min-minの読書メモ

冒険小説を主体に読書してますがその他ジャンルでも読んだ本を紹介します。最近、気に入った映画やDVDの感想も載せてます。

高橋克彦著『天を衝く(上・下)』

2010-02-28 22:26:36 | 時代小説
今日、娘が突然
「お父さん、高橋克彦の“天を衝く”って読んだことある?」と聞いてきたので、
「もちろんあるよ」と答えた。
「“天を衝く”以外読んだことあるのかい?」と娘に聞き返すと「これが初めて。どんな作家なの」と言うので、彼の作品群をちょっと紹介した。
「本当はね“火怨”から読んだほうがいいんだけどねぇ」と言うと
「そんな時代に興味ないもん」と一蹴された。
内心「何にも知らぬ未熟者めが」と毒づいたのは言うまでもない。だが、こんな作品を読むようになったかと、ちょっぴり嬉しくなったので過去の読書録を引っぱり出してみた。

以下、2002年の読書録から引用。

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『天を衝く(上)』★★★☆☆ 読了日9/29
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題名:天を衝く(上)
著者:高橋克彦
発行:講談社 2001年10月
価格:\2,000 
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織田信長が活躍する戦国時代、北の果て南部藩は跡目争いに明け暮れていた。そんな南部藩をなんとか生き延びさせようと九戸党棟梁、政実はひとり苦闘するのであった。
現在の岩手県二戸を居城とする九戸党なのだが、個人的には何度かこの辺りにも行った事があり、多少土地鑑はあるものの、いかんせん南部藩やその周辺の津軽や秋田、岩手郡あたりの勢力図がピンとこない。
もともとこの辺りが歴史上ほとんど影響力がなかった為であるが、いまひとつ辺境の小競り合い、といった感がいなめず興味が湧かない。
しかし、辺境ではありながらも、やはり戦国時代、食うか食われるかの駆け引きは凄まじい。面白いのは面白いのだが権謀術数、深読みの応酬ばかりがちょっと鼻につかないでもない。でも後半いよいよ物語りも佳境に入る直前、といったところで後半が楽しみ。





『天を衝く(下)』★★★★☆ 読了日10/10
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題名:天を衝く(下)
著者:高橋克彦
発行:講談社 2001年10月
価格:\2,000+tax 
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秀吉による天下取りが進行し、北の雄伊達正宗も恭順の意を呈すため上洛。九戸党の棟梁政実はついに秀吉に対し大喧嘩する決意を固める。
二戸城に立てこもる5千の九戸党に対し、他の南部藩兵力とそれを支援する秀吉勢は10万の兵をひきつれて城攻めする。
もとより勝ち目などない絶望的な戦いだ。ひとえに「南部武士の意地をみせるため」の戦い。当然、それは空しい結末を待つだけだ。ひとりのいわば天才肌を持った武人がその生まれた時と場所が違ったため、むなしくその能力を発揮できなんだ悲劇とも言えようか。
全般的なこの小説の印象としては九戸政実を初め、種々の人間の「読み」の部分の描写が多すぎ作者の性格のしつこさを感じてしまい、ちょっと興ざめ。
僕の内にある東北人のしつこさに対する偏見のなせるわざかも知れないが。

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三雲岳斗著『M.G.H.楽園の鏡像』

2010-02-27 18:26:45 | 「マ行」の作家
三雲岳斗著『M.G.H.楽園の鏡像』徳間デュアル文庫 2006.6.30 初刷 686+tax

オススメ度:★★★☆☆

無重力空間に浮かぶ真紅の球体(実は血である)と与圧服を着たまま前面だけが潰れた、まるで墜落死したような死体が漂う、そんな衝撃的なシーンから物語りは始まる。
ここは日本初の多目的宇宙ステーションの「白鳳」。この死体は事故によるものなのか、故意の殺人によるものなのか。
この事件が未解決のまま、更に発生するもうひとつの事件。原因不明の喀血でもがき苦しみながら死亡した。果たしてふたつの死亡事故に関連性はあるのか、また殺人であるならば、犯人の目的は、動機は、そして方法は?。

