手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

手打ち蕎麦って水にも敏感?--連日の蕎麦打ち

2007-07-11 17:12:58 | Weblog
8日の日曜日に東京に住む友達の夫婦と一緒に、車で栃木県矢板に住んでいる友達のところに行ってきた。矢板に住んでいる私のロケット時代の仲間のユウちゃんは、2年前に横浜から奥さんと移住して、矢板の寺山観音寺にほど近い場所にある古民家に住んでいる。彼もまた私と同じく手打ち蕎麦を趣味としていて、当日の午後は、彼が打ってくれた蕎麦をみんなしてご馳走になった。すごく美味しくて感心した。街の蕎麦やさん専門店で味わう蕎麦よりも美味しい味わいに感動した。
ユウちゃんの家に泊まった翌日の9日に、早速ユウちゃんの運転する車で、彼が買ったというお店に蕎麦粉を買いにいった。その蕎麦粉はお店で売っている商品の中では、売値で上から2番目にランクされる蕎麦粉で、色はほんのりと薄い黄緑の色をしており、1Kgあたり1,320円だった。これは私が、いままで一番のお気に入りで使っている北海道から取り寄せている1Kgあたり1,500円に比べて安い。
で、その日の午後、我が家に帰宅。夕方その蕎麦粉を使って蕎麦を打って食べた。なんと、茹で上がった蕎麦の色が、ユウちゃんの家で食べた蕎麦に比べてすごく濃いグリーンみたいになっていて極端に言えば田舎そばのような感じ。その上、蕎麦が切れている。これにはビックリ、非常にガッカリ、ショックを受けた。ただ、食べたときの喉ごしはまあまあ良かった。私にはその原因として、私の蕎麦の打ち方が下手だったのか、それとも、私が使った水がアルカリイオン水だったのが悪かったのか、くらいしか考えつかない。
そこで、昨日の7月10日に再度、蕎麦打ちをやってみた。今度は水として、アルカリイオン水の代わりに、スーパーで買ってきた2リットル200円のミネラルウォーター水を使ってみた。その結果は、前日に打った蕎麦に比べて、茹で上がった蕎麦の色は、ほんのわずかだが、白さが増しており、蕎麦切れはほとんど無く、喉ごしの良さはほぼ満足のいくものだった。
まあ、それにしても、我が家で打った蕎麦の色が、どうしてユウちゃんが打った蕎麦の色のように白い色にならないのか、今もってわからない。ユウちゃんの家では、岩清水とも言える自然の湧き水を使っていて、それが蕎麦の出来上がりに良い影響を与えているのかもしれない。
これら連日の蕎麦打ちを通して、蕎麦を打つときに使う水が、蕎麦のつなぎや味にもかなり影響するらしい、ことを体験した。
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孫娘と電話で童謡の歌を競演

2007-07-11 10:00:32 | Weblog
今朝もまた、昨日に続いて小雨模様のちょっと肌寒い陽気。今、午前9時半を過ぎたところ。今までの約30分間以上、千葉県に住む3歳の孫娘からの電話にお付き合いした。例によって、彼女が日ごろ口ずさんでいるいろんな歌を聴かせてくれた。私は、それに合わせて、インターネットからのメロディ音を流した。「きらきら星」「あめふりくまの子」「しゃぼん玉」「おかあさん」「カラスの赤ちゃん」「ぞうさん」などいろいろ。ときどき、私も電話口でときどき歌ったりもした。歌うと、孫娘から「そうじゃないよ!おじいちゃん!」なんて言われてしまった。
なにもかも忘れたひとときだった。
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重大事故に繋がりかねないマナー低下

