常識について思うこと

考えていることを書き連ねたブログ

論戦できぬ不当な主張

2012年08月23日 | 政治

領土問題に関する議論が、ずいぶんと活発になってきています。本ブログでも、これまで領土問題に関しては、いくつか私見を述べてきました。その中で、竹島については、どちらが是というわけではなく、双方言い分がありながらも、自分の言い分が通らないからといって、武力に訴えるやり方はよろしくないというスタンスをとってきました(「常に問われる国家の品格」参照)。

しかし今回、事の成り行きを見守っていく中で、韓国側の主張には説得力がなく、日本側の言い分が是であると考えるべきであろうと思うに至っています。こう結論を出す理由は、ただ一点、日本から提案された国際司法裁判所への付託に対して、韓国側が全く応じようとしないからです。国際司法裁判所への付託提案は、これまでも何度かなされてきましたが、ことごとく韓国側から拒否されてきました。そして今回も、韓国の外相が「一顧の価値もない」と発言してみたり、挙句、日本側からの正式な親書に対して、何の返答もないまま送り返してくるなど、韓国側には議論をしようとする意思を全く感じません。

考え方は、自由でいいと思います。今、私の手元には、韓国の外交通商部が日本語で作成した「独島」というパンフレットがあります。ここには、竹島が韓国領であるとする論拠が、30数ページにわたって書かれています。これはこれで結構なことでしょう。しかし、領土問題という相手がいるテーマについて、自国の論ばかりをもって、ただ武力を使って占拠するという行為には、何の正当性も見出せません。領土問題で、相手の論を無視してよいというならば、武力侵攻こそ正しいということになります。そんなことが通るはずもありません。韓国が竹島の領有権を主張したいのならば、堂々と日本との議論に向き合うべきです。それができない限りは、論を待たずして、韓国の主張は不当であると断じてよいでしょう。

今、私の手元にあるパンフレットには、竹島問題の国際司法裁判所付託について、これを拒否する理由が以下のように書かれています。

=====================
日本政府の提議は司法手続きを装ったもう一つの虚偽の試みに過ぎない。韓国は独島に対する領有権を持っており、韓国が国際裁判所でこの権利を証明しなければならない理由は何一つない。

日本帝国主義による韓国の主権侵奪は、1910年に簡潔するまで段階的に行われ、1904年日本は強制的に締結した「韓日議定書」や「第1次韓日協約」を通じてすでに韓国に対する実質的な統制権を獲得した。

独島は日本による韓国侵略の最初の犠牲である。日本の独島に対する非合理的で執拗な主張は、韓国国民に日本が再び韓国侵略を試みようとしているのではないかという疑義を抱かせる。韓国国民にとって独島は単なる東海上の島ではなく、韓国主権の象徴である。
=====================

日本側の「正当な司法手続きをしようとする行為」が、どのような虚偽にあたるのか全くもって理解に苦しみます。あるいは、韓国という国では、隣の敷地に建物を建てた人間が訴えられても、「お前の訴えは偽モノだ」で済むのでしょうか。

国際司法が、全て正義であるというつもりはありません。人間の作った仕組みには、必ず何らかの限界があると考えてよいでしょう。ただし、そのことが「国際司法を軽んじてよい」ということには繋がりません。仮に国際司法の仕組みがまやかしであるというのなら、それはそれで結構ですが、それならば、現在の仕組みに対する代替案も同時に出すべきでしょう。韓国外交通商省の報道官は、親書返送の理由として、「日本の主張が極めて不当」と言ったとされていますが、その不当である理由を堂々と国際司法の場で述べてもらいたいところです。述べられないのは、韓国の主張こそが「極めて不当」だからでしょう。繰り返しですが、どんなに強固な理論武装をしたとしても、それを堂々と国際司法で語れない以上、それは論を待たずして、「不当な主張である」と断じてよいと考えます。

竹島が、韓国にとって、独立の象徴であることは理解します。しかし、この問題に対する同国の対応は、あまりに稚拙で身勝手です。今はまず、竹島が国際社会における同国の「稚拙さ」、「身勝手さ」の象徴にならないことを祈るばかりです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の日本兵の言葉

2012年08月15日 | 日本

67回目の終戦記念日を迎えました。この戦争に関しては、私なりにいろいろと勉強したいと思うことが多くあり、いつかそれらを纏めてみたいという思いもあります。ただ、それらについては、既に多くの方々が論じられているところでもあるので、今、ここで述べることはいたしません。

その代わりというわけではありませんが、ここに最後の日本兵として帰還した小野田寛郎さんの言葉を引用したいと思います。

==================
戦前、人々は「命を惜しむな」と教えられ、死を覚悟して生きた。
戦後、日本人は何かを命がけでやることを否定してしまった。
覚悟をしないで生きられる時代は、いい時代である。
だが死を意識しないことで、 日本人は「生きる」ことをおろそかにしてしまってはいないだろうか。
==================

小野田さんの言葉は、戦後世代の私たちの「命」や「生き方」に対する考え方について、ひとつのきっかけを与えてくれているように思います。

戦後、日本人の意識が大きく変わったのは本当でしょう。日本人の「命」に対する考え方も小野田さんのおっしゃる通り、変化していったことは否めないだろうと思います。

ただ個人的に、私は私を含めた世代より下の人々が、「命がけでやることを否定した」わけでもないのではないかと考えています。もう少し言い方を変えるならば、「何に命をかけるかを慎重に選んでいる」だけではないかと思うのです(「一番難しい「山」」、」「リスクをとるということ」等参照)。

多くの先人たちが命がけで作り上げてきたもの、守ってきたものは、どれもみな重みのあるものばかりです。生きている私たちは、それらを先人たちと同じように、なお命がけで次の世代に引き継いでいくための道を進んでこそ、各々の「命」を輝かせることができるのでしょう。

終戦記念日にあっては、それぞれの立場からいろいろな思いをされている方々がいると思います。そのなかで、一人の戦後世代として育ってきた私は、今日の日にあらためて、この国を守ってくれた多くの日本の先人たち、そして敵味方関係なく歴史の大渦のなかでこの世を去った無数の人々の御魂に感謝したいと思います。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする