穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

2-3:臭害

2018-07-23 08:16:26 | 妊娠五か月

 Tの背後で突然けたたましい女の嬌声が沸き起こった。ワンテンポ遅れて窒息させられそうな強烈な臭気の波が漂ってきた。綾小路老人はすばやく立ち上がると入り口に来た女性に近づいた。それは見せびらかすように派手なファッションを身に着けた老婦人であった。厚く塗った白粉とこれでもか、これでもかと身に振りかけたあまり品のよくない香水を高温の体から盛んに蒸発させている。

  Tはあっけにとられた。しかし口と鼻は手のひらでしっかりと覆うことは忘れなかった。老人は親し気に愛想よく老婆と会話をしている。その丁重な態度から彼女はこの碁会所のオーナーかな、いやオーナーの奥さんだろうと推測した。ふたりは連れだって中に入ってきた。二人はTのそばを通って奥へ行った。通り過ぎるときに見ると老婦人のバッグを持った手の薬指には白色に輝く大きな石をつけた指輪をはめて居る。太くてごつい節だらけの指との対照が目立つ。

  碁盤の前に向き合って座ったところをみるとこの女性は碁を打ちに来た客らしい。このごろは女性で碁を打つ人が増えたという。若い女性ばかりでなく年配の婦人のあいだでも盛んになっているらしい。女性は彼に背を向けて座る。その前に老人が座って碁を打ち出した。老人は婦人に盛んに話しかけている。彼は整った顔立ちで若いころはさぞ美男子だったろうと思わせた。しかし歯並びがよくない。歯は黒ずんで汚れている。

  そのうちにまた客が入ってきたらしい。受付の青年が来て「四級の人が来られたんですがお打ちになりますか」と話しかけた。Tがうなずくと「先ほどのかたとはどうでしたか」

と聞くので「負けました。どうも僕の実力は5級もないみたいだな」と答えた。

 青年はしばらくTの顔をみていたが、「それではお二人で決めてください」と言って新しい客を案内してきた。その人は50歳前後の男性で手には小さなバッグみたいなのを提げている。中小企業の集金係かな、と思った。挨拶をして座った男は「どうしましょう」と商談でも持ち掛けるように問いかけた。「私が白を持ちましょう。コミなしでどうです」とぺらぺらしゃべった。どうせ時間つぶしだ。賭け碁でもないしどうでもよかった。先ほどの結果からも互先では勝負にならない、二子か三子置くのがいいと思っていたが、諍わずに相手に同意した。

  今度は布石から乱暴にやった。綾小路老人の忠告にしたがって切れるところは見境もなく切りまくっていった。相手はさすがに驚いたようであった。「いや、どうも弱りました」なんて言っている。盤面は滅茶苦茶な様相を呈してきた。相手は考え込んでしまった。長考し始めた。手が動かない。

  一瞬あたりが異様な静寂に包まれた。嵐の最中、近くに雷が落ちる直前に静まり返るような静寂が碁会所の空気を支配した。と、奥のほうでタンスでも倒れたようなものすごい音がした。そちらを見ると周りにいた客が総立ちになっている。Tの相手をしていた男はそちらのほうを見ると「またやったな」とつぶやいた。「なんです」と不安そうにTが聞くと

「癲癇の発作ですよ」

 

 

 


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