学生風の男は千二百円いただきますと請求した。金を受け取るとお釣りをTに渡して、「この方は初めてなんですが5級くらいということですが、お願いできますか」と綾小路と呼ばれた背の高い頑丈な体格をした男に話しかけた。年齢は70歳前後のその男性は愛想よくニコニコ笑いながら、あいている席にTをいざなった、着席すると「どうぞよろしく」と頭を下げた。Tは慌てて「どうぞよろしく」とオウム返しに言った。こういうのは下級者が教えてもらうのだからこっちから先にあいさつしないと思ったので慌てたのである。
「四子でやりましょうか」と男は言った。続けて「5級ぐらいですか」と続けた。
「いや、もっと弱いでしょう。何しろ昔ちょっと始めただけで、ここ十年以上碁石に触ったこともないですから」
「なるほど、とりあえず四目ということでやってみましょう」と彼が言うのでTは碁笥から黒石を碁盤の四隅に並べた。綾小路氏はちょっと小首をかしげるとしばらく間をおいてから調子をとるような気取った手つきで白石をそっと盤面に置いた。小首をかしげる様子をみてTは立ち合いの前の相撲取りを思い出した。男の大きな体も相撲取りのようだった。前は力士で今は痩せたが骨格だけは骨太といった感じである。
布石が進む。Tの碁は本で習った語だから布石だけは格好がいい。もっとも相手が最初から手強く挑んでくればたちまち崩れてしまうのだろうが、相手は悠揚迫らず全然攻めてこない。そのかわり、しきりに「ふむ」とか「なるほど」などと独り言を言う。言われるたびにTは相手にケチをつけられたか、バカにされているような気分になる。また、Tが打つ手が理解できないというように小首をかしげる。
そのうちに彼は感心したように「なかなか上品な碁を打たれますな」なんてお世辞かどうかわからないことをいう。だんだん白黒の石で盤上が込み合ってきた。ふと彼は眼を上げると「この石は死んでいるのにお気づきですか」とTに盤面にのたくっている黒の大石を指示した。「えー!」と見るがよくわからない。「ほら、ここが切れているでしょう。目も一つしかない」
言われてみると白に四方から追いかけられて天元付近をのたくっている黒の大石には目がない。
「ここをお継ぎなさい」と彼はTの既に打った石を待ってくれた。『この人は碁会所の師範代みたいな人だな』とTは判断した。
さて、終わって石を並べてみるともちろん白の勝ちだがそれほど大差はついていない。そのへんも彼がうまく調整しているのだろう。
盤面に散らばった石を碁笥に片付けた。「これじゃ星目置かないとだめですね」とTは降参した。
「あなたの碁はおとなしすぎるんですよ」というと綾小路老人は整理された盤面に今の勝負を再現していく。親切な人だ。石を並べながら所々で、「こういう所は切ってしまうんですよ」なんて教えてくれる。