常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

お手並み拝見いたしたく

2009年07月31日 | 独り言

ある記事の中に、こんな一文を発見しました。

===================
米Googleは、「YouTubeの目的は、コンテンツクリエイターがオンラインで効果的に収益を上げることだ」と主張している。
===================

これが本当だとするならば、今のところYouTubeは、ほとんど目的を達成できていないように思います。「効果的」という言葉の解釈の幅もあるでしょうが、少なくとも、今のままでは全く話にならないでしょう。これで「ある程度できている」等と言うようなら、もう底が見えてしまったことになりますが、さすがにそんなことはないはずです。

これを真面目にやるためには、少なくとも「著作権管理システム(「「ウェブで管理する」ということ」参照)」と「認証/課金システム(「携帯電話システムの強み」参照)」が必須だと考えます。そのことは、今のインターネットとは別に、新たな「第二インターネット」を構築するのと同じことですが、本当にそこまでやるのでしょうか。やらないのなら、それはそれで「効果的」の意味が、そこまでということなのでしょう。

さてさて、お手並み拝見です。

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軽くアキバ散策しました

2009年07月31日 | 日常

昨日、秋葉原に用事があったのですが、少々、時間があったので、軽く散策してきました。以下、思ったことを3つほど書きます。

■ネットブック

PCが小型化し、通信サービスとセットとして売られるようになっていますが、それがだいぶ定着してきたように思います。一昔前だと、「デスクトップ」、「ノートブック」という括りが一般的でしたが、「ネットブック」と書かれた売り場が、相当広がってきました。そして、やはり思ったとおりですが、OSは「Windows XP」が主流です。「Windows 7」がどうなるかは知りませんが、マイクロソフトは、ますます苦戦を強いられるように思います。それにしても、最近では、「スマートブック」という言葉が出てきてみたり、OSとして「Android」が取り上げられたり、いろいろと試みもなされていますが、10年後、コンピューターはもっと違ったかたちになっていることでしょう(「新コンピューターシステム」等参照)。ここでは面倒くさい説明を省きますが、それをリードしていくのは、間違いなく日本だと思います。

■オシャレ度アップ

「アキバ=オタク」というイメージはあると思います。先日、とあるテレビの番組において、「ギャル vs オタク」というテーマの中、「秋葉原なんか、カッコいい人なんかいないし、気持ち悪い」といったような発言で、ギャルに罵られていたオタクですが、本当にそうだろうかと思ってしまいます。秋葉原を歩いていて、男の目からではありますが、結構、オシャレで清潔感のあるカッコいい人も多いように思うのです。昔は、それほどでもなかったのかもしれませんが、今はだいぶ変わってきているのでしょう。みんな、十分努力しているし、頑張っていると思います(「身だしなみを整えて」参照)。

■文化と知性の発信地

時間が余っていたので、ちょっと休憩していたら、隣に座っていた男子二人が、「咲 - Saki」のマンガを一緒に読みながら、盛り上がっていました。しかし、この光景から、その二人を稚拙な人間と決め付けてはなりません。しばらくすると、マンガをしまって何やら話を始めます。「アインシュタインの・・・」、「量子力学からしたら・・・」、「プラズマが・・・」、何を話しているかは、よく聞き取れませんが、時折、聞こえてくるのは、明らかに科学に関するキーワードです。ここに集う人々は、知性にも溢れていると感じるのです。

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常に変化する主従関係

2009年07月30日 | 人生

世の中は、相反する二つのもから成り立っており、それによって、多くの矛盾や葛藤が生まれます。人生において、多くの矛盾を抱えるということは、そうした世界に生まれた瞬間から運命付けられているようにも思います(「大きな矛盾を抱えるべし」参照)。

表があるから裏がある、光があるから影がある、男がいるから女がいる、生があるから死がある・・・。それぞれ相反する二つがある以上は、それらを全て受け入れていく必要があるのでしょう。ただ、相反するものを全て受け入れるというのは、なかなか難しいことです。自分が男という片側の存在である以上は、それを覆すことはできませんし、自分が生きている存在である以上は、安易に死ぬこともなりません。

私は、こうした矛盾したり、相反する関係性にある物事について、常に変化し続ける環境の下、主従関係を慎重に見極めることが、非常に肝要なのではないかと思います。つまり、それら相反する概念を全て受け入れた上で、何を「主」とし、何を「従」と捉えるかべきかを、置かれた環境やケースに応じて、柔軟に判断し、それに基づいて行動していくということです(例えば、「生きていること」は不変であり、通常、生き続けることは「主」であるはずですが、時によっては、死ぬこと(死ぬ覚悟をすること)を「主」としなければならないこともあるということです)。

そして、ひとつ大切なことは、この主従関係は、けっして絶対的なものではなく、環境やケースに応じて、常に変化していくという点です。主従関係という言葉を持ち出すと、安易に固定化された上下関係のような概念として解される方々もいらっしゃると思います。しかし、私が考える主従関係とは、そうした固定化した上下関係とは異なります。

簡単な例を挙げます。一般的な上司と部下の関係を、固定化した相反する上と下の関係と考えることは容易ですが、これを環境やケースに応じて変化し続ける主従関係と見なすと、必ずしも上司ばかりが「主」になるとは限りません。

組織の全体的な方針や責任については、上司が「主」たる存在となり、それに部下が従うのは言うまでもありません。しかし、一旦、その方針が確定して、部下に任される責任範囲が明確になれば、その範囲内において実務をこなす部下は、あくまでも「主」たる存在となり、その責任範囲を規定した上司は、それを尊重し、従っていかなければなりません(従いたくなければ、あらためて部下の責任範囲を定める必要があります)。この主従関係を、安易に固定化した上下関係と誤解すると、常に「上」にいると思っている上司は偉ぶった態度をとることになりますし、何かと部下の仕事に口を出すようにもなるでしょう。こうした組織で働くことになる部下は、「主」の存在であるにもかかわらず、常に「下」に追いやられ、大いにやる気を殺がれることになるのだと思います。こうした固定化した上下関係と思い込むような双方の誤解は、いずれ組織の運営に大きな支障をきたすことになるでしょう。そして、その結果、組織が崩壊してしまったら、そもそもの上司と部下という上下関係すらが、無に帰すことになるのです。

忘れてはいけないポイントは、主従関係というものが固定化したものではなく、常に変化することをきちんとわきまえるということです。どちらかというと、状況に応じて変化する「役割分担」のような概念に近いかもしれません。

余談ですが、私は「主人」、「家内」という言葉について、それは単に家庭の外での主従関係を表しているのだと理解しています。女性の中で、男性に対して「主人」という言葉を使うことを嫌う方もいらっしゃるようで、その心情も分からないでもないですが、それは固定化された関係ではなく、家庭の外という一場面での関係を言語化したに過ぎないと割り切ってもいいのではないかと思います。

現代の夫婦関係というのは、だいぶ様変わりしていますが、昔は家庭の外の仕事は男性、家の中の仕事は女性という役割分担をしていました。通常、こうした夫婦を指す言葉は、「家庭の外」から使うことが多いため、外での仕事をしている男性を「主」と位置付けて、「主人」という言葉を使ったのでしょう。当然のことながら、家に入れば、家の中の仕事を預かっている女性が「主」になるため、内向けの表現としては、女性を「主人」と呼ぶのが、本来、適当なのではないかと思います。そういう意味で、「主人」という言葉が、絶対的な上下関係を示しているのではないと考えればいいのではないかと思うのです。

話を元に戻します。

パラダイムシフトというのは、社会全体の大きな環境変化です。当然のことながら、あらゆるところで、主従関係は大いに逆転することが予想されます。その中で、主従関係の本質を履き違えて、あたかも自らの「主」たる地位、あるいは「主」と仰ぐ存在の位置づけが固定化されていると勘違いしている人々がいるとすると、それは大きなしっぺ返しを喰らうことになります。実際、私自身、そうなる可能性がある方々も見てきていますが、それはそれとして、しっぺ返しを喰らった後に、きちんと気付かれることになるのでしょうから、そうした自律作用に期待したいと思います。

