何かをすれば何かが変わる

すぐに結論なんて出なくていい、でも考え続ける。流され続けていくのではなくて。
そして行動を起こし、何かを生み出す。

わたし、ガンです

2012-03-19 23:16:08 | Book Reviews
「わたし、ガンです ある精神科医の耐病記」 頼藤和寛・著、文藝春秋(文春新書164)、2001年4月20日

p.48 実際、抗ガン剤の副作用のために死亡するガン患者は相当数にのぼるはずなのである。ただ書類上、死因として副作用蓄積といった記載はされない(ただのガン死とされる)から、統計にのぼってこないだけなのだ。

p.49 たくさんの被験者で試験をするから「やらないよりはマシ」という結果が出るのであって、個々人にとって抗ガン剤が有益か無益ないし有害かは、やってみなければわからない。

p.52 (ガンも)どこかにできたのなら、その近所あるいは体内の別のどこかにもガンや前ガン状態があって不思議ではない。要するに、ガンというのは何かの間違いで偶然ぽつりとできたデキモノというより、発ガンを許す体質や体調(その代表は老化であるといった背景の問題を無視できない病態なのだ。

p.53 第一、それほどまでしてもガンになる確率を人為的にゼロにすることはできない。そもそも最大のリスク・ファクターは加齢なのである。

p.58 治せない病気なら「早期発見」したところで「早期不愉快」でしかないのである。

p.77 医療収益を今以上によくしてやったところで喜ぶのは元々金目当ての経営者だけだろうし、患者やその家族に対し医療従事者へ今以上に深い感謝・尊敬を表明するよう指導ないし教育するといったことなどできはしない。
 医療スタッフ側にすれば、ゼニもくれない、プライドもくすぐってもらえない、その上いそがしいわ責任重大だわ、ということになると、よほど仕事そのものが面白いか人道的な自己満足が得られるかでもない限り本気で仕事に打ち込めないであろう。そして、この「仕事そのものの面白さ」と「人道的な自己満足」は、ともに医療スタッフの手弁当なのである。要するに、社会は「何一つ間違いを犯さず一所懸命に患者を救え、そして世の中は報わないから自分たちで勝手にやりがいを確保せよ」と医療従事者に銘じているようなものだ。

p.82 診療機関が「患者さんのためにある」のは、その機能が患者の疾病を診断し治療する「ためにある」からで、患者という人間そのもののために捧げられている施設なのではない。

p.83 現実にやっていることは、どの医療機関も顧客のニーズに応じて医療技術のサーヴィスを提供しているだけなのである。目端の利いた経営者なら、それに付加価値としてヘルスセンター風設備や凝った病院食などを工夫して、他との差別化を図るだろう。もちろん、これらは「患者さんのため」には違いないが、ありていに言うとその集客力に期待しているだけなのだ。

p.91 もともと医療の民主化に発したものというより、患者側が医療サイドに治療的な判断を一任できないと思いだしたこと、また医療側も一人されて結果がまずい場合に全責任を負うのがイヤなこと、要するに相互不信に端を発しているのではないか。欧米、特に米国でやかましく言われたのも訴訟王国といったお国柄によるのであろう。おそらく、医者だけで治療方針を決定し結果の全責任を負うことが、医療訴訟の多い国では不可能になってしまったのだ。

p.187 なんらかの「違い」に由来する各種の悩みに対する究極の治療法は、つねに死を念頭に置くことである。


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