min-minの読書メモ

冒険小説を主体に読書してますがその他ジャンルでも読んだ本を紹介します。最近、気に入った映画やDVDの感想も載せてます。

【再読】ジョン・レイン雨シリーズ

2008-07-14 18:37:46 | 「ア行」の作家
現在刊行されている邦訳4作、原作2作の全てを読み終えて、何故か又第一作から読み返したくなった。
僕の場合、このシリーズ第四作目の『雨の掟』から入って、その後あわてて第一作から読み進めて来た経緯があるのだが、今こうして第一作目から順を追って読み返してみると改めてこのシリーズの面白さを再認識した次第。
一体、何が僕をしてこのシリーズにのめり込ませるのか?それをもう一度確かめたかった。

主人公ジョン・レインは暗殺者=殺人犯である。理由はどうあれ、他人を殺めてその報酬で生業をたてることは極めて“反社会的行為”であることは否めない。
読者の大半、もちろん読者の年齢、性別、国籍を問わず同じような価値基準を持って同シリーズを読まれていると思う。
だが、何故かジョン・レインの孤高な生き様に共感してしまい、彼の殺人という犯罪に対して多少眉はひそめながらも肯定してしまう不思議な世界へ誘われるのである。
彼には暗殺に関する個人的ルールがあって、
・ 女、子供は殺らない
・ ターゲット以外は殺らない
・ 二重のオファー(要は自分の他に暗殺依頼をさせない)を禁じる

と言ったものであるが、見知らぬ他人の命を奪う、そのことによってターゲット本人の人生を終わらせると同時に家族がいれば彼らの人生をも強制的に変えてしまう“犯罪”であることは変わりないことであり、作中のデリラが揶揄するように「そんなルールは娼婦がナニをやらせても接吻は許さない、ということで自らの行為を正当化しようとする理屈と変わりないじゃない」と指摘する通りかも知れない。

ジョン・レインがこの世界に入ったきっかけは彼の戦争体験によるところが大きい。
それはベトナムでの特異な体験、17才で志願して参戦したベトナムにおいて、同期で入隊した友人と犯した“戦争犯罪”とも言える行為のあとの二人の会話、
『もう故郷には帰れない。こんな事をしてしまった後では』
に集約されるもので、ジョンの場合は更に過酷な任務を与えられ、それを実行した後に更に上述の気持ちが深まったといえる。
また、『家には帰れない』という点においては他の米国人とは違い、彼の生まれ落ちた事情、つまり父が日本人で母がアメリカ人という特殊な事情があった。
幼いころから両方の国で疎外されて育ち、どちらの国も彼にとっては祖国と呼べる地ではなかった。
肉体的外見からジョンは日本に居着くことを選択したのであるが、その条件以外に彼を日本につなぎ止めた理由は、日本という国の伝統、文化が米国のそれらより身近に感じたせいであろう。
暗殺者レインが今まで生き延びられたのは、自己以外を信じることがなく、徹底したSDR(追跡を逃れる術)を駆使するからであった。
レインには神も仏も存在しない。幼い時分、母親が敬虔なクリスチャンであった関係で何度も教会に連れて行かれたが、神の存在を信じることはなかった。
今、暗殺者として生きるレインはもし神が存在するのであれば、自己の存在は決して神が許すはずがない、と思っている。もし、神が存在し、自己の存在を許さないのであればその時は神の意志に従うつもりでいる。
レインにとっての生き様の規範とするものは武芸者としての宮本武蔵であった。彼の「五輪書」はレインのバイブルでもあった。

同シリーズのもうひとつの魅力は登場する女性達であろう。主な登場人物はミドリ、ナオミ、そしてデリラの3人であるが、3人3様全て違ったタイプであるし、境遇がまるで異なる。
レインにとっては恐らく生涯を共に過ごす伴侶はあり得ないと思われるのであるが、本人はその可能性を放棄したわけではない。
これほどの人物が一番動揺し悩んだ事は、ある女性との間に自分の子供ができたことを知った時である。これほどの人物でありながら「子供を持つ」というインパクトが人生においていかに強いものであるか思い知らされる。この辺りが非常に興味深い。

あとは多彩でそれぞれ魅力的かつ個性的な脇役陣ではないだろうか。前半2作で登場するタツ、ミドリ、ヒロといった登場人物に加え第3作目から登場するドックス、デリラらがより一層このシリーズを盛り立てる。
もちろん悪役の側も多彩であることは言うまでもない。特に日本の山岡と元CIAのヒルガーとの一騎打ちは大いなる見せ場を創出してくれる。
さて、6作以降はないのかも知れないが何年か後のレインにもし会えるのであれば是非とも会ってみたいものだ。

*今回の再読は邦訳された4作のみ
・雨の牙
・雨の影
・雨の罠
・雨の掟
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