逆に、自分たちが万年、「従」の存在だと思っていらっしゃる方々もいるように思いますが、それはそれで、大きな勘違いだと考えます。上述の通り、主従関係は、常に変動しているものです。パラダイムシフトというのは、極めて大きな地殻変動であり、それによる主従関係の変化によって、今日の位置付けは大きく変わり得るのです。あるいは、そうしたパラダイムシフトを待たずとも、日常生活での小さなシーン毎において、常に変化は起こり続けているのであり、その瞬間、瞬間における主従関係は、小刻みに移り変わっていると言えるでしょう。その中には、自分が「主」になっている瞬間というのも確実にあるわけで、要は、それを見出せるかどうかだけの違いであるとも言えます。

ちなみに、最近の政治に関して言えば、組織(政党)と個人の主従関係について、しばらく前者を「主」とし、後者を「従」と見なす状況が続いてきたように思います。それは例えば、重要な事案に対しては党議拘束がかかり、政治家個人の信条が押さえつけられるといったところにも表れていると考えます。しかし、大きな時代の変化の中で、個人が特定の組織に従属し続ける条件も変わってきます。そして、きっとこの主従関係も、徐々に逆転してくるように思うのです。

このような、常に変動し続ける主従関係の本質を理解できていれば、ある特定の瞬間、ある特定のシーンにおいて、自らが「主」であることに対して驕ることはないでしょうし、また逆に、自らが「従」であること対して卑屈になることもなくなるだろうと思います。そして、それを見極めることで、繰り返される変化の中にあっても、いちいち振り回される人生を過ごすことはなくなるのではないかと思うのです。

《おまけ》
「侍戦隊シンケンジャー」のテーマは、主従関係にあると思います。主従関係を違えると、組織は組織として機能しませんし、それは特定の組織のみならず、広く社会に通じることであると考えます。時代が移り変わっていく中で、遍在している主従関係がどのように変化をしていくのか、これから注目していきたいところです。

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萌え寺もアリでしょう

2009年07月29日 | 独り言

八王子市にある了法寺というところが、萌えキャラを採用して、話題になっているようです。仏教の関係者の方々からすると、いろいろと思うところもあるのでしょうけれども、仏教に留まらず、本来的な宗教の意義から考えたら、大いにあり得ることでしょう(「偶像崇拝とフィギュア」参照)。

この調子だと、そのうち、我が家の神棚のように、神社にも萌えキャラが進出するかもしれませんね(「ナギ様のご降臨」等参照)。

・・・うん?ないかな?

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責任を伴う「場」の提供

2009年07月29日 | 産業

次世代のコンピューターやネットワークの仕組みについては、このブログの中で、少しずつ整理をしております(「シン・クライアントの潜在力」、「ネットとコンピューターの融合」、「新コンピューターシステム」等参照)が、その内、インターネットの匿名性の問題に関しても、きちんと取り組んでいかなければならないものと考えます。インターネットにおける匿名性は、現実世界から抜け出して、「自由な擬似的世界」を創出するという意味で、ひとつの良さとして働いてきた部分もあるでしょう。しかし、匿名であることに便乗して、無責任な発言や行動をしてしまっては、「自由」の意味を履き違えることになります。このことは、せっかく広く普及してきているインターネットの文化を廃退させてしまう可能性をも孕んでいるため、インターネットを社会インフラとして機能させるための仕事に携わっている方々には、この問題に対して、極めて真剣な対応が求められます。

匿名性で、問題になるもののひとつに、2ちゃんねるのような掲示板でのあらし行為が挙げられます。以下は、ひとつ、私の経験から思うことです。

私は、2ちゃんねるで、実名での書き込みをしたことがあります。それは以前、私が関係した会社で、その会社の顛末について説明責任があると感じたことから、2ちゃんねるを使って、擬似的な記者会見のようなものを行おうとした結果です(当時、会社の人間として、きちんと記者会見を行えるような立場ではありませんでしたが、当の説明責任を果たすべき方々が、雲隠れをしてしまったような状況であったため、そうした行動を取りました)。2ちゃんねるで書き込むスタイルとして、極めて普通のことですが、私が実名で書き込みを行うのに対して、私以外の方々は、おそらく全て匿名で、自分が誰だか分からないようなかたちになっていたように思います。

当然のことながら、私は実名で、正体がばれていますので、それなりの責任感と真剣味を持って、書き込みに臨みました。また、私に対するコメントと分かるものについては、誠意を持ってお答えするように努力もいたしました。いただくコメントの中には、事実認識が誤っているようなご指摘があったりもしたため、そうしたものへの対応を含めて、できる限り事実をお伝えするようなコメントをさせていただきました。ところが、2ちゃんねるでは、複数の場所で、私に関するコメントがなされたため、それらについて全て対応させていただくことはできませんでした。結局、数日間、それなりのやり取りをさせていただきましたが、それでも、私の目が届かないところで書き込まれた内容については、放置してしまうようなかたちになってしまいました。この放置状態になったコメントは、今もインターネット上に残っているようですが、それらのいくつかに対しては、事実誤認も含めて、どうしてもインターネットの匿名性に便乗した無責任な発言である感を排除することができません。これをあらし行為と呼べるかどうかは分かりませんが、「匿名性に便乗」という意味では、大いに同質性があると言えると思います。

あまりにも基本的なことなので、あらためて言うことでもありませんが、「自由」には、それを享受するための責任が求められます。そして、それに相応しい緊張感を持たなければなりません。今のインターネットでは、匿名性に便乗した無責任、無緊張な人々が、やりたい放題にできる仕組みになっている側面を否定できず、これに対する解決策を示し、実行していくことが、これからのインターネットシステムにおいて、極めて肝要ではないかと考えます。

こうした考え方において、私が準備を進めている新しいコンピューターにおける認証の仕組みは、そうしたインターネットの匿名性の問題に対して、非常に有効に作用していくのではないかと思います(「携帯電話システムの強み」参照)。つまり、その新しいコンピューターの利用においては、ネットワークに接続することが大前提であり、その折には、必ず認証プロセスを経ているため、確実にユーザーを特定できるからです。ユーザーの名前を明かすかどうかは別問題として、少なくとも、ユーザー固有の情報が、きちんと固定された状態で、トラックできる仕組みというのは、現状のインターネットの匿名性の問題を解決し得る大きな鍵にはなるのではないかとは思います。ちなみに、ここで言う「きちんと固定された状態」というのは、携帯電話の認証のように、SIMカードといったハードウェアや課金情報と紐付いていることを指しています。現状のインターネットの世界で、最も一般的なIDとパスワードの認証では、なりすましや複数IDの取得等、かなり曖昧で、揺らいだ状態でのユーザー特定を強いられますが、これに対して、上記のような「固定された状態」でのユーザー認証というのは、かなり大きな意味を持つものと考えられます。

もちろん、何かあったときに、自分が特定されてしまうというのは困るという考え方もあるでしょう。それも、まったくその通りだと思います。したがって私は、要は使い分けだと考えており、あくまでも、現在のインターネットの匿名性の仕組みが望ましい領域については、それは厳然と存続していくのだろうと考えています。

新しいシステムが生まれることは、必ずしも古いシステムの消滅を意味するものではありません。匿名性に意味があるサービスや文化があることは確かでしょうし、そうしたものについては、現在のインターネットの仕組みが、機能し続けるということは、ある意味で当然であると考えます。

しかし、インターネットを本当に社会インフラとして機能させようとするのであれば、そこに参加する人々が、それに相応しい責任と緊張感を保つための仕組みを備えていくことも、やはり必要ではないかと思うのです。そして、そうした責任と緊張感を持つということは、通常、現実世界において、私たちが当たり前のようにこなしていることであり、何も特別なことではないと思います。つまり、私たちは、現実世界においても、そうした「場」の使い分けをしているということです。

それは、現実社会においても、「他者との関係を意識し、責任感を持って振舞うべき場」があるのに対して、一方で「他者との関係を気にせず、自分の世界に浸ってリラックスできる場」があるということです。現在のインターネットは、後者の仕組みとしては十分に機能していますが、前者のような仕組みがきちんと確立しているとは思えないのです。そして、後者の仕組みに甘えて、悪乗りしてしまう人々が存在しているが故に、健全な社会インフラとしての発展が阻害されているという側面があるのではないかと考えます。

