常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

ブラックホールと未来旅行

2012年02月18日 | 人生

「Newton」2012年3月号に、タイムトラベルの特集をがありました。そのなかの「ブラックホールを使うことでも、未来へのタイムとラベルは可能」という見出しで、以下のような記述があります。

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宇宙にはもっと極端な時間の遅れをもたらす天体が存在します。その代表は「ブラックホール」です。ブラックホールとは強力な重力をもつために、光すら飲みこむ天体です。ブラックホールに近づくほど時間の進み方は遅くなり、ブラックホールの表面(事象の地平面)では、何と時間の流れが完全に止まってしまいます。

ブラックホールの表面とは、地球の表面のようなものではなく、「それ以上、内部に入ると光ですら二度と出られなくなる境界面」のことです。つまり境界面に、何か物質があるわけではありません。ブラックホールとは光を吸い込む”真っ暗な空間”のことなのです。
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この記述をそのまま受け止めれば、仮にブラックホールに吸い込まれることがなかったとしても、ブラックホールの表面まで行ってしまったら、そこで時間が完全に止まってしまうため、その状態が永遠に固定されることとなり、二度と戻れなくなるということになるのでしょう。したがって、効率よくタイムトラベルをするためには、けっしてブラックホールの表面には到達することなく、しかしながらそのギリギリの距離まで詰めるというのがよいということになります。つまり、ブラックホールのギリギリのところ、淵まで近づけば近づくほど、限りない未来にまで行けるということになるのです。

上記特集では、タイムトラベルの可能性について、科学的見地から論じられていました。将来的に、タイムトラベルが実現する可能性に関しては、誰も否定することができません。私自身、タイムトラベルは実現可能だと思っています。ただし、今、私たちが認識しているこの宇宙に限って言えば、ある特定の物体が、時空を意のままに越えることができるようなタイムトラベルは実現しないと考えます(「タイムトラベラーはいてもいい」参照)。

一方で、こうしたタイムトラベルについては、人生に関しても同じようなことが言えるようにも思います。即ち、ブラックホールとは、一度入ったら出られない「死の世界」です。つまり、死の世界ギリギリのところまで行ってきた(そういう経験をしてきた)人には、それ相応の生きるべき道が見える、生きるべき未来が見えると思うわけです。人間は、ある意味、そういう死の世界を垣間見ることで、「未来のビジョンを得る」というタイムトラベルができるのではないかという気がしてなりません「死の淵から得られるもの」参照)。

精神や魂というのは、この宇宙の法則に従いながらも、物理的制約を越えて存在することができるものとも言えます。そう考えると、科学の分野で論じられるような物理的な意味でのタイムトラベルとは別に、精神や魂の世界において、ブラックホールの淵ギリギリ、即ち「死の淵」まで行って帰ってくるようなタイムトラベル、あるいは未来旅行というものも、十分可能なのではないかと考えられるのです。私なりには、精神世界には精神世界なりのブラックホール(のようなもの)があり、その力をうまく使いこなすことで、ある種の未来旅行ができるような気がするのでした。

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力を受け取る器の準備

2010年12月21日 | 人生

何やら、パワースポットブームだそうです。そもそも、パワースポットがどのように定められるのかも知りませんが、私自身、そういうものがあるということ自体、全く否定するつもりはありません。きっと、パワースポットというからには、何かしらの大きな力(パワー)をいただけるということなのでしょう。そうだとしたら、それはとても魅力的なことだと思います。

ただし、そうした力については、きちんと考えておいた方がいいようにも思います。それは、力というのが求める者に宿るのではなく、必要な者に自ずと与えられるものではないかと考えるからです。それが、力の本質でしょう(「女神さまたちのお話」等参照)。

つまり、自分自身を磨き上げ、世界に必要とされる存在になることや、大きなパワーを与えられても、それを十分に受け取るだけの器を自分の中に用意しておくことが、とても重要なのではないかと思うのです。どうもブームと呼ばれる現象を見ていると、自分自身を鍛える努力が不十分で、力を受け取る器もないままパワースポットを廻っているような人々も、大勢いるような気がしてなりません。これでは、一部、懸念されているオカルト偏重にも繋がりかねません。

もちろん、パワースポット巡りのような旅を通じて、楽しい気分になり、心身ともにリフレッシュされ、新たな挑戦ができるといった効果があるのだろうとも思います。したがって、そういう意味では「力をもらった」ということになるのかもしれません。しかし、それでは所謂、パワースポットがパワースポットと呼ばれるだけの所以とは、少々、異なるような気がするのです。

せっかくパワースポットを廻って、大きな力を得ようというのなら、それに違わぬ努力をしていかなければならないと思います。自分自身を磨きあげ、世界観を広げ、生き方を定め、命の捨て方を決めることで、大いなる力は与えられると考えられます。それは、自分の中に力を受け取る器を用意するということでもあります。このことは、仮に神様なる存在がいるとして、誰かに力を授けるとしたら、そういう人物を選りすぐって、力を与えることになるだろうと考えることにも通じます。神様の立場からしたら、与えた力がきちんと全体のために有効活用されることを願うであろうことを想像すれば、そんなに難しい話ではないはずです。

つまり問題は、そういう神様がいるとして、自分がその神様に選んでもらえるような人物たり得るかということになるわけです。ただし、このことは逆説的ながら、どこか自分の外にいる神様の問題ではなく、単純な自分自身の中にある問題でもあるということがポイントです(「「NEXT LEVEL」だよ」、「「自分教」の薦め」参照)。

パワースポット巡りも大いに結構ですが、それにはそれに見合う準備というものがあるのではないかと思うのでした。

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類は友を呼ぶ

2010年08月18日 | 人生

仕事仲間とは、実にいろいろな話をします。

ビジネスはもちろんのこと、政治、科学、宇宙、教育、宗教、国家、歴史、文化、芸能、スポーツ・・・。そして、そうした多岐に渡る分野についての意見交換ができると、「これは、生涯の仲間になる!」と勝手に思うようにしています。

