常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

「聖水」である理由

2009年11月30日 | 宗教

宗教的な「聖水」を否定するつもりはありません。また、本来の「聖水」の定義をきちんと理解しているわけでもありません。

しかし私の場合、水については、飲む水、全てが美味しいものであり、またそれが身体機能を保つ上で、この上ない役割を果たしてくれていると実感しています。そういう意味で、私を支えてくれるあらゆる水は、貴重な「聖水」であると思っています。このように、その水を「聖水」たらしめるかどうかは、それと接する人自身が決められるのではないかと思うのです。

以下は、私が水、とくに飲み水について、それを貴重な「聖水」と考える理由です(ちなみに私は、水を飲むのが非常に好きで、一日3リットルくらい飲んでいると思います)。

身体や健康について考える上で、私たちはとかく「摂取」することばかりに気を取られているように思います。どういう食物が体に良いか、どんな栄養素が重要か、バランスの良い食事とは・・・。これはこれで大切なことですが、一方で不要なものをきちんと出すということも同じくらい重要なのではないかと思えてなりません。

そうした考え方をする中で、水は身体の老廃物の排出を促してくれる貴重な存在です。特にリラックスした生活を送り、血液の巡りが良い人は、身体が効率的に老廃物を回収できるので、それを排出するために、自ずと身体が多くの水を欲するようになるのだと思います。身体が水を欲するというのは、端的に喉が渇いた状態でり、当然のことながら、喉が渇いていれば、水はとても美味しく感じます。

このように不要なものを出すために、自然と水の力を求めるようになり、自然と身体が求めるからこそ、それを美味しいと感じるという中で、水の有難さを知るのです。この有難い水こそが「聖水」です。

そして、こうした循環がうまくいっていれば、自ずと必要な栄養分等、身体に良いものを取り入れられるようになるのでしょう。

これは、食べ物に限らず、あらゆるものに対して言えることだと思います。つまり、良いものを取り入れようとするのなら、きちんと余分なものを出しておく必要があるということです。

呼吸を例にとりましょう。呼吸というと新鮮な空気、特に酸素を体内に取り入れることをイメージしがちなのではないかと思います。しかし、いわゆる呼吸法等で重要なのは、リラックスした上で、お腹の力を使ってきちんと息を吐くことです。これには、正しい姿勢やお腹への意識を強く持たなければなりません。こうした意識を持ちつつ、きちんと息を吐くことができれば、自ずと息を吸うことに繋がり、結果として、正しい呼吸ができるというわけです。つまり、空気から酸素等の必要なものを取り入れるという呼吸において重要と思われる部分は、あくまでも「息を吐く」という行為の結果論としての側面もあるということです(「美味しい物のいただき方」、「腹式呼吸のコツ」参照)。

こうした観点からすると、何か特殊な「聖水」というものが存在し、例えば、それを飲むことによって、人間が浄化されるという考え方も良いですが、その側面ばかりが強調されるのも問題ではないかと思います。水、特に飲み水は、「老廃物の排出」にその真価を発揮するのであり、それが効率的にできる人にとっては、普通の水ですらも「大いなる聖水」に化けるのではないかと思うのです。

《おまけ》
飲み水の効用を最大限に発揮しようと思ったら、とにかく、体内の老廃物の回収がスムーズに行えるようにリラックスした生活を送ることだと思います(「仕事と遊びの方程式」、「師匠の姿から学ぶこと」参照)。難しいようで簡単で、簡単なでようで難しい・・・?

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繰り返す原点回帰の姿

2009年11月29日 | 歌詞&台詞

アニメも特撮ヒーローモノも、至極真剣に見るようにしています。

今回の「生徒会の一存」の出だしの部分、私としては、いつも通りかなり真面目なレベルで激しく同意していました。

「会長は何読むんですか?」

こう聞かれたアカちゃん会長が、堂々と「あかずきんちゃん」の絵本を見せてつつ、述べた言葉は、自分の思いを代弁してくれているようにも思いました。

「大人になると、一周回ってやっぱり絵本に帰ってくるんだよ。そういうもんなんだよ、大人って・・・(中略)数々の難しい本を読みつくしてからの原点回帰よ」

おぉ、さすが会長!と思ってしまいました。きっと、私も原点回帰なのです。だから、私もアニメや特撮ヒーローモノを真剣に見ているわけです!と思っていたら、それも束の間でした。

「「うさぎとかめ」に始まり、徐々にレベルが上がっていって(この間、映像は「かさじぞう」と「はなさかじいさん」にレベルアップ)、最近では最も難解とされる「しらゆきひめ」まで行って、再び「あかずきん」に戻る私・・・大人ぁ~!」

-ガクッ-

こう考えると、原点回帰は難しいです。原点回帰は、大切なことだと思うのですが、どこまで行って原点に帰ってきているのかというところがポイントなのでしょう。そして、原点回帰した時点で、どれだけ学んでそこに帰ってきているのかというところも重要なのだろうと思われます。人間は、そうした原点回帰を繰り返し、それを繰り返す毎に、「どこまで行ってきたか」という距離を遠く、深めていきながら、多くのことを学んでいるような気がします。私の場合は、ある意味で死の淵でした(「死の淵から得られるもの」参照)。

原点回帰の姿は、各個人のペースややり方があるのでしょうから、それで良いのだと思います。アカちゃん会長の場合は、アカちゃん会長なりの原点回帰があって然るべきです。今回は、「オオカミとお婆ちゃんの関係性」について考えてみるとのことですから、それを大いに突き詰めたら良いのでしょう。

会長、頑張ってください!応援しております。

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大切な「楽しかったから」

2009年11月28日 | 日常

上野の国立科学博物館で、大学サイエンスフェスタというイベントが開催されています。開催期間が、Satage1からSgate3の3つに分かれており、各Stageで複数の大学が入れ代わりで、様々な展示をしてくれています。

先日、Stage1の開催期間中、たまたま科学博物館に遊びに行ったうちの娘と息子が、完全にこれにハマッてしまい、今日、わざわざこれのStage2を見に行くためだけに、国立科学博物館まで足を運びました。

-印象に残っている展示はどこの大学のものですか-

アンケート用紙にあった質問に対する娘の答えは、全てにマルをつけて、ほぼ全部に「楽しかったから」というものでした(右の写真では、2つほどマルをつけていませんが、結局、全部にマルをつけていました)。たしかに、娘も息子も、本当に楽しそうにしていましたので、このアンケートの答えには納得です。また、こういう単純な「楽しかった」という感情が、とても大切なのではないかとも思います。こんな単純なことをきっかけに、子供たちが科学に対して興味を持ってくれるのであれば、とても喜ばしいことだと思うのでした。

子供たちに対して、丁寧な説明をして下さっていた説明員の方をはじめ、こうした機会を下さった関係者の方々には心から感謝です。そして、Stage3もよろしくお願いします。

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始まった神在祭

2009年11月27日 | 日本

昨日から、出雲大社では「神在祭」が始まりました。このお祭りの期間中、日本中の神様は出雲に集まって会議をすると言われています。

そして、このことは10月を「神無月」と呼ぶこととも関係しています。つまり、「神無月」では、日本中の神様が出雲に出かけられてしまうので、「神がいない月」ということで、「神無月」と呼ぶという見方があるのです。したがって、神々が集う出雲においては、逆に「神がいる月」になるので、10月は「神在月」と呼ばれます。「神在祭」は、旧暦の10月に行われるものであり、今年は昨日から始まったということです。

ところで、こうした月の呼び名を含めて、出雲はとても不思議な場所だと思います。昔の口遊(くちずさみ)で「雲太、和二、京三」というのがあるそうです。これは川について、「坂東太郎」(利根川)、筑紫二郎(筑後川)、四国三郎(吉野川)等と言われるのと同じように、建物の大きさの順番を表していると考えられています。即ち、「出雲の出雲大社、奈良の東大寺大仏殿、京都の大極殿」の順番で大きかったということです。

出雲大社の大きさについては、かつての本殿が16丈(48m)や32丈(96m)だったという話もあります。それは長らく根拠もない伝説という見方もあったようですが、2000年、出雲大社で巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発見され、「巨大な建造物」は実在していたことが、広く認められるようになりました。最近の研究によると、これは13世紀に巨大な建造物が建てられたことを裏付けるものであるとの説が有力のようですが、いずれにせよ、出雲の地にそれだけ大きなものが建てられるだけの理由があったということは間違いないでしょう。

その理由に関しては、既に本ブログの中でも、何度か言及している通りであり、そもそもの日本建国の祖は、出雲の大国主大神であったからだろうというものです。(「東国の神々へのご挨拶」、「日本建国史の再考」、「「国譲り」の二面性」参照)。このあたりの歴史の真相は、もうしばらく時間をかけて解明していくことになるのだろうと思います。

ちなみに余談ですが、日本の古代史については、先日、纒向遺跡で大型の建物群が発見されたことで、邪馬台国の話題が盛んになりました。その議論の中で、一部では邪馬台国畿内説も声高に叫ばれたような印象も受けますが、私見は、邪馬台国は北九州にあり、畿内には、それとは別の王朝(出雲や吉備等の連合国家)が存在したのではないかというものです。

北九州にあった邪馬台国は、中国大陸のゲートである朝鮮半島から近く、その要所を抑えることで、中国大陸に対して、畿内の大和王朝等、他を寄せ付けない存在感を持つことができたのではないかと考えます。邪馬台国の記述は、「魏志倭人伝」という中国側の文献で多く取り上げられている一方で、日本国内における記述は不十分であると言われています。このあたりは、文献が限られているが故の問題なので、一概に結論を導き出すことはできませんが、逆に考えれば、中国側の文献ばかりで取り上げられるということ自体に、邪馬台国が北九州にあったのではないかと考えさせるポイントがあるのではないかと思うのです。

