昨年亡くなった友人のお墓参りに行ってきました。
お寺はすぐ分かったのですが、広くない墓地なのになかなかお墓が見つかりません。
ヤブ蚊に何十カ所も刺されながら二まわりしても見つかりません。
ひょっとしたら名字が違うんじゃないか、例えばお母さんのお墓に眠っているのかもしれない。
そう思ってはじから一つずつ墓石に刻まれた享年と俗名を見てしらみつぶしに探していたら、墓地のほぼ中央の分かりやすい場所にありました。
先祖代々の古いお墓だと勝手に思い込んでいたために見つけ損なっていたのですが、あいつは真新しいお墓に眠っていました。
亡くなってから建立されたお墓には、あいつの名前だけが刻まれていました。
陽がさしたり曇ったり、風が吹いて時折にわか雨がぱらつく天気。
セミが鳴く真夏の昼。
お寺の裏の小規模な墓地、墓石の大きさも古さもバラバラの昔ながらの墓地。
ヤブ蚊に刺されクモの巣をかき分けながら、ようやく見つけたあいつの眠る場所。
最後に会ってから1年半、こんな形で再会するとは思わなかった。
近所の花屋さんですこし奮発して作ってもらったお花と、あいつが好みそうな甘めの缶コーヒーを供え、線香を焚いて落ち葉を掃除して。
他に誰もいなかったので、じっくりと話しかけてきました。
あの病気だらけの身体でよく生きたことと、周囲に迷惑をかけずにあっさりと逝ったことを褒めてやりました。
でも、どうしても愚痴になります。
寂しい、早い。
夢でもいいから出てくれないか。
もう一度、声を聴けないか。
私は、人は死んだらそれで終わりだと思っています。
霊魂やあの世は存在しない。
自分が死んだら無になると思っているし、葬式などは残された人達が気持ちにけじめをつけるための儀式だと割り切って考えています。
でも親の墓参りに行けば、霊魂が存在してあの世があるかのように話しかけます。
ものすごく矛盾していますが、この矛盾がなければ安らげないのです。
親が死んですいぶんと時間が経つのに、親の魂のようなものがどこかにあると考えたいのです。
科学がいくら進化しようとも、おそらく宗教は無くならないでしょう。
魂は存在しないということが科学的に立証されたとしても、それでも人は神仏を信じ故人に語りかけるのでしょう。
だって、そうじゃなきゃやってられないんだよ。
自分が死んだらまた会えるかもしれないとか、あの世から見守ってくれているとか、そう思わなきゃ残された人間の心の置き場所がないんだよ。
長々と一人で墓前で語りかけてきましたが、いくらいても気がすむことはありません。
名残を惜しみながら、お寺を後にしました。
こうやって少しずつ死を受け入れていくのでしょう。
お寺はすぐ分かったのですが、広くない墓地なのになかなかお墓が見つかりません。
ヤブ蚊に何十カ所も刺されながら二まわりしても見つかりません。
ひょっとしたら名字が違うんじゃないか、例えばお母さんのお墓に眠っているのかもしれない。
そう思ってはじから一つずつ墓石に刻まれた享年と俗名を見てしらみつぶしに探していたら、墓地のほぼ中央の分かりやすい場所にありました。
先祖代々の古いお墓だと勝手に思い込んでいたために見つけ損なっていたのですが、あいつは真新しいお墓に眠っていました。
亡くなってから建立されたお墓には、あいつの名前だけが刻まれていました。
陽がさしたり曇ったり、風が吹いて時折にわか雨がぱらつく天気。
セミが鳴く真夏の昼。
お寺の裏の小規模な墓地、墓石の大きさも古さもバラバラの昔ながらの墓地。
ヤブ蚊に刺されクモの巣をかき分けながら、ようやく見つけたあいつの眠る場所。
最後に会ってから1年半、こんな形で再会するとは思わなかった。
近所の花屋さんですこし奮発して作ってもらったお花と、あいつが好みそうな甘めの缶コーヒーを供え、線香を焚いて落ち葉を掃除して。
他に誰もいなかったので、じっくりと話しかけてきました。
あの病気だらけの身体でよく生きたことと、周囲に迷惑をかけずにあっさりと逝ったことを褒めてやりました。
でも、どうしても愚痴になります。
寂しい、早い。
夢でもいいから出てくれないか。
もう一度、声を聴けないか。
私は、人は死んだらそれで終わりだと思っています。
霊魂やあの世は存在しない。
自分が死んだら無になると思っているし、葬式などは残された人達が気持ちにけじめをつけるための儀式だと割り切って考えています。
でも親の墓参りに行けば、霊魂が存在してあの世があるかのように話しかけます。
ものすごく矛盾していますが、この矛盾がなければ安らげないのです。
親が死んですいぶんと時間が経つのに、親の魂のようなものがどこかにあると考えたいのです。
科学がいくら進化しようとも、おそらく宗教は無くならないでしょう。
魂は存在しないということが科学的に立証されたとしても、それでも人は神仏を信じ故人に語りかけるのでしょう。
だって、そうじゃなきゃやってられないんだよ。
自分が死んだらまた会えるかもしれないとか、あの世から見守ってくれているとか、そう思わなきゃ残された人間の心の置き場所がないんだよ。
長々と一人で墓前で語りかけてきましたが、いくらいても気がすむことはありません。
名残を惜しみながら、お寺を後にしました。
こうやって少しずつ死を受け入れていくのでしょう。