先日、そうした仲間の一人と、日本の古代史についての話をしました。ここ数年、その彼とは、実にいろいろな話をしてきたはずなのに、日本の古代史についての意見交換は、まったくの初めでした。そして、とてもビックリしました。

何から何まで、古代史に対する自分の見解と一致するのです。

記紀の位置づけ、蘇我氏と藤原氏の関係、邪馬台国の場所、台与と豊受の解釈、神武・崇神・応神・神功等の捉え方、大国主大神と天照大神の国譲りの見方、そして私のアカウントでもある「竹内宿禰」の正体、等々々・・・。

これらのポイントに関して、古代史の解釈には諸説あり、それらがことごとく一致するというのは、尋常ならざることだと言えるでしょう。それが、見事に一致するというのは、ちょっと奇跡的なことだと思うのです。

諸説あるなかで、何故、そういう見解になるのか、私が尋ねてみたところ、いろいろ調べていくと、それが最も納得性があるというような話をしていました。とても分かる気がしました。

-これぞ、「類は友を呼ぶ」というものなのだろう-

「類は友を呼ぶ」という時の「類」というのは、目には見えなくても、きちんと根っこで繋がっているものなでしょう。そして、それが「友」として集まってくるのは、至極当たり前のことなのだと思います。「類は友を呼ぶ」という言葉は、まさにそうした事の必然性を表しているのだろうということです。

仕事仲間でビジネスを共にするとか、ビジネスの話をするというのは、とても大切なことです。ただ一方で、ビジネス等というのは、ある意味で枝葉末節に過ぎません。本当の仲間というのは、枝葉末節だけで繋がっているわけではなく、その元となる幹、あるいは根っこが繋がっているのでしょう。だからこそ、ビジネスという枝葉末節だけではなく、政治、科学、宇宙、歴史、文化、芸能、スポーツ等の各枝葉末節でも、心地よい会話が成立するのだと思うのです。それは、それらの根底にある思想や哲学の一致なのかもしれません。

一方で、「類は友を呼ぶ」という言葉を、ネガティブな意味での「群れる」と捉える人もいるようです。つまり、「群れたがる人間同士が群れる」だけという解釈です。もちろん、そういう側面があることは否定しませんし、実際にそのようにして群れる人々がいることも事実でしょう。しかし、他人は自分の鏡であり、ネガティブに「群れる」人々が周囲にいるのは、自分自身にそうした弱さがあるからかもしれません。

少なくとも、私の周りにある「類は友を呼ぶ」は、それとはもっと違った次元で起こっているような気がしてなりません。即ち、同じ思想や哲学、感性を持つ者同士が、自ずと呼び合い、引き寄せられていくような感覚です。

そして最近、この「類は友を呼ぶ」力は、次第に増しているような気がします。引力が互いを結びつけ合い、それによって大きくなってくるグループ同士が、さらに大きな引力で結びつくような連鎖が起こりつつあるように思うのです。時が進むにつれて、そうしたなかなか楽しい感覚が増幅されていくような気がして、とても面白いように思います。

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それで?どう生きる?

2010年07月21日 | 人生

R25」に「『耳をすませば』放映でなぜか鬱になる人続出」という記事がありました。以下、その記事からの抜粋です。

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作品中に描かれている美しい学生時代を見ることで、「自らが過ごした学生時代がいかにつまらないものだったのか」ということを思い知らされてしまったことが、「鬱」になった理由のようだ。
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よく分かりませんが、自分でそう思うからには、そうなのでしょう。そして、そのつまらなさ加減を、大いに思い知ったらよいのではないかと思います。

ただし、問題は、その上でこれからをどうやって生きるかということです。 過ぎたことを悔いても仕方がないし、くよくよしていても何も始りません。大切なことは、それでも今を生きているということであり、それを受け止めてこそ、これからを強く生きられるのだろうと考えます(「時間との付き合い方」参照)。

私は、「鬱」自体、悪いことだと思いませんし、むしろ真面目であることの証と言えるとも思っています(「「うつがない」という病気」参照)。しかし、「鬱」に呑まれたままでは、それだけの人生で終わってしまうことも事実です。

「自分が過ごした学生時代がつまらない?それが分かっただけ大したもんだ。それで?これからどう生きる?」

ちょっと意地悪かもしれませんが、これに応えてきっちり生きようとする人は、きっと強く生きられるのだろうと思います。そして人間には、そういう力があるものだと信じて止みません。

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虫とは棲み分けが大切

2010年07月12日 | 人生

今朝、洗面所に虫が現れたのでやっつけました。

-ごめんなさい-

殺生はいけないことながら、やっぱり虫はダメです。そして、尊ばなければいけない命を、何故、奪わなければいけないのかを考えました。

まず、根本的に私は虫が嫌いです。どこを這いずり回ってきたのかも分からないし、場合によっては、我々に対して、ばい菌をまき散らしたり血を吸う等の害をもたらすことは事実です。しかし、だからと言って「虫は死ぬべし」と言うつもりもありません。虫にも命があるわけですし、できることなら生きているに越したことはないと思います。

そういうことを含めて考えると、虫は虫の世界、私は私の世界という具合に棲み分けが大切なのだろうと思うほかありません。

私自身、ある一定の生活圏のなかで生きており、虫が住む場所に無理やり立ち入ったりすることはしません。だから、彼らに対しても、私が住む場所には立ち入らないことを願うのです。もちろん、虫に対しては、言葉が通じませんので、それを期待しても無駄でしょう。

