常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

脱亜入欧の終焉

2008年10月30日 | 日本

150年ほど前、日本は激動の最中にありました。それまで閉じていた世界が突然開けて、その開けた世界のなかで、日本がどう立ち回るべきかについて、さまざまな議論や動きがあったのだろうと思います。そして、その当時ひとつの指針として打ち出されたのが、福沢諭吉による「脱亜入欧」という考え方です。

この言葉について、「アジアを切り捨てる」という負の面ばかりを捉える人々もいるかもしれませんが、私は、けっしてそのように考えるべきではないと思います。当時の世界は、帝国主義的思想が頭をもたげ始め、力のある国が力のない国に進出し、そこを植民地として支配していくという弱肉強食の時代でした。それを許容するか、しないかという悠長な議論は許されず、その現実を受け止めた上で、どう対処するかが求められる時代であったと理解するべきでしょう。そしてまた、そうした世界をリードし、ルールを決めていたのが、「欧」を中心とする国々であり、その仲間入りをしていかない限り、日本の未来が開けないという判断は、当時として、あって当然だったのではないかと思います。「亜」を切り捨てるというよりも、致し方なく「欧」に入らざるを得ないという苦渋の選択の結果が、「脱亜入欧」という考え方として表出したのではないかと思うのです。

それ以降の日本の指導者が、どれだけ「脱亜入欧」を意識したのかは分かりませんが、少なくとも「欧」への仲間入りを目指した日本は、彼らの思想や文化、それに付随するあらゆる事柄について、懸命に学んできました。とくに鎖国状態にあった、当時の日本人にとって、「欧」で生み出されたものは新鮮で珍しく、それら全てが学ぶべき対象であったことは間違いないでしょう。

しかし、それから1世紀半が経過し、状況は大きく変わりました。「グローバル」という言葉が、既に死語ではないかと思うほど当たり前になり、「欧」の思想や文化、それに纏わる多くのものが、現代を生きる日本人にとって、何の違和感もなく受け入れられるような時代になったのではないかと思います。それだけ、地球は小さくなったのであり、「欧」についても、知らないことがほとんどなくなったのです。海外で家族や友人が生活するということは、当たり前のようにありますし、日本において外国人が生活していたり、日本人が外資企業に勤めていたりということも、ごく普通にあることです。そうしたことから、日本人が「欧」について知らないことはないと言っても、過言ではないと思います。

むしろ私としては、近年、日本人が「欧」について、ひとつ別のことを知るに至ったように考えます。それは「欧」の限界です。

「欧」の思想や文化も、当時の帝国主義的な考え方から、さまざまな進化を重ね、今日に至るまで、複雑な社会システムを整備してきました。日本人は、そうした進化が起こるたびに、それを懸命に学び、「欧」にしがみつくように追随してきました。けれども、その「欧」の思想や文化は、近年に至り、ますます限界を露呈しつつあります。それは、資本主義という世界的な社会システムのみならず、宗教や科学のあり方についても言えることであり、このことは、かつての「脱亜入欧」に代わる、新しい指針を必要としていることを意味します。

「欧」の限界について、実感できていない方々は、最近の金融不安について、想起していただければと思います。そしてまた、その解決がどのように行われるのかについて、注視されればよいと思います。まだ「欧」の文化や思想に、世界を動かすだけの余力があるということであれば、この世界的危機は、「欧」を中心とした国々が自ら克服し、彼らが相変わらず世界のリーダーとしての地位を保ったまま、力強く世界を牽引していくことでしょう。

実際、この金融危機も、何らかのかたちで収束するはずです。もしかしたら、表向きそれは、彼らが自らの力で、克服したかたちになるかもしれません。しかし、それは必ず、別の思想や文化、価値観を許容するきっかけになりますし、そのことが「欧」の時代を終わらせるスイッチとしての機能を果たすことは、後の歴史が証明するものと思います。

