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言の葉

2008.11.28 開設
2022.07.01 移設
sonnet wrote.

女4人木曽路旅 5

2011年07月31日 | 

 
ここは画像を中心に。
早朝で光量不足だったが、どこを見てもカメラを向けたくなりたくさん撮った。
トップは枡形(ますがた)の跡辺りを両方向から。
枡形については解説板にあった文を引用。
江戸時代の初めに制定された宿場は、一種の城塞の役割も持たされ、宿場の出入口には必ず枡形が設けられた。
宿場の枡形とは、街道を二度直角に曲げ、外敵が進入しにくいようにしたものである。


 

 


どの家もさりげない演出を施し、さらに風情を醸し出している。

郵便局は史料館を兼ねており、ポストは「書状集箱」。
配達の方もこのいでたち。さらに菅笠・股引姿が正装だとか。

                  ……to be continued.

女4人木曽路旅 4

2011年07月29日 | 

旅館「藤乙(ふじおと)」に着いたのは午後4時近かった。
いかにも日本旅館といった感じの風情のある建物である。
通されたのは2階の奥の部屋で二間続き、池のある中庭と男垂川に面した二方が窓の明るい部屋だった。
町の店や施設は5時には閉まるということなので明日観光することにした。
そうでなくとも靴を脱いで畳の上に脚を投げ出したら、あらためて出かける気力は残っていなかった。
お風呂でウォーキングの汗を流し、6時の夕食まで部屋でのんびりした。
エアコンよりも窓を開けて入ってくる風の方が涼しくて気持ちいい。
聞こえてくるヒグラシと川音も夏の夕暮れを演出して何とも心地よい。
 

夕食は1階の大広間で。
地元の食材をふんだんに使ったメニューで、どれも美味しかった。
旅館の方が写真を撮り、それをプリントして記念にいただけるということでハイ・チーズ
ちなみに向かって左側が上戸組、右側が下戸組。
特筆することでもないが…

食事を終え部屋に戻ると布団が敷かれてあった。
「まだ8時過ぎたばかりよ。眠れるわけないわよねぇ」
と、持ち帰った飲み残りの冷酒で再開。
私は奥の間の布団の上で伸びをしたらそれっきり眠ってしまった。
翌日聞くと、みんなも9時前後には就寝したらしい。

早く寝たせいで夜中の1時半頃に目覚め、それから眠れなくなった。
仕方なくそっと起きて、音を立てないように座椅子と座布団を廊下に持ち出し、常夜灯の下に置いた。
紙コップに持参したインスタントコーヒーを入れ、mさんの買ってきた週刊誌を読むこと2時間。
それも読み尽くし、することがなく無理しても寝ようと部屋に戻り布団に入ると、隣のmさんが「山の中だから電波の具合が悪くて…」とイヤホーンを差し出してきた。どうやらラジオの深夜放送を聴いていたらしい。
暗闇でもできること、携帯画像を整理したり自宅のパソコンに送信したが、それもすぐに済んだ。
眠る努力をしたが目は冴えるばかり。
何度かカーテンをめくっているうち、ようやく外が白んできた。
向かいの山に朝霧がかかって幻想的な風景である。
二度寝を諦め早朝の散歩をすることに決めた。

旅館の人もまだ起きていない午前5時、玄関の内鍵をそっと開け表に出ると朝刊配達のおじさんとかち合った。
じかに新聞を受け取って玄関に置き、通りに出た。
長袖でも肌寒さを感じる清冽な大気の中、妻籠宿はひっそりとしてまだ目覚めていなかった。

                 ……to be continued.

女4人木曽路旅 3

2011年07月28日 | 


「木曽路はすべて山の中である。」
藤村の「夜明け前」のフレーズのせいか、中山道は昼なお暗い杉木立の道だと勝手にイメージしていた。
しかしこれまでの行程はほとんど明るい日差しの照りつける道だった。
だが馬籠峠からの下りになると、まさにイメージ通りの風景に変わった。
「ほら、時代劇なんかで刺客が潜んでいて『待て!待て!』って出てきそうじゃない?」などと他愛のないおしゃべりをしながら歩いた。
下り坂といっても決して楽チンなわけではない。石畳の凹凸に次の一歩の置き場を選ばなくてはならないし、湧き水が沁み出して湿っている所ではツルッと滑りそうになる。