ただそれでも、私は私の生活圏で生きており、虫の生活圏に立ち入るつもりはないので、あくまでも私自身の心持ちの問題ながら、彼らには相互不可侵を断固、求めていきたいと思います。

-虫は虫の世界で生きるべし-

-我が目前に現れた虫は容赦なく叩き潰すべし-

繰り返しですが、私は虫の死を願うわけではありません。しかし、上記、相互不可侵を理解できなかった虫には、死をもって理解してもらうしかないでしょう。

余談ながら、もしかしたら、これは人間関係でも言えることかもしれません。別に特定の人を論って、「虫」呼ばわりをするつもりはありませんが、「虫」と言われても仕方ない生き方、あるいは「それ、自分かも」と思い当たってしまうような人は、これから先も、私の視界には入らないでいただきたいと思うのです。幸い、今、私の視界には一切の「虫」がおらず、それは私にとって、とても幸せなことだと考えます。

いずれにせよ、そうした人間関係をも含めて、棲み分けというのは非常に大切なことではないかと、あらためて思うのでした。

《おまけ》
気分的には、「かんなぎ」のナギ様が、クモ等の「ケガレ」を祓うようなものだと思っています。ナギ様がいたら、ナギ様にお任せするのですが・・・どっかにナギ様いませんかねぇ(笑)。

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人生は空中ブランコ

2010年06月02日 | 人生

唐突ですが、人生は空中ブランコのようなものだと思っています。

しっかりとバーを握って、反復動作を繰り返すことは基本中の基本です。 場合によっては、無駄と思えるほど、同じ動作を続けていなければならないかもしれません。そのことによって、ブランコは次第に大きく揺れていくわけです。しかし、それを続けていると、いずれそのブランコの振れ幅は限界を迎えます。それでも、相変わらずそのブランコに掴まり続けるという選択肢もありますが、それではそれ以上のことは起こり得ません。

ここで大切になってくるのが、目の前にある別のブランコです。これは、ほとんど動いておらず、場合によっては完全に止まっているブランコかもしれません。しかし、このブランコに掴まることができれば、まったく新しい世界が開けるわけです。

そして、もしそうだとしたら、限界まで振り切ったブランコから手を放して、次のブランコに乗り移るということこそが、「生きる」ということになり得ます。ただし、これを実践すると、一瞬何にも掴まっていない、謂わば「空中浮遊」の状態が生じるわけです。これはとても怖いことかもしれません。もっと言うと、目の前にブランコがあるかどうかも分からないまま、霧の中でブランコを手放さなければならないこともあるでしょう。そんなことを考えたら、今、掴まっているブランコは絶対に手放せないという感覚は、とてもよく分かります。

しかし、ブランコを手放さなければならない時期は、きっと誰にでもやってくるのだと思うのです。とくに、さまざまな社会の仕組みや制度が限界を迎え、あらゆるところで「空中ブランコ」が、振り切ってしまうようなフェーズに入りつつある現代においては、そうした傾向が、より顕著に表れてくるのではないかと思います。

-しっかりバーを握っていろ-

これはこれで、人生を空中ブランコと喩えるならば、立派なアドバイスになるだろうと思います。冒頭に述べたとおり、これは空中ブランコの基本でもあるでしょう。

また一方で、こういう風にも言えるだろうと思うのです。

-潔くバーから手を放せ-

これは前者との矛盾を意味するのではなく、その人が置かれた環境に応じて、使い分ければよいだけの話と解するべきでしょう。これでもかというくらい反復動作を繰り返し、それでもブランコの振れ幅に変化がないというのは、その人が掴まっているブランコに問題があるのだろうというだけの話です。そして、繰り返しですが、社会に閉塞感が充満し、仕組みや制度が限界を迎えるようになればなるほど、こちらの選択肢を取らざるを得ない人々が増えてくるように思うのです。

私なりには、今までの人生のなかで、だいぶ「空中浮遊」を繰り返している感覚があり、それにもだいぶ慣れてきた気がしています。イメージとしては、空中ブランコで、ターザンのように渡り歩いている気分です。そういう意味で、今まで、ブランコに掴まり続けて、反復動作を繰り返してきたような方々、「空中浮遊」のような感覚が実感として湧かない方々には、「空中浮遊、意外と楽しいですよ」と言っておきたいのでした。

《おまけ》
前向きな言葉というのは好きですし、「諦めるな!」というな類の話というのは、とてもよく理解できます。ただし、時代によっては、「諦めよ!」というのも大切なことだと思うのです。これは本文の「バーを握れ!」、「バーを手放せ!」と同じことで、「諦めるな!」だけでなく、「諦めよ!」ということにも、それなりの価値があるだろうということでもあります。重要なのは、諦めた後に「何を諦めないか」ということです。バーを手放したら、次のバーを握らないといけません。奇しくも、今日は鳩山さんが総理大臣を辞任されるという報道がありました。総理大臣の職を諦めるというのは、大いに結構なことです。鳩山由紀夫さんという一個人の人生を考えるならば、これで全てが終わるのではなく、(政治の世界に限らず)次にどのようなバーを握ろうとするかが、とても大切なことではないかと思うのでした。

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裏切り者との向き合い方

2010年05月17日 | 人生

裏切られたと思うことはあるものです。裏切りというのは、とても残念なことですし、それをもってして、相手を非難したくなる気持ちも分からないではありません。

しかし、私なりには、どんな状況であれ裏切られたことには、常に相手を信じた自分の側にも問題があるものだと思います。これには、いろいろな言い方ができます。つまり、「信じるべき者を間違えた」、「できない者をできると信じた」、「相手を都合よく見過ぎた」等ということです。

