善の心5:無瞋(むしん)――過剰に怒ることのない心

2006年03月13日 | 心の教育
 瞋はいちおう「怒り」、無瞋は「怒らないこと」と訳すことができます。

 しかし怒らないことが善だというと、「まちがったことを見ても怒らないでいいのか」とか、「正当な自己防衛のための怒りもいけないのか」といった疑問が出てきます。

 そこのところがはっきりしなかったために、無瞋・憤らないことなんて、すごく修行のできたえらいお坊さんや人格者か、さもなければバカみたいに人のいい人にしかできないことのように思われてきました。

 確かにそういう面もありますが、それだけではありません。

 瞋・憤りが煩悩だとされるのは、心の奥の根本煩悩から発生するものだからです。

 私たちは、腹を立てる場合たいてい、自分は絶対に正しい、相手が絶対にまちがっている、と思って腹を立てています。

 その場合、さらに私と相手は完全に分離した別の存在だと思い込んだ上で、対立していると思い込んでいます。

 実体的な自分に対して実体的な他人が実体的な悪いことをしたと思い込んでいるからこそ、腹を立てるわけです。

 ここで、「そんなこといわれたって……誰だってそうでしょう」と反発したくなるかもしれませんし、その気持ちは私もよくわかります。実感としては、そうですよね。

 しかしここまで学んできてくださったみなさんなら、「実体がある」という思い込みこそ妄想中の大妄想であることを、頭ではわかっていただいているのではないでしょうか。

 ここが大きな分かれ目です。素人の自分の実感を信じるか、唯識という心の専門家の診断を信じるか。

 「誰だってそうでしょう」、そのとおりです、凡夫なら誰だってそんなものです。

 しかし、ほんとうはすべての存在はつながって一つ、なのでした。

 私に悪いことをした相手は、実は私とつながった、広い意味での私でもあります。

 といっても、相手と自分の区別ははっきりあります。

 しかも、相手も自分もダイナミックに変化していく無常の存在です。

 そしてどういうふうに変化していくかは、どんなカルマ・業・行為をするか、その残存影響力によって決まってきます。

 そのことがわかると、相手と自分とを実体視し、絶対に分離し対立しているという思い込みの上で憤る、激怒するのとはちがう心が生まれてくるのではないでしょうか。

 もちろん、「絶対に許せない。殺してやる!」といった過剰な怒りはなくなるでしょう。

 自己絶対視した正義感から生まれる怒りほど、危険なものはありません。

 しかし、悪いカルマはまわりに悪影響を及ぼすだけでなく、当人にもやがて必ず悪い影響をもたらします(因果の理法)。

 仏教を学び、修行しても、悪いカルマは悪いと判断し、それを止めようとする気持ちという意味での「義憤」はなくなりません。むしろ強くなるといってもいいでしょう。

 そのことを表現しているのが、不動明王など怒りの形相をした仏さまの存在です。

 「無瞋」とは、「何があっても、何をされても、腹を立てない」という意味ではなく、マナ識的な自己絶対視から発生する、必要以上、過剰、異常な怒りがないことという意味だ、と私は解釈することにしています。


*写真は満開の白梅


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コメント (1)
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