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言の葉

2008.11.28 開設
2022.07.01 移設
sonnet wrote.

番外篇 築地ツアー

2011年08月06日 | 

木曽路の旅から戻った22日の夕刻、品川駅で「解散」とはならなかった。
改めてMさんの歓迎会が芝パークホテル前「都映」で行われた。
高校時代の同級生はもちろん、先輩、後輩も交えて総勢11名の賑やかな会となり、お開きは深夜12時。
翌日は築地市場見学。午前9時築地本願寺前集合となっている。
我々の後にケアンズ旅行に行った後輩たちがやはりMさんにお世話になり、ぜひとも築地の案内をしたいと企画したのだった。
そういう訳でアクセスのよい都心のmさん宅に泊めていただくことに。
Kさん姉妹も歓迎会から加わり、大挙して5人がお世話になった。

午前9時過ぎの場内市場はすでに片付けモードの店もあったが、それでも活気に満ちていた。
後で名前を知ったターレット・トラック、通称「ターレ」が縦横無尽に走り、「そこどいて!」「危ねえよ!」の大声が飛び交っている。
忙しく立ち働く人たちの邪魔にならないよう見学、買い物してまわった。
新鮮な魚がどれも安い! 珍しいものもいろいろ。「サメの心臓 刺身で」には驚いた。
  
場外もひと通り見て回った。
人気の店は長蛇の列で外国人の観光客も多い。
昼食は予約しておいた「築地 すし好」。う~~ん美味!

後輩とは築地で別れ、午後3時に私たちも解散。
Mさんは成田に向かい南半球オーストラリアへ、私たちもそれぞれの家路についた。

女4人木曽路旅 8

2011年08月04日 | 
「時間があったら『桃介(ももすけ)橋』を見てお帰りください。」
別れ際に旅館のご主人にそう言われた。
タクシーの運転手さんに伝えると、橋を望み昼食ができる喫茶店に案内してくれた。
店にはバルコニーがあり、絶好のビューポイントだった。
(パノラマ撮影をし忘れ、2枚をつないでみたがやはり上手くいかない)
昼食をすませ橋を見に行く。
Mさんはお店で休憩(疲れていたか、はたまたスカイレールと同じく吊り橋が苦手?)、Zさんも橋の手前で引き返し、mさんと二人で対岸まで渡った。
1922年に造られた日本最古最大の木造吊り橋で、78年には老朽化で通行禁止になったが93年に近代化遺産として復元されている。詳細はこちらを。
豪壮にして優美といった感じの見事な橋だった。
中央の主塔から河川敷に続く階段があり、降りてみたかったが時間がなかった。
吊り橋といっても頑丈な構造、多少のことでは揺れない。
橋上でピョンピョン跳ねるmさんと、店から手を振るMさんが対照的。
 
南木曽駅までは歩いて行ける距離だった。
午後2時55分、私たち四人は車中の人となり帰路についた。

余談になるが、この旅をするまで「南木曽」を「ミナミキソ」と読んでいた。
新宿駅の緑の窓口で乗車券を買う時「行きは中津川まで、帰りはミナミキソから」と言った。
駅員さんは「はい」と応えてコンピュータに打ち込み、途中で時刻表をめくり、再びコンピュータに向かい発券した。
そして「帰りの乗車駅は『ナギソ』と読みます。」と言われた。
思わず赤面 これから旅行する地名を読み間違っていたとは!
そのことを話すとZさんもmさんも同じだったのでちょっと安心した。
待てよ、駅員さんも一度は「ハイ」と言った。「ミナミキソ」と入力してコンピュータが反応せず、時刻表で確認したのでは…? 駅員さんだからといって全国の駅名を知っているとは限らない…。
プロがそうなら私たちだって無理はないよね、などと言い訳してみるがともかくひとつ学んだ。桃介橋の所在地「読書(よみかき)」も珍しい。

名古屋でのぞみに乗り換え、午後6時過ぎに品川駅到着。
こうして女4人木曽路旅は楽しく無事に終了した。
たかだか1泊2日の旅日記をVol.8まで引っ張ってしまった!

実はそこで「解散」ではなかったが…。
                        ……to be continued.