ところで、その「脱亜入欧」が終わるとして、次はどのような時代になっていくのかを考えなければなりません。私は、次の時代において、重要な役割を果たすべきは、日本であると考えます。日本は、これまで「欧」から多くのことを学び、それらを血肉に変えて生きてきました。しかし、それが限界を迎え、別のパラダイムを生み出さなければならない時代にあって、日本が次に成すべきことは、「欧」を消化した上で、自分たちの思想や文化の発信することです。

それでは、日本はどのような思想や文化を、どのように発信していかなければならないのでしょうか。それについては、既に目の前に答えがあると思います。そしてそれは、さほど難しいことではないと考えます(「「No」と言えないことへの誇り」、「世界のリーダーたるべき日本」、「新しい産業構築に向けて」、「別世界の演出ができる国」、「日本人の大切な「ゼロ」」等参照)。

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四次元戦争の時代

2008年10月29日 | 異次元

四次元戦争などと言うと、いろいろな想像が働くかもしれません。人によっては、SF映画のひとコマを想起されることでしょう。私個人としては、もし他の誰かがこんな言葉を使ったら、ドラえもんの映画を思い浮かべるような気がします。

それはさておき、そもそも、ここで言うところの四次元とは、一体何かということについて、簡単に述べておきたいと思います。

当然のことながら、通常、私たちが視認しているのは三次元空間であり、それを超えるとされる空間や事象については、なかなか信じ難いものがあります。しかし、最先端の科学において、四次元以上の世界が存在することは、当たり前のように語られるようになりましたし、真剣に四次元世界の問題について、きちんと向き合う時代に入りつつあるのではないかとも思います。

ある方と科学に関する議論をしているとき、「今の科学は、三次元の現象を見事に説明している」という言に触れたことがあります。そうだとするならば、それはそれで良いことです。そして、少なくとも私は、四次元世界の存在を受け入れることが、そうした三次元の法則を否定することには繋がらないと考えています。

少し次元を下げた例で説明すると、二次元の平面空間についての法則があるとして、それは三次元世界から見たときにも、立派に通用する法則であることは間違いありません。その二次元空間が、普遍的な二元空間として、他世界とも一切関わらぬまま存在する限りにおいて、その二次元世界を説明する法則は、そこでの現象を見事に説明し続けるでしょう。

ただし、二次元の平面空間を「折りたたむ」、あるいは「他の平面(二次元空間)と重ねる」といった、三次元的な処理をしてしまうことで、状況は変わります。平面と平面が重なり合うことで、それまでの平面の概念が変わり、従来の二次元法則だけでは説明しきれない現象が生じます。例えば、同一平面上にある2つの点の距離が変わったり、同じ平面に存在しないはずの点同士が交わったりするということが起こるということです。こうした現象を説明するには、平面を折りたたんだり、他の平面同士を重ねるという三次元的な概念を含んだ法則が必要になるのであり、それはそれまで二次元世界を説明していた法則を補足するかたちで、生み出されることになります。

そうした意味で、三次元の世界を説明する法則は、それはそれとして意味があります。ただし、四次元以上の世界が存在するという場合、その三次元世界は、唯一の世界にはなりえません。三次元世界の外側には、別の三次元世界があると考えることができるからです。四次元以上の世界を想定するときには、そうした他の三次元世界との関係性を説明するためにも、四次元の法則が必要になってくるのです。そしてそれは、三次元の法則を否定するものではなく、それでは説明しきれない事象について、補足説明するかたちで生み出される類のものになるのでしょう。

その肝心な四次元の法則について、私は「心」が大きく関与しているように思います。もう少し、踏み込んでいえば、人間は葛藤を重ねながらも、最終的に正しいと感じることを行うということであり、そうした心の作用が、この三次元世界の形成には大きく関与しているということです(「確からしい四次元の存在」参照)。

「自分の心に正直になる」とか、「自分の心と向き合う」という表現があったりしますが、これはこれからの時代において、一人一人の人間に対して、より一層強く求められてくることになるでしょう。そして、タイトルにある「戦争」という観点からすると、戦争の意味合いが、まったく変わってくると考えられるのです。

戦争とは、簡単に表現してしまえば、人間同士の殺し合いです。当然、これが手放しで肯定されてよいはずがなく、これまでの歴史のなかで、何故こうした悲惨な行為が繰り返されてきてしまったのかについては、いろいろな見方があろうかと思います。それでも敢えて、私なりの考えを示すならば、戦争において痛烈に残るのは、身内(拡大すれば自国)の犠牲者に対する思いです。実際には、相手側にも、同じような悲しみが生まれてしまっていることを知りながらも、目の前にある身内への悲しみが勝ってしまい、それが憎悪となって、対峙し合う人々を突き動かし、さらに悲劇を拡大させるという側面があるのではないかと思うのです。

しかし、その自分の憎悪の感情を爆発させた結果として、相手側にも同じような悲しみに暮れる人々が生まれることを、実感できてしまったとき、そこに大きな心の葛藤が生まれてくるでしょう。

文民統制という概念があります。これについては、さまざまな考えや学術的な意見もあるでしょうが、少なくとも、情報がオープンになっていれば、相当な抑止力として効果を発揮すると考えられます。過去のケースでいえば、例えばベトナム戦争における反戦運動などは、戦場で何が起きているかについて、視覚情報を含めて数多く伝えられた結果として、巻き起こった現象であり、それが文民統制を通じて、戦争抑止の力として働いたと見ることができるでしょう。

メディアが発達して以降、戦争当事者である国の政府や関係者など、一部の特定の人々が、文民統制を逆手にとって、自国民の戦意を高揚させたり、敵国民の惨状を伝えなかったりといった情報操作をすることで、自分たちの目的を達成するという試みもなされてきたと思われます。しかしそれは、そうした特定の人々によって、情報が統制されている限りにおいて有効なのであり、メディアがインターネットのようなオープンシステムに移行し、情報の流通を制御できなくなると、状況は大きく変わると考えられます。

戦争の当事者である国の国民は、戦争をするとされる相手が、普段、どのような生活をしているのかについて、視覚的な情報を含めて、簡単に知ることができるようになるのです。そしてその相手が、自分たちと何も変わらず、家族がいたり、友人がいたり、学校があったりするなかで、さまざまな喜怒哀楽を経ながら生きているだけで、そこに彼らなりの幸せがあることを実感したとき、それを知った国民は、大きな心の葛藤に陥ることになるでしょう。そうした心の葛藤とは、言い換えれば自問自答の作業です。それは他者を敵とする戦争ではなく、自分を相手にした戦争でもあります。そのように自分自身を相手取った心の戦争こそが、タイトルにある「四次元戦争」ということです。

この「四次元戦争」の結果、人々が「戦争をするべきではない」という結論に至れたとき、彼らは強く、また広く反戦を唱えることができるようになるでしょう。情報統制をして、一定の方向に持っていこうとする政府や特定の人々が、これを無視して戦争をすることは、極めて難しいはずです。インターネットのようなオープンシステムが世界的に整えられたとき、戦争のかたちは大きく変わり、それは極めて強い戦争抑止力として働く可能性があるのです。

もともとインターネットは、三次元世界(通常、私たちが視認している世界)での戦争において、敵を殲滅し、勝つための道具として生み出されました。しかし、それが次の時代において、四次元世界における戦争に大きく役立ち、結果として、三次元世界に平和をもたらすツールになるとしたら、それはとても面白いし、また非常に良いことだと思うのでした。

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大きな矛盾を抱えるべし

2008年10月28日 | 人生

真剣になって、私の話を聞いた後、「それは矛盾していませんか?」という言葉を返してくる方がいらっしゃいます。鋭い指摘であり、まさにその通りです。

端的に言えば、そもそも生きるということは、矛盾を抱えるということなのです。別の言い方をすると、生きる目的を見出すということは、矛盾に気付くということでもあるということです。矛盾を解決するには、時間が必要であり、その時間をかけていくことが、生きるということでもあることが、事の本質だろうと思います(「矛盾との付き合い方」参照)。