密閉された、といえばこれ以上密封された空間はないであろう軌道上の宇宙ステーションで起きた事件を解決するのは、ここに新婚旅行でやってきた若き材料工学の研究員凌と彼に思いを寄せる従兄妹の舞衣であった。
舞衣はこの新婚カップル招待の宇宙旅行を凌に黙って密かに応募し、当選したことを良いことに凌に「偽装結婚」を強要し、強引に実現させたのであった。
凌にはこの舞衣の陰謀?を拒否するには忍びない「白鳳」を訪れたい強烈な欲望があったので彼女の策謀に乗ったわけだ。

事件の謎解きにはある意味納得できる手法がとられている。これが荒唐無稽な理屈だと興ざめしてしまうところを、我々素人でも高校の物理程度の理解力があれば解かるところがミソ。
ところで、本作はどう見ても若人向けに書かれたライトノベルっぽい装丁で、登場人物もいかにもコミックに出てきそうなキャラばかり。
どうにも生身の人間臭がしないのは読者である私の年齢のせいなのか。ま、ぶつくさ言わずに単純にライトなタッチ“青春SFミステリー?”を楽しめばよいのかも知れない。

本編は先日行われた旧FADVメンバーで行った「旧暦正月を祝う横浜中華街オフ」で本プレでいただいたもの。
本の表紙に描かれたイラストを見ただけで通常の僕であればけっして手には取らない代物である。

蛇足:「2000年第一回日本SF新人賞受賞作」の単行本を文庫化したもの。

杉山隆男著『兵士に告ぐ』

2010-02-24 19:00:57 | ノンフィクション
杉山隆男著『兵士に告ぐ』小学館文庫 2010.2.10 第二刷 657+tax

オススメ度:★★★★☆

『兵士に聞け』『兵士を見よ』『兵士を追え』に続くシリーズ第四弾である。
著者杉山隆男氏は1995年の『兵士に聞け』の上梓以来、実に15年に渡って我が国の自衛隊、それも陸、海、空、3軍全ての部隊に密着取材してきた。
かくも長きに渡り自衛隊を追っかけたルポルタージュは他に例を見ない。杉山氏の取材姿勢は左も右も偏らないのが良い。
自衛隊の良い面も悪しき面も率直に語ってきた姿勢や、自衛隊員の個々の素顔にせまる取材姿勢は好感を持てる。故に僕もシリーズ全てを読み繋いできた。

今回の主な取材対象は長崎に根拠地を置く「西部方面普通科連隊」である。設置された当時、この連隊は「日本版海兵隊」としてマスコミ報道された。
それは看板にある「普通科連隊」の名前とは裏腹に、普通ではない「特殊部隊」的訓練を行う部隊であったからだ。
全国の部隊から選りすぐりの優秀な自衛官を集め、その半数以上がレンジャー資格者で占められることが何よりもこの連隊の実態を如実に語っているのではなかろうか。
「西部方面普通科連隊」の設立目的は明らかに対中国や北朝鮮の軍事的脅威に対抗するためのものである。
米ソの冷戦構造が終焉し、我が国防衛の姿勢は日本の北の脅威から南の脅威への対応へと確実にシフトしてきた。
近年の中国による軍拡の勢いは留まることを知らず、台湾海峡を挟む緊張のほか、資源獲得のため、尖閣列島を初めとした挑発的とも言える一時占有などに見られる如く、周辺諸国、地域、特に南の海域に中国のプレゼンスを示してきた。
また、最近ではやや頻度が落ちたものの、北朝鮮の工作船の跳梁跋扈も後を絶たない。
こうした軍事情勢を踏まえ、南方海域の島への上陸作戦を含めた米国海兵隊のような部隊の創設が焦眉の課題となったわけだ。

戦後、警察予備隊として発足した治安部隊が、その後「自衛隊」と名を変えて組織が拡大され今日に至ったわけであるが、当時は「日陰者」扱いを受けたものの、今やPKO部隊として海外に派兵されるまでになった。
今日、自衛隊そのもの存在意義というか、ひいては我が国の防衛に関して今一度国民的レベルで議論されねばならない段階に達しているのではなかろうか。
米軍の普天間基地の移転問題といった一部の問題ではなく、日米同盟の根幹に関る問題を論じなければならないということである。



さてここで、本書の感想からは多少ずれるのであるが、本書に触発され改めて自衛隊そのもの、日本の行く末を考えてみた。

誰が何と言おうが自衛隊は「軍隊」である。第二次大戦に敗れた日本は米国の主導によって新憲法が作られ、その憲法の第九条で日本は恒久的に戦争を放棄する、とうたっている。
戦争しない、と憲法に定めた国家が何故軍隊を持つのか?憲法上の解釈からすれば明らかに自衛隊は違憲である。この全くの「矛盾」を日本人は矛盾とせず、「憲法解釈」という手段でもって65年間も「軍隊」を存続させてきた。
そもそも戦後の日本に「軍隊」を持たせないと決めたのはアメリカ合衆国であり、その後朝鮮戦争による共産主義の脅威に対して再び日本に「軍隊」を持たせた。これは合衆国にとっては何ら「矛盾」ではなく「合衆国の国益を守る」上では極めて合理的な決定であったと言えよう。

「矛盾」を「矛盾」でなくしている他の事例として、我が国がかかげる「非核三原則」なるものがある。
「非核三原則」とはご承知の通り、日本国政府は「核兵器を製造せず、装備せず、持ち込ませず」という原則のことだ。
だが、国民の誰もが「持ち込まれていること」は承知している。米国の原潜や原子力空母が我が国の佐世保港や横須賀港に入ってくるたびに日本政府は「核兵器は搭載されていないものと信じている」というコメントを出すばかり。
だが、合衆国の核兵器を搭載した艦船が、いちいち日本に寄港する前にどこかに核兵器だけ下ろしてくるというのを誰が信じるというのか。
我が国の政治家も官僚もメディアも、みんなその事実を知りながら知らないふりをしてきた。こんな理屈にもならない理屈が何故通るのか?

再び内田樹著『日本辺境論』の記述から引用させていただくことにする。

【「アメリカにいいように騙されているバカな国」のふりをすることで、非核三原則と、アメリカによる核兵器持込の間の「矛盾」を糊塗した。
仮にも一独立国家が「他国に騙されているのがわかっていながら、騙されたふりをしていることで、もっと面倒な事態を先送りする」こんな込み入った技が出来るであろうか?日本人にはできるのである。】

と記述している。これは日本人が辺境人としてのメンタリティーを持っているが故と説く。こうした「思考停止」は日本人の古来からの狡知の技だというのだ。
事のついでにもう少し内田樹先生のいうところの「日本人のメンタリティー」について述べてみたい。
内田先生は丸山眞男の「超国家主義の心理」を引用して「日本人のメンタリティー」を説明している。

【日本の軍人たちは首尾一貫した政治イデオロギーではなく、「究極的価値たる天皇への相対的な近接の意識」に基づいてすべてを整序していた。この究極的実体への近接度ということこそが、個々の権力的支配だけではなく、全国家的機構を運転せしめている精神的起動力にほかならぬ。
官僚なり軍人なりの行為を制約しているのは少なくとも第一義的な合法性の意識ではなくして、ヨリ優越的地位に立つもの、絶対的価値体のヨリ近いものの存在である。(中略)ここでの国家的社会的地位の価値基準はその社会的機能よりも、天皇への距離にある】

このことをもう少しくだいた言い方をすると、内田先生曰く、

【とりあえず今ここで強い権力を発揮しているものとの空間的な遠近によって自分が何ものであるかが決まり、何をすべきかが決まる。(中略)
官僚や政治家や知識人たちの行為はそのつどの「絶対的価値体」との近接度によって制約されています。「何が正しいのか」を論理的に判断することよりも、「誰と親しくすればいいのか」を見極めることに専ら知的資源が供給されるということです。
自分自身が正しい判断を下すことよりも、「正しい判断を下すはずの人」を探り当て、その「身近」にあることの方を優先するということです」】

