く 串間で蒲璧 見つけられ (くしまでほへき みつけられ)
文政元年(1818年)、日向国那珂郡今町(現在の宮崎県串間市)で農家の佐吉が畑の土中から古い石棺を発見した。
棺は弥生時代のもので、その中には中国が周時代(紀元前11世紀~)だった頃の『璧(へき)』が入っていた。
周の時代、天子は諸侯に領地を分け与えて国家を安定統一し、その権威を示すシンボルとして硬玉製の爵章を授けていた。
周の官制が書かれた書物「周礼」によると、「以玉作六瑞以等邦国。王執鎮圭。公執桓圭。侯執信圭。伯執躬圭。子執穀璧。男執蒲璧。」とあり、その地位は、
王の位は「鎮圭(ちんけい)」
公爵の位は「桓圭(かんけい)」
侯爵の位は「信圭(しんけい)」
伯爵の位は「躬圭(きゅうけい)」
子爵の位は「穀璧(こくへき)」
男爵の位は「蒲璧(ほへき)」
と、階級によって異なっている。
上位4級は「圭」、下位2級は「璧」で、圭は上が尖り下が四角形のもの(斧形)、 璧は薄い環状で中央に穴のあるもの(ドーナツ形)。
材質はいずれも鉄より強靭なほどの硬玉(ガラス製)と言われている。
かるたは『蒲璧』で『子爵の印』とあるが、前述の「周礼」の一文から「蒲璧」であるならば男爵の位、「子爵の印」なら穀璧とならなければならず、いろいろ調べた結果、どうやら串間市で発見されたのは「蒲璧」ではなく、「穀璧(子爵の位)」が正しいようである。
子爵・男爵の璧は文様が異なり、「穀璧」は穀物をモチーフとして「生命の源」を表し、「蒲璧」は植物の蒲(がま)を文様としている。
蒲はその時代蒲団(ふとん)の芯や蓆(むしろ)の材料に利用され、すなわち「休息・暮らし」を象徴しているのだろう。
佐吉はこの璧を家宝として所持していたが、明治になっての孫の代で加賀の前田家に譲渡され、現在は東京の前田育徳会の宝物館に保管されている。
そのレプリカは、西都原考古博物館で見ることができる。
http://saito-muse.pref.miyazaki.jp/home.html
「漢倭奴國王(かんのなのわのこくおう)」と刻まれた有名な「漢の金印」は西暦57年のものだが、それよりはるか以前の周時代の物が日向の国で発掘されていたのだ。
その当時から海を渡って大陸と交流していたのではないか。戦に敗れた周の豪族が亡命してきたのではないか。否、串間地方に周王朝から直接子爵の位を賜った者がいた…。
古代史研究者間でも諸説あり、未だ確定的なものはないようである。
ともあれ、今さらながら宮崎の歴史の深さに驚かされる。
き 霧島山は一五七四(米) (きりしまやまは いちごなし)
霧島屋久国立公園は、宮崎県から鹿児島県屋久島まで広域にまたがる国立公園である。
昭和9年(1934)に霧島地域が日本で最初に霧島国立公園として指定され、昭和39年(1964)に錦江湾地域(旧錦江湾国定公園)・屋久島地域が編入された。
かるた裏面の解説はまだ「霧島国立公園」となっている。
霧島地域には大小20座以上の火山と大小の湖沼群、高千穂河原やえびの高原、生駒高原、霧島温泉郷などがあり、ノカイドウやミヤマキリシマ、コスモス、ススキなど、四季の変化に富んだ一大観光地である。
かるたに「霧島山」、裏面の解説にも「その中の名山」とあるが、この名称の固有の山はない。
北海道に大雪山が無く大雪山系であるのと同様、ここ一帯の山岳群が総称して霧島山と呼ばれ、日本百名山、日本百景のひとつに挙げられている。
一五七四(いちごなし=苺なし)という語呂合わせで覚えやすくしてあるのは、霧島山系を代表する霊峰高千穂峰(たかちほのみね)の標高である。
現代ひむかかるたでは、えびの高原が『さ』で詠まれている。
http://www.miyazaki-c.ed.jp/himukagaku/karuta/sa/index.html