表と裏、陰と陽、神と魔、生と死、右と左・・・。この世界では片方があるから、もう片方が意味を成すというものが、数多く存在します。それは片方が強ければ強いほど、もう片方の意味も同じだけ強くなるということになるのです。

生と死を例にとれば、「死」のない「生」はありません。最初から、絶対に死なないことが決まっていたら、きっと人は、一所懸命生きることをしなくなり、「生」は輝きを失います。そのことは、事実上の「死」を意味することとなり、そしてまた実際に、その人は死んでいくことになるでしょう。逆に、真剣に「死」と向かい合い、常にそれを受け入れる気構えで生きている人は、一瞬一瞬を大切にして生きるはずです。「強い死」への思いがあるからこそ、そこに真逆の「強い生」への力が生まれるのです。

「本当に生きたかったら、自分は死んだと思え。」

こんなことが言えてしまうのは、世界が矛盾に満ちているからです(「欲するものへの心持ち」参照)。

もちろん、それが悪いわけではありません。ただし世界の仕組みが、こうした関係性で成り立つもので満ちているなかで、私という一人の人間の言が、矛盾を抱えることは、ある意味、当然だと言えるしょう。何故なら、私という存在は一人の男だからです。人間が両性具有ではなく、男と女の両方で成り立つ以上、私が一人の男であるという事実は、私の存在自体が、片手落ちであることの揺るぎない証拠でもあります。こう考えたとき、私如きが何を思い、何を行ったとて、所詮それらが矛盾せざるを得ないというのは、致し方ないことだろうと思います。そしてまた、こう考えたとき、人類と呼ばれるあらゆる存在は、例外なく、そうした矛盾を抱えざるを得ないと言うことができるでしょう。

その上で、ここで私が言うべきことは、「どうせ矛盾を抱えるのなら、大きな矛盾を抱えよ」ということです。冒頭に述べたとおり、矛盾を解決するには、時間を必要とします。そして、そうした時間を過ごすことこそが、この世界における「生きる」という意味ではないかと考えます。こう考えたとき、抱えている矛盾が大きければ大きいほど、それにかかる時間は長くなり、また人生そのものも豊かなものになっていくのではないかと思うのです。

時間をかけるという話から、少々、逸れるかもしれませんが、徳川家康という人物を喩える言葉として、「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」というものがあります。これは戦をしなければならない戦国大名として、戦の時代を終わらせるという矛盾に対して、彼なりに「時間をかける」という生き方で、見事に解決したことを示しているように思えてなりません。もちろん、戦をすること自体、戦国大名としての宿命であり、それを完全に避けることはできませんでした。そういう意味で、彼の「鳴くまで待とう」も完璧ではなかったのだろうと思います。

しかし、少なくともそれ以前の戦国大名が、自分の覇権によって戦国時代を終わらせようと、自らの武力を持って、他者の武力を制するという手法に頼ったのは、偉大なる「時間の力」を見失った行為のように思えてなりません。その点、徳川家康は「時間の力」の凄さを知っており、それをうまく活用することで、長らく日本全体が、概ね秩序を保ち続けられる仕組みを作り出したのではないかと思うのです。戦国時代にあって、「真に平和な時代をもたらしたい」と願う大きな志は、それに見合うだけの長い時間をかけたからこそ、次の時代の礎を築くという偉業を可能にさせたのではないかと思います。

話を元に戻します。

「大きな理想を持て。大きな夢を持て。それがあなたの人生を豊かにする」

大変、分かりやすい言葉ではないかと思います。しかし一方で、大きな理想や大きな夢を持つことは、現実との大きなギャップを目の当たりにすることと同義であり、「強い失望、強い無力感、人生を虚しく感じさせる」ことにも繋がり兼ねません。これも矛盾のひとつであり、理想や夢が大きいほど、この矛盾と長い間、向き合っていかなければならないという宿命を負うことになります。