こうした観点から、まずもって私としては、各個人がきちんとした責任を持って参加できるインターネットの仕組みが必要であると強く感じています。そして、そうした責任を伴う「場」の提供を通じて、インターネットのルールをより現実世界に近似化させ、それを健全なかたちで、社会インフラとして根付かせていくことができるのではないかと思うのです。

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逆コナンなパパ

2009年07月28日 | 独り言

先日、子供から「パパは逆コナン」だと言われました。

理由を聞いたら、名探偵コナンは「見た目は子供、頭脳は大人」だけど、パパは「見た目は大人、頭脳は子供」だそうです。

「失礼な!」と思いながらも、なかなか、うまいことを言うものだと感心いたしました。

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政治家世襲と民主主義

2009年07月28日 | 政治

小泉純一郎さんのご子息、進次郎さんが、対立候補から握手を求められているにもかかわらず、それを無視している動画が話題になっているというので、ちょっと覗いてみました。小泉進次郎さんご自身、「(対立候補よりも)有権者と触れ合いたかった」と弁解をされているようですが、問題の動画を見る限り、その言い訳は少々苦しいのではないかという印象を受けます。非常に個人的な意見ですが、素直に「無視しました。ごめんなさい」と謝ってしまった方が、良かったようにも思います。ただ、そのように弁解したというのは、ご本人の判断なのでしょう。

いずれにせよ、本来、この問題は、あくまでも小泉進次郎さんという一候補者の問題なので、あまり安易に他のテーマに広げるべきではないのかもしれませんが、小泉さんの家系は、周知の通り、代々国会議員であり、政治家の世襲問題という観点から、これを読み解くという見方もあってよいのではないかと思います。それは、彼が政治家として、ほとんど実績がない中で、衆議院選挙の候補者となれるのには、間違いなく父・純一郎さんの影響があるわけですし、また彼の言動がこれだけ注目されるのにも、超有名な世襲候補者だからということは、否定し得ない事実だと考えられるからです。

そこで、ここでは政治家の世襲問題について、少々、考えてみたいと思います。

昨日、今回の衆議院選挙の候補者の内、少なくとも171人が世襲候補であるとのデータが出てきました。政治家の世襲は、一時、大きな話題にもなっていました。この問題に関して、政党の関係者や政治家の方々が、いわば自主規制のかたちで、何かしらの制限をかけるということについて、私自身、特段、反対する理由がありません。自主規制をすべきと思うのならば、自主規制をすればよいし、そういう政党の方針に異議がある方々は、その政党を飛び出せばいいだけの話ですから、それらは関係者の方々の自由意志にお任せすればよいと思います。

そして、私自身、政治家世襲の是非について、政界の方々がどのように取り組まれるかは、あまり本質的な問題ではないと考えています。それは、単純な話、政治家の世襲を認めるか、認めないかについては、国民の投票行動によって決することになるからです(一部の政治家の方が、世襲制限によって出られなくなることも考えられるため、一概に「国民の投票行動によって決する」と言えない部分もあるかもしれません。しかし、それはあくまでも、特定の政党との関係によってのみ通じる話であり、その程度で出られなくなったと嘆く政治家がいるとするならば、それは本気で政治家になろうとする方ではないと判断されるべきでしょう)。

また、「世襲がけしからん」という論についても、それなりによく分かるような気がします。私も政治家の世襲に対して、あまりいいイメージを持っているわけではありませんし、そうした世襲政治家の多くが、それほど優秀な方々であるとも考えていません。あまり断定的な物言いはしたくありませんが、政治家の資質に乏しい方が、するりと政治家になれてしまうという現実を鑑みると、やはり、「世襲はけしからん」と感じてしまいます。ただし、それはあくまでも、一人の有権者である、私個人の考え方です。

一方で、政治家の世襲をよしとしている有権者、そういうことに全く問題意識を感じていない有権者がいることも事実です。そして、そうした民意が反映されるというのも、民主主義のひとつのかたちであり、それはきちんと認められなければなりません。

政界における「世襲制限」の議論は、世襲を是とする有権者がいる一方で、政治家の中に、「世襲は望ましくない」と考えている人々がいるために、噴出したものなのだろうと考えます。それはそれで、大いに結構なことですし、政治家の方々が、自浄作用を働かせようとしている結果だとしたら、歓迎すべき流れでもあると言えます。しかし、そうした政治家自身の考え方を含めて、世襲が本当に問題かどうかを決めるのは、国民一人一人であるということは、けっして忘れてはならない大前提です。

こんな話をしていたら、ある方から、「世襲が問題であるかどうかかも分からない、バカな国民がいるのだから、そうした人々への対策も必要なのだ」というご意見をいただきました。たしかに、そうした見方もあると思います。しかし、もしそうだとしても、バカはバカなりに等しく参加できるというのが、民主主義の大原則でもあります。実際、本当に「バカな国民」という表現が正しいかは分かりませんが、そうした人々の参加も含めて、民主主義というシステムは機能するものであると考えなければならないことは確かなはずです。

かなり横道に逸れた話になりますが、アニメを含む子供向け番組に出てくるような悪役というは、大衆を愚かな存在と決め付け、それを救う(場合によっては滅ぼす)という名目のもと、凶行に及んだりするものです。したがって、悪役は単なる「悪」の存在ではなく、悪役なりの大義があるということです。だからこそ、「悪」であっても、それなりに強かったりするのでしょう。

それは、現実世界においても同じであり、大衆を愚かな存在と決め付け、それを導こうとする人々には、「それなりの大義」があるものだと考えます。ただ、それが故に独善的となり、結果として、悪行を働いてしまうということが多々あるように思うのです(「お節介な救世主の悪性」参照)。

そういう意味で、重要な意思決定について、大衆に委ねるという民主主義の仕組みは、一定の問題、あるいは限界を抱えてはいるものの、それなりの正しさがあるように思います。

話を元に戻して、こうした民主主義という観点から、冒頭の小泉進次郎さんについては、少々、注目してみてはどうかと思います。握手無視のビデオについては、最初に記した通り、あくまでも小泉進次郎さん個人の問題であるため、それと世襲問題を直結して、考える必要はないかもしれません。ただ、単純に政治家世襲の問題を考えた時に、少なくとも超有名世襲候補者である小泉さんに対して、その選挙区にいらっしゃる有権者の方々が、今日の民主主義制度の下、どのような選択を行うのか、非常に興味深く感じることは確かです。

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国会議員と地域の縁

2009年07月27日 | 政治

今回の衆議院選挙において、田中康夫参議院議員が尼崎から立候補するらしいですが、当地では、ずいぶんと苦労をされているとの報道を目にしました。田中さんといえば、長野県知事を務められた方としても有名で、今回の衆議院選挙で地元となる尼崎の方々からすると、「なんで長野から出てきたのだ?」という思いがあるようです。

この心情は、分からないでもありません。現在の衆議院選挙における小選挙区制という制度の下では、ある特定の地域(選挙区)から一人の代表者が選出されるかたちになっており、その地域の代表者として、そこに縁のある人を輩出したいという考え方は、十分に理解できるものではあります。

ただ一方で、衆議院選挙は、あくまでも国の政治を預かる国会議員を選出するものです。国会議員の本分は、言うまでもなく、国レベルの政治問題を扱うことです。この国会議員の本分について、忠実に解釈した場合、地域の有権者の方々が、国会議員に対して地域性を求める際、国政レベルの事柄が、地域の懸案事項と密接に関わるような問題があることが必須でしょう。つまり、国と地域の問題が非常に密接した関係にあるならば、いかに国会議員といえども、その地域の懸案事項について、きちんと把握できていなければならず、地域と縁のある方を選ばなければならないという考え方は、地域の代表者を選ぶという現行の選挙制度との間で、整合性がとれるだろうと思うのです。