2007-07-10 11:03:57 | Weblog
自転車の放置や給食費未払い、自動車のナンバープレートを見えにくく細工するなど、マナー低下の実態は底知れず、全くあきれるばかりだ。こういった問題は昔もあったのだろうが、最近ますますエスカレートしているように思えてならない。実に嘆かわしい。
先週の土曜日の夕方、家内と車でスーパーに買物に出かけた時のこと。買物を済ませ、車を発進させようとして窓外を見ていた家内が「アレアレ・・」って声を上げたので、その方向を見たら、なんと、スーパー備え付けの買物用手押し車が、勝手に動き出してスーパー横手の斜面をコロコロと車道側に移動していく途中だった。スーパーの建物は車道面より場所的に高くなっていて、スーパーのすぐ横側に放置された買物用手押し車が、風に吹かれて、車道までの約5メートルくらいの距離の坂道を転げ落ちつつあったのだ。現場から少し離れた場所にいた私たちは、アッという間の出来事で、買物用手押し車を停めようにも手が出せず見守るしかなかったのだが、幸いにして、車道ギリギリのところで手押し車が停まってくれた。
その後すぐ、私はその大型手押し車をスーパーの店内に運んだが、ついでにスーパー横手の同じ場所に放置されていた残りの手押し車5~6台も撤去しておいた。そうして車内に戻った私は、撤去する際にゴロゴロと派手な音を響かせながら手押し車を押す私の姿を見ていた家内からは、「手押し車を押していたアナタの姿、スーパーの店員さんそっくりだったわよ」なんて言われてしまった。
それにしても今、当時のことを思い起こすとゾッとする。あの時、もし手押し車がもっと勢いよく転げ落ちていたなら、それが車道側に飛び出して、車道をビュンビュン走る車に衝突して大事故になっていたことは目に見えている。それに、こんなケースでの事故の責任は誰になるのだろうか?など、そんなところにまで気が回ってしまう。
スーパーに行くと、駐車場内のアチコチで放置された手押し車を目にする。手押し車を使ったお客さんは、必ずそれをスーパー店内の所定の場所に戻しておく、というのは常識以前のアタリマエのはずだ。
今の日本は、庶民に対して率先垂範して模範的行動を取るべき国会議員先生までもが、「自分さえよければ・・」「今、バレなければ・・」などの行動をしてマスコミを賑わしている一方で、そしてまた、けっこう、こういう先生が不思議にも再選されちゃう、っていうのが現状。
マナー低下は「正直者はバカを見る」っていうのを当然視している人が多くなってる、ということを物語っているように思えてならない。
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少年サッカーの想い出-試合では、勝っては飲み、また負けても飲んでいた

2007-07-07 19:48:04 | Weblog
今日の午後、私は家内の運転する車で埼玉県に住む息子の所に行ってきた。一週間前の頃、孫が自転車でころんで、腕の骨にヒビがはいってしまった、ということを息子のお嫁さんから聞いていたので、見舞うためだ。息子の家に行ったら、息子だけがいて、お嫁さんと2人の孫は外出していた。小学2年生になる長男の方の孫は、小学校にサッカーの練習に行っていて、小学1年生の孫は腕の治療に医者に行っている、という。そこで、私たちは、息子を誘って、小学校に行って孫のサッカーの練習を見学に行った。その小学校は息子も通った小学校であり、さらに、孫の所属するサッカーの少年団チームも息子が所属していたところと同じだった。
かつて父兄による息子や娘の授業参観のために訪れていたこの小学校、私と家内には思い出が一杯詰まっている。小学校に着いてすぐ、私たちは校舎の裏手にある運動場に行くと、大勢の仲間とサッカーの練習に励む孫を見つけた。孫の着ていた赤地に白抜きの背番号のユニフォームは、息子の当時とまったく同じだった。後で、家内が、私に「あの(孫の)ユニフォーム姿、息子とそっくりだね!」と言っていたが、そう言われてみると、体つきや身のこなし方など確かに息子そっくりだな、と思った。まさに孫は息子2世だ。
ほどなくして、腕に包帯を巻いた小学1年の孫が、お嫁さんとともに、運動場にやってきた。
孫の練習風景に目をやりながら、手持ち無沙汰の私は近くの鉄棒に挑戦してみた。簡単に出来ると思っていた"逆上がり"ができなくて、ショックだった。腕の力が落ちたかな?と思い、なんどもチャレンジしたが成功しなかった。--で、いづれまた、チャンスがあったら、こんどこそ成功させたい、と思っている。
ところで、息子が入っていた時代のサッカー少年団では、かつて私がその少年団の父兄会の会長を仰せつかっていたこともあって懐かしい。当時は、この少年団が結構、強豪で、選手たちの父兄が、しょっちゅう行われる対抗試合のため熱心な応援をしていたものだった。あの当時のサッカー少年団の団長やコーチの方たちは飲むのが好きで、試合に勝っても、また、負けても、飲み、その度に、ほとんど飲めないのに、私は、彼らにお付き合いしたものだったが、実に懐かしい。
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"ALWAYS 3丁目の夕日"の続編の時代設定は昭和34年だそうだ

