否定の否定ではない村上春樹の肯定
だれかプロの批評家が主義者文学が終焉に向っていた7、80年代に否定性を否定したのが村上春樹だというようなことを言っていたような記憶がある。
否定の否定は肯定だが、それは強くはない。あえて言えば現状肯定ということだろう。そういう捉え方はたぶんに問題がある。ようするにそれが彼を照射する観点ではない。
彼が才人であることは間違いないが、彼の小説はレビューなのだ。カタカナで書くとこの言葉は二つの全く異なった意味がある。book reviewのレビューと軽演劇のrevueである。言うまでもなくここでいうレビューとは後者である。バラエティーの別名である。
大抵の評者は村上の小説は喪失の文学であると言う。これもどうかな、と思う。確かに彼の小説では登場人物が失踪、行方不明、病死、自殺、精神を病むなどが多く出てくる。しかし、なんら深刻な問題を提起していない。簡単に言えばそれらは物語の舞台を暗転させるギミックなのである。
喪失の世代がどうのこうのと深刻に論ずべき問題ではない。
彼の小説には物わかりの良い(包容力のある、と女性は表現するらしい)フリーターのような若い男とちょっとおかしな女性が出てくるがさしたる深刻なフリクションも起きない。おとこが変に物わかりが良すぎるのだ。
最初に述べた否定とか肯定ということだが、彼の小説には悪人が出てこない。強烈な否定性を示す人物もいない。そのかれが否定(理不尽な)の固まりみたいなサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に入れこむのはちょっとアンマッチの興味がある。自分にないところに惹かれるのかな。
村上の本質は講釈師の機能に似ていると言ったら笑われるだろうか。むかし寄席に講釈、あるいは落し話を聞きに行った江戸庶民は語りの面白さ、心地よさを求めていた。講談にしろ、落語にしろ内容や結末は観客にとってはすべて先刻ご案内のところである。繰り返し寄席に通うのは語りの過程が心地よく響くからである。結末を聞きに行くのではない。
寄席芸人は大変なテクニシアンである。くすぐりやである。村上春樹の小説を「楽しむ」読者は叙述の、描写の「過程」を楽しむのではなかろうか。そのうえ、ノーベル賞がもらえれば言うことはない。