いずれにせよ、もし日本建国の祖が出雲大社の大国主大神であるとしたら、日本の神々が、そこに集まってどんな何を話しているのかは、大変興味深いところです。本来、「神在祭」は縁結び等の協議をすることになっているそうですが、今後の日本の行く末についても、きっと神様同士で話をしたりするのだろう等とも考えてしまいます。きっと下界で行われている「事業仕分け」のような殺伐とした会議ではなく、もう少し談笑に近い会議ではないかと勝手に想像してみたり・・・。

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選ぶべき言葉

2009年11月26日 | 独り言

鳩山首相が、政治資金問題でずいぶんと苦しんでいるように見えます。

これについて、「ブーメラン効果」等という言葉を使う人もいます。野党時代、当時の与党の方々に対して、ずいぶんと責め立てていた鳩山さんの言葉が、そっくりそのまま、ご本人に返ってきてしまったことを表現しているそうです。

ただ、これは鳩山さんに限らず、あらゆる人にも言えることでしょう。

人間はとかく感情的になったり、目先の利益に惑わされた発言をしてしまったりしますが、本来、何か言葉を発するときには、将来、自分が言われても構わないと思える言葉を選ばなければなりません。

-お手並み拝見いたします-

基本的に私は、私とは違うやり方に対して、全てこれで返すようにしています。相手が間違っていれば、それはいずれ、結果として明確に出るでしょうし、また一方で、将来的に私が言われる分には一向に構いません。むしろ私は、他人から「お手並み拝見します」と言われるのは、本望であると考えています。

言葉を発するときには、冷静に自分を見つめなおし、あらゆる可能性を考慮した上で、「将来、自分が言われたらどうなのか」を、よくシミュレーションしてからにすると良いのではないかと思うのです。

きっと鳩山さんは、それを教えてくれているのでしょう。

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お賽銭モデルの提唱

2009年11月25日 | 科学

世界経済のほとんどは市場主義で回っています。その市場において取引される財は、需要と供給のバランスで価格が決まるという話があります。右図のように財の価格を縦軸、数量を横軸にとった場合、需要と供給の関係から均衡する点(需要曲線と供給曲線が交わる点)が定められ、それから均衡価格と均衡数量が求められます。このうちの均衡価格が、いわゆる私たちが市場において取引で用いる「価格」です。そして供給者の収入は、均衡価格と均衡数量を掛け合わせたオレンジ色の面積の部分になるわけです。もちろん、経済学の中では、このほかの様々な要因を取り入れつつ、複雑なロジックを組み合わせていくことになりますが、従来の市場が、概ねこうした理論で説明できていたということは、まず間違いないだろうと思います。

ところで、情報化社会が進展していく中で、世界における情報産業の比率が高まり、コンテンツやアプリケーションといったソフトが数多く流通してくるようになると、状況は大きく変わってきます。それは、コンテンツやアプリケーションというようなソフトが、技術的にいくらでもコピーできてしまうという点、見逃すわけにはいけないからです。特に、インターネットの発達により、ソフトの流通に統制が効かなくなると、そのコピー数は無限になるわけで、従来の経済学で考えられていた「数量」の概念が崩れるのです。また違法コピーされたソフトが、インターネットで簡単に入手できるような状況になると、「価格」の概念も、同時に崩壊することになります。

こうした新しいソフトの時代においては、経済学的な観点からも、どのようなロジックで価格が決まるかというモデルを構築することは、極めて重要であると言うことができると思います。ここで私は、従来の需要と供給のバランスから価格を導き出すのではなく、需要者側が一方的に価格を決める「お賽銭モデル」を提唱したいと考えます。

「お賽銭モデル」というのは、細かな説明をする必要もなく、神社等で参拝者が投げ入れるお賽銭のような価格決定モデルということです。神社に参拝した人は、特に投げ入れるお賽銭の金額を決められているわけではありませんし、またその義務を負っているわけでもありません。神社に行き、お賽銭箱の前で何となく財布を開いて、そこに入っている小銭の中から、適当に金額を決めて払っているわけです。支払う金額のみならず、そもそもお金を支払うかどうかまでもが、支払う側の自由意思によって、決められている点が、この「お賽銭モデル」のポイントになります。

これまで財の価格というのは、供給者側で設定されるというのが、市場取引における主流ではなかったかと思います。もちろん、正確を期すならば、けっして供給者が勝手に決めているわけではありません。しかしそれでも、通常、多くのモノが取引されるお店では、諸々の状況を勘案しながらも、最終的には、供給者であるお店が価格を設定するケースがほとんどです。そして需要者である消費者や利用者は、その価格と自らの懐具合とを見比べながら、購買活動を決定するというのが市場の一般的な姿ではないかと思うのです。

しかし、従来の「数量」や「価格」の概念が崩壊してしまっているソフトのような財について、供給者ばかりが価格を設定するというのには、いささか無理が生じているのではないかと考えます。そこで注目するのが需要曲線です。

需要曲線は、需要者の「買いたい」という意欲を表したものであり、価格と需要量の関係を図示したものです。一般的には、高くても買いたいという人は少なく、安くなれば買いたいという人が多くなるため、右下がりの線となります。そういう意味で、この曲線は、「これくらいだったら買ってもよい」と考える人の分布を表しているとも言えるでしょう。