-いや、相手が「できる」、「やる」と言ったんだ!-

繰り返しですが、そう言いたくなる気持ちも十分理解します。だからこそ、裏切り行為なのです。しかし、約束を違える人間であることを見抜けなかったのは、自分自身の問題です。大切なことは、その裏切り行為から、それを自分自身の問題としてどう受け止め、今後、どのように自分の生き方に反映させていくかということでしょう。

そして、その対処法は、大きく二つに分かれるだろうと考えます。

ひとつは、引き続き相手を信じるという道です。相手が、自分の裏切り行為を詫びて、今後、二度とそのようなことを繰り返さないことを誓った場合、それを信じてあげるというのも、ひとつの手です。元々、信じていた相手でもありますし、それをもう一回試してみるというのは、何も悪いことではありません。ただし、その結果として、さらに裏切られた場合、それも含めて、自分自身の責任となることは、覚悟しておく必要があるでしょう。そして万が一、それでも裏切り行為が繰り返されるような時には、ふたつめの対処法に移行するのかもしれません。

もうひとつの対処法は、相手の限界を受け入れて、自分自身の相手に対する接し方を変えるというものです。

信じることは重要です。私自身、性善説的思考を尊重したいと思っているので、相手を「裏切らない人間」と信じたいところです。しかし残念ながら、現実問題として、裏切りを繰り返す人というのはいるものだとも思います。こうした人間を信じ続けて、相手に裏切りを繰り返させ、また自分自身もその度に傷付くというようでは、両者にとっての大変な不幸です。したがって、その裏切られた点については、相手を一切信じないことが、重要になってくるわけです。

もう少し別の言い方をすると、相手のあるがままの姿や限界を認めるということです。つまり、裏切り行為を繰り返すというのは、何かが大きく歪んでいるのであり、その歪みは、その人間に対して、過大な期待がかかってしまっていることに起因しているかもしれないということでもあります。つまり、「できない人間」は、きちんと「できない人間」として認め、それに相応しい処遇をすることが大切だということです。

「相手を信じること」と「相手を認めること」は、どちらも大切なのです。

裏切り者を「裏切らない者」と信じるのではなく、そういう行為をしてしまう人間として、そのあるがままの姿を受け入れた時、相手に対する見方は、はっきりと変わってくるでしょう。そのことによって、裏切り者は、将来における「裏切る者」ではなくなるのです。自分が持っていた過大な期待が外れ、その限界がはっきりした上で、相手が見えるようになれば、相手を苦しめることも、自分が傷付くこともなくなります。

当然のことながら、過度な期待をせず、限界がある人間としての相手に対しては、それに相応しい処遇というものが、自ずと決まってくるはずです。そして、そのように処遇を変える、接し方を変えるということは、誰の力に頼ることもなく、明らかに自分自身の力でできることであると言えます。

このように考えれば、裏切り者に対して、カリカリと怒る必要はなくなります。どのような状況で裏切られたとしても、それはあくまでも自分自身の問題であり、自分自身の力で解決できる問題なのです。

これからの時代、社会のあらゆるところで、数々の難題に直面することになるでしょう。そうなると、何かと「裏切られた」、「約束を破った」等という話が多くなるような気がしています。しかし、そう嘆くだけでは何の解決にもなりません。裏切り行為に遭っても、ただそれを嘆くのではなく、自分自身の力によって、物事を前進させることができれば、必ず未来は拓けていくように思うのです。

《おまけ》
過大な期待、安易な信頼は人間を歪めてしまうものだと思います。アニメ、「喰霊-零-」に登場する黄泉と神楽の姉妹、とても好きだったのですが、黄泉が悪霊に化けてしまった原因は、神楽の「黄泉は人を殺めていない」という安易な信頼にあったように考えます。神楽が、黄泉が人を殺めてしまっている事実を認め、それはそれとして、黄泉と接することができたら、黄泉が悪霊に堕ちることはなかったと思うのです。もちろん、その流れの中で、神楽は黄泉を冷遇することになるのかもしれません。ただそれでも、それが最終的なハッピーエンドに繋がるのであれば、とても喜ばしいことだと思うのでした。

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「後片付け」に感謝

2010年04月27日 | 人生

-社会が後片付けを始めている-

最近、何となくそんなことを思うようになっています。政治、経済、教育、国家、宗教、科学・・・それぞれの分野で、リーダーとされる方々が頑張っていらっしゃいますが、今、彼らは懸命になって、次の時代に向けた「後片付け」をしているように思うのです。

このブログで、繰り返し述べていることですが、これから先、人類は全く新しい段階に入っていくでしょう。これに合わせて、これまで人類が築き上げてきた社会システムや観念は、大きく変わっていくことになると思われます。つまり、「新しい人類とは何か?」、「新しい人類の資質とは?」、「新しい人類の社会システムとは?」といったことが、次々と具現化していくであろうということです。

率直な感想として、そうしたテーマについて、真に新しい段階を見据えて行動しているリーダーがいるかどうかについては、今のところ「皆無」と答えるしかないだろうと考えています。それは私なりに、日本や世界のリーダーとされる方々の思考やビジョンを読み解いていった末の結論です。

しかし一方で、その「リーダー」たちは、新しい時代に行き着く前の「後片付け」を懸命になってしてくれているとも思います。こうした「後片付け」は、とても重要です。それは「新しい人類」の姿を見据え、そのための社会システムを構築しようとしている者たちには、けっしてできない仕事でもあります。一人の人間には限界があり、それぞれが役割分担をしながら生きていかなければいけないことを考えれば、それは当然のことなのかもしません。

旧時代の「後片付け」がなければ、新しい時代の仕組みが機能することはありません。この「後片付け」には、旧時代の社会システムを終わらせるということのみならず、それにいつまでもしがみつこうとする人間の甘え、そこに蔓延った人間の甘えを除去するという意味も含まれています。