ここで「天皇への距離」を「合衆国への距離」と置き換えてみようではないか。
日本人にとって両者とも、その決定した事柄は「聖域」なのであって、良いも悪いもなく「思考停止」状態に陥りその決定に従う。
日本人の「絶対的な力を持った者」に対する盲従の性向こそが、かくも不可解な国家運営を司る本質なのであろう。
故に「隷属国家日本」は「絶大な力を持つ」アメリカ合衆国がそのパワーを失いつつある今、更に次なる「絶大な力を持つ」もの、国家、へ寄り添うスタンスを取りかねない。
どうも次は「中国の天領」となっても不思議ではない政治、経済、軍事情勢となりつつある。日本はアメリカとの距離を保ちつつ、急速に中国に寄り添う姿勢を見せている。
これでいいのか?と問いかける前に「これでいいのだ」という結論が出てきそうだ。なんたって日本は古来「辺境国家」なのだから。

だが、僕はこうした日本は望まない。たとえ経済的危機を招こうが国家百年の計から言えば、今こそ自主独立の道を歩みだす決意を下す時ではないのか。
このまま行けば、上述のように「中国の天領」になりかねない。

ジェフリー・アーチャー著『十一番目の戒律』

2010-02-21 17:20:29 | 「ア行」の作家
ジェフリー・アーチャー著『十一番目の戒律』(原題:The Eleventh Commandment)新潮文庫 H11.2.1 発行 819+tax

オススメ度:★★★☆☆

CIAの名うての暗殺者コナーは南米コロンビアで次期大統領候補を狙撃し暗殺に成功した。次に彼が命じられたのはロシアの急進的共産主義者である大統領候補の暗殺であった。だが、この裏には周到に仕掛けられた罠があり、コナーは絶体絶命の窮地に追い込まれることになる。
果たして罠をかけたのは誰なのか、そして何故なのか、コナーは暗殺に成功し無事帰還できるのか?
といったスリリングなストーリィなのであるが、物語にのめりこむ前に何ともひっかかることがある。

僕の中にある暗殺者のイメージは孤高の一匹狼的暗殺者であって、主人公コナーのごとく任務を終えれば完璧なマイホームパパであることがどうしてもしっくりこない。
少なくとも自分とは全く無縁の人間を一発の銃弾で、その標的となる人物の人生を終焉させるのである。もちろんその人物には親もいるだろうし、妻そして子供がいるのかも知れない。
非情の銃弾がその人物を瞬時にして葬り去る。そんなことを何の迷いもなく実行することができる人間なんて正常な神経の持ち主であるわけがない。
この主人公は単純にカネのためと割り切る冷徹な殺し屋ではなく、あくまでも国の為に任務を遂行する真の愛国者という設定であるが、やはりどうにも納得できないものがある。

J・アーチャー描くところの悪役は先に読んだ『ゴッホは欺く』のルーマニア出身のフェンストン以上に冷酷無比なCIA長官を登場させ、よくもまぁここまで狡猾で汚い悪役のキャラ造形をつくれるもんだと感心してしまう。
標的がこんな人間であるならば前言を翻しても良いくらいだ。
小説全体のプロットの展開が小気味よく、物語自体面白いことは事実であるが、策士、策に溺れる、という例えのごとく、少々やりすぎの感がある。
それと前回も思ったのであるが、この作家、肝心なところではしょってしまい、どうしても読者に尻切れトンボ感?を与えるのは彼の趣味なのか。



ジェフリー・アーチャー著『ゴッホは欺く(上・下)』

2010-02-16 23:59:07 | 「ア行」の作家
ジェフリー・アーチャー著『ゴッホは欺く(上・下)』(原題:FALSE IMPRESSION)新潮新書 H20.12.20 三刷 上下共629+tax

オススメ度:★★★★☆

J・アーチャーは前回『誇りと復讐』を読み、俄然興味をそそられた作家であり、遅まきながら過去の作品を遡っていくつか読んでみたいと思った。
そして本書『ゴッホは欺く』を読み終えた感想は「随分と違ったタッチだなぁ」というのが第一印象。
今、更に『十一番目の戒律』にとりかかっているところであるが、またまたタッチが違っており、同一作家の手による作品とは思えないほどだ。