しかし、単純な話、本来、地域の問題は、まず地域で解決するべきです。少なくとも、現状の議論を聞く限りにおいて、国と地域の問題が、非常に密接な関係にあるケースというのは、選挙における論点として、それほど大きな比重を占めるようには思えません。基本的に、地域の問題に絡む政治については、別途、市議会議員や県議会議員等、地方議員の方々が担うというのが通常の姿です。

主権者であり、この国の行く末を決めるべき有権者の方々が、こうした地方政治を含む全体の政治システムのあり様を忘れてしまってはなりません。衆議院選挙が、一人の地域代表者を選ぶという小選挙区制というシステムで成り立っていることばかりに気を取られ、安易に「地域との縁」という言葉を発しているとするならば、それはあまり好ましいことではないように思うのです。

ただし、私は、国会議員の地域性を全く否定しているわけではありません。日本という国の強みを活かしていく中で、それぞれの地域が持っている特性や資源を有効に活かしていくことの重要性について、国政のレベルできちんと説明できるのであれば、話は全く異なります。国政選挙の候補者たちは、当該地域での活動や取り組みを通じて、日本という国のみならず、国際的にも大きく貢献できることを大いに主張するべきでしょう。そして、その折には、地域の一員たる有権者の方々が、そうした候補者に票を投じればよいのではないかと思います。当然、それを語れる候補者というのは、(出身地等を問わず)当該地域に対する理解が深い人と言えるでしょうし、ある意味では、地域性を有した政治家と呼べるのではないかと思います。

私が問題とするのは、現在、多くの国会議員(あるいは候補者)と地域との関係が、そうした繋がりによって成り立っていないのではないかという可能性です。

繰り返しですが、国家議員の役割は、地方議員のそれとは明確に異なります。国会議員が考えるべきは、日本という国全体で取り組むべき内政問題に留まらず、外交や防衛の問題にも及ぶのです。地域の有権者の方々が、国政選挙において、不用意に「地元との縁」を求めてしまうことは、国会議員に対して、本分である国政ではなく、過剰な地域偏向の姿勢を要求してしまう危険性があるとことを指摘せずにはいられません。

しかし、それでも有権者の方々が、「それでよし」とおっしゃるのであれば、それはそれだと思います。「国会議員たる者、国政云々の前に地元との繋がりが大切である」というご意見があっても当然でしょう。ただし、その場合には、そうした有権者の方々は、国会議員が本分たる国政において、力を発揮できないとしても、それを一切批判することはできないと考えるべきだと思います。

少々、面倒くさいことかもしれませんが、主権在民というのは、主権を有する国民にとって、求められるものが大きいのであり、国民一人一人が、それだけの重責を負って、投票行動に臨まなければいけないということなのだと考えます。

《おまけ》
特段、田中康夫議員の尼崎からの出馬を擁護しているつもりはありません。そもそも、上記のロジックからすれば、田中さんは、(国政レベルでの問題として)あえて尼崎から立候補される理由について、きちんと説明された方がいいように思います。さすがに冬柴さんの刺客ですとは言えないのでしょう。そういう意味で、田中さんにも問題がないわけでもないと思っていますが、ただ、それを田中さんだけの問題としてのみ捉えるのではなく、有権者の側の問題としても考えてみる必要があるのではないかと思うのでした。

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携帯電話システムの強み

2009年07月26日 | 産業

携帯電話システムと一言でいっても、いろいろな観点から論じることができるため、その強みについても様々な意見があろうかと思います。それでも、例えば固定電話やインターネットに比べて、携帯できるという観点から、小さかったり、モビリティを備えていたりという強みが挙げられることは間違いないでしょう。そうした諸々の論点がある中で、私としては、携帯電話システムの内、認証と課金システムが、今後のネットワークを考えるにあたって、最も活かされるべき強みであると考えています。

認証と課金のシステムとは、単純な話、携帯電話で通信を行えば、その通信した人が誰であるかを特定できるだけでなく、その通信時間や有料コンテンツの利用是非等から、その人に対して、いくらの請求をすればよいといったことが分かるシステムです。

私が考える次世代のコンピューターシステムについては、既に本ブログの中で繰り返し述べており、その仕組みの中で、この携帯電話の認証と課金のシステムは、非常に重要な役割を果たすと考えています。あらためて書くと大変長くなるので、詳述を避けますが、ポイントは以下の通りです(詳しくは、「シン・クライアントの潜在力」、「ネットとコンピューターの融合」、「新コンピューターシステム」等参照)。

  1. コンピューターの主要機能は、ネットワークに繋がった先のサーバー側で持つ。
  2. ソフトウェアやコンテンツの利用、視聴等はサーバーを通じて行う。
  3. ユーザーがコンピューターを利用するときは、必ず認証システムでユーザーを特定する。
  4. 「3」の情報から、各ユーザーの「2」の状況を把握して課金を行う。

非常にシンプルにまとめてしまっているため、これで伝わるか分かりませんが、要は、携帯電話システムの認証と課金のシステムを使うことで、新しいコンピューターシステムの利用料金を非常に簡単に確定させ、回収できるということです。そして、この利用料金の支払いが、1円単位から気軽にできるというところがポイントです。

通常、インターネットのコンテンツを利用したり、商品を買ったりする場合、そのユーザーが誰かを特定するために、IDやパスワードを入力してもらい、さらに支払いに関する情報を入力してもらったりします。しかし、1円単位で、簡単に決済をするというのは、なかなか難しいものです。クレジットカード、銀行振込、コンビニ決済、代金引換、電子マネー・・・。いろいろとありますが、1円単位で気軽に決済するというのは、手数料等の関係で、非常に困難であると言えるでしょう。もちろん、電子マネーは、一度買ってしまえば1円単位の決済が容易ですが、その電子マネーを購入するまでの障壁ゆえに、「手軽に決済できる」と言えるかどうかは微妙です。

携帯電話では、これがいとも簡単に行えます。これは何も新しいものではなく、既に行われていることであり、携帯電話会社は、携帯電話の各ユーザーが、何をどれだけ使っているかをきちんと把握できるようになっており、月に一回の料金請求によって、それに応じた利用料金を細かく計算して回収しているのです。この内、前半の部分が認証システムであり、後半の部分が課金システムということになります。そして、ここでのポイントは、ユーザーは何も難しいことを考えず、勝手に1円単位できちんと料金を払えているということなのです。

このことは、実は非常に大きな意味を持っており、私は、この仕組みをもっと積極的に利用することで、インターネットが全く新しい局面を迎えることになると考えます。それは前述したような、インターネット上での商取引において、クレジットカード決済等に比べて、より安全で便利な支払い方法を提供するというものに留まりません。

ネットワーク一体型の新しいコンピューターシステムにおいては、その主要機能がサーバー側にあり、そこに提供すべき価値(アプリケーションやコンテンツ)が集中しているという意味で、それらの利用料金を授受するための仕組みを持つことは極めて重要です。そして、その課題に対して、携帯電話が持つ認証と課金のシステムは、非常に有効であると考えられるのです。

例えば、「Youtube」のような動画共有サービスがあります。こうした動画共有サービスでは、動画コンテンツを端末で保有せず、ネットワークに繋がった先のサーバー側で一括管理しているという意味で、私が考えるネットワーク一体型の新しいコンピューターシステムのかたちを成していると言えます。しかし、携帯電話のような認証と課金のシステムは備えていません。したがって、正確に誰が接続しているということは把握できず、当然のことながら、その人から料金を回収するということができない仕組みになっています。そのため、事業のモデルとしては、単純に再生数やページビュー等の統計に基づいた広告業を主軸に置くかたちとなっています。

現在の動画共有サービスのかたちは、ひとつの事業モデルとしては立派であり、これについて、あまり批判的な議論を展開するつもりはありません。ただ、こうした広告モデルというのは、そこに動画をアップした人、それらの動画を楽しむ人というコミュニティーを使って、広告主と動画共有サービス会社との間で金銭授受が行われているものであり、実際に動画をアップした人々、楽しむ人々同士では、そうした経済的価値の交流がないのです。現在のインターネットが、そうした交流を可能たらしめる仕組みを有していない以上、やむを得ないことではありますが、それはけっして放置されてよい問題であるとは思いません。