峠から約700mほど行った所に一石栃立場茶屋(いちこくとちたてばちゃや)があった。

往時は7軒ほどのの茶屋があり、旅人が疲れを癒す休憩地として栄えた所だそうだが、現在残っているのは1軒だけ。
管理人のおじさんがいて、お茶に小梅、キャンディーでもてなしていただいた。
建物保存の為か『志』の箱があったので、みんなでささやかな志をした。
庭に見事な枝垂れ桜があり、「春はきれいでしょうね」と言うと、うれしそうに満開の時期のパネル写真を何枚も見せてくれた。
「ハイカーは新緑、紅葉の頃に集中しているのでほとんど見てもらえなくて残念です。」とおっしゃっていた。
桜の木の下に湧き水がこんこんと溢れていて、ぬるくなったペットボトルの飲み物と入れ替えていただき先を急ぐ。

男垂(おたる)川のせせらぎの音が聴こえてきた。
妻籠側から登ってきた中学生の集団とすれ違う。
全員が「こんにちは!」「こんにちは!」と元気に挨拶してくれ実に清々しい。
それにしても急峻な下り坂でつま先が痛くなる。
皇女和宮の降嫁もこの道を通ったそうだが、お籠を傾けずに担ぐのにさぞや苦労したことだろう。
余談ではあるが検索してみて驚いた。その行列は数十キロメートルにも及んだという。
先頭が妻籠でも最後尾は馬籠どころではない。本隊通過に4~5日かかったとか。興味のある方は。

茶屋のおじさんが「ぜひ見ていくように」と言っていた雄滝・雌滝にも立ち寄った。吉川英治の「宮本武蔵」にも登場するらしい。
雄滝の前で「あのポーズやろう!」ということになった。
ケアンズ旅行の時、ミラミラ滝の前で全員同じポーズをして盛り上がり、後日それをMさんがマウスパッドにしてくれた。
近くにいた人にお願いしてハイポーズ!
木々の間からポツポツと人家や田畑が見えるようになり、大妻籠の看板を撮影したのが15時01分!
妻籠宿の中心部まではさらに20分ほどかかったが目標達成と言っていい。
観光案内所に行くと荷物が届いていた。
付けられたタグの裏面にはこう書いてあった。
「江戸時代、宿場から宿場への荷物輸送のため伝馬制度がありました。お客様方のために、現代の伝馬であればと願います。」
翌日になったがここで「完歩証明書」を発行してもらった。
(翌日で正解だった。なぜなら宿泊した旅館で半額になる券をいただいたから。主婦ですもの、100円の値引きもしっかり!)
証明書は紙ではなくヒノキ製。オーストラリアから来たMさんは英文のものを発行してもらった。
今回の旅の一番の記念、お土産になった。

さあ、早く宿に行って疲れた脚を休めたい!
               ……to be continued.

女4人木曽路旅 2

2011年07月27日 | 

馬籠のお蕎麦屋さんを出発したのは正午を少し回ったところだった。
馬籠・妻籠間は7km~9kmとサイトによってまちまち。間を取って8km、所要時間3時間ということにしよう。
道幅の狭い急峻な坂をひとしきり上り、急な坂を下りるとお蕎麦屋の前から伸びたアスファルトの道路に出て思わず苦笑した。
いやいやいいのだ。我々は江戸時代の旅人と同じ中山道を歩くのだ!
その車道を横切って再び山道に。いにしえの旅人が草鞋で踏みしめた石畳を私たちはトレッキングシューズで歩いていった。
所々、道の脇の山肌に湧き水が流れ出る竹の樋があった。首に巻いたタオルはすぐにぬるくなって、見つけるたびにタオルを浸した。

しばらく行くと民家があり、同年代の男性が作業をしていたので、挨拶をしてしばし休憩させていただいた。
母屋と作業所の間の庭に赤いオープンカーを停め、古民家の梁だったという太い木材に跨ってノミをふるっていた。
仕事を辞め、知人の別荘だったこの家を買い、住んでいるのか長期滞在だったか、ともかくスローライフを満喫しているようだった。
「きついのはあと10分ちょっと。それから先はずっと下りだから。」
別れ際にそう言われて元気を取り戻し再び歩き出した。

