min-minの読書メモ

冒険小説を主体に読書してますがその他ジャンルでも読んだ本を紹介します。最近、気に入った映画やDVDの感想も載せてます。

赤・黒

2006-09-28 06:41:57 | 「タ行」の作家
石田衣良著『赤・黒』 文春文庫 2006.1.10 514円+tax

売れない映像ディレクター小峰は私設カジノでの負けがこみ、カジノの売上金を強奪する計画の誘いにのった。
この強奪はカジノの支配人もグルとなり簡単に成功するかに思われたのであるが・・・。実際、犯行はすんなりと実行され成功、強奪した金を分けようとしたところ思わぬ内部の裏切りがあり逆に5千万という借金を、カジノを経営するヤクザ・羽沢組から強いられ最悪の事態に陥る。
小峰は彼の機転というか怒りから、裏切り者を探し出し金を回収すれば借金をチャラにし加えて1千万円の報酬をよこせ、という提案を羽沢組みにもちかけ了承させる。
ここから小峰探偵?が誕生しその監視役、相方に指名されたのが池袋ウエストゲートパーク・シリーズで何度か登場した羽沢組組員のサルであった。

サルは同シリーズでもなかなか味のある役割を果たしているのであるが、本編では更に彼の並みのヤクザにはない魅力も描かれ、小峰のちょっと軽すぎる言動とは対照的な渋さを発揮する。作中には“外伝”らしくまことの名前があがったりキングにいたってはちょっとではあるが実際に登場し読者を楽しませてくれる。

最後に起死回生を賭けたカジノ対決があるのだがこの辺りの緊迫感はなかなか読ませる。ただ結末が容易に想像されるのには苦笑してしまったが・・・・

日本沈没第二部(その2)

2006-09-18 18:53:17 | 「カ行」の作家
感想の続きです。

日本人の「アイデンティティ」については国土があろうがなかろうが議論は可能であるが、国土が無くなった場合その核心がより鮮明になることは確かだ。
本作品中で中田首相と鳥飼外相とのあいだで日本人のアイデンティティについて論議が交わされる場面が有りなかなか興味深いものがある。

日本人が「祖国たる国土」を失った場合どのようにして日本人であることを保つことが出来るか?がテーマである、

国土を失って尚その固有の民族たりえる代表例としてユダヤ人があげられる。紀元前に自らの住んでいた土地を追われた彼らはその後イスラエルを奪還するに至るあいだ世界のあちこちに分散してユダヤ人でありつづけた。
この根本にあったのは「ユダヤ教」である。教義ばかりではなく社会生活、食べ物着るものも含めた全生活の規範がつくられ厳格に適用された。
ユダヤ人とはユダヤ教徒を意味する。

では一方の日本人にはそのような強烈な信仰があるのか?
答えは否。
日本人の宗教観として、もともと宗教に対しては寛容。だが保守的な一面もある。
世界的な普遍性を持つ大宗教が日本で布教に成功したためしはない。
仏教ですら原形から乖離しいわば「日本仏教」となっている。
神道との混在(廃仏希釈)が明治になって行われたがその後も容認されているといえる、と評される。
では何をもって日本人は精神的よりどころにしているのか?
それは「日本人の生活様式そのものが宗教である」と。

日本人の気質として「均質でありながら内部に別組織を抱え込み、ときには国家よりも帰属する組織の利益を優先する。
「均質化された社会で培われた日本の生活様式」の例として
『若いうちの苦労は買ってでもしろ』
『信頼を裏切るな』
『約束を違えるのは恥と思え』
などなど長い年月をかけた経験則、日本の中に根づいた社会規範となっている。

このことが日本人個人の力を最大限にもで引き出す要素となっているのだ。

そのためには日本人は日本人同士一緒に集まって住まねばならない。故に「非定住日本人の再編計画」が生まれたのであった。

一方、約30年前に読んだ「日本沈没」の中で政界の黒幕というか長老がつぶやいたセリフをうるおぼえで思い起こす。

『日本には世界に類をみない四季おりおりの自然があり、美しい国土がある。日本の独自な文化はそうしたものを背景に育まれたものであって、もしもこの美しい国土が奪われるのであればワシはこの国と運命を共にする。日本人はこのまま世界に放り出されて尚幸せに生きていくことはかなわない。この国とともどもに滅びたほうが幸せなのじゃ』