ここで私は、需要曲線の少し下に「支払曲線」というのを描いてみました。これが新しい価格の考え方であり、これこそが「お賽銭モデル」で言うところの需要者が決める「価格」です。本来、「お賽銭モデル」的には、需要曲線が「これくらいだったら買ってもよい」という需要者の購買意欲を示しているのであれば、この財を渡したら、無条件に需要者がそれに見合う需要曲線通りの金額を支払ってくれると解釈したいところです。つまり、いちいち「支払曲線」等というものを描かず、需要曲線こそが価格曲線であり、「需要曲線こそが価格である」と考えたいところではあります。

しかし、実際には需要者は、割安感を求めるものです。従来の経済学的な思考で言えば、需要者が割安感を求めると、供給者は割安感を求めない他の需要者に財を売り渡してしまうので、そういう需要者は購入ができなくなることになります。つまり、需要曲線というのは、あくまでも需要者間での競争があることを前提に、需要者が他の需要者との競争に負けないような価格を表したものとも言えるわけです。従来のモデルからすれば、そうした競争環境があるからこそ、需要者が支払う価格(均衡価格)が需要曲線に乗るのだろうと思います。しかし、「お賽銭モデル」においては、あくまでも需要者の自由意思によって価格が決定するため、必ずしもその価格が従来の経済学で言うところの需要曲線と重なるとは言えず、それよりは若干、具体的には割安感を得られる程度、下回る位置で、別の曲線を描く必要があるのではないかと考えた次第です(図の例は、文字通り「お賽銭」のように小銭ばかりを投げ入れるような、かなりケチった需要者のイメージです)。

財の価格設定について、ここまで需要者の意思を取り入れた経済モデルは、これまでの競争原理主義的な市場で十分に機能しなかったかもしれません。しかし、実際に長年にわたる神社の運営は、こうしたモデルによって成り立ってきたことは事実です。また通信インフラの発展とともに、需要者と供給者との間に、より直接的なコミュニケーションが可能になったことで、そのモデルが広く市場に受け入れられる素地も整ってきたのではないかと思います(「次時代コンテンツの評価」、「報酬は感謝・感動の証」参照)。

またもうひとつ、ここで注目すべきは、供給者の収入額の分布です。供給者の収入は、図で言うところの緑色に塗りつぶした部分になるわけですが、これが財の出回る数量が多ければ多いほど、大きく伸びていくという点です。現在のインターネットでは、ソフトがネット上に出回るというのは、違法コピーが流通するという意味で、とかくネガティブに捉えられてきました。しかし、「お賽銭モデル」においては、そうしたソフト流通の無限の広がりが、供給者への収入増へと反映されていくわけです。せっかくのインターネットですから、ネガティブな捉え方をするのではなく、よりよい方向にその特性を活かすことができたらと願うばかりです(「大量犯罪者時代への分岐」参照)。

もちろん、価格決定のモデルだけを示したところで、それだけで社会を動かすことはできませんし、今のままの仕組みでは、「お賽銭モデル」を機能させることは不可能です。これを具現化するためには、いくつかの仕組みが必要になります(「インターネットのリアル化」、「携帯電話システムの強み」、「新コンピューターシステム」等参照)。しかし、少なくとも、そうした新しい仕組みが生み出すものによって、市場のあり方は大きく変わってくるでしょうし、また経済学という学術的なフィールドにおいても、いくつか大きな変化が生まれてくるのではないかと思うのでした。

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与件として考えない天皇制

2009年11月24日 | 日本

天皇制については、いろいろな考え方があると思います。私は、特に維持論者でも、廃止論者でもなく、国民にとって必要であれば維持をすればいいし、必要ないなら廃止をすればいい程度にしか思っていません。ただ少なくとも、天皇制を聖域化して、その存廃の議論すらさせないような考え方があるとするのなら、それには真っ向反対したいと思います。

天皇は、この国唯一の主ではなく、この国及びこの国の主たる国民の象徴です。天皇制の存廃は、当然、この国の主たる国民が決められて然るべきです。憲法第1条の条文は以下の通りとなっています。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

天皇制については、まずこの基本的な大原則をきちんと押さえておく必要があるでしょう。

そして私自身は、天皇の「象徴」という位置付けからすると、今日の天皇に対する敬語の使われ方に、少なからぬ違和感を覚えています。天皇に対しては、他の一般の人々に対するものとは異なる尊敬語を用いることが多いようですが、これは天皇を「象徴」以上の存在として、捉えているような印象を受けるのです。

もし、天皇が「国民統合の象徴」であるならば、それは自分たちを含めた国民を鏡に映したような存在です。この関係は対等であり、けっして上下ではありません。もちろん、「一国民」と「国民統合の象徴」では、「個体 vs 全体象徴」であり、「全体象徴」が「個体」より重いという論理はあるかもしれません。しかし、「全体」はあくまでも「個体」の集合に過ぎず、「個体」を軽んじる「全体」が、まともに機能するはずはありません。「個体」と「全体象徴」は、互いに尊重し合わなければならず、それは上下関係というよりも、むしろ役割分担と考えるべきではないかと思うのです。