メディアの役割とは、多くの人々にコンテンツを提供することにあります。そして、そこにはコンテンツを作る人々の生活を支えていくということも、含まれるのではないかと思います。然るに、今日の動画共有サービスの広告モデルは、コンテンツをアップする人々に金銭を還元できる仕組みがなく、それがたとえ、現在のインターネットの限界ゆえに仕方ないことであるとしても、そうした本来のメディア機能としては、大きく欠けているのではないかと思えてならないのです。

こうした観点からすると、携帯電話の認証と課金のシステムは極めて大きな意味を持ち得ます。動画コンテンツの支払いで、100円、200円という金額は厳しくても、1円、2円という金額を手軽に放り込める仕組みになっていて、しかも、それがコンテンツの作り手に入るシステムになっていれば、インターネットのコンテンツインフラは、お金という血の通ったネットワークとして、ますます発展していくことでしょう(コンテンツをめぐる、ユーザー間の金銭授受のイメージは右図の通り)。

動画共有サービスの話は、あくまでもネットワーク一体型の新しいコンピューターシステムにおける認証と課金の問題を考える上で、動画コンテンツという切り口で見た時の例えに過ぎません。コンピューターは、実に多くのアプリケーションで動いており、それらをめぐるユーザー間の金銭授受の仕組みを構築することが、新しいコンピューターシステムを巨大なインフラとして機能させるためには、極めて重要だと言えるでしょう。

それは、上記の動画共有サービスの例え話の内、「動画」、「動画をアップする人」、「動画を楽しむ人」という言葉を、それぞれ「アプリケーション」、「プログラマー」、「ユーザー」に置き換えれば、いわゆる普通のコンピューターとしてのイメージとして、ある程度、見えてくるのではないかと思います。そこでは、携帯電話が持つ認証と課金というシステムが、非常に大きな役割を果たすのです。

《おまけ》
こんな話をすると、「既存の携帯電話会社はやれないの?」という質問を受けたりします。私は、そうした可能性を否定するわけではありません。ただし、今のままの携帯電話会社の通信事業者としての発想では、けっして成し得ないモデルであるとも考えます。上記は、あくまでもアプリケーションやコンテンツの自由市場を作り上げるという観点から発しているインフラモデルです。これを実行するには、既存の通信という事業モデルを根幹から(本当に根幹の根幹から)崩さないと実現しないため、相当難しいのではないかと思います。

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英語は必須でもない

2009年07月25日 | 日本

「英語が必須」等と言われたりします。しかし、私は英語が苦手です。まったく勉強しなかったわけでもないと思うのですが、何故だか、昔からどうしても頭に入りません。これは一時期、私にとってのコンプレックスでもありましたが、今は、英語が苦手であること自体が、自分の大きな武器であるとも思っています。

言語は、コミュニケーション、互いの意思を伝え合うためのツールとして、非常に大切なものです。その重要性を無視することはできませんが、あくまでもツールはツールであるという認識も大切です(「道具の目的化の危険性」参照)。言語がツールとして存在する目的は、「伝えるべきことを伝える」ことにあります。私は、言語の問題を考えるにあたっては、この目的をきちんと踏まえておく必要があるものと考えます。

言語さえあれば、伝えるべきことが必ず伝わると考えるのは、安易に過ぎるというものでしょう。伝えたい事の本質が分からない人に対しては、100時間話し続けても、けっして分かってもらえるものではありません。その時間が、無駄であるとは言いませんが、「伝えるべきことを伝える」という意味では、本来の目的を達成することはできないのです。

逆に、本当に聞く姿勢がある人には、たった一言によって、その人生が大きく変わるほど、たくさんの事が伝わったりもします。その一言は、得てして、何でもない言葉だったりもするため、言語としては他愛もないことであることも多々ありますが、「伝えるべきことを伝える」という観点からすれば、とてつもない役割を果たすことになります。

このように、まず言語というのは、「伝えるべきことを伝える」ツールとしての役割を担うに過ぎないということが大前提です(一部、これを専門に扱われている方々もいらっしゃり、その方々にとっては、違った見方があることも、重々承知しております。しかし、言語の根源的な存在意義を考えた場合、言語は「伝えるべきことを伝える」ツールに過ぎないものという大前提を置くことについて、然したる問題はないものと考えます)。その上で、本当に「英語が必須」であるかどうかについて、考えてみたいと思います。

以前の会社で、私が仕事をしていくなかで、英語での会議というのも多々ありました。英語が苦手な私としては、基本的に英語ができる仲間に同席してもらって、ボーっと座っているだけでした。英語が全く分からないわけでもないので、話の大筋は、何となく理解できるにしても、私自身が懸命になって、その議論についていくようなことはしません。しばらくすると、議論の途中で、仲間から「先方がこう言っているけど、この条件でいいのか?」等と聞かれたりします。私が、「それは大丈夫」と答えれば、また流暢な英語で議論が再開されます。1時間の会議があったとして、私に質問がなされるのは、大した回数でもなく、そんな調子で議論は恙なく進行します。会議の結果は、私が共有すべきポイントのみ、数秒から数分間の会話で整理することができますし、これによって全体は回っていきます。

この話のポイントは、「中身」にあります。

自分が持っている他者との差別化が、その「中身」においてなされていれば、自分のルールに合わせて相手がコミュニケーションを取ってくれるようになります。「中身」とは、言葉によって表現される手前にあるもので、それを上記の例で言えば、判断力、責任能力、アイディア、思考方法といった目に見えないところにあるものだと言えます。そうした「中身」の部分において、他者との差別化がなされていれば、相手は自分にプロトコルに合わせて、それを聞きに来ざるを得ないということです。「その条件で良いか?」という質問に対して、「Yes」と答えるか、「No」と答えるかという判断力(中身)において、差別化がなされている以上、自分がその判断力を発揮するために必要な情報は、全て自分の言語である日本語に変換されて、伝えてもらえるようになるということです。

もう少し、平易に表現するならば、自分に「中身」があれば、多くの人々が、「あの人には聞いておこう」、「あの人には確認しておこう」、「あの人には伝えておこう」という風に思ってくれるため、ツールとしての言語が、本質的な問題になることはないということです。

しかし、よく考えてみれば、これはごく当たり前のことです。そもそも、「英語が必須」というのは、英語を話す人々の「中身」が、他者に比べて差別化されており、そこに優位性があったからだと言うことができるでしょう。単純な言い方をすれば、「中身」とは文化でもあります。英語圏の人々が、世界において文化的に進んでいると認知される状況になったが故に、英語が世界の共通言語になったのです。そして、その結果、「英語が必須」という考え方も根付いていったのでしょう。

元来、文化に優劣が存在するものだとは思いません。しかし、現実問題として、ある特定の文化が進んでいると認知されることはあるのであり、そのことは、「文化的な優位性」があるとも表現することができると思います。そして、ここで言う「文化的な優位性」という言葉には、実に様々な意味が込められなければならないと考えます。つまり、その「文化」には、いわゆる生活様式や娯楽といった一般的な「文化」のみならず、ビジネス、学術、芸術、国家としての経済力や軍事力といったことを含めて、英語圏が世界的に優位性を持っていたと考えなければならないように思うのです。

しかし、世界の事情は、大きく変わってきています。私は、これから先の時代においても、英語圏が、その「文化的な優位性」を保てるとは考えていません(「脱亜入欧の終焉」参照)。その兆しは、既に様々な場面、分野で表れているように思います。そして私は、これからの時代においては、日本という国が持つ文化的価値が、大きく上がってくるのではないかと考えています(「日本人の大切な「ゼロ」」、「世界のリーダーたるべき日本」参照)。

中国から学ぶべき時代には、必死に漢文を学ぶ必要がありました。140年前、欧米から学習しなければならない時には、時代を担っていく人々が、懸命になって英語を学ぶようになりました。しかし、時代は大きく変わっているのです。

これからの時代は、日本自らが発信していく「中身」を磨いていかなければなりません。もしかしたら、これまでの長い人類史において、そういう時代はなかったかもしれません。そういう意味で、全く新しいフェーズかもしれませんが、多くの外国の方々に、日本の「中身」を学んでいただけるように努力することが、これからの日本人に求められることではないかと思うのです。