自分がどのような人生を歩みたいのかは、人それぞれであり、それこそまさに自分自身が決められることであり、また決めるべきことです。豊かな人生を選びたいという人もいるでしょうし、そこそこの人生で構わないという人もいるはずです。

しかし、そうしたことを全て踏まえた上で、自分の人生を豊かにしたいと思うのであれば、そんな人々には、是非とも伝えておきたいと思います

-大きな矛盾を抱えるべし-

大きな理想と強い失望を併せて抱え持つこと、大きな矛盾を抱えることは、きっと、その人の人生を豊かにしてくれるのではないかと思うのです。

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会社のHPオープン

2008年10月26日 | 会社

今年の7月に会社を立ち上げました(「小さなスタート」、「事業の本質と存在価値」参照)が、先日、その会社のホームページをオープンしました。

過去、そういう会社のホームページを制作するときには、掲載する文面を含めて、だいぶいろいろな関係者の方々に気を使ったものですが、今回は、ひとまず現時点において、自分だけの会社であるため、一切、そのような気遣いをせず、好き勝手に制作させてもらいました。

このブログに書いてあるようなコンテンツも、いくつか使っていて、それはそれで、自分としては、結構、楽しんで作っています。

ただ、お金はまったくかけていません。デザインは、知り合いのデザイナーの方が、善意でご協力してくださいましたが、私の拙いHTML作業で作成しているため、これといって凝ったものにはなっていません。それでも、会社としてのメッセージを伝えるには、十分なものになっていると思います。

まだまだ、この広いインターネットの世界で、深く埋もれている小さなホームページですが、これが今後どのようになっていくのか、自分のことながら、これを見守るような気分で、楽しみにしています。

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既にある結論

2008年10月25日 | 歌詞&台詞

コードギアス(R2)で、C.C.が述べる以下の台詞です。

====================
既存の言葉で言うならば、集合の意識、人の心と記憶の集合体、輪廻の海、大いなる意思、神と呼ぶものもいる

人とは集合無意識がつけた仮面、心と記憶の海に開いた窓
====================

「神」とは何か、「人」とは何かについて、こんなかたちで既に結論が出ていると驚かされます。

宗教を持たざるとも、「神」や「人」について、こうまでサラリと言えてしまうアニメの世界は偉大です。そしてまた、自分自身、あらためて宗教を持たぬことを誇りに思います。

いずれ、宗教の仕組みが崩壊したとき、こうした言葉の重さが、世界的にもきちんと認知されるようになるでしょう。

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アニメ好きですけど何か?

2008年10月24日 | ヒーロー&アニメ

先日、働いている先で携帯電話を開いたとき、一緒にいた女性から「アニメ!?」と指摘されました。「はい、アニメです」と包み隠さず答えて、携帯電話の待ち受け画面になっているベルダンディーを見せました。「えぇ~!?意外ですぅ~」というお言葉をいただきました。

そんなものなのでしょう。「アニメが好き」と言うと、ちょっと特殊な人々という部類に入れられてしまうようです。とくに今、私が出入りしている事務所は、世間的に少々堅いイメージがあるところなので、一層、意外に見えるのかもしれません。

けれども先日、あるサイトの運営者の方も無類のアニメ好きということを知りました。そのサイトは、政治や社会問題について、タブーと言われるような領域にまで鋭く切り込み、実際に活動してらっしゃる方で、到底、アニメとは無縁に見えます。その方が、そのサイトのなかで、自分のアニメ好きの理由について、何度か語られているのですが、まったく同感です。

もう少し、私なりの表現で言えば、いわゆる大人たちの社会は、エゴと虚栄で渦巻いています。問題解決の糸口が目の前にあるにもかかわらず、それに気付かないのか、あるいは気付いていながら気付かぬふりをしているのか分かりませんが、地位や肩書きばかりで、知恵のない人々同士が批判に批判を重ねるような、あまりにも愚かな振る舞いに満ちた側面があります。そうした現実社会に毒された精神を癒すために、裏切らない2次元世界に逃げ込むという感覚は、大変、理解しやすいものがあります。これは、いわゆるアキバ系文化を楽しんでいる人々の多くが、感じていることでもあるような気がします。