女4人木曽路旅 7

2011年08月02日 | 

あらためて中山道 妻籠宿についてガイドブックを読むと、
日本で最初に江戸時代末期の宿場町の復元と保存を行った場所。
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

とある。
午前10時に店々がオープンし、まずはみんなでコーヒー、コーヒーが苦手なMさんは大好きな紅茶を飲むことからスタート。

町の中心部に街道をはさんで本陣、脇本陣がある。
本陣・脇本陣が何たるか、恥ずかしながらこれまでよく知らなかった。

妻籠宿本陣は藤村の母の実家でもある。
幕末に馬籠の島崎正樹(「夜明け前」の主人公のモデル)に嫁ぎ七人の子をもうけ、その末っ子が春樹(藤村)。
後に藤村の次兄広助(ひろすけ)が母の実家で伯父のこの家の養子となり、最後の当主になった。
当時の家は明治時代に取り壊されたが、平成7年に江戸時代後期の間取り図を元に忠実に復元されている。
ところがなぜか内部の写真を一枚も撮っていない! 見学に夢中になっていたのか?門は早朝の散歩で撮ったもの。なので内部の様子はこちらを。


本陣の斜向かいに脇本陣奥谷と同家の蔵を利用した歴史資料館がある。
「林」が姓、「奥谷(おくや)」は屋号らしい。

藤村の母は妻籠から馬籠へ、初恋の人ゆふさんは馬籠から妻籠のこの旧家に嫁いでいる。
  まだあげ初めし前髪の
  林檎のもとに見えしとき
  前にさしたる花櫛の
  花ある君と思ひけり

  やさしく白き手をのべて
  林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に
  人こひ初めしはじめなり

  わがこゝろなきためいきの
  その髪の毛にかゝるとき
  たのしき恋の盃を
  君が情に酌みしかな

  林檎畑の樹の下に
  おのづからなる細道は
  誰が踏みそめしかたみぞと
  問ひたまふこそこひしけれ

        「初恋」(若菜集)


こちらにはガイドの方がいて、他の観光客に説明されている途中から加わって聞いた。
この屋内もあまり撮影してなくて悔やまれる。
隠し階段、隠し部屋、2階から来客を確認するための隠し窓、各部屋で異なる鴨居など凝りに凝っている。
居間の囲炉裏の座り方には厳然とした家父長制度が守られていたようだ。
(前述「脇本陣奥谷」サイトの画像を参照あれ。)
土間を向いた上座に当主。その左隣に後継者の長男が座って父の振る舞いから日々学んでいく。
当主の右側に姑・嫁と並ぶ。姑のやり方を見ながら、嫁は家のしきたりを覚える。
その前の囲炉裏には食事の配膳をするための細長い板が渡っている。
「これを見てください」とガイドさんがゴザをめくると、姑の席は畳、嫁の席は板の間だった。
半畳足らずのスペース、かえって手間も工費もかかりそうだがそこは徹底している。
長男とその他の子どもにも格段の差がある。
父親と長男の向かい側、土間を背にして他の子どもたちが座る。
薪は土間の方からくべ、暖かい炎は父と長男に、燃えてない薪の尻尾と煙は弟妹側に。背後につい立てこそあれ寒かったに違いない。


名字の「林」をデザインした瓦。

部屋の戸板の煤を洗い流したら浮かび上がってきたという絵。
琵琶を持っているから、龍に乗った弁財天か?

浴室の天井。デザインに凝ったのではない。細木をこうすることによって(しかも微妙な角度があるらしい)、水滴が一切落ちなくなるそうだ。名工の技に感心するばかり。

 
資料館になっている林家の蔵 / 明治天皇小休所に決定した際作られたテーブル / 障子に嵌められた当時のままの硝子。微妙に波打っている / 庭の一部


地酒、お菓子、ヒノキ細工etc. お土産も買った。
さあ、そろそろ駅に向かわねば…。
路線バスに乗って地元の方と交流するのも楽しいが、「4人ならタクシーの方が安いですよ。」という旅館のご主人のアドバイスでタクシーにした。
                     ……to be continued.


女4人木曽路旅 6

2011年08月01日 | 


高台には神社、小学校、お寺などがあった。
後で会ったおじさんが「明日明後日(23、24日)は神社のお祭りで御輿が出るんですよ。」と言っていたのがこの和智埜(わちの)神社。
昨日町に入った時から、通りに下がった提灯がせっかくの景観を損ねているようで気になっていたが、祭礼の飾りつけと知って安心した。

小学校には今では珍しい二宮金次郎像があった。苔むして薪というより若木を背負っているよう。
そばには「希望を胸に未来を見つめる」といった感じの少年少女の像も。なんだか微笑ましい。
明応9年(1500年)開山の光徳寺は鬼瓦が目を惹いた。

街道下の男垂川両岸は緑が鮮やかで、そちらにも降りてみた。

1時間半の散歩から宿に戻ると、みんな起きて朝のシャワーをすませていた。
午前8時の朝食を終え、10時にチェックアウト。
観光の間荷物を預かっていただくことにして、通りに出た。
                   ……to be continued