といったような気がする。真実はそうなのかも知れない。

この小説を読みながらふたたび「国家の品格」読んで思考したことを思い起こしておりました。




日本沈没第二部

2006-09-18 00:29:51 | 「カ行」の作家
読了してから一週間も経とうというのになかなか読書感想が書けない。それはこの小説が示唆するところがあまりにも多いせいかも知れない。
何度も書こうとするのだがなかなか的確な感想文にならないのだ。


日本が太平洋プレートに飲み込まれるように沈没してから25年後。数千万人の日本人が世界のあらゆる国へ地域へと逃れていった。
その後の日本人は一体どうなったであろうか、というテーマは約30年前の小松左京著「日本沈没」を読み終えてからず~っとこのかた考えさせられるテーマであった。
ひとつの国に数十万、数百万を超える異民族がある日突然流入したらその国の人々はどのように受け止めるであろうか。
大量の日本人が難民となって世界各地におしよせた結果、日本人が辿った艱難辛苦は筆舌に尽くしがたいものがあろう。またこの大量の日本人が受け入れ先の国に及ぼす経済的、政治的、文化的影響度というのも大いに問題となろう。
さらに日本人が入植した結果世界の天候異変が起こったとなれば、いやその因果関係がないとしても、日本人の立場は微妙なものとなる。小説は特にパプアニューギニアの入植を例に取りかなりのページを割いている。
一方、入植がうまくいかず反政府運動にまで発展する日本人入植者グループも存在し更に犯罪者集団化するグループも出てくる。

「異変」(生き残った日本人たちは列島沈没をこう表現する)から25年経った日本政府(海外に分散した形の国家を形成)は日本人のアイデンティティを保つ為に非定住日本人の再編計画をたてる。その方法としてかって日本列島が存在した近くの海域(再びの造山運動で隆起した一部岩礁を利用し)にメガロフロート(浮体式構造物)なるものを構築し、何百万、何千万単位で日本人を再び終結させ再度独自の国を形成しようというものであった。
当然こうした動きに対し鋭く立ちはだかろうとする国があった。果たしてその国とは?

また、このとき地球規模で寒冷化現象が現出しその原因が日本沈没の際に発生した大量の「成層圏エアロゾル」(火山性のチリ)によるものと思われた。
地球の将来的な天候をシュミレートする超高性能な演算ソフト「地球シュミレーター」による結果を日本は世界に向け公表しようとしたところ思わぬ反応が起きるのであった・・・・


とにかくこの小説で抱えるテーマが多岐に渡るためそのディテールを追いすぎたり逆にはしょったりしたため小説としてのバランスがくずれてしまった感がする。小説としてのエンターテイメント的側面から述べると旧カザフスタンで反政府ゲリラ活動をする日本人たちの戦いを掘り下げて表現するなりしたほうが面白かったかも知れない。

長くなりそうなので「日本沈没感想第一部」とさせていただきます(苦笑)


紫紺のつばめ

2006-09-12 20:29:23 | 時代小説
宇江佐真理著『紫紺のつばめ』文春文庫2002.9.30 第5刷 540円

伊三次捕物余話の第二作である。

お文と別れたかたちで終わった第一作、果たしてふたりの恋の行方は?
ま、ふたりが再びくっつくであろうことは間違いないところであろうが、どのように復縁するのか?が興味深いところであった。

「菜の花の戦ぐ岸辺」のくだりはなかなかよろしい♪。「菜の花の戦ぐ岸辺」そして「鳥瞰図」で見せた伊三次の“男気”に伊三次を見直した感じ。
この男、たんなる色男で小手先が起用なばかりではない、男としてなかなか見上げた根性を持っている。第一作ではあまり印象が残らなかったが第二作では“男を上げた”のではなかろうか。これでまた第三作が楽しみになってきた。

天翔ける倭寇ほか一作品

2006-09-07 22:13:28 | 時代小説
雑賀衆の「国際版」とも言える作品を2つ紹介いたします。


津本陽著『天翔ける倭寇』 角川文庫 平成5年11月

津本陽の時代小説の中で倭寇を取り上げた作品は本作唯一つだと思う。ある意味で異色の作品なのかも知れない。しかし、これが一番僕にとっては面白かった。海賊モノの中でも前述の『海狼伝』と甲乙つけがたい作品だ。特に下巻で主人公源次郎と亀若が紀伊雑賀衆を連れて中国大陸(明の時代)の奥深く進軍し、そこから脱出してくるくだりは何とも言えない迫力があり、戦闘場面はもう手に汗握る一級の冒険小説なのだ。