したがって私は、「一国民」と「国民統合の象徴」とを目前に置いて、事の軽重を論じようということ自体が、そもそも意味のないものと考えます。その上で、天皇を軽んじることは、自分自身や他の国民の方々を軽んじることにもなるでしょうから、それは控えるべきだと考えます。しかし、天皇ばかりを一方的に上に奉るような敬語を用いるのは、「象徴天皇」に対して適切ではないだろうと思うのです。もし、そうした敬語を使うのであれば、一律に全ての国民に対して、それを用いるべきでしょう。

このように考えていくと、天皇や皇族の方々ばかりを特別扱いした言葉遣いや接し方に対しては、少なからぬ疑問を覚えざるを得ないのです。

また天皇については、日本国を統べた偉大な存在であり、長い歴史を引き継いできたトップという見方もあるでしょう。そうした歴史的見地から、天皇を特別扱いする立場も分からないではありません。

しかし、長い歴史を真剣に見つめていくと、天皇に関しては、必ずしもポジティブな部分だけでなく、裏切りや反逆といったネガティブな側面も見逃すわけにはいかなくなります。このことは、天皇の正統性を根本から揺るがすのであり、正直、「必要ならいればいいし、不要ならいなくてもいい」程度の存在にしかなり得ないということにもなるのです(「日本建国史の再考」、「「右翼」との向き合い方」等参照)。

こうした歴史的な見地を含めてみても、必ずしも、天皇制の議論を聖域化して、未来永劫守り続けなければいけないというのは当たらないと考えます。そういう意味で、この国の国民は、天皇制を動かすことのできない与件として考えず、常にその必要性を吟味したうえで、広く議論をしていけばよいのだろうと思うのです。

《おまけ》
ここでは、天皇制の存廃について、国民の立場から考えてみましたが、一方で天皇ご本人、あるいは皇族の方々の立場から、それを考えるということもあり得るのだろうと思います。現在の皇太子は、天皇制と自らの家庭という狭間の中で、いろいろと悩まれている部分もあるのではないかと考えます。この問題は、国民にとっての問題であると同時に、天皇やその周辺にいらっしゃる皇族の方々にとっての重大な問題でもあるのです。天皇制に関しては、こうした皇族の方々においても、動かすことのできない与件として考えるのではなく、常にその必要性を熟考してみることが許されてもよいのではないかと思うのでした。

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大統領のお辞儀

2009年11月23日 | 社会

アメリカのオバマ大統領が、天皇に対して深々とお辞儀をしたということで、軽く話題になりました。

かつての戦勝国でもあり、今日においても世界の覇権国を自負するアメリカの価値観からすると、とんでもないことであることは理解できます。したがって、アメリカ国内におけるオバマ大統領に対する批判も分からないではありません。

しかし、これまでのアメリカ的価値観が限界に近づいていることは、やはり間違いないでしょう。そして、そうした流れのなかで、相手に対して敬意を表する意味でのお辞儀の文化や精神は、むしろこれからの新しい時代において、アメリカが積極的に学んでいかなければならないことではないかと思うのです。

もし、アメリカの方々が、お辞儀に対して、自分を落としめる卑屈な行為と捉えているとするのなら、それは大いに的外れです。このことは、日本人同士であれば、説明なしに極めて簡単に理解できることでしょう。むしろ相手に対して敬意を表するお辞儀は、その人の礼節をわきまえた人間性や、相手をきちんと受け入れることができる度量を示すという意味で、非常に立派な行為であると考えるべきです。

これから先、アメリカはこれまでの時代を振り返り、イスラム世界や中東地域にあるような反米思想、それを生み出してしまっている自国の限界に対して、どのように向き合っていくべきかについて、真剣に考えなければいけません。戦争や武力による平和維持の継続には、多大な犠牲とコスト負担を伴います。これまでのアメリカの手法によって、世界の秩序が保たれるのであれば、それに越したことはありませんが、あらゆる資源は有限であり、これまでのアメリカ的手法では、世界の秩序を保ち続けられないことは、既に明白であろうと思うのです。アメリカの方々には、もっと積極的に相手を受け入れることを示す努力が必要になってくると思われます。こうした現状のなか、アメリカが学ぶべきヒントは、相手への敬意をきちんと身をもって表すお辞儀の文化、あるいは精神に隠されていると思えてなりません。

もちろん、学ぶのはご本人たちですから、これをアメリカの方々に無理強いするわけにもいきません。何事も学ぶには、本人たちの自主性が求められます。ただ私は、一人の日本人として、かつての近代国家誕生以降、常に学ぶ対象であったアメリカという国に対して、せめてもの恩返しの意味で、日本の側から学ぶべきものがあることを伝えておきたいと思うのです(「脱亜入欧の終焉」参照)。そしてまた一方で、今回、アメリカのトップである大統領が、日本において、深々とお辞儀をされていたというのは、アメリカに新しい時代が到来したことを感じさせるものであり、大いに歓迎したいと思います。