『十一番目の戒律』の巻末の解説によると彼の作品群は、
「アーチャー作品には、彼自身“サーガ”と呼んでいる主人公の一代記もののサクセス・ストリィ(A)と、いわゆるポリティカル・スリラー(B)と、短編集(C)の三つのジャンルがある。
彼はこのローテーションをきちんと守って、ほぼ二年に一冊のペースで作品を発表しているのだ」というがどうであろう?
では最新作の『誇りと復讐』はどこに属すのだろう?ちょっと強引だが(A)かな。
では本作は(B)なのであろうか?
いやいや、こんな分け方よりも何よりも描く世界がかなり違うような気がする。
要は多様な世界を題材にして描くことが出来る作家だ、ということだ。
『誇りと復讐』は父親と息子の対立を軸にしたサスペンスであったが、本書はゴッホの絵画をめぐる権謀術数に満ちた攻防戦を描いている。加えて、これは作者の好みなのであろうが、作中にはいろいろな画家及び作品が登場し、作者の絵画に対する薀蓄が披瀝される。未読ではあるが、題名から推測するに『十二枚のだまし絵』なんかも本書の類なのであろうか。

さて、本作であるが、NY在住の著名な美術品蒐集家フェンストンの策略にひっかかった英貴族ウェントワース家所蔵の「ゴッホの自画像」を巡る争奪戦をスリリングに描いたもの。
フェンストンの出自はルーマニアの元大統領であったチャウシスクの陰の金庫番であったとか、彼が駆使する女暗殺者クランツはチャウシスクの闇の処刑人であったとか、その悪党ぶりが際立っている。

対する善人グループ?は同じくルーマニア出身で、フェンストンの美術コンサルタントであったアンナ博士、彼女を結果として守るFBI上級捜査官ジャック、更に日本の著名な絵画コレクターであるナカムラなど。

ゴッホの絵画を巡り、奪い取ろうとする側となんとかそれを阻止しようとする側の丁々発止の攻防戦が繰り広げられる。
特筆すべきは日本人ナカムラのかっこよさだ。こんな日本人はそうそういるものではない。同じ日本人としてかなり“こそばゆい”思いがするほど持ち上げられた描かれ方だ。
難を言えば、結末のくだりがかなり尻切れトンボな感じがしてならないこと。

内田樹著『日本辺境論』

2010-02-14 16:26:42 | ノンフィクション
内田樹著『日本辺境論』新潮新書 H21.11.20初版  740+tax

オススメ度:★★★☆☆

過去、幾多あまたの「日本論」、「日本人論」が出たであろうことか。世界で日本人ほどこの手の論議が好きな民族はいないであろうと言われて久しい。
したがって、何を今更という感じなのであるが、立ち読みしながら本書をパラパラめくって興味を抱いたところがあった。
それは日露戦争から第二次世界大戦に至る時期を「辺境人が自らの特性を忘れて特異な時期であった」と記していた部分である。
これは多分に先の司馬遼太郎著『坂の上の雲』を読んだ後のせいであろう。
僕自身このブログのどこかで、「日本が明治維新以降右傾化していった原因、メカニズムを何とか探りたい」という思いをこのところ常に抱いていた。

日本が世界の辺境に位置しており、歴史的にも常にその辺境にある環境から、特異な民族性そのものが培われたであろうことは誰しも異論のないことである。
著者である内田先生の描くところの「日本辺境論」とはどのようなものであろうか。以下本書から抜粋させていただく。

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●「辺境人」のメンタリティー
「辺境」は「中華」の対概念です。「辺境」は華夷秩序のコスモロジーの中に置いて初めて意味を持つ概念です。
世界の中心に「中華皇帝」が存在する。そこから、「王化」の光があまねく四方に広がる。近いところは王化の恩沢に豊かに浴して「王土」と呼ばれ、遠く離れて王化の光が十分に及ばない辺境には中華皇帝に朝貢する蕃国がある。(中略)
中心から周縁に遠ざかるにつれて、だんだん文明的に、「暗く」なり、住民たちも(表記的には)禽獣に近づいてゆく。そういう同心円的なコスモロジーで世界が秩序されている。(中略)
日本は華夷秩序における「東夷」というポジションを受け容れたことでかえって列島住民は政治的・文化的なフリーハンドを獲得したというふうに考えられないか。朝鮮は「小中華」として「本家そっくり」にこだわったせいで政治制度についても、国風文化についてもオリジナリティを発揮できなかった。(中略)
日本はその辺境としての自らを位置づけることによって、コスモロジカルな心理的安定をまずは確保し、その一方でそん劣位を逆手にとって、自己都合で好き勝手なことをやる。この面従腹背に辺境民のメンタリティの際立った特徴があるのではなかろうか。
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さて、そんな日本人が当時の軍事大国である帝政ロシアにとにもかくにも勝ってしまった。
日本政府、軍部ばかりではなく国民自体が戦勝気分に浮かれてしまったのだが、やはり心ある日本人はいるものだ。その人の名は朝河寛一というお方で、当時のアメリカに苦学して留学した人。彼は当時の戦勝に浮かれた日本の行く末を憂い、
『日本が行く行くは必ず韓国を併せ、南満州を呑み、清帝国の運命を支配し、かつ手を伸べて印度を動かし、フィリピンおよび豪州を嚇かし、兼ねてあまねく東洋を威服せんと志せるものなり』と述べている。
その後の日本帝国はまさにこのような道を歩むことになる。