「英語が必須」といって、必至になって、英語を勉強する努力を否定するわけではありません。しかし、自分のプロトコルに合わせてコミュニケーションをしていただけるように、「伝えるべきことを伝える」という目的に忠実に、その伝えるべき「中身」を磨いていくことの重要性は、けっして忘れてはいけないと考えるのです。

《おまけ》
最近、インターネットでは、日本で放送されたアニメが一日も待たずして、外国語の字幕付きでアップされたりしています。それを見ていると、日本の文化を理解していないと、分からないものも多々あります。ツチノコ、お年玉、先輩、番長・・・。わざわざ、ご丁寧に注釈を入れているものもありますが、こうしたコンテンツが力を持てば持つほど、その理解には言語のみならず、幅広い日本の文化に対する知識が必要になってくるでしょう。それは例えば、これまで英語文化圏中心の世界において、「クリスマス」を題材にした作品を楽しむためには、意識するしないに関わらず、キリスト教から発する「クリスマス」という文化に対する知識を必要としていたということです。そんな観点からも、日本は多くの外国の方々から、言語に留まらず、広く文化について学んでいただける国になるため、それに恥じない存在になっていかなければならないと思います。

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浅尾慶一郎議員の離党

2009年07月24日 | 政治

参議院議員の浅尾慶一郎さんが、民主党を離党されました。浅尾さんは、私の考え方にご賛同いただき、いろいろなかたちで応援してくださった方でもあり、私自身も、そのご恩返しという意味で、一時、秘書の肩書きでお手伝いしていた関係もあるので、まったくの他人事ではありません。

浅尾さんの離党については、いろいろなご意見があるかと思います。せっかくの民主党風をムダにするなという厳しいご意見もあるでしょう。しかし私は、浅尾さんが民主党という既成政党にしがみつかず、敢えて、その先を見据えた判断を下したとするならば、それを大いに応援したいと思います。

ただし、このタイミングが正しいのかどうかは分かりません。このタイミングで、本当に第三勢力が、日本をリードできるのかという点については、以下に記すような理由から、なかなか簡単でもないと思っています。しかし、少なくともこれからの日本が、既成政党によって大きく変わるとも思っていないことから、今回の浅尾さんの行動には、精一杯のエールをお送りしたいと思うのです。

浅尾さんの件に限らず、衆議院選挙に関する報道が、ずいぶんと活発になってきました。その中身を見ると、だいぶ民主党が有利であるとの見方が強まっています。これまでの自民党政権に対しての不満から、「一度、民主党にやらせてみたい」という感覚は、非常によく分かります。

しかし、全体のトーンとしては、民主党に対して、それほど大きな期待を寄せているというものでもないような気がします。「政権選択の選挙」等とも言われていますが、そんなに大そうなものでもないでしょう。ある意味では、現時点において、選択肢が限られているため、そうした二者択一の中で、「よりマシだと思う方を選ぶ」という程度の理解が妥当ではないかと考えます。

そして私自身、民主党にそれほど大きく日本を変えるだけの力があるとは思っていません。その理由は、政権運営の基盤となる「富の仕組み」が、決定的に抜け落ちているからです。

「富の仕組み」とは、「富の生産」、「富の分配」の二つで構成されています。これは、必ずセットであり、どちらかが欠けてもいけません。このうち後者である「富の分配」の仕組みは、いわゆる権益を守るかたちにもなるので、「悪しき利権構造」といったかたちで解されることがあります。近年の自民党政権においては、この点が大いに問題になったと言えるでしょう。

しかし、ポイントは本来の「富の仕組み」の二面性です。つまり、「富の分配」(悪しき利権構造)ではなく、「富の生産」が決定的な問題であるというところが大切でしょう(「癒着と連携の違い」参照)。

最近、自民党による民主党批判が目立ちます。こうした論争を繰り広げる中で、相手の弱みを論うような姿勢は、あまり気持ちが良いものではありませんが、言わんとする内容は、非常によく分かります。

それを端的に言えば、お金です。民主党の議論には、財源が示されていないのです。即ち、それは「富の生産」の不在です。民主党は「富の分配」にかかる「悪しき利権構造」の撤廃を高らかに謳い上げ、それによる公正な社会を実現しようと言いますが、一方で、「富の生産」に関する仕組みについては、まともな提言が見当たらないように思います。肝心なこちらの解決策を示さず、「富の分配」に対する締め付けだけを強めれば、どんなかたちであれ、政権運営を支える多くの実務者の方々からの恨みや反感を買うこととなり、結果として、まともな政治が行えなくなることは必至でしょう。

ただし、結論から言うと、「富の生産」は、本来、政治だけで解決するものではありません。「富の生産」の仕組みとは、産業構造そのものであり、それは本来、産業界、経済界の人々が構築していかなければならないものです。その点についての解決策が、民主党という一政党から示されていない、あるいは決定的に欠けていると批判するのは、ある意味で、少々酷であるとも言えると思います。

こうした状況の中で、私自身は、既成政党による政権運営は、もはや限界にきていると考えており、むしろ「富の生産」、「産業の基盤作り」が、問題解決の本筋であろうということから、現在、それに向けた取り組みを続けているところです(「産業から始める理由」参照)。もちろん、これにはそれ相応の時間がかかりますし、そういう意味で、冒頭で述べたように、このタイミングで全てが変わると考えるのは、非常に困難だろうと思っています。

また私が、そのような活動に注力できるのは、あくまでも私が何にも属さず、フリーな立場でいられるが故であるとも考えます。通常、多くの方々は、背負っているものや期待されている役割、特定の組織の構成員としての立場等、あらゆる事情の中で、それぞれの努力をされていると考えるべきでしょう。

そうしたことを勘案すると、このタイミングで全てが変わるとは思えないにしても、既に民主党という組織の中で、さまざまな活動をされてこられた浅尾さんにとって、今回の離党は、次の枠組み作りのための一大決心だと思われます。私としては、そうした視点から、事の是非を問わず、その姿勢に対して大いなる声援を送りたいと思うわけです。

-政権交代のその先へ-

浅尾さんのホームページにあるキャッチコピーは、既成政党の枠組みでしか議論できない現状を超えて、もっと先の姿を見据えて発せられているメッセージなのではないかと思います。

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2009年7月期のアニメ

2009年07月23日 | ランキング

7月も下旬に入りました。今期のアニメタイトルについては、もう少し早い段階で、整理したいと思っていましたが、いろいろと録り溜めているような状況にもあり、なかなか思うようにこなせていません。正直、最新話も見られていないのに、各タイトルにコメントを付すのは、やや気が引けるのですが、それを言ってしまったら、延々と整理ができないような気がするので、ひとまず、現時点での整理をしてみます。

今期から始まったタイトルで、見始めているのは14本です。先日も、ある方とお話していたのですが、この時期は、各アニメの世界設定はもちろん、キャラクターの名前やら、演じられているキャストの方々やらが気になって、頭の中の小さなメモリーをフル回転させなければなりません。落ち着くまでには、あと3週間くらいかかる感じです。

そんな中、ひとまず、それらの作品について、上から順に私が楽しみにしているもので、ランキング的に整理するとこんな感じです。

1.宙のまにまに
キャラクターが活き活きしていて、見ていて楽しいです。美星も元気があっていいですが、個人的には、姫ちゃんの意地らしいところがお気に入りです。

2.狼と香辛料II
とにかく、ホロに尽きます。ほとんど、ホロを見るために見ています。「わっち」とか言う、あの言葉遣いがたまらないのです・・・。あ、私、少々壊れております。

3.かなめも
主人公・かなの緩い感じが、豊崎さんの味がよく出ている気がして大好きです。それと、新聞屋さんって、すごく大変な仕事だと思うのですが、一方で現実社会では、過剰とも思えるような所得がある人々がいることを思うと、ちょっとした「格差社会」への怒りを覚えます。

4.東京マグニチュード8.0
まだどんな展開になるのか、よく分かりませんが、とにかく映像美が素晴らしいと思います。日本を代表するような、超有名アニメ映画にも、けっして負けていない気がします。地震のシーンなんかは、うちの小さなテレビでも結構な迫力がありました。