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パーソナルリアリティの獲得

2009年11月22日 | 歌詞&台詞

とある科学の超電磁砲」、冒頭の授業風景で、先生がこんなことを言っていました。

======================
・・・重要なのは、パーソナルリアリティ。
つまり、自分だけの現実を獲得するということだ。
これは、超能力といわれるものの基盤にほかならない。
そして、パーソナルリアリティを理解するうえで、避けて通ることのできないものが、ハイゼンベルグが提唱した不確定原理をもとにする量子論だ。
パーソナルリアリティと量子論。ともに共通するのは、それが確率論に根ざしているという点だ。例えば、諸君はシュレディンガーの猫・・・
======================

こういう台詞が出てくると、本当にビックリしてしまいます。さらりと流してしまうかもしれませんが、ここにはとても重要な内容が含まれていると思うのです。

「自分だけの現実」は、一歩間違えると「妄想」にしかなりません。しかし、そこに科学的見地からの解釈や裏付けがなされると、その「妄想」は、単なる「妄想」の域を超え、通常の一般的な論理では説明がつかない「超能力」へと発展していくのでしょう。

こういう内容をそっと台詞に忍ばせる、日本のアニメは、つくづく大したものだと思います。

《参考》
創造主の正体
妄想と現実の狭間
確からしい四次元の存在
多世界解釈の不思議」等

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声優のハリウッドスター化

2009年11月21日 | 産業

-声優で一生食べていけるって、マジで思ってるの?そんなの一握りでしょ?-

キディ・ガーランド」を見ていたら、こんな台詞がありました。たしかに、それは事実だと思いますが、同時にとても重大な問題だとも思うのです。

率直に言って、日本のアニメーションは、世界に誇るべき文化であり、その作品群の水準は、アメリカのハリウッドにも比肩するものだと思います。当然のことながら、それだけ素晴らしい作品のなかで、キャストとして演技をされている声優の方々というのは、ハリウッドスターにも匹敵するくらいの評価を得て、然るべきでしょう。しかし、現状では、そういう評価は得られていませんし、また声優の方々の生活を支えていく仕組みも、極めて乏しいと言うほかありません。だからこそ、冒頭のような台詞が、面白話として、出てきてしまうわけです。そしてまた、これは声優のみならず、日本のアニメーション制作に関わっている、あらゆる方々に共通して言えることだと思います。私は、これが大変残念でなりません(「日本に眠る宝物」等参照)。

こうした問題について、いろいろな議論があろうかと思いますが、話は極めてシンプルです。つまり、現在のメディアシステムにおいて、アニメーション制作をされているようなクリエイターの方々に、直接、お金を入れることができる仕組みが、決定的に欠けているということが問題の本質であろうと考えます。

それは、テレビというメディアが流通媒体として影響力を持ちすぎている点、テレビ収益モデルとして広告を主軸としている点等に、大きな原因があると言えるでしょう(「広告業が直面する問題点」等参照)。現在、インターネットにおいて、いくつかの試みがなされてはいますが、今の仕組みによってのみでは、こうした問題を根本的に解決することはできないと思います(「同時に見える限界と始まり」等参照)。

冒頭の台詞のように、アニメーションの作中、声優さん自身がその演技において、声優という自らの職業の厳しさを伝えるというのは、それはそれで結構なことです。しかし、周囲にいる関係者が、それを看過しているようではいけないように思います。

日本には、世界に誇るべき文化があるのです。その文化を支えてくれている方々に対して敬意を表するのはもちろんのこと、それに対して、きちんと「対価を支払う」というかたちで示せる仕組みがないといけません。本来、それこそがメディアシステムが果たすべき役割のはずです。

こうした状況が続くようであれば、私自身、多くの日本の声優さんたちが、声優業できちんとした評価を得て、生計を立てられるようなメディアシステムを構築していきます。そして、それが確立して、日本のアニメーションが幅広く世界において認められるようになれば、日本の声優さんたちは、今で言うところのハリウッドスターのような扱いを受けるようになるでしょう。まだまだ、これからが楽しみです。

《おまけ》
厳密に言うと、今のハリウッドスターというのは、現在のメディアシステムの限界故に、才能に比して評価や報酬が過大であると言えるため、新しいオープンメディアで活躍する声優が、現在とまったく同じようなハリウッドスター化するということはあり得ないと思います(「被害者意識を乗り越えて」参照)。しかし、私としては、あまりに過小評価されている声優の方々が、少しでも多くの評価や報酬を得て欲しいという願いを込めて、敢えてここでは、「ハリウッドスター化」という表現を使いました。

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弱点だらけの強面の人

2009年11月20日 | 短編

強面の人が恐いというのは、物事の一面に過ぎないと思います。

人が恐い顔をしているのは、何かを守ろうとしているからであり、そこにこそ弱点があるとも言えるでしょう。強面を見たら「恐い人」と怖じ気づくのではなく、「弱い人」と見ることもできるはずです。

すごく恐い顔をして、常に怒鳴り散らしているような人に至っては、ツッコミどころ満載の「弱点だらけの人」かもしれません。

逆に言うと、相手を強面にさせてしまっているのは、その人に「弱点を隠さなければ」と警戒させてしまっている貴方自身の問題でもあります。強面の人をニッコリ笑わせることが、一番平和的であり、最も望ましいかたちでしょう。

