山手線のT駅に隣接する雑居ビルの五階にある本屋を一回りするとTは腕時計を見た。六時に新宿で人に会う約束があるが、まだ二時半である。それまでにかたずけておく半端仕事もとりあえずはない。久しぶりに映画を観るか、と思いついたがすぐにその考えを捨てた。映画館にたどり着いたところでちょうど始まるような映画はないだろう。それにあの騒々しい音響は一番後ろの席で聞いていても我慢ができない。それでも本番の映画はまだいいが、予告編のきちがいじみた音はどうにかならないのか。しかもどうかすると本番の映画上映よりかも長々とやる。よく苦情がでないものと思う。今の観客はあれをやらないと満足しないのだろう。予告編のおまけがないと損をしたように思うらしい。Tの理解をはるかに超えている。
「そうだ、このビルには碁会所があったな」と彼は気が付いた。いまでもあるかしらん、と彼は腹の中で思案した。ずいぶん昔のことだ。さて何階にあったか記憶がない。かれは五階のエレベータの横にある案内板を上から下まで読んでいった。碁会所は出ていない。十何年も同じところに存続する碁会所など珍しいのかもしれない。一階まで下りて外に出た彼は駅の改札のほうに歩きだした。あたりには同じような雑居ビルが立ち並んでいる。待てよ、と彼は考えた。ビルを間違えたかな、いや確か本屋のあるビルだからあのビルのはずだがなと周りを見回して彼は初めて気が付いた。昔本屋のあったビルを思い出した。「あのビルじゃなかったな」とかれはバスターミナルの近くにあるビルを見て思い出した。そばに行ってみると本屋は入っていないらしい。本屋業界も消長が激しい。昔あったなじみの本屋があっという間に閉店して近くの新築の駅ビルに大型書店の支店が出来ていたりする。念のために彼はビルの中に入った。三階に碁会所はあった。隣に喫茶店があって、中華料理屋もある。うん、ここだったと彼は独り言ちたのである。
中に入ると受付には学生のような若い男が座っている。そばに行って「入会しないといけないんですか」と聞いてみた。「入会していただくこともできます」と若い男は申込書のようなものを取り出して彼の前に置いた。
「あんまりこの辺には来ないんだけど、ちょっと時間が出来たんで相手がいれば」というと、「どのくらいの人がいいですか」と後ろを振り返りながら訊いた。中には碁を打っている人のほかに他人の碁をのぞき込んでいる人もいた。適当な相手が現れるようまで待っているのだろう。
「どのくらいというと、、、最近はあまりうっていないけど」
「何段ですか、初段くらい」と聞かれた。何級と聞くと失礼と思ったらしい。かといって巷の碁会所にふらりと来る客に高段者がいるわけがない。初段くらいと聞くのが無難らしい。
「そんなもんじゃないですよ。だいぶ前にちょっと習ったくらいで、そのころはたしか5,6級といわれたかな」
受付の男は店内を見渡していたが、ちょうど一級の人があいてますね。聞いてみましょう」というと「綾小路さんと呼びかけた。