これ大事な特集。「こちら特報部:国立大人文社会系『改廃』強要 大学の権力批判封じ込め目的化」『東京新聞』2015年6月25日付。安倍政権 日の丸・君が代も踏み絵に/強まる文科省支配 怒る教員「『知』の否定」/戦前の思想弾圧ほうふつ pic.twitter.com/4bt5jncoKz
井上ひさしや野坂昭如みたいな表現って、本当に苦労した人からしか出てこないのだと思う。現代を生きる私たちからも、ああいった深みを表現できるだろうか?
紀元前3650-3300年頃のエジプトのメーク用パレット。意外なかわいさ pic.twitter.com/obc13cs8h0
人に何かを伝えることって、何かを信じることと似ていると思う。無神論者が残念な感じになってしまうのは、神、すなわち自分の中にある何かを信じることができなくなってしまった結果、人や自分さえも信じられなくなった感じが相手に伝わってしまうからではないか。
人に伝えたいと私が思う何かは、きっと大切なものなのだろう。大切な何かだからこそ、私はそれを人に伝えたくなるのだと思う。
精神的なものから物質が生まれることはあっても、物質から精神的なものを生むことは難しいと思う。その難しさを乗り越えた例外的なものこそが、芸術作品と呼ばれるのではないか。ゴッホの『星降る夜』のように。 pic.twitter.com/0qUzSGXhPV
自分を信じることができる人しか、究極的には相手を信用できないのだと思う。それは相手は自分と同じ人間だと気づくことであり、それが他者性と呼ばれるものなのかもしれない。
ザハの新国立競技場のスタジアム案を見ていたら、戦死者追悼として捧げられたギリシャの古代オリンピック競技よりも、当時異教徒だったキリスト教徒をライオンと戦わせていたローマのコロッセオが思い浮かんだ。前近代と近代、一体どっちが野蛮で、文明的だと言うのだろう?
敵対概念から生まれるネーションと、他者と切り離すことから生まれる自己は、あくまで連続性の中において可能である、ということを忘れてはならないと思う。それが近代というフィクションを成立させる担保ではないか。
安全保証とは、周辺にいる他者全てと繋がることによって初めて可能になるのではないか。他者たちと分断して自らを危険に晒してしまった時、人は短絡的な安全を求めてしまい、その結果武装という悪循環に陥り他者を遠ざけ、自らをさらなる危険を招いてしまうのだろう。
やはり自己と他者の連続性に気づくことが、基礎中の基礎だと思う。
神を信じるということは、自分の中にある何かを信じるということ。そして神とは、自分が産み出したものに他ならないということに気づくこと。そして最後は自分自身が、自分が産み出した神に近づき、そしてその神になること、それが自己実現ではないか。
市民やマスコミの言論にはピリピリするくせに、権力者である自分たちの発言は「言論の自由」ということで守ってもらおうとしているのか、安倍首相曰く「みっともない憲法」によって。 twitter.com/study2007/stat…