《参考》
他人は自分の鏡
正中線を保つことの重要性
抜かせてはならぬ最強の剣」等

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自力救済と他力本願

2009年11月19日 | 人生

先日、話をしていた相手から「貴方がやろうとしていることは、自力救済ですか?他力本願ですか?」という質問を受けました。

厳密な用語の定義はさておき、趣旨としては、なかなか面白い質問だと思います。私の答えは、「両方とも真」、つまり「自力救済でもあり、他力本願でもある」ということです。

ズルい答えに聞こえるかもしれませんが、これは、至極当然のことでしょう。人間は、全て自分一人でできるというほど大層な存在ではなく、そう考える人がいるとしたら、それは単なる驕りでしかありません。一方で、自分は何もせず、何でもかんでも他人任せにするような人も、単なる甘ったれで、自分自身でやり遂げる努力が求められることになるでしょう。

大切なことは、「両方とも真」であることを知りつつ、どこで線引きをするかということです。

自分がやるべきことは、徹底的に自分一人でやり遂げるべきです。しかし、他人ができることや他人がすべきことにまで、足を踏み入れてしまうと、その人自身を甘やかすことになり、結果として、自分のためにも、その人のためにもなりません。そういう意味で、他人事には一切介入せず、他力本願してしまうという姿勢も非常に重要だと思うのです。

自分ができるということは、「自分が優れている」ということです。これは同時に、「他者が劣っている」ということを意味することにもなります。しかし、真実はそれでは済まされません。「自分が優れている」ことは事実であり、真実ながらも、同時に他の点においては、「他者が優れている」ことも事実であり、その重要性を忘れてはならないのです。即ち、「自分が優れている」、「他者が優れている」というのは、けっして相反するものではなく、両方が同時に成り立ち得ることを見極めなければならないということです。

このあたりの発想は、本ブログでも、繰り返し述べている「物事の二面性」に通ずるものがあります(「常に変化する主従関係」、「交錯する正義と悪」、「大きな矛盾を抱えるべし」等参照)。別の表現をすれば、「自分は神であり、他者もまた神である」といったことになるのかもしれません(「「自分教」の薦め」参照)。

こうした線引きができない人、自分と他者との間合いを掴めない人は、それを見切る力を磨かれてはどうかと思います。それができるようになると、人生を割り切れるようになり、だいぶ楽しく過ごせるようになるのではないかと考えます。

《おまけ》
今の政治家の方々が展開される議論には、とても失望しますし、がっかりさせられることも多いです。しかし、ひとまず私としては、現在の選挙制度において、有権者としての権利を行使し、自分ができることは精一杯した、「自力救済」の努力を行ったという自負もあります。国会における論戦は、私が参加できるものではないので、とりあえずは国会議員に選出された方々にお任せする、「他力本願」しかありません。将来にわたって、現在の状況に甘んじようとは、全く思いませんが、ひとまず今日時点では、「自力救済」と「他力本願」の線引きをしておいて、ゆっくりと人生を楽しむということが大切なのだろうと思います。諸行無常、諸法無我・・・。

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Twitterのまとめ投稿

2009年11月18日 | 日常

ブログの機能に、「Twitterつぶやきまとめ投稿」というのが追加されたので、設定してみました。一応、Twitterの方は、始めて以降、一日も休まず投稿しているので、今後はシステム的な問題が発生しない限り、毎日Twitterからの自動投稿がなされるようです。

Twitterは、文字通り「つぶやきな」ので、基本的に誰かにメッセージを送るわけでもなく、ただ好き勝手に書いているだけです。それに対して、このブログの方は、RSSでチェックしていただいている方もいらっしゃるようなので、ある程度、読まれることを前提にしています。

そういう意味で、Twitterで書くようなつぶやく程度の話をブログに掲載するのは、少々、気が引けるところではあります。ただ、Twitterではどうしても書き捨てになってしまい、せっかく書いたものを日記帳代わりにまとめておくという意味で、ブログへの掲載をしてみたいと思った次第です。

ブログが、どうしようもないゴミの山になるかもしれませんが、そうなったら、その時に考えます。正直、このあたりは気まぐれなので、長い目で見たらどうなるかは分かりませんが、とりあえずは、そういうことでTwitterのまとめ投稿を始めてみたいと思います。

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まだ遊びのインターネット

2009年11月17日 | 独り言

自動車の良さは、馬車の時代があったからこそ、認められたのだと思います(「過去への感謝、未来の創造」参照)。

これは、インターネットにも当てはまるでしょう。今のインターネットは、まだまだお遊びの道具に過ぎず、これから先の世界を支える社会インフラになるだけの力はありません。謂わば、今のインターネットは馬車であり、本命となる自動車の新しいインターネットの時代は、まだまだこれからやって来るのです。

それを見誤って、今のインターネットで、これからの世界も変わり続けると信じるプレイヤー、自分たちが世界を変えた等と驕ってしまっているプレイヤーには、確実に退出していただくことになるでしょう。