「新しい人類」の時代について考える際、その社会システムというのは、極めて当たり前のことながら、「新しい人類」のためのものでなければなりません。これを言い換えると、新しい時代の社会システムは、現在の人類には相応しくないということでもあります。今の人類は、私を含めて「新しい人類」ではありません。それは即ち、旧時代から引きずっている「甘え」があるということです。これを引きずったままでは、「新しい人類」のための仕組みが、きちんと機能するはずがないのです。この仕組みが機能するようになるためには、人類の側が新しい仕組みを操れるだけの力を備えなければならないということです。

身近な例を挙げると、今、民主党による事業仕分けなるものが行われています。私の立場からすると、こうした作業によって、真に新しい時代が開けるとは思いませんし、そうした手法に頼らざるを得ない方々が、新しい時代を作れるはずもないだろうと考えています。しかし同時に、こうした作業をしてくれないと、たとえ新しい社会システムを作ったとしても、それは旧時代の「甘えた構造」に慣れてしまった人間たちに食い潰されるだけで、全く機能しなくなるだろうとも思うのです。

つまり、事業仕分けというのは、旧時代の遺物、それに巣食ってしまった人間たちの「甘え」を取り除く作業として、非常に重要だろうと考えるわけです。これは今日においては民主党ですが、この先しばらくの間、みんなの党をはじめとする「しがらみなき新党」でも続くことであり、これらは新しい時代や社会の創造に至らないまでも、旧時代の「後片付け」という意味では、大変重要な役割を果たすだろうということでもあります。

このように考えると、新しい時代を作る能力やビジョンを持たぬことが、即ち、「悪」なのではなく、そのなかでも懸命にやるべきことを見つけて、「後片付け」という仕事でも、淡々と行ってくれることが、とても大切なのだろうと思えてくるわけです。

人間には、それぞれに役割分担があります。一人の人間が、全てをやり遂げる等というのは幻想でしかありません。今、社会は懸命に「後片付け」をしてくれているのです。真に「新しい時代」、「新しい人類」の姿を見出している人々は、そのことを肝に銘じ、また感謝しながら、自らの「甘え」を取り除きつつ、思い描く社会作りにまい進していけばよいのでしょう。

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それぞれの危機感

2010年04月11日 | 人生

-君たちが持っていない危機感を我々年寄りは持っている-

とある新党の結成記者会見で述べられた言葉です。きっと、そうなのでしょう。まったく否定するつもりはありません。

ただし、こうも言えると思います。

-あなたたちが持っていない危機感を若い人たちは持っている-

若さというのは、生きるべき未来を多く抱えているということでもあります。当然、若者は、未来に対して真剣にならざるを得ず、ある意味で年配の方々よりも、そうした問題に真正面から向き合っているとも言えるでしょう。それをうわべだけで判断し、「若者たちには危機感がない」などと決め付けるようなことは、けっしてあってはならないと思います(「若者だからこそ真剣」参照)。

この「若い人」というなかに、(年齢的に)自分を入れて良いのかは分かりませんが、もちろん私にも私なりの危機感があります(「子供たちへのバトンタッチ」参照)。

結局、危機感というのは、人それぞれであり、またそれを解消するための生き方も、人それぞれということなのでしょう。

「年寄りなりの危機感」、これはこれで大いに結構なことだと思います。そう考える方々は、ご自分たちが信じられる道を、それぞれ進んで行かれたら良いのだろうと考えます。

一方で私、あるいは私たちは、そうした年配の方々とは別の危機感に基づいて、異なる視点から、必要とされる行動を取っていけば良いはずです。

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人脈は勝手に広がるもの

2010年03月26日 | 人生

人脈の広げ方に関するノウハウというのは、結構、多くの人々の関心を集めるようで、それをテーマにした書籍やら記事やらを見かけることがあります。そうしたノウハウには、それなりの根拠があるでしょうし、それに従うことで、自分の世界が広がるというのであれば、それはそれでとても結構なことだと思います。

ただし、気をつけなければいけないのは、人脈を広げるということは、良くも悪くも多くの人々に自分を認知させることであるという点です。もし、「ダメな人間」が人脈拡大に走れば、広げた人脈の分だけ、自分が「ダメな人間」であることを知らしめる結果を招くということに注意が必要でしょう。

つまり、「自分を磨く」という作業がない限り、いくら人脈を広げたところで、それはかえってマイナス効果になってしまうだろうということです。もう少し別の言い方をすると、「自分を磨く」ための努力を怠ったまま広がった人脈などというのは、所詮、「類は友を呼ぶ」で、「自分を磨く」ための努力を怠った者同士の繋がりでしかなく、大した人脈ではないかもしれないということです。

これを敢えて逆から言います。

人脈などというものは、努力して広げるようなものではなく、勝手に広がるものです。

ノウハウ本に書かれているような事項に基づいて、意識的な人脈作りに励むというよりも、じっくりと自分を鍛え上げ、地道に内面を磨いている人間は、それほどガッついた行動はとりません。ただし、誰かと対面している時、それがどんなに短い時間であっても、極めて簡単な言葉遣い、あるいは非常に細かな仕草や態度などで、相手がどのような人間かを瞬時に見極めることができるものです。そして、こういう人間同士が出会うと、それは即、互いを認め合うことに繋がり、その瞬間から非常に深くて強い絆を形成するのです。これが一旦できあがると、それぞれ自分が持っている人脈を(それなりの人物と認めた)相手に繋げていくようになるので、この人脈が自然に拡大していくことになります。

こうした流れで広がっていく人脈は、ノウハウ本に基づいて自発的、積極的に作り上げていくような人脈のイメージにはあてはまらないでしょう。むしろ、勝手に自己増殖していくアメーバのようなかたちをとることになります。