神坂次郎著『海の伽[イ耶]琴』・雑賀鉄砲衆がゆく(上・下)
 講談社文庫 2000.1.15 1刷

このところ雑賀の鉄砲衆に魅せられたように関連小説を漁ってしまった。本編は孫市の息子孫市郎の物語。時代背景は先に読んだ『雑賀六字の城』と同じであり、一向宗の石山本山をめぐる織田信長との凄まじい攻防戦を描く。さらに雑賀の里を追われ、形の上では天下統一を成した秀吉の人質として生き延びる。
本編の最大の特徴は、かの秀吉が行なった「朝鮮出兵」に雑賀の鉄砲衆を連れ参戦することであり、【ある特別な理由】でこの秀吉の軍勢に叛旗を翻すことである。海を渡った雑賀鉄砲衆の信念と反骨を貫く熱き物語の結末や如何に?

尻啖え孫市

2006-09-05 23:21:42 | 時代小説
「雑賀衆」といえばやはりこの方、『鈴木孫市』が登場しなければ収まりがつかないと言うものです。


司馬遼太郎著『尻啖え孫市』講談社文庫 2000.9.13 59刷

「尻啖え」とは現代語では何と表現すべきでしょう?
さしずめ、「ケツをまくる」「一発かませる」とでも表現するのでしょうか?やはり、ずばり汚いですけど「糞食らえ」でしょうか。英語では「Kiss my a**」てなとこでしょうか、いずれにしても上品なお言葉ではないようです。

さて、本編の主人公、雑賀孫市とは一体何者なのでしょう。姓を鈴木と称して、今の和歌山県和歌浦あたりに勢力を持っていた地侍集団ともいうべき雑賀衆の頭目であります。雑賀衆は近くの根来衆とともに「鉄砲」を武器とした一種“傭兵部隊”で、あちこちの大名に金で雇われて戦闘するという特殊部隊。
更なる特徴はこの雑賀の国の人々の大半が一向宗の信徒であったという点。こうなると自然、敵対するのは織田信長。
浄土真宗石山本願寺を中心に信長との長~い、確執に満ち満ちた戦いが繰り広げられ、当時比叡山の焼き討ち以来、“魔王”と呼ばれた信長に痛烈な一撃を加えた、そう、“尻啖わした”のが孫市率いる雑賀の鉄砲衆であったわけです。

この孫市、服装からして奇抜。最初の登場シーンが「真赤な袖無羽織、真白になめした革ばかま。羽織の背中には黒く染めぬいた3本足のカラス、“熊野の神鳥、ヤタガラス”の家紋」の大男、てな調子です。
当時こうした連中は『かぶき者』と呼ばれたそうです。
服装ばかりではなく、孫市はこの当時の地侍の典型ともいうべき、小地域戦闘のうまさ、底抜けの楽天主義、倣岸さ、明るさ、そして愛すべき無知、すべて孫市は持っていたと著者は書いています。
とにかく、破天荒な反権力主義者で、その言動は小気味良い。かくも痛快な怪男児がおったこと自体が奇跡のようです。


この感想も過去の読書録からの引用です。

雑賀六字の城

2006-09-04 22:18:35 | 時代小説
津本陽著『雑賀六字の城』文春文庫 1987.7.10 第1刷

司馬遼太郎著『尻啖え孫市』が雑賀の頭目である孫市を描いているのに対し、本編では雑賀衆の年寄衆(300余の家人を持つ)のひとり、小谷玄意の末っ子七郎丸を軸に、彼の目を通しての信長との死闘を描いている。
彼が16才で初陣を飾った浄土真宗石山本山を巡る攻防戦から、更に後年、信長が雑賀の荘に攻め込むまでを描いた壮絶な雑賀鉄砲衆の戦記であると同時に、苛酷な戦闘を経験する過程で、七郎丸が少年から若き雑賀の戦士に成長してゆく過程を見事に活写している。

本編では雑賀鉄砲衆の火縄銃の“手練手管”を描くばかりではなく、雑賀衆の“船戦さ”の巧みさについてもたっぷりと披露してくれる。
当時の海戦の模様を描かせると津本陽は達者だ。読むうちに瞼に合戦の様がまざまざと浮かんでくるようだ。
それにしても何故、雑賀衆がかくも浄土真宗に帰依したのかが未だに謎である。一向宗はキリスト教が神の前では全ての者が平等と説いたと同様、阿弥陀の前では身分の上下へだたりなしに成仏できる、と説いたものだから、それは封建領主としてはこの上なく都合の悪い宗教であったわけだ。
また、死ぬと“極楽浄土”へ行けると信じ込む門徒宗には死への恐れがない。戦う相手として、かくも不気味な相手は存在しないであろう。

石山本山の攻防戦の場面も凄いが、最後、僅か1万弱の手勢で10万余の信長軍を迎え撃つ雑賀の荘で繰り広げられる戦闘場面は圧巻だ!