5.大正野球娘。
元・野球部員の私としては、非常に歓迎すべき設定です。晶子のピッチングフォームなんかも、とても可愛くてグッドです。「クロスゲーム」の青葉は、130キロくらい出るらしいですが、晶子は60キロくらいでしょうか(うん?半分?)。この作品については、ある方と、声優陣の豪華さについて話したりもしましたが、このあたりも気合が入っている感じがします。

6.GA 芸術科アートデザインクラス
こういう緩系の作風は、どうしても止められません。それと、アニメを作っている方々が気を遣うポイント等について、何となくでも感じ取ることができるので、それがちょっと嬉しいです。そしてさらに、こういう勉強をされた方々が、もっともっと社会の中心で活躍し、評価されるようになるべきだと思います。

7.CANAAN
タイトルから察するだけでも、結構、奥深そうなテーマを扱っているだろう事を匂わせます。まだ、どういう世界観なのか、全貌がはっきりしませんが、期待するところが大きい作品です。それと沢城みゆきさんが、めちゃくちゃカッコいいです。

8.うみものがたり~あなたがいてくれたコト~
佐藤順一監督作品ということで、キレイで落ち着いた感じがします。本編は、私的には「大人向けプリキュア」のような印象ですが、これはこれで良いでしょう。パチンコは、全くやらないのでよく分かりませんが、少なくとも本作のサム君はマッチョじゃありませんね(笑)。

9.青い花
本編とは関係ないかもしれませんが、音楽が良いです。それと私の地元、鎌倉のリアルな描写が、毎回楽しみな作品です。ただ一点、女性同士のドロドロとした人間関係が大丈夫か、少々、心配な気もしています。

10.NEEDLESS
イヴの元気でお約束的なボケが、可愛らしいというか、微笑ましい感じです。一話だけでは、世界設定がよく分かりませんでしたが、二話目で説明のナレーションを入れてくれたので、それ以降、その世界に入り込めそうな気がしています。

11.化物語
これまでの印象は、ひたすら、ひたぎが怖かったです。でも、これから少しずつ、雰囲気が変わっていくのでしょうか。怖いのが苦手な私としては、明るい展開を期待したいと思います。

12.懺・さよなら絶望先生
結構、ボーっと見ています。でも、マリアが出てくると真面目に見ます。沢城さんが、最高なのです。うん、もしかしたら(もしかしなくても?)私は沢城みゆきさんファンかもしれません。「まりあ†ほりっく」の寮長先生も最高でした。

13.うみねこのなく頃に
怖い・・・、怖い・・・、怖いです。まずもって私は、「ひぐらしのなく頃に」が、怖くてダメな人間なので、そういう方向は勘弁していただきたいのですが、やっぱりそっちの方向なのですよね。

14.プリンセスラバー!
ベタに狙いすぎなところが気になるのですが、ひとまず見続けています。この作風は、原作になっているゲームの流れを汲んでいるのでしょうか。原作ゲームを知らないため何とも言えませんが、それにしてもシルヴィアさんは、セイバーによく似ていますね。

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縮まらない月との距離

2009年07月22日 | 社会

つい2日前、人類初の月面着陸から40年かと思ったら、今日は皆既日食ということで、ずいぶんと月の話題が多いような気がします。残念ながら、今日は全国的に曇りや雨で、日食を観測するのには厳しい状況だったようですが、ここでは少し、月について考えてみたいと思います。

人類史上初の月面着陸は、1969年7月20日ということで、既に40年が経過したことになります。一方で、少々不思議に思うのは、この有人月面着陸のプロジェクトが、1972年12月のアポロ17号で終わってしまっていることです。アポロ計画の中止には、資金的な事情があったというのが通説のようですが、それにしても科学の進歩が目覚しかったこの40年近く、それ以降、人類が一度も月に行っていないことに対しては、少々不思議な気がしてなりません。

単純に飛行機、船舶、自動車などのあらゆる交通手段には、当時、まったく考えられないような高度なコンピューターが積まれるようになり、その性能は飛躍的に向上しました。当然のことながら、そうした最先端の科学技術は、宇宙開発に適用されているはずですし、1969年から72年までの3年間で、6回にも渡って人類が月に行っていると言うのにも関わらず、それ以降、今日に至るまで、ただの一度も行けていないということには、相当な違和感を覚えてしまうのです。

そもそも、月は謎だらけです。

何故そこにあるのか、何故地球の衛星として回っているのかについては、きちんとした学説が固まっているわけではありません。地球が生まれたときに一緒に生まれたという説、宇宙から飛んできたのでそれを捕捉したという説、地球から割れて誕生したという説・・・。いろいろとありますが、実際のところ、定まった学説があるわけではないのです。太陽系にある他の「惑星と衛星」の関係からすると、月は地球の衛星としては非常に大きいとされています。これは月の起源と深く関係することですが、これについても未だに解明されていません。また月は、常に地球に対して同じ面を向けており、それは月の重心が偏っているからだという話もありますが、これについても、どうしてそうなったのかが明らかになっているわけではありません。

こんなにも謎に満ちた月に対して、アポロ計画以降の40年近く、ただの一度も行けていないということには、少なからぬ違和感を覚えてしまうのです。もちろん、宇宙開発にはお金がかかりますし、単純に知的好奇心を満たすためだけに、月の調査を進めるわけにはいかないという反論は、よく分かります。しかし、それを言ってしまったら、人工衛星を含む、宇宙開発自体を否定することにも繋がりかねません。周知の通り、宇宙開発には、知的好奇心を満たすためだけでなく、軍事的な意味合いが強く反映されます。そうした背景や事情を無視して、宇宙開発について論じることはできないでしょう。

ただ、それにしても、月という天然衛星をそっちのけで、この数十年間、巨費を投じて、一所懸命、人工衛星や宇宙ステーション等の人工物を作ろうとしていることにも違和感を覚えます。天然衛星である月をそっちのけにできる(例えば、軍事的に使い物にならないと断じられる)ほど、人類は月について分かっていないように思いますし、そんな結論を導き出せるほど、精密な調査が終わっているようには思えません。

もちろん、単純に月は遠すぎるという理由もあるでしょうし、宇宙開発における月の優先順位が下がったといったことも考えられます。ただ、それにしても、本当にそれだけの理由で、科学技術の発達によって、40年前よりも、相当行きやすくなっているであろう月、しかもその当時、3年で6回も行くことができた月に、近年、全く行かれていないというのは、やはり不自然な気がします。

このように考えていくと、いくつかの疑問が湧いてきます。

-もしかしたら、アポロ計画の月面着陸には隠された謎がある?-

こんな疑問もあるでしょう。それは既に、いろいろなところで取り上げられているテーマでもあります。もちろん、こうした疑問を持ってして、安易に「人類は月に行っていない」等と結論付ける必要はないでしょう。月面着陸時の映像等を検証して、そうした類の議論が展開されることもありますが、私自身、それだけを持ってして、「人類は月に行っていない」等と断じるつもりはありません。むしろ、私の場合、きっと人類は何らかのかたちで、月に行っているのだろうと思っています。どのような経緯かは分かりませんが、むしろ40年間、人類が月との間に距離を置いているのには、それなりの理由があるのでしょうし、もしかしたら、それは人類が月に行ってしまったからこそであると考えた方がいいかもしれないとも考えます。

こんな議論を展開すると、何やらオカルトめいた話に聞こえるかもしれません。実際、私自身、オカルトを完全否定するつもりはありませんので、そういう意味で、月面着陸の映像に対して、疑問を呈するような検証についても、それなりの興味を覚えます(たしかに、あの映像をそのまま全て信じろといわれても、少々困ります)。

何を是とするかは、それぞれ個人の判断であり、そこには何人も立ち入ることはできません。これは大前提です。

ただ単純に、ここ数日間、話題になっていた月に関しては、40年近くに渡る著しい科学進歩の中で、それとの距離を取り続けている人類の姿勢に対して、少々、不可思議であるとする視点について、細々とでも示しておきたいと思ったのでした。