一応、言っておきました。あとは、実物を見せて証明することになるのだと思います(「インターネットのリアル化」、「責任を伴う「場」の提供」、「携帯電話システムの強み」等参照)。

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おもちゃを大切にしよう

2009年11月16日 | ヒーロー&アニメ

プリキュアの映画、「フレッシュプリキュア! おもちゃの国は秘密がいっぱい!?」を見てきました。意外と良かったです。プリキュアシリーズは、個人的に「ふたりはプリキュアSplashStar」がピークではなかったかという思いもあり、最近のプリキュアには、少々、不信感があったりもするのですが、おもちゃをテーマとしていた今回の映画のメッセージは、なかなか良かったのではないかと思います。

以下、ネタバレ注意です。

テーマは、子供たちに捨てられた「おもちゃの復讐」です。子供たちの都合で、一方的に捨てられてしまったおもちゃたちの怨念を集めた、おもちゃの国の魔神・トイマジンが世界征服を企むというストーリーで、過去におもちゃを捨ててしまったことのある主人公・桃園ラブ(キュアピーチ)が、その過去と葛藤しながら戦うという展開です。

ポイントは、トイマジンが子供たちを単純に憎んでいるわけではないというところでしょう。トイマジンは、子供たちのことを大好きだったが故に、自分たちを捨てた子供たちに仕返しをしようとしているのであり、戦いの末、プリキュアに敗れたトイマジンは、本来のテディベアの姿に戻り、新たにテディベア好きな子供に引き取られていくというエンディングは、実に微笑ましいものだったと思います。

ところで、今回の映画からは、「おもちゃを大切にしよう」という子供たちに対するメッセージのみならず、別の視点から、おもちゃ会社に対するメッセージも読み取る必要があるのではないかと思いました。つまり、おもちゃが子供たちに捨てられてしまうのは、単純に「子供たちが飽きやすいから」、「子供たちが捨ててしまうから」では済まされない、別の原因があると思うのです。それは「子供たちに飽きさせてしまう」、「子供たちに捨てさせてしまう」おもちゃを作っている大人側の問題もあるのではないかということです。

おもちゃ会社が、商品を売り上げていく上で、子供たちの心を掴んでくれるテレビ番組のキャラクターたちは非常に重要です。そして、これはテレビの番組制作にも密接に関わってくる事項であるため、現在では、おもちゃ会社がテレビ番組のスポンサーとなって、それをテコにして、自社のキャラクター商品として売り上げていくというのが、ひとつの大きなビジネスモデルとして成立しています。そのモデルの中で、たくさんのおもちゃを売り上げていくためには、多くの新しいキャラクターやアイテムを登場させて、その回転率を上げていくことになります。今日のテレビ番組の制作というのは、多かれ少なかれ、そうしたスポンサーの影響を受けざるを得ないと言えるでしょう。そうした商業主義的色合いが強まっていくと、既に生み出された商品(キャラクターやアイテム)は、次々と捨てられていくことになり、このサイクルがますます加速されていくことで、捨てられていくおもちゃが増えていくわけです(「仮面ライダーと商業主義」参照)。

プリキュアシリーズで言えば、元祖の「ふたりはプリキュア」から始まって、現在、放送中のタイトルは6つ目になりますが、この間、キャラクターやアイテムは、毎年、変わってしまっています。当然のことながら、キャラクターやアイテムが変わってしまえば、それ以前のタイトル放送時に生み出されたおもちゃたちは、子供たちの遊びの中で、大きく出番を失うわけであり、捨てられる危険に晒されることになるのです。

当然、今回の映画にも、何らかのかたちで、おもちゃに関係するいくつかの会社が関わっているでしょう。私としては、「おもちゃを大切にしよう」という、この映画のメッセージは、何も映画を見に来た子供たちだけに伝えられるべきものではなく、今日において、おもちゃの開発、生産、流通、販売等に関わっている多くの大人(関係者)たちにも通ずるものではないかと思うのです。

けっして、今回の映画制作に関わったおもちゃ関係者の方々に対して、「あなたたちのおもちゃは間違っている」等と自己否定を強要するものではありません。ただ、せっかく良い作品を作っていただいたのですから、そこに込められている「おもちゃを大切にしよう」というメッセージを自分たちのものとしても捉えることができたら、おもちゃの世界(あるいは業界?)は、もっと発展的で、楽しめるものになっていくのではないかと思うのです。

《おまけ》
来春、またまた歴代プリキュアが大集合する映画があるそうです。はっきり言って、去年のプリキュアオールスターズは、非常に良かった(「オールスターズですっ!」参照)ので、次回の映画もかなり期待してしまいます。個人的には、キュアイーグレット・舞の活躍やキュアホワイト・ほのか役のゆかなさんの演技に注目です。あるいは、キュアドリーム・のぞみのボケっぷりも見られたら、もう最高でしょう。いずれにせよ、こうした過去のプリキュアを出してくれるというのは、子供たちの「過去のおもちゃ」の出番を増やしてくれる可能性もあるわけですし、こうした動きをもっとテレビ等でもやってくれたら、また違った効果も出てくるのではないかと思います。

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