ただ一方で、3次元世界(現実社会)から完全に逃避しきってしまい、2次元世界にどっぷりとハマってしまっているような人々がいるのも事実かもしれません。たとえば、3次元の世界を完全に放棄して、3次元世界の存在たる自分を省みずに、どっぷりと2次元の美少女系アニメにハマるというのは、あまり褒められたものではありません。2次元世界にハマるからには、それと同等かそれ以上に3次元世界における努力を怠ってはならないと考えます。少々、男の目線からではありますが、たとえば逆に、美少女系アニメを楽しむ自分を馬鹿にするような3次元女性がいたならば、「お前の方がろくなもんじゃねぇ」ときっぱり言えるだけ、3次元の世界において「いい男」になるという気概と自信、それを裏付けるだけの努力をしている必要があります。

こうした問題に対しても、その方の考え方には、強く共感できます。いろいろなことが書かれていますが、その方の言葉で、端的に表現するならば「若人よがんばれ!」だそうです。

その通り。2次元世界で癒されることも大切ですが、実際に自分が3次元世界で生きているという事実を忘れてはいけないし、そういう自分を磨くことで、3次元世界すらも変えることができると考えるべきでしょう(「「萌え」の本質と役割」、「3次元から4次元へ」参照)。

こうした論点を踏まえた上で、せっかくならば、世界のあらゆる事象について、前向き且つ肯定的に捉えていくべきだと思います。

アニメの美少女キャラに憧れる男性と、芸能人やスポーツ選手に恋する女性。どちらがおかしいというものでもないような気がします。どちらも「夢見る人」という意味で同等であり、そうした想像力こそが、人間の能力の素晴らしさであり、また世界を変えていく原動力であると捉えるような視点があってもいいはずです。

そして今、その方が好んで見ているアニメもチェックしてみました。最近では「絶対可憐チルドレン」が良いらしいので、ちょっと見てみました。面白いです。まだ、登場人物をきちんと把握しきれていませんが、すぐにフォローアップできるでしょう。週末の楽しみが、ひとつ増えました。

《おまけ》
働いている先で、私はすっかり「萌え系」の代名詞になっており、萌え系アニメやら声優やらの話になると、何かと私に振られるようになりました。一般的には、非常に堅いイメージのある事務所で、私がそういう存在として、受け入れられることに対して、ありがたいと感じています。ただ一方で、たまに「メイドカフェ」の話が振られることがあるのですが、これについては、正直なところよく分かりません。あまり行きたいとも思わないのですが、実際のところ、どうなのでしょうね。

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実感するテレビの限界

2008年10月15日 | ヒーロー&アニメ

10月の番組編成で、深夜のアニメ枠も大きく変わりました。視聴するアニメを入手するためのルートには、いろいろとありますが、やはりどうしても現在のメディアシステムにおける王様はテレビです。

ということで、ひとまず最新のアニメを視聴すべく、10月に入る前の時点で、アニメの新番組調査をしてみました。地上波放送に限っての調査ではありましたが、私が簡単に調べただけで、40近いタイトルが引っ張り出されました。

-これは多すぎる-

ウェブで情報収集をして、明らかに自分の趣向に合わないものを削除しますが、それでも30以上のタイトルが残ってしまいます。こうなってくると、ある程度、いろいろな人々が見た評判などを聞いて絞り込み、「いいものだけを視聴したい」という願望も湧いてきます。

ある程度、蓄積されたものをVOD(Video On Demand)で視聴することが当たり前で、しかも人々の評判をリアルタイムで参考にできるインターネットであれば、こうしたことは、至極普通のことです(「通信と放送の融合」、「共有という楽しみ方」等参照)。