2007-07-05 15:09:22 | Weblog
今朝、起き掛けにテレビを見ていたら、あの"ALWAYS 3丁目の夕日"という映画の続編が11月3日に公開されることを報道していた。2005年に公開されたこの映画では、昭和33年を時代設定にしていたが、今度の続編では、昭和34年を時代設定している、という。昭和34年(1959年)には当時は皇太子殿下だった、現在の天皇陛下の結婚式が行われた年だそうだ。
皇太子殿下の結婚式といえば、あの当時、民間出身の美智子さまとの結婚ということで世間を驚かせたものだった。たしかその年(1959年)の4月10日に結婚式が行われ、テレビで実況中継されていたのを鮮明に覚えている。当時、私は大学生で、今のJR神田駅付近にあった丸石自転車の本社に通って、アルバイトをしていたことがあって懐かしい。アルバイトではそこの社員とともに、こじんまりした部屋の中で、手紙の宛名書きをやっていた。パソコンが発達した今では考えられないことだが、全国のお客様に出す手紙の宛名を手書きで書く作業だ。その部屋では2,3人づつの男女社員がいて、いろんな世間話に花咲かせながら仕事をしていた。もちろん、4月10日には皇太子殿下・美智子妃の結婚式の話題でもちきりだった。
ある日、私たちの部屋に、社長が仕事の激励に顔を見せて、社員と気軽に話をされていたことも覚えている。当時の社長さんは、たしか苗字の中に「花」っていう文字があった方だと思う。
その丸石自転車では、そこで見かけた新人女性に一目惚れしたことが今でも印象強く脳裏に残っている。その女性は、新入社員だか、あるいはアルバイトさんなのか分からなかったが、とにかく、ある日、その新人さんの女性が近くの部署で働くようになったのだ。私は、見るからに純情そうな彼女を見て、その物腰というか、雰囲気にも惹かれて、それだけで恋心が芽生えてしまったのだ。残念なことに彼女とは一言も言葉を交わしたこともないけれど、今でも、たしか"コンノ"さんという名前のその女性のことを思い出すと、胸の血潮が熱くなるのを感じる。ときどき、街で、丸石自転車のロゴマークであるカンガルーの絵を見ると、自然と彼女のことが思い浮かぶ。
そう、彼女こそ、ロマンチストの私にとっての初恋の人だった。今でも微かながら面影が思い浮かぶが、決して美人ではなく、田舎くさい感じのおとなしそうな女性だった。その頃だったと思うが、当時ヒットしていた、三橋美智也の「たった一人の人だった」という歌や島倉千代子の「あの人は今日帰る」という歌が無性に好きになり、その歌詞でイメージされる女性像を彼女とダブらせていたものだった。
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長谷観音様や鎌倉大仏さんを参拝、初の鎌倉巡りで充実した一日