「自分を磨く」という当たり前の行為の重要性については、特筆する必要がないのかもしれません。また一部、ノウハウ本のような内容のなかには、そうしたことの重要性についても書かれていると思われるので、これら一切を否定するつもりもありません。

ただし、人脈を広げるという意識ばかりが先行して、顔を売って歩くというのはネガティブな効果を生む可能性がある点は、指摘しておいてもよいだろうと思いますし、また見方によっては、上記のように、人脈などというものは広げるものではなく、きちんと自分を磨くことさえできていれば、「勝手に広がるもの」、「自己増殖するアメーバのようなもの」という考え方も、あってよいのではないかと思うのでした。

《おまけ》
「自分のやり方でできる」という確信をもって行動するようになってから2年半足らず、実に多くの人々と出会い、また素晴らしい人脈を形成することができました。これは、これから先、とてつもない勢いで広がっていくようにも感じています。そういう意味で、日頃からお付き合い頂いている方々、今後ともよろしくお願いしますっ!

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家康から学ぶこと

2010年03月11日 | 人生

Twitterで、こんなことを書きました。

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歴史上の人物を敬ったり、手本にするのは良いことだと思います。ただし、憧れは危険です。敬うと同時に、その限界を知ることも大切です。誰かに憧れているうちは、真に自分らしい生き方など貫けません。今を生きているなら、既に死んでしまった歴史上の人物を越えなければならないのは当然のことです。
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この真意については、既に述べている通りです(「歴史上の誰よりも偉い人」、「龍馬がやり残した仕事」等参照)。歴史上の人物に学ぶことは大切ですが、その限界に目を向けず、ただ尊敬するだけでは、自分の生きる道を見失うのではないかと思うのです。ところで、こんなことを書いていると、「お前はどうなんだ?」というツッコミがあるかもしれないので、簡単に自分のことについて記しておきます。

ミクシィの私のプロフィールでは、2010年3月現在、「好きな有名人」という欄に、以下のように記載してあります。

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天道総司(仮面ライダーカブト)、ベルダンディー(ああっ女神さまっ)、セイバー(Fate/stay night)、ラクス・クライン(機動戦士ガンダムSEED)、メレ(獣拳戦隊ゲキレンジャー)、レイラ・ハミルトン(カレイドスター)、真紅(ローゼンメイデン)、大原さやか、ゆかな、田中理恵、戸松遥、沢城みゆき、槇原敬之、徳川家康、関羽雲長
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はっきり言って、歴史上の人物は、それほど含まれていません。一応、関羽さんもいますが、これはどちらかというと漫画・横山光輝さんの「三国志」に出てくる「青龍偃月刀を振るう関羽」が好きというレベルなので、歴史上の人物として、どうこうという話ではないように思います(一応、歴史上の人物として捉えて、彼に限界があったとするならば、劉備という人物の弟に収まってしまったこと・・・でしょうか)。そういう意味では、唯一、徳川家康のみが、私の好きな歴史上の人物ということになるのかもしれません(最近は、織田信長の心境も分かる気がしたり、いろいろとありますが、とりあえず、ここでは細かいことは省きます)。

徳川家康という人物については、時間をかける生き方に共感を覚えます。以下はブログ記事、「大きな矛盾を抱えるべし」からの抜粋です。

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徳川家康という人物を喩える言葉として、「鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス」というものがあります。これは戦をしなければならない戦国大名として、戦の時代を終わらせるという矛盾に対して、彼なりに「時間をかける」という生き方で、見事に解決したことを示しているように思えてなりません。もちろん、戦をすること自体、戦国大名としての宿命であり、それを完全に避けることはできませんでした。そういう意味で、彼の「鳴くまで待とう」も完璧ではなかったのだろうと思います。

しかし、少なくともそれ以前の戦国大名が、自分の覇権によって戦国時代を終わらせようと、自らの武力を持って、他者の武力を制するという手法に頼ったのは、偉大なる「時間の力」を見失った行為のように思えてなりません。その点、徳川家康は「時間の力」の凄さを知っており、それをうまく活用することで、長らく日本全体が、概ね秩序を保ち続けられる仕組みを作り出したのではないかと思うのです。戦国時代にあって、「真に平和な時代をもたらしたい」と願う大きな志は、それに見合うだけの長い時間をかけたからこそ、次の時代の礎を築くという偉業を可能にさせたのではないかと思います。
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時間を味方にするというのは、とても大切なことです(「時間との付き合い方」参照)。徳川家康という人物は、それをとことん実践したのであり、その生き方は、平和社会の基盤作りに、非常に大きく貢献したのではないかと思います。

ただし、彼の限界は、天皇の部下である将軍に収まってしまったことです。戦国時代の末期、当時の日本に平和をもたらすためには、新しい強固な幕府を開くということで事足りたのだと見るべきでしょう。したがって、ここに彼の落ち度があった等と考えてはならないと思います。しかし、このことは、のちの西欧列強と対峙していく時代において、国家の最高位にある天皇との関係で、様々な問題を引き起こすことになりました。結果、明治維新での薩長勢力による力技を許すほかなく、現代に至っているわけです。

その後、時代は大きく変わりました。そもそも、平和な社会の実現は、日本に限らず、地球全体で達成されなければならなくなりました。さらに、そうした新しい世界の平和を実現するにあたって、私たちは、誰か特定の人間の部下として振る舞う必要はなく、一国の主権者として行動できるようになっているわけです。これは徳川家康ですらできなかったことを達成できる環境に、私たちがいるということでもあります。こうした今日における私たちの環境、あるいは地位は、徹底的に活かしていかなければいけません。

徳川家康という人物の生き方には、とても強い共感を覚えます。しかし、それは憧憬ではありません。かつての徳川家康が生きた時代、彼が為したことと為せなかったことの両面を見据え、その限界を理解した上で、現代に身を置く自分の生き方に反映していかなければいけないと思うのです。