しかし、テレビではできません。たとえ評判のいいタイトルが分かったとしても、それは多少、時間が経過してからのことであり、テレビでそれを見逃していたりすると大変です。評判が立っているその時点で、既にある程度ストーリーが展開されてしまっているため、第1話からの視聴は困難で、基本的には再放送なり、DVD化さるまで待つということになってしまうからです。

そうした意味で、10月における、このスタートの時期は大変重要なのです。

仕方なく、10月に入ってから、まず30を超えるタイトルについて、すべて自分の目で確認をしています。10月も2週間が経過し、ほとんどの作品について、第2話が終了したため、だいたいこの時点で、自分なりの絞込みが行えるようになってきました。そうは言っても、残ったタイトルは20作品程度あり、1日平均3作品を視聴しなければいけない計算になるため、引き続き絞込みをしていくことになるでしょう。こうした作業が、全くの無駄であるとは思いませんが、ここにかなりの労力が割かれることを通じて、今日のテレビシステムの限界を感じることは事実です。

もちろん、こうした事情があるからこそ、コンテンツの流通形態として、DVDレンタルやインターネットが発達してきているのでしょうが、これについても、まだまだ解決しなければいけない問題だらけです。

こうした経験を積みながら、つくづく成さねばならないことが多いと実感してしまいます。

それともう一点、実際に深夜枠のアニメを見ながら感じることは、やはりクオリティが高いということです。もちろん、すべての作品を通じて言えるわけではないですが、いわゆる「ゴールデンタイム」で、大型の広告を引っ張ってくることを宿命付けられている一般のアニメに比べて、純粋に「良い作品」を生み出すための活動が展開されているように感じられて、心地よい気がします。

ただ、やはり残念なことに、そうした深夜枠であるにもかかわらず、一部の作品について特定のタレントを売り出すために、無理な声優起用をしたりということで、そのクオリティを下げてしまっているようなケースも見受けられます。そうしたコンテンツ作り自体、ビジネス的な取引、あるいは戦略として、大いに認められるべき行為であり、誰に咎められるような類のものではありません。しかし、今日のテレビというメディアシステムには、純粋に質の高いコンテンツ作りだけをしていればよいということが許されない事情があるのも事実であり、それを無条件に受け入れる必要もないだろうと思います(「仮面ライダーと商業主義」、「「映画連携」の効果と限界」、「感動のすごいアニメ」参照)。

何よりも、純粋に一人の視聴者として、そうしたテレビシステムの限界ゆえに残念な気持ちになるのは、望ましいことではないと思いますし、そういう意味でも、いろいろとやるべきことが見えてくる気がするのでした。

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二大政党制の本質

2008年10月12日 | 政治

現在、日本は二大政党制へと移行しつつあり、これが政治の成熟したかたちであるとの考え方があるかもしれません。しかし、これまでの日本の政党政治の歴史を振り返ったとき、既出の政党による二大政党制によって、新しい日本が生まれると考えるのには、無理があると思えてなりません。

国家の運営について、政治家が及ぼす影響は大きいですし、それを束ねる政党が強く関わっている点、否定し得ません。国会議員や政党が国家のビジョンを語り、その運営に責任を持つということは、当たり前のことであると言えます。しかし、国家の運営は、政治家や政党だけで、進められているわけではありません。

政治家や政党が、政治活動を展開するためにはお金がかかります。どんなに立派なことを言ったところで、それに実行力を持たせる裏付けがない限り、政治家は単なる夢追い人になってしまいますし、そもそも政党も組織として成り立ちません。政治家や政党が、どんなに立派なビジョンを持っていたとしても、それを支える資金源がないといけないわけです。はっきり言えば、政治家や政党を支えるのは、産業界や財界であり、そうした経済を支えている人々の後押しがあって、はじめて政治家は政治家としての使命を果たせるのであり、政党は彼らを束ね、実行力ある政治活動を展開できるということです。

