいいだけのことです。あるいは、どうしても無償で朝鮮学校に通いたいということであれば、日本の実情を説明して、北朝鮮本国に掛け合うというのが筋でしょう。こうした点を十分に考慮したうえで、日本は堂々と見解を述べるべきだと思います。一般の学校に通うという選択肢を取ることを通じて、十分に教育機会が開かれているのに、それがないかの如き主張に対しては、正面から異を唱えて然るべきだと考えます。

このように安易に差別という言葉を持ち出すのではなく、それは当然あるべき区別ではないかという点、きちんと切り分けながら、物事を整理する必要があるのではないかと思うのでした。

コメント (17)
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