2007-07-03 21:58:18 | Weblog
梅雨シーズン真っ只中のこのところ、毎日のように曇り空で、今日も雨が降るかもしれない空模様。ちなみに、昨日は自宅から一歩も出ずじまいだった。こんな中、今日はかねて前々から訪ねようと心に決めていた、鎌倉方面へのお寺めぐりを決行した。
鎌倉は一度も行った事がなく、おまけに最近、テレビで鎌倉巡りの番組を見ており、是非とも行ってみたいと思っていた。今日、訪問するところは、とりあえずは、テレビで紹介されていた東慶寺と長谷寺ということを心に決めて電車に飛び乗った。
午前10時過ぎに自宅を出て、JRの北鎌倉駅には正午の0時を少し過ぎた頃だった。駅に降り立ち、近くで鎌倉界隈のパンフレットなどを配る案内所みたいな所を探したが、この駅はあまりにも小さすぎて全然そういう施設は見当たらなかったので、駅員の人に、東慶寺への道を聞き、その歩道を歩いていった。すると、途中でパンフレットを売っている店があったので、すかさずパンフレットを買った。このパンフレットには鎌倉界隈のお寺などが山盛り載っていて道順も分かり易く書かれていて、非常に重宝した。
最初に訪ねた東慶寺は緑豊かな大自然に抱かれたお寺で、多くの檀家のお墓が自然とマッチし、綺麗に整備されていて素敵な墓所だな、っていう感じを受けた。墓所をあちこち見て回るうち、まったくの偶然ながら、かの超有名な哲学者である鈴木大拙さん夫妻のお墓を見つけたのは、我ながら思いも寄らない大発見であった。(なお、帰宅して調べたら、その東慶寺には、鈴木大拙さん夫妻のお墓のすぐ近くには大拙氏の盟友の西田幾多郎氏のお墓もあることを知った。)
東慶寺を出て、例のパンフレットを眺めたら、鶴岡八幡宮や鎌倉の大仏も近くにあることがわかり、ついでにこれらをも見物することにした。で、鶴岡八幡宮へ向かって歩をすすめたのだが、なんとその歩道たるや、車道の脇の幅1メートルにも満たない狭い歩道であり、これでは前を歩く人を追い越すにも危険で追い越せないのが実態だ。もちろん対向する人も同じ歩道を歩くので、すれ違うときは身を細くしないといけないほどだ。これでは、土曜・日曜や休日など大勢の人が混雑するときは、相当に危険だろうと想像できる。
鶴岡八幡宮への道すがら、建長寺というすごく大きなお寺に出くわした。パンフレットを見たら、このお寺はすごく由緒あるお寺みたいなので急遽、見物することにした。広大な敷地の中に緑鮮やかな庭園などあって豪華そのものだった。
建長寺を後にして15分くらい歩くと、目指す鶴岡八幡宮があった。色鮮やかな朱塗りの神社で豪華さを感じた。そこの宝物館をも見物してから、桜並木の若宮大路を歩く頃、さすがにお腹が空いていて、鎌倉駅近くの「あしみや」なる店で昼食をとった。このときちょうど午後3時だった。
昼食をとってから、鎌倉駅に行き、江ノ電で長谷駅に向かった。
長谷駅に着くと、すぐ鎌倉の大仏まで、急ぎ足で向かった。駅からは15分くらいの場所だった。生まれてはじめてみる大仏さんは想像していたよりも大きく、顔も美男子だった。
長谷観音は、大仏さんを見終わった場所から、長谷駅に戻る途中の道から少し横に入った場所にあった。優に10メートルを越すと思われる長谷観音像はすごく見応え十分のもので圧倒される。観音像を納めた建物の周辺にもいろいろな建物や庭園など綺麗に整備されていて気持ちいい。観音像の建物の裏手には大きな山が迫り、細い石段を両側のアジサイを見ながら登って行くと頂上に辿りつき、そこからは雄大な相模湾が展望できて美しい。今日は曇り空のため、相模湾が少し霞がかったように見えていたのだが、おそらく、晴れた日なら、まさに絶景に違いない。
かくて、その後は、午後5時少し前に江ノ電の長谷駅を出発し、鎌倉駅に戻り、そこから帰途に着いた。我が家のあるJR駅には午後7時過ぎに到着。
以上、午前10時に家を出てから、午後7時に家に着くまでの9時間におよぶ小旅行でしたが、その間の9時間では、いろんな名所旧跡を肌で感じ取ることができ、知識を増やせた、ということで、なんか今日という一日は、私にとっては、最近になく充実した一日だったな、っていう気がしている。
家にいると、なんとなく一日が終わってしまうものですが、家に閉じこもってばかりでないで、ときどきは、見物などアクティブに活動することって必要ですね。

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