穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

創訳「かもめのジョナサン」のあとがき

2015-02-01 07:48:44 | かもめのジョナサン

良心的できめ細かなフォローアップをモットーとする当ブログである。前回五木寛之氏の後書きに法然のことが出ていたとチョコット触れたが文章はまったく読んでいなかったので念のために読んでみた。といっても買った訳ではない。わざわざ書店に出向き立ち読みしたのである。J書店さんありがとう。

私は五木氏の文章を一行もよんだことがない。小説もエッセイのたぐいも。この後書きが最初に接した彼の文章である。したがって五木氏の作品云々を論じることは出来ないが、この後書きは相当ひどい。 

法然が出てくる前後を読むが、なぜ法然が出てくるか分からない。小説の第四部に関係するらしいが、法然が彼の死後彼の意図に反して神格化されたのと比較しているらしい。まだパート4は読んでいないから分からないが、ヨナタンも4部で死んで神格化されているのかな。

法然の思想となにか関係があると思ったが、全然関係ないようだ。それとこの後書きが滑稽なのは、小説の内容に立ち入らず、周辺というか社会現象として理解しようとして五木氏が力んでいるところだ。

ひとつは、ヨナタンが「風とともに去りぬ」の販売部数を上回ったのはなぜかと不思議がっている。「風とともに」より売れて今までのベストセラーだというのは他の何処かで読んだ。インターネットだったかな。だから本当なんだろう。もっともS・キングとかバカ売れしている作家も他にもいると思うが、本当なのかな。ハードカバーの売り上げでは、と何処か他の所では書いてあった。キングのはペーパーバックの売り上げも含んでいたのかも知れない。

こんなことはこの本を読んだり、書評したりすることとは関係ないが、このナゾを五木氏が解こうとしてウンウン唸っているから紹介しておく。こんなことは出版屋に分析を任せておけば良いことである。 

もう一つは、上と関係するが、映画イージーライダーとか、ピッピー文化とかと関連させてアメリカの社会現象として「分析」しようとしている。的外れと言わざるを得ない。もっとも、五木氏も解答が見つからなくて不思議がっているだけだが。 

ま、創訳は買わない方がよさそうだ。

思い出した。もう一つ書いておこう。五木氏はヨナタンや悟りをひらいた(高いステージに達した)カモメが何故純白に輝くのか分からないと首をひねる。

かもめはもともと真っ白でしょう。純化の方向として輝くような白になるというのは自然の発想じゃないかな。そう難しくひねくり回す必要は無い。紫の先に紫外線があるように、白の先に白外線があるなら、それは輝くような透き通るような純白に違いない。ごくプリミティブな発想じゃないかな。

 


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