そこで内田先生は考える。幕末の日本人は極度に限られた国際状況の情報量の下で的確な判断を下した。だが、明治末のこの時期、情報量は圧倒的に増えたにもかかわらず状況判断を間違った。それは何故か?内田先生曰く、
『幕末の日本人に要求されたのは「世界標準」にキャッチアップすることであり、それに対して、明治末年の日本人に要求されたのは「世界標準を追い抜くこと」であったということ。これだけです』。

実は上述の朝河寛一さんが憂えた日本の歩んだ道は当時の帝政ロシアが描いた南下政策そのもので、日本はその指針にそっくり従ったことにより、極めて効率よく行うことが出来たといえる。

さて、明治維新後わずか30年あまりで国際列強の仲間入りした我が国だが、我が国の犯した思考の最大の誤謬は?と、内田先生は続ける。
『「日本は中華であり、天皇こそが中華皇帝である」という華夷秩序の物語のスキームの中で考えると理解できる。というのは、国力が充実した中華王朝は国威発揚のために必ず周囲の藩族を討伐するからです。』

第一次世界大戦後、列強はヴェルサイユ講和会議において今後のあるべき国際平和秩序について、そのための軍縮について大いに語ったが、そこに出席した我が国の全権たちはその内容を理解しなかった、と思われる。
言葉の上での問題ではなく、当時普仏戦争や一次大戦で受けた欧州の国々の事情やそれぞれが受けたトラウマを出席した日本人には理解できなかった、いや理解しようとしなかったと思われる。
日本は自らの利権を拡大することにのみ腐心し、世界情勢が読めなくなっていた。読めないが故に貴重な日英同盟をすら打ち切ってしまった。
何故打ち切ったのかは内田先生も判らないという。

以前、「坂の上の雲」において、日露戦争以降の日本帝国の右傾化は主に陸軍を主体に行われた云々と述べたが、こうした一連の日本国民の当時のメンタリティを考え直すと一概に陸軍のみのせい、とは言えない気がする。

本書にも述べられているのだが、「日本人が日本人でなくなった」時からこの国は大きく道を踏み外したように思える。
核心は「天皇を中華」に据えたことによると私は思うのだが、国家神道そのものの功罪を今一度見直してみたい。

ドン・ウィンズロウ著『犬の力 下』

2010-02-09 17:41:04 | 「ア行」の作家
ドン・ウィンズロウ著『犬の力 下』(原題:The power of the dog)角川文庫 H21.12.20再版  952+tax

オススメ度:★★★★★

国家が麻薬組織に完全に買収されたとも言える状況を、一体我々は想像できるであろうか?
メキシコの軍隊、警察組織は言うに及ばず、法機関そして政府の中枢、官僚たち、果ては大統領をも麻薬の黒い金で買ってしまった犯罪組織・盟約団のバレーラ一統。
更に巨悪とも言えるのが合衆国の麻薬取締局内部(裏にはCIAがいる)の国家的陰謀であり、イラン・コントラ事件を彷彿とさせる企ては何が正義で、何が真実か、そして誰が味方か敵かも判然としなくなる。