もうお分かりのとおり、題名の六字とは「南無阿弥陀仏」のことである。


上記は過去の読書録から引っ張り出してまいりました。


鉄砲無頼伝

2006-09-04 00:09:12 | 時代小説
津本陽著『鉄砲無頼伝』角川書店 H12年2月文庫化

紀州和歌山の土豪津田監物はいちはやく種子島に鉄砲なる武器がポルトガル船によってもたらされた事を聞き及んだ。根来杉ノ坊の僧兵である兄及びその取り巻きと共謀し、監物は阿弥陀如来のお告げで大明に行くと周囲へ偽って種子島へこっそりと買い付けに向かった。
首尾よく種子島を入手した監物はさっそく根来寺の鍛冶に対しその複製製造を命じたのであった。
根来衆の中から筋が良いと思われる300名の鉄砲集団を作り上げるには何年も要しなかった。当時、300名もの鉄砲集団をかかえる「鉄砲集団」などあるわけもなく、その決定的な破壊力にものを言わせ、雇われた戦国の軍の戦闘においては目覚しい活躍を示した。
監物が率いる「根来鉄砲衆」は主義・信条によって行動したわけではなくあくまでも報奨金の多寡によって雇い主を決めるいわば「傭兵」集団であったわけだ。
この頃根来衆と共に鉄砲集団として有名を馳せたのが「雑賀衆」であるが、こらは浄土真宗という宗教の為に一身を捧げる「鉄砲集団」である。
どちらかというと雑賀衆の生き様のほうが好きで、雑賀から描いた他の小説の中ではこの「根来衆」というのはある意味やっかいな集団として描かれる場合が多い。とはいいながらも本作の主人公である津田監物の個人的魅力と種子島へ渡る途中に出会った「おきた」という海賊の一員であった女子の魅力、そしてなによりも血湧き肉おどる鉄砲集による戦闘場面の巧みな活写によって一気に読ませる作品となっている。


もうひとつの「鉄砲衆」である「雑賀衆」を描いた作品に「雑賀六字の城」がある。
合わせて読まれると面白い。


そして粛清の扉を

2006-09-03 17:09:46 | 「カ行」の作家
黒武洋著『そして粛清の扉を』新潮社 2001年1月

本の題名によっては「うむ、ちょっと読んでみようか」と思う作品がいくつかある。本作もその中のひとつだ。
だが生来ホラー・サスペンスというジャンルがあまり好きではないため手に取ることはなかった。先日たまたまB○○Kオフでみかけやはりこの“タイトル”のせいでとうとう手にした次第。
さて、本作は読み始めてすぐに「バトルロワイヤル」よりも質が低い作品ではないのか?と思わせる書き出しでちょっと前途が危ぶまれた。
「粛清」を始めた女教師のイメージと駆使する武器、技があまりにも現実から乖離しているのでは?と思い始めたのだ。だが、ここはちょっとがまん、どころか最後までがまんし続けなければならなかったのだが・・・・ま、最後にはある種のドンデン返しでちょっとは納得できるが充分な書き込みではない。

この作品を読んだ全国の教師、特にあまりに教育の場が荒んでいる環境で教鞭をとっている現職の教師の何割かは大いに“溜飲を下げる”思いで読んだかも知れない。
この作品では「よくもよくもこんなに酷い生徒を一クラスに集めたもんだ」と思われ、いかにも小説世界のお話だなとは思いながらも、こんな連中は確か周りにもいるよな、という現実感もあり
「更正なんて一かけらも望めない連中」の最適な判断は女教師の言うところの「緊急処置」でこの世から消えてしまうのが世の為人の為、最良の策である、と自分でも納得、同意しちゃうところが恐ろしい。
世間一般のモラル基準からいうと完全に逸脱してはいるものの、読者の心の中で大いに共感を呼ぶところに現代社会の病巣の根の深さが思い知らされた気がする一篇だ。