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言の葉

2008.11.28 開設
2022.07.01 移設
sonnet wrote.

ゆふいん 由布院 湯布院

2019年03月31日 | 

3月が終わる。
そして明日新元号が発表され、4月いっぱいで平成が終わる。

今さらではあるが1月に帰省した時由布院に行った。
画像があるのでそれだけでも3月のうちに上げておこう。

由布岳
駅に「ななつ星」が停車していた。見られてラッキー!
駅のホームに足湯があった。
昼間に行った金鱗湖はたくさんの観光客がひしめいていて風情がなかった。
朝霧が有名なので、翌朝旅館の電動レンタサイクルで出かけた。
2度行ったことがあるという夫は朝風呂を選択。
 
   
お土産屋さんも各店アジア系の観光客で賑わっていた。
なぜかジブリグッズのお店もあり、店頭に記念撮影用のトトロがいて当日の日付けプレートがあった。
自分の誕生日だったので順番を待って撮った。

ところで、ゆふいんには「由布院」と「湯布院」の表記がある。
ずいぶん以前に何かのテレビ番組で知ってなるほどと思ったことがあった。
昭和30年に由布院町と湯平町が合併して湯布院町となり、町全体を指すときは「湯布院」、昔からある地名などは「由布院」と使い分けるのだそうだ。
その後平成17年に庄内町、挾間町 、湯布院町が合併して「由布市」になり、由布市湯布院町となった。
なので紛らわしいからか、「ゆふいん」のかな表記が増えているそうである。

ドタバタの年末年始

2018年01月30日 | 
 
     
年が改まってはや1ヶ月。
今年もまたブログ更新はこんなペースになるのだろうか。
今さらではあるが年末年始の話題を。

12/27~1/5に帰省した。
正直なところ腰痛で帰省には消極的だったが、前年も帰らなかったし、義母が義妹の近くにある高齢者施設に入居して以来会ってないし、お世話になっている義妹夫婦へのお礼をしなくてはならないし、無人になった夫の実家も気になるし、時々空気の入れ替えをしてくれている叔母にもご挨拶しなければいけないし、そんなこんなで帰らない訳にはいかなかった。
「なるべく荷物を持ってあげるから」と言われ、例年より余裕を持った日程で帰省することにした。
ところが思いもよらぬアクシデントで予定が大幅に狂ってしまった。

帰省前日に夫が風邪気味だと言って咳をし始め、出発当日の朝も咳をしていたが「実家でのんびりする事にしよう」と言いながら二人で出かけた。
最寄り駅の改札を抜け、ホームまで行った段階で、
「やっぱりしんどくて無理。引き返すので一人で行って。」と言われた。
よほど辛いと思われ、それでも我慢して出かけようとしていたのか。
戻ったところで看病する者がいないので二人とも帰省を取りやめようかと提案したが「大丈夫。悪いけどあっちのことは任せるからよろしく」と言う。
私の体調に気がまわる余裕がないのは当然だろう。独りで心許ないが仕方ない。
必ず病院に行くように念を押して、夫は自宅に、私は羽田に向かった。

羽田空港に着いた頃、夫から「インフルエンザA型だった。」とLINEが来た。
普通の風邪ではなかったのだ。熱も39℃近くまで上がってきたと言う。
都内に住んでいる息子に看病に行くよう言おうかと返信すると、
「移すといけないから黙ってて。独りで大丈夫。君にも移っているかもしれないから2~3日は気をつけて」
と返ってきた。

不幸中の幸いといえば、夫の分の早割りチケットを当日キャンセルしたにもかかわらず、インフルエンザが理由であれば全額返金になると言うことだった。後日診断書をFAXして返金手続きした。
もうひとつ、私はインフルエンザに罹っていなかった。

重いキャリーバッグと空港で増えたお土産の荷物を持って、なんとか宮崎に帰った。
年末は腰をかばいながら、夫の実家の清掃に終始し、近所に住んでいる叔母宅へご挨拶に伺った。
元日に延岡市に行って義母に面会。義妹一家も来てくれた。
本来なら義母の外出許可を得て、義妹一家とともに会食の予定だったが、年末に義妹から電話があり、義母が外出を渋り、彼女自身も体調が悪いと言うことでお店をキャンセルしていた。
その夜のホテルもツインからシングルに、夕食の予約も二人から一人に変更してもらい、年末はお詫びの連続だった。
しかし夫からLINEがあり、思いのほか早めに回復したようでひと安心した。

自分の実家へ行ったのは1月2日の1泊だけだった。
秋の同窓会に欠席したので同級生たちの顔が浮かんだが、お正月の3が日なので連絡するのを遠慮した。

夫の実家に戻って、再び気になるところを片付けた。
帰京当日、最後にバスルームを綺麗にして「これでOK」と後ろ向きに出た途端、バスマットごと滑り思いきり尻餅をついて仰向けになった。
激痛でしばらく洗面所の天井を仰いだままだった。このまま動けなかったら万事休すである。
意を決してゆっくり身体をひねって起き上がり、痛いながらもなんとか歩くことができた。
骨折などしていたら歩けないだろうから強度の打ち身(後日医師の診断も同じだった)ということで、早めに宮崎空港に向かい、やっとの思いで帰宅した。

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先日東京も積雪した。
当日は用心して外出せず、翌日近所を散歩すると雪かきされていていい写真が撮れなかった。
冒頭の画像は、日本海側に大雪が降った10日に石川県白山市に出かけた夫が、金沢で兼六園の雪吊りを撮って送ってきたものである。
一年で最も寒い頃、氷点下の日が続いている。

臼杵市内観光

2016年12月16日 | 

石仏を見た後,、市内に戻って昼食を摂った。
夫がスマホで検索して目星をつけたかわ村 に行った。
これが大正解だった。
古民家を改装した風情のある店構えで、ランチだったからかお手頃な価格で充実していた。
器も良かったので撮影した。
            
昼食後、徒歩で回れる範囲で市内観光をして宮崎に向かった。

 臼杵城跡は道路から仰ぎ見ただけ
              
    稲葉家下屋敷
             
    旧平井家住宅
             
    二王座歴史の道

そうだ! 帰りの飛行機で水泳の松田選手と一緒だった。
小学生の女の子を連れたお母さんが握手と撮影をお願いしていたので、私もお願いした。
「ブログをやっているんですが、写真を載せてはダメでしょうか?」と尋ねると、「どうぞ。構いませんよ。」と快諾し、改めて正面を向いてくれた。好青年!
       

臼杵磨崖仏

2016年12月15日 | 

      

10月の帰省の時、実家を発って延岡駅から宮崎に向かうところ、日豊本線上りに乗って臼杵観光をした。
その時撮った写真は起動しなくなったPCに取り込んだきりだと思っていたら、外付けHDDにバックアップしているのを見つけてホッとした。
せっかくなので、画像だけでもアップしておこう。

丘陵の岩肌に彫られた石仏群は4箇所あり、どれもが覆屋で保護されていた。
平安時代後期から鎌倉時代にかけての作だそうで、1000年以上も風雨に晒されて損傷がひどく、修復保存工事でこういう形になったのは止むを得ない処置だが、自然のまま周囲の木立の中に浮かぶ磨崖仏はさぞダイナミックな景観だったろう。。
昭和4年、俳人種田山頭火は「秋風に送られて、時雨に迎えられて(友人に宛てた手紙の文面)」ここを訪れている。
 しぐるるや石を刻んで仏となす
石を刻んで仏となす、まさにそれを実感した。
そしてうろ覚えの詩が脳裏を掠めた。
高村光太郎が興福寺にある十大弟子について詩作している。
「見知らぬ奈良朝の彫刻師よ、いくらおん身がそしらぬ顔をしようとも、私はちゃんと見てしまったよ。…………どうして千年の夢を手の平にのせたかを。」

    

   

  
            麓の満月寺・境内にあった笑顔の石仏

祝 米寿

2016年10月02日 | 
今日10月2日は母の誕生日である。88歳になった。
少し早めの9月24日に米寿のお祝いがあったので、夫と二人で帰省した。
久しぶりに孫である息子も連れて帰りたかったが、休暇を取った直後で土日しか休めないということだった。
彼だけ当日朝一に熊本空港に着いて高千穂の会場に駆けつけさせる方法も考えたが、地震後の道路はまだ完全復旧してなく、迂回路では間に合いそうにないので仕方なく諦めた。
稲刈りのシーズンに帰省するのは珍しく、黄金色の棚田が美しかった。

門川町から出席してくれた叔母夫婦、一昨年に叔父を亡くしたもう一人の叔母に会うのも数十年ぶりだった。
ジャンボタクシーなるマイクロバスに全員乗り込み、まずは高千穂神社に行ってお祓いをしていただいた。
今年の初詣でご朱印をいただいたが、当日の日付が記念になるので再度お願いした。
その後時間があったので国見ヶ丘に行った。何十年ぶりだろう。
早朝の雲海が有名だが昼間の眺望もよく、中国人の観光客も来ていた。

         

 

  

 
正午から高千穂の旅館神仙にて食事会。
旅館に用意していただいた金茶色(米に因んだ色か?)の大黒頭巾とちゃんちゃんこを着た母を上座に、食事をいただきながら昔話に花が咲いた。
懐石コース料理はどれも美味だった。器も盛り付けもきれいだったのですべて写メした中から数枚アップ。
渋皮煮にケシの実をまぶしてより栗らしく見せていた。今度真似してみよう。
肉はもちろん地元の高千穂牛である。

「大げさなことはしなくてもいい。近くにいる者だけで簡単にしてくれれば。」
親戚を呼ぶことや東京から帰る私たちにずっと気を遣っていた母も終始嬉しそうな表情で、時折り目頭を押さえていた。
締めには合唱団に入っている叔父のリードで「ふるさと」を合唱してお開きとなった。
万事お膳立てをしてくれた長兄夫婦に感謝である。

ふと思った。
自分の米寿まで四半世紀、母のように元気でいられるだろうか…?