穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

フレイザーの金枝編

2024-01-07 07:07:47 | 小説みたいなもの

窓の外では短い冬の日ははや傾いて薄暗くなった。閲覧室を占拠したてぐでくした女子高校生は一人減り二人減りと帰り支度をしていた。

閲覧机の向かい側に座った望月は何かを思い出したらしく

「あなたはフレイザーの金枝編を読んだことがありますか」と老人に問いかけた。

「はっ?」と老人が不審げな顔をあげた。「どういうことでしょうか」

「いや、いま思い出したんですがね。フレイザーというのはイギリスの民俗学者の嚆矢でね。世界各地の民族の言い伝えを広く収集したことで知られています。金枝編はその著作で19世紀の末か20世紀の初めに刊行された彼の著作です」

そして語を継いで

「その中にあなたの体験と類似した記述があったのを思い出した」と言うと記憶を確かめるように視線を宙に向けた。

「全く同じというと」

「まあ、ほとんどおなじですね。ちょっまってくださいよ」と彼はせかさないように言った。

「要約すると、こういう話でした。ある民族の間では、寝ている人間を無理に起こしてはいけないというんですね。それは殺人行為に等しいという。どうしてかというと、人は寝ている間に霊魂が体を離れてさ迷い出るという。朝になって目を覚ますと霊魂が再び元の体にもどってくるという」

老親は興味深かげに望月を眺めている。

「だから、寝入っている人間を強制的に、ふいに起こすと、まして暴行を加えると、霊魂は帰ってくる自分の肉体を見失ってしまう。起こされた人間はそれ以来自分の霊魂を失ってしまう。霊魂と合体不能となるというのです。したがって、寝入っている人間を無理やり起こすのは殺人と同じとみなされるというのです」

老人は眉をひそめた。「ミッドウェイ海戦で帰還すべき航空母艦を見失った攻撃用雷撃機みたいに」

「そうです。これまでのお話を聞くと、この例に該当するんじゃないですか」

老人の顔が一変した。なるほどというように自得したように頷いた。

「そうか、、、」と何事か理解したような表情をした。「それでストーリーはつながる。その本を読んでみましょう。文庫本でありますかね」

「岩波文庫にあるはずです。だいぶ昔の本ですか、切れ目なく増刷されているから手に入ると思います。ただし、岩波文庫でなくてはだめですよ。ほかの出版社からも翻訳が出ているが、抄訳かもしれないし、その部分が飛ばされている可能性がある。岩波は何分冊に分かれていますが、第一巻の中ほどに出ています。だから第一巻だけを買えばいい」

老人はノートに書名をメモしてショルダーバックに仕舞いながら礼をいった。

 

 

 

 

 


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