-適当に収まってはいけない-

これが、私なりに徳川家康という人物から学ぶことなのです。

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人間の体が持つ力の重要性

2010年02月17日 | 人生

冬場は乾燥するので、体の機能が低下する寝ている間に、鼻の粘膜がやられて風邪をひくというのが、私の定例行事でした。これを予防するため、数年前までは寝るときには加湿器をガンガンかけるようにしていましたが、最近では、これを一切やりません。

ポイントは自分の体です。つまり、自分の体そのものを「人間加湿器」にしてしまうのです。即ち、水をたくさん飲むことによって、体の内なるところから水分がにじみ出てきてくれるようになり、鼻の粘膜がやられることもなくなるのです。その代わり、水はものすごい勢いで飲みます。私の場合、昼間にもガンガン飲みますが、夜寝るときから起きるまでの間、ちょくちょく目を覚ましながら、1.5リットルは飲み干します。

健康対策には、いくつかの方法を組み合わせていますが、少なくとも、これらを実践するようになってから、私の定例行事であった冬の風邪はなくなりました。

それにもかかわらず、昨日、ちょっと体調を崩しました。理由は、やはり水不足です。一昨日の晩、お酒を飲んだので、アルコールの分解に必要な水(アルコールの量にもよりますが、私の場合の安全圏として、飲み会に行ったら、無条件1.5リットルの水をがぶ飲み)と、普段の冬対策用の水の量から考えたら、最低でも3リットルは必要としていたところ、通常よりちょっと多めの2リットル程度にしてしまったのが失敗でした。朝起きたら、鼻の粘膜がやられていて、夕刻まで悪寒が続くという状況に陥ってしまったのです。一応、昨日から今日にかけて、水を浴びるように飲み、体調はほぼ回復しました(「「聖水」である理由」参照)。

少々、前置きが長くなりましたが、私が伝えておきたいポイントは、人間の体が持つ力のすごさです。乾燥を防ぐために加湿器を使ったり、風邪気味の体調を整えるために薬を服用したりということも、立派な健康保持のための方策であるとは思います。しかし、人間自身が持つ体の力を軽視してはいけないし、これを有効に活用することが、とても大切なのではないかと思うのです。もちろん、病気の治療に必要な薬を否定するわけではありません。体が持つ力、免疫力を越えた病気や疾患に対しては、大いに薬を利用していかなければならないでしょう。けれども、そうした外的な力ばかりに頼りすぎて、体が持つ本来の力、内なる力を育てておくことも忘れてはいけないだろうと考えるのです。

少し先の話になってきますが、今後、インフルエンザの脅威というのは、一層増してくるであろうと考えられます。今のところ、新型インフルエンザの脅威というのは、まだ社会全体を脅かすようなレベルには達していないかもしれません。しかし今後、(それが人為的か、非人為的かを問わず)インフルエンザウィルスがさらなる進化を遂げていく可能性は、誰にも否定することができないのであり、いずれ社会全体がひっくり返るような、とんでもない脅威に発展するかもしれません。

そしてもし、それが現実となった場合、人々は先を争うようにインフルエンザのワクチンを求めるようになるでしょう。人間の体が持つ力、免疫力を高めていられなかった人々にとって、ワクチン入手の成否は、文字通り生死を分けることになるかもしれません。そういう意味で、社会は大混乱をきたす可能性もあります。

そういう状況を考えてみても、常日頃から人間が持つ力、免疫力を高めておくことは、とても大切ではないかと思います。もちろん、自分の体を大切にするためには、自分自身の存在意義、生きている価値を高めておく必要もあります。それらは言うに及ばず、それと併せて、普段から自分の体と向き合い、きちんと免疫力を高めておくことも、非常に重要なのではないかと思うのでした。

《おまけ》
「みずみずしい肌」等という表現がありますが、それを欲する前に、そもそも体がきちんと水を求めているかという点も重要だと思います。体がきちんと水を求めていれば、自ずと水分補給をするようになるし、それが自然に「みずみずしい肌」として現れてくるのではないかと考えます。化粧品の類を否定するわけではないですが、体が水を求めてもいないのに、外から一所懸命、水やそれに準ずるものを与えてやったところで、その効果は知れているようにも思うのです。

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自らの意思で追い込む人

2009年12月22日 | 人生

-社会も自分も、こんなに変わると思いませんでした-

世の中が不況であると言われるなか、テレビのインタビューで、こんなコメントを述べられる方がいらっしゃいます。仕方がありません。残念ながら、大きく変わるものなのです。私は、今の不況は、まだまだほんの序章に過ぎず、これからの数年、数十年が、もっととんでもない変化の時代になるのだろうと思っています。したがって、冒頭のようなコメントを述べられている方々は、これからの時代、さらに本格的な規模に増えてくるのではないかと考える次第です。

こうした変化の時代におけるポイントは、社会が大きく変わることをイメージして、先んじて自らを変えていけるかというところにあろうかと思います。これができずに、現実から目を背け続けていると、変化した社会によって、強制的に自分が変えられてしまう人間になってしまいます。

どちらも、「自分が変わる」という意味では、辛い経験になり得ますが、前者は自らの意思が働いているため、それを喜びとすることができる余地が多く残されているのに対して、後者の場合、自分の意思に関わらず強制的な力が加えられてしまうため、苦痛ばかりが際立つ結果がもたらされる可能性が高いように思います。これを、もう少し別の表現で言うならば、「自ら追い込めるか」、「周りに追い込まれるか」の違いがあるということであり、どうせならば「自分を自ら追い込める人間」になるべきだろうということです。