1955年以降、一部の例外期間を除いて、自民党が与党として、日本を動かす時代が続いています。これには、自民党に実力があったと認めるべき点がある一方、単に自民党だけの力でなく、それを後押しした勢力があることを見逃してはならないでしょう。そこには、外国勢力の存在もあり得ます。自民党結成当時、アメリカなど海外からの力が大きく関わっていただろうことは、大いに考えられます。ただし、自民党政権が、今日に至るまで、与党として大きく影響力を行使し続けられたことについて、外国勢の力だけで説明しようとするのは、無理があります。そこには、間違いなく、自民党を後押しする強力な経済界があったのです。その経済界は、戦後日本の高度成長を実現させたのであり、それは政界の人々と一体となって、日本という国家を育ててきたと言うことができるでしょう(戦後の日本経済そのものが、外国勢の影響を強く受けていたとの考え方もあると思いますが、たとえそうであっても、より直接的には、日本の経済界の影響力が大きかったと捉えるべきであると考えます)。とくに、高度成長期の日本の経済界は、大変な活気に満ち溢れていました。そうした活力ある経済界こそが、長らく日本の与党として君臨してきた自民党の力の源泉であったと捉えるべきだと思います。

しかし、高度成長期を終え、先行きの不透明感が充満しつつある日本の経済は、ますます活力を失いつつあります。日本が得意とするモノづくり文化も軽視され、実体経済から乖離した経済活動が、産業の核心を支配するようになることで、実体経済の弱体化の流れは、ますます止まらなくなってきているように思います。今日、自民党政権の影が薄くなっている背景には、こうした日本の経済界の状況を十分に考慮する必要があるでしょう。

そうしたなかで、二大政党制を考えた場合、その自民党に対抗する政党には、新しい活気ある経済界を後ろ盾に持つことが求められます。それが、新しい時代を切り拓く政党の条件であり、そうした新たな力の源泉を持っているからこそ、旧体制に代わって、新しい国づくりのための国家運営ができると考えられるのです。

国家の運営は、政治力だけでも、経済力だけでも成り立ちません。

自動車が目的地に到着するためには、ハンドルとエンジンの両方が必要です。エンジンが勢いよく動いていれば、ハンドルさばきに応じて、自動車は左右に大きく振れます。逆に、エンジンの力が弱まっている時、場合によっては、下り坂を選んで、方向転換するようなケースもあるでしょう。そのことによって、再びエンジンが力強く回り始めることもあるのです。ハンドルさばきが問題で、自動車が止まりそうになっているのであれば、ハンドルを変えることで、自動車を前に進めることも可能なのです。それはいわば、経済に元気がない(景気が悪い等)ときに、政治の側から問題を解決するという手法です。

しかし、エンジンが止まりかけ、下り坂も見当たらないような状況にあっては、話は全く別になります。エンジンが止まりかけている時に、ハンドル操作ばかりの議論をしたところで、何の解決にもならないのです。最終的には、エンジンを取り替えることまで、視野に入れることが必要になります。

このエンジンを取り替えるということこそが、新しい産業基盤の創出です。古い産業構造から脱却し、新しい産業基盤を作り出し、大きく国家を動かすだけの経済勢力が誕生したとき、それがエンジンとなって、政党という新たなハンドルを生み出すのです。

絶望的な状況下において、次の時代を担うための政党があるとするならば、そうした新しい経済勢力を背景として、生まれてくることでしょう。二大政党制については、そうした新しい政党が、国家運営を担うようになるまでのひとつの通過点、あるいは状態として理解してみてはどうかと思います。

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ポスト金融のさらに先

2008年10月06日 | 独り言

金融とは、お金の融通を利かせる仕事。
社会の経済活動を手助けするのが、金融の役割。

現代社会は、金融が幅を利かせすぎた。
本質を見失った金融は肥大化し、破綻する。
ポスト金融時代、融通が利かない金本位制に振れていく。

しかし、金そのものに、絶対的な価値はない。
次の金本位制も、所詮、破綻していく運命にある。

その本質をわきまえよ、見極めよ。
次の時代のさらに先には、まったく別の価値付けがある。

そこまでを読み解くべし。

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