ところが10分以上過ぎても登り坂。「話が違うよ~」とぼやいていると十返舎一九の歌碑に着いた。
横に広い東屋があり全員ベンチに座って休憩。
木々を抜けてそよ風が吹き渡り、その気持ちよかったこと!
一九の碑は判読できなかったが、後で調べると、
  渋皮の むけし女は 見えねども
  栗のこはめし ここが名物

と記されてあったらしい。
一九の作品は歴史の暗記で「東海道中膝栗毛」しか知らないが、中山道も旅して「木曽街道膝栗毛」を書いているそうで、その中にある狂歌らしい。
しかし渋皮の剥けた女(あか抜けた女性?)が見当たらないとは何とも辛口。名物の栗を挙げてもらうのはうれしいだろうが、地元の女性からのブーイングはなかったのか?(笑)
長い休息もかえって疲れる。5分ほどで立ち上がり先へ。

ようやく峠の集落が見え、その入口に御頭(おかしら)の碑があった。
安政三年、この集落の牛方(牛を使って荷物を運ぶ人)と中津川の問屋(荷物の取り次ぎ)が運賃の配分をめぐって争い、牛方が勝利した。
そのリーダー牛行事(頭)の今井氏を讃えた碑らしい。
道の両側にある建物は、江戸時代末期のものだとか。
一軒の玄関から身を乗り出していた犬も、昔からずっとそこにいたのでは?と思わせる佇まいだった。
ところでこの辺りは熊が出没するらしく、そちこちに注意を促す看板があった。
熊よけの鈴もレンタルしていたが、Zさんが自宅からホイッスルを持参していたというので借りなかった。
彼女が一番元気でいつも先頭を歩いていくので安心!
私は写真を撮ったりでいつも最後尾。
あ、背後から来るって事もあり得たか…animal3
看板の他に、人が通っていることを熊に知らせる鐘もいくつかあって、そのたびに鳴らした。
 
  
10分ちょっとと言っていた男性宅から約30分後、ようやく馬籠峠の頂上に到着!
茶屋の横に正岡子規の句碑があった。
この句の出典は、紀行文「かけはしの記」だそうで、句の前の文も書き出しておく。
馬籠峠の麓に来たり。馬を尋ぬれどもおらず。詮方なければ草鞋はき直して下り来る人に里数を聞きながら上りつめたり。此山を越ゆれば木曾三十里の峡中を出づるとなん聞くにしばしは越し方のみ見返りてなつかしき心地す。
    
   白雲や青葉若葉の三十里


句碑の画像情報を見ると撮影は13時17分だった。
馬籠を出発してから1時間とちょっとかかっている。
これまでは距離は短いが登り坂だった。
距離的には中間地点とは言えないが、ここからは下り坂のみ。
時間配分は上々と言っていいだろう。

                ……to be continued.

女4人木曽路旅 1

2011年07月26日 | 

7月21~22日、木曽路を旅した。
一昨年ケアンズ旅行でお世話になったMさんが帰国、馬籠~妻籠のハイキングコースを歩きたいというので同行したのだ。
 
10日ほど九州のご実家で過ごしたMさんは、友人に再会した大阪から。
同級生のZさんは東京駅、mさんと私は品川駅から乗車。
平日朝8時の品川駅はオフィスに急ぐ人で溢れ、スーツケースを持った自分はちょっと後ろめたさを感じつつ端っこを歩いた。
8時17分発のぞみ15号でいざ名古屋へ。
台風6号は太平洋沖に去って、大井川を超えた辺りで青空になった。
おしゃべりしてる間に名古屋駅に到着。
同時刻に着いたMさんと合流して中央本線に乗り換える。
これまたおしゃべりしてる間に中津川駅に着いた。
駅前ロータリーには旧盆に備えてか大きな提灯が下がっていた。それだけを撮影してタクシーで馬籠宿へ。


馬籠は20年ほど前に一人旅をしたことがあった。
他の三人も別にいいということで通りを見ただけで藤村記念館見学をパスし、観光案内所に荷物を預けた。
ここから重い荷物を妻籠に送ってもらえ、身軽に峠越えができる。
すっかり晴れて日差しが強くなり、帽子を忘れたmさんは麦わら帽子を買った。
ちょうどお昼時。全員当然の如くお蕎麦をいただき、湧き水で(これが冷たくていい気持ち!)タオルを濡らし、さあ出発。

はらわたもひやつく木曾の清水かな  正岡子規「かけはしの記」
                                                  ……to be continued.