そういう意味で、「社会も自分も、こんなに変わると思いませんでした」というのは、反省の弁として、非常に重みのある言葉だと思います。そして例えば、テレビを通じて、こうしたコメントに触れた人々は、これを自分たちの問題としても考え、真摯に受け止められてはどうかと思うのです。

「自分は、自ら辛い道を選択している」と自負しているような方がいらっしゃいますが、実際のところ、そうでもないことも多々あるように考えます。辛い道を選択してきたはずなのに、さらに辛いことが続いているような方々は、まだまだ自分の追い込み方が足りなかったと思って、まず間違いないように思います。

-社会は大きく変わる、故に自分も大きく変える-

これからの社会は、多くの方々が思っている以上に、大きく変わっていくと考えられます。それをいかに真剣に考え、自分の問題として受け止め、さらにそれを「自己変革」に繋げていけるのかが、これからの社会を生きていく上で、大変重要なポイントになろうかと思うのです。

《おまけ》
このような時代にあって、私としては、「うつ状態」がないことの方が異常であると思っています(「「うつがない」という病気」参照)。もしそうであるならば、それを認めずに周囲の環境変化によって、後々になって「うつ」に追い込まれて、その結果としての「うつ病」になるよりは、自らの意思によって進んで「うつ状態」を作り出し、そこに自分を追い込み、それ自体を楽しむことの方が、より健全ではないかと思ったりします。意識的な引きこもり・・・これはこれで、けっして悪いことでもないと思うのです。

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人生丸ごとボーナス

2009年12月11日 | 人生

ボーナスの季節のようです。

巷では、ボーナスが減ったとか、なくなったとかいう嘆きの声もあるようですが、そもそもボーナスなるものは、特別手当という言葉の通り、特別に支給されるものです。本来、当たり前のようにあるものではありません。

「ボーナスが減った」ではなく、「まだボーナスがいただける」と思う方が幸せなのだろうと思います。「ボーナスがなくなった」ではなく、「そもそも、それが普通のことなんだ」という解釈でいいのかもしれません。

そんな風に、「ゼロ」を普通のことと考えることができたら、素直に「有る」ことに感謝できるはずです。つまり、どんなに少なくても、どんなにみすぼらしくても「有る」ことに対して、文字通り「有難い」と思えるはずなのです。どうも、このあたりの基本を忘れると、「有難い」という感謝の心も忘れてしまうことがあるようなので、注意しなければなりません。

そして、そんなことを考えると、少々、過激な表現ながら、一度、死にかけるくらいの経験をしておくことは、そんなに悪いことではないようにも思うのです。何故なら、一度死にかけるような経験をしてしまうと、そもそも自分の命が有ること、そしてその人生において何かが有ること自体、全てボーナスのように「有難い」ものになり得るからです。

「生きているだけで丸儲け」、「人生丸ごとボーナス」くらいの感覚、それだけ「全てが有難いものである」と思えることが、人生における幸せの原点のような気がします。

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自力救済と他力本願

2009年11月19日 | 人生

先日、話をしていた相手から「貴方がやろうとしていることは、自力救済ですか?他力本願ですか?」という質問を受けました。

厳密な用語の定義はさておき、趣旨としては、なかなか面白い質問だと思います。私の答えは、「両方とも真」、つまり「自力救済でもあり、他力本願でもある」ということです。

ズルい答えに聞こえるかもしれませんが、これは、至極当然のことでしょう。人間は、全て自分一人でできるというほど大層な存在ではなく、そう考える人がいるとしたら、それは単なる驕りでしかありません。一方で、自分は何もせず、何でもかんでも他人任せにするような人も、単なる甘ったれで、自分自身でやり遂げる努力が求められることになるでしょう。

大切なことは、「両方とも真」であることを知りつつ、どこで線引きをするかということです。

自分がやるべきことは、徹底的に自分一人でやり遂げるべきです。しかし、他人ができることや他人がすべきことにまで、足を踏み入れてしまうと、その人自身を甘やかすことになり、結果として、自分のためにも、その人のためにもなりません。そういう意味で、他人事には一切介入せず、他力本願してしまうという姿勢も非常に重要だと思うのです。

自分ができるということは、「自分が優れている」ということです。これは同時に、「他者が劣っている」ということを意味することにもなります。しかし、真実はそれでは済まされません。「自分が優れている」ことは事実であり、真実ながらも、同時に他の点においては、「他者が優れている」ことも事実であり、その重要性を忘れてはならないのです。即ち、「自分が優れている」、「他者が優れている」というのは、けっして相反するものではなく、両方が同時に成り立ち得ることを見極めなければならないということです。

このあたりの発想は、本ブログでも、繰り返し述べている「物事の二面性」に通ずるものがあります(「常に変化する主従関係」、「交錯する正義と悪」、「大きな矛盾を抱えるべし」等参照)。別の表現をすれば、「自分は神であり、他者もまた神である」といったことになるのかもしれません(「「自分教」の薦め」参照)。

こうした線引きができない人、自分と他者との間合いを掴めない人は、それを見切る力を磨かれてはどうかと思います。それができるようになると、人生を割り切れるようになり、だいぶ楽しく過ごせるようになるのではないかと考えます。

《おまけ》
今の政治家の方々が展開される議論には、とても失望しますし、がっかりさせられることも多いです。しかし、ひとまず私としては、現在の選挙制度において、有権者としての権利を行使し、自分ができることは精一杯した、「自力救済」の努力を行ったという自負もあります。国会における論戦は、私が参加できるものではないので、とりあえずは国会議員に選出された方々にお任せする、「他力本願」しかありません。将来にわたって、現在の状況に甘んじようとは、全く思いませんが、ひとまず今日時点では、「自力救済」と「他力本願」の線引きをしておいて、ゆっくりと人生を楽しむということが大切なのだろうと思います。諸行無常、諸法無我・・・。

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