麻薬ルートの根絶、麻薬マフィアの撲滅に執念を燃やすDEAのアート・ケラーの旗色は悪くなる一方、麻薬マフィアの暴走は加速、いよいよ最後の全面対決へと向かう。
いくたの主要な登場人物がこの抗争の中で死んでゆき、一体誰が最後まで生き残るのか全く分からなくなる。

猛烈に血生臭い抗争劇の中にありながら、唯一の救いとも言えるシーンがある。あの二人の男女(これはネタバレになるので絶対に書けない!この物語で登場する最も惹かれる二人だ)の彷徨える魂の奇跡的な邂逅である。
二人に共通するのは忌まわしい不幸な過去であり、何物をもってしても二人の魂は癒されることがないと思われたのであるが、運命的出会いが彼らの魂を、肉体すら救済するかに見える。
死地から脱出する彼らの飛翔するかがごときの逃走劇はなんとスリリングで感動的か!

1975年から30年に渡り繰り広げられたメキシコの麻薬戦争は現実の出来事であり、この事実を我々が知らないだけだ。
作者ドン・ウィンズロウはフィクションとノンフィクションを巧みに織り交ぜながら、壮大な麻薬戦争という地獄の黙示録を描き出している。
現在形を多用した文章は歯切れがよく、心地よいハードボイルド感を与える。

ところでタイトルの『犬の力』であるが、一風変わった言葉である。訳者あとがきによれば出典は旧約聖書であり、「民を苦しめ、いたぶる悪の象徴」といった意味合いであるそうで、作中には一匹の犬も登場しない。

最後にドン・ウィンズロウの次回作邦訳は『フランキー・マシーンの冬』で、訳者いわく“しびれます”とのこと。楽しみに待とうではないか。
また、更に嬉しいことにあのトレヴェニアンの『シブミ』の前日譚を描く『サトリ』を執筆中だというから、私などはこれはもう狂喜乱舞しそうですな。

ドン・ウィンズロウ著『犬の力 上』

2010-02-06 17:14:32 | 「ア行」の作家
ドン・ウィンズロウ著『犬の力 上』(原題:The power of the dog)角川文庫 H21.12.20再版  952+tax

おススメ度:★★★★★

アメリカ合衆国をめぐる麻薬戦争に関する小説は今までもいくつかあったと思うが、メキシコを舞台にしたそれは珍しいのではないだろうか。
麻薬の中でもヘロイン以上に猛威をふるっているのが南米産のコカインである。主なる生産地はコロンビアが有名であるが、1975年当時はメキシコではケシが栽培されていたようだ。
物語の冒頭はこのメキシコはシナロア州の燃えるケシ畑から始まる。
合衆国麻薬取締局(DEA)の特別捜査官アートは連邦保安局の数個師団による、この地のケシ畑掃討作戦に参加していた。 

この掃討作戦でメキシコにおける麻薬供給ルートは根絶されたものとみなされたのだが、実はメキシコが新たなるコロンビア・コカイン供給ルートの一大拠点になる出発点でもあった。
供給ルートとなり得た最大の理由は合衆国と接する2千キロに及ぶ国境線であった。
このコカインの流通ルートは後に盟約団(フェデラシオン)と呼ばれたのであるが、そのドンとなったのはシナロア州警察の州知事特別補佐官のバレーラであり、二人の甥が下について結成された。

物語はDEA捜査官アートの、組織の頭目バレーラへ対する執拗な組織撲滅の戦いを描くとともに、NYを舞台にした麻薬密売組織の内部抗争、盟約団内部での権力闘争が互いに絡み合いながら進行する。
主要な登場人物が相当数に上り、読み進めるのが段々難しくなるのだが、登場する悪党どもが其々なかなか魅力的であり、そのひとり一人を取り出しても一遍の小説になるのではないかと思わせるほどだ。

作品全体のトーンは血生臭い拷問シーンやら殺戮シーンが多く、この手の描写に弱い読者には不向きかも知れない。だが、何よりストーリイ展開のスピードと面白さに引っ張られまさにページターナーとなるのは請け合いだ。いったいどんな結末になるのか一瞬先がわからない興奮に包まれる。
これだけ骨太な作品に出合うことは数年に一度ではないか!?と思われる。もう上巻を読了したら堪らず下巻にとりかかろう!