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那須旅行で思ったこと

2009年07月21日 | 日常

連休中の旅行で感じたことを、とりあえず、さっさとまとめてしまいました。「日常」カテゴリーということで、軽い感じで書きました(ただ、まとまると結構な分量ですが・・・)。

■恵みの雨

初日、那須ハイランドパークに行きました。敷地は広いし、いくつか楽しめる乗り物もあって良いのですが、ちょっとでも待ち時間が出たりすると、限られた時間の中で、なかなか思うようには回れません。さらに、今回の旅行では、午前中からパラパラと雨が降ってしまい、遊ぶのにはちょっと厳しい雰囲気でした。


雨に降られました


ガラガラで人の列なし

これも人気アトラクション

しかし一方で、思わぬ効用というものもあります。それは、午前中からの雨のおかげで、客足がだいぶ鈍っており、ほとんどの乗り物が待ち時間なしで乗ることができたのです。いつもなら30分以上、並ぶであろう乗り物でも、あまりに人がいないため、連続して何回も乗れてしまうほど、極めて好条件で楽しめました。

通常、雨とは嫌なものです。特に行楽に出かけているのに、雨に降られると、いろいろと不都合が出てきます。しかし、見方によっては、そんな厄介な雨も、文字通り「恵みの雨」になるものだと、つくづく思いました。それも、気張って「ポジティブに見よう」等と考えたり、努力したりする必要すらなく、単純に「ポジティブに働く」と思えてしまうことがポイントです。

■ガンダムの歴史の重み

最近、お台場に等身大のガンダムが立ちましたが、那須ハイランドパークにも、等身大のガンダム(頭部)がありました。日本のコンテンツに関して、つくづく思うことは、「古いから使えない」というものでもないということです。むしろ、古いものほど、それだけ長期に渡る根強い人気があるのであり、またそれを積極活用することで、いろいろと楽しめるものができるというのは、非常に大切なことだと思います。

ただ、ガンダムについては、正直言って、ほとんど見分けがつきません。一応、「機動戦士ガンダムOO」等も見ておりましたが、何となく色が違うということ以外、パーツの形状等がどう違うのかまでは、ほとんど分からないため、たくさんの歴代ガンダムが展示されていたりすると、もう何が何だか分かりません。そういう意味で、初代ガンダムは偉大だと思います。

■魂を宿すテディベア

那須テディベアミュージアムでは、名前の通り、たくさんのテディベアが展示されていました。私は常々、キャラクターは外見だけでなく、むしろ、その背景にあるストーリーやそれを裏付ける内面が非常に重要であり、そうした内面にこそ魂が宿るものであると思っています。そんな中で、印象的だったのは、「テッドおじいさんの結婚式」という1シーンです。見るだけならば、単純に「クマのぬいぐるみの結婚式」ということになります。ところが、その横には、きちんと出席者に関する説明書きがあるのです。

================
【新郎テッド】
テディベアを愛するベア・アーティスト。デザインから製作まで、すべて1人で行っている。今では、ベアのファッションデザインも手掛けている。
【新婦ローズマリー】
ハイスクール時代からのテッドの恋人。テッドがベアの布の仕入れに彼女の家(布地屋)に行った時、知り合った。ベア・アーティストとしても良きパートナー。
================

結婚式の主人公のみならず、こうした説明書きが、アーサー(祖父)、ジョージ(叔父)、クリフ(父)・・・と続くのです。テディベアというぬいぐるみを、「単なるぬいぐるみ」とせず、そこにストーリーを持たせ、さらにそれを演じられるだけの各種設定を施すことで、「単なるぬいぐるみ」には魂が吹き込まれます。以前、テディベア美術館を訪問した際にも、テディベアというぬいぐるみの扱い方が、非常に細やかであることに驚きましたが、今回も相変わらず、そのあたりの心配りができていることに感心いたしました。

■トトロの世界の現実化

テディベアミュージアムの2階では、「となりのトトロ」の展示がなされていました。宮崎駿さんの作品については、いろいろと思うこともありますが、少なくとも、この展示に関しては、単純に楽しめて良かったです。とても大きな(でも、実際よりも小さい?)トトロがいたり、映画の1シーンが、ぬいぐるみで表現されていたり、映画の舞台が模型になっていたり・・・。


大きなトトロ


このシーンあるでしょ

サツキたちの家の模型

映画というコンテンツを、単なる上映やDVDを含めた配信ビジネスと捉えず、いろいろな分野において活かしていこうとうする試みは、大変重要なことだと思います。つまり、キャラクターグッズの販売等を含めて、「等身大のガンダム」同様、リアルの世界で何を感じるかという観点で、そのコンテンツの世界設定を現実化させるというのは、なかなか面白いビジネスではないかと思うのです。

今回は、たまたま「となりのトトロ」でしたが、コンテンツの活かし方として、こうした手法が、もっともっと多くの作品に対して、適用されてもよいのではないかと思えてなりませんでした。

■トリックアートは新たなスタジオ

「那須とりっくあーとぴあ」にも行きました。トリックアートは、結構、子供たちが好きなので、よく行くのですが、これも大変よくできていると思います。トリックアートとは、平面を立体に見せたり、鏡等による目の錯覚を利用して、通常あり得ないような絵画的表現をしたりするもので、そこでは自由に触ったり、写真を撮ったりすることができます。私は、このトリックアートに、これからのデジタル社会におけるコンテンツの大いなる可能性が含まれているように思えてなりません。


ジェットコースター!?


イルカのジャンプ

恐竜が飛び出した!

最近の社会におけるデジタル化の動きは、コンテンツ業界に及ぼす影響が大きいことは、周知の事実でしょう。しかし、デジタル化の進展は、そもそも従来のコンテンツという概念にすら、大きな変化を与えるような気がするのです。コンテンツにおけるデジタル化とは、コンテンツ制作現場の最先端におけるデジタル化という意味だけでなく、広く一般の人々にとって、その技術が普及していくという意味もあるかと思います。端的な言い方をすれば、PCの普及、デジタルカメラの普及、DVDの普及等でしょう。

これまで、コンテンツと言うと、それを専門とするクリエーターの方々が、それなりの技能やツールを使って生み出していくものでした。しかし、例えばデジタルカメラの普及は、コンテンツを生み出す層の裾野を広げ、多くの一般の人たちが手軽にコンテンツを生み出すことを可能にしたと言えるでしょう。簡単に言えば、デジタルカメラで写真を撮るという行為自体が、自分だけの「スペシャルコンテンツ」を生み出すことでもあるということです。

そうした観点から、トリックアートは、そんなデジタル化社会における、「スペシャルコンテンツ」のための新しいスタジオなのではないかと思うのでした。

《おまけ》
りんどう湖ファミリー牧場で、行われたシンケンジャーショーは、2回も見てしまいました。もちろん、子供向けのショーなのですが、意外と楽しめたのです。特にトークショーとしては、なかなか良かったのではないかと思います。一方で、アクションの方は、スーツアクターの方に、若干のバラつきを感じました。ただやはり、レッドはキレがあって良かったです。さすが、殿!

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久々の二泊三日

2009年07月20日 | 日常

三連休、久しぶりに二泊三日の旅行に行ってきました。最近、旅行というと、大体一泊二日だったのですが、今回は混雑を避けるために新幹線を使うこととなり、またせっかく新幹線で行くのなら、ちょっと長めにということで、二泊することになりました。


束の間だった「晴れ」


ガンダムOOから揃い踏み

クマさんのお出迎え

あまり天気には恵まれませんでしたが、それでも、それなりにいろいろと見ることができました。上の写真は、左から宿となった「グランドエクシブ那須白河」、「那須ハイランドパーク」のイベント館(ガンダム)、「那須テディベアミュージアム」です。テディベアについては、既に別の記事で書いたとおり(「テディベアに見る可能性」参照)ですが、それ以外にも、諸々、思うことや感じたことがあったので、時機をみて整理できればと思います。

とりあえず、今日は帰ったばかりで疲れたし、録り溜めたアニメも20本を超えていて、何とかしなければいけないので、これにて失礼いたします。

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