唯識では、善の心の働きとして、信を含め11種類をあげています。
まごころ(信)、内的反省(慚・ざん)、対他的反省(愧・き)、貪らない(無貪・むとん)、憤らない(無瞋・むしん)、愚かでないこと(無癡・むち)、努力(精進)、爽やかさ(軽安・きょうあん)、怠けないこと(不放逸・ふほういつ)、平静さ(行捨・ぎょうしゃ)、傷つけないこと(不害)、です。
覚っていなくても、人間はこうした善の心を起こすことができます。
信の次には、内的反省、つまり自分の考え、生き方、行動が自ら省みて良心に反するところはないかと反省する心があげられています。
とても残念なことに、こういう心を持つことはここのところあまり流行っていないようですね。
しかし、「誰も見ていなければ、ばれないからかまわない」という考え方は、決定的に人間というものが自意識的・自己反省的な存在であることを見落としていると思います。
悪いことをしたら、たとえ他の誰が見ていなくても自分自身が見ている、知っているのです。
悪いことをしておきながら、「自分は立派な人間だ」という誇りをほんとうは持つことができません。
もちろん、自分で自分をだます、ごまかすこともできるのが人間ですが、しかし心の深いところでは、自分をごまかしていることを知っているのも人間です。
ごまかして誇りを持つ――というよりは傲慢になる――ことはできますが、心の奥底から自分に自信(自己信頼)を持つことはできないのです。
自分で自分をだましておいて、「オレを信頼してくれ」といっても、それは無理な相談というものでしょう。
さらに、そういう考え方は、あらゆる行為は実はカルマであって、いやおうなしにアーラヤ識に影響力・潜在的な記憶を残していくことに気づいていません。
悪業はアーラヤ識に溜まり、溜まった悪の種子は心の奥底を腐敗させていきます。
心の奥底が腐敗してしまうと、まさに心の底から爽やかにいい気持ちで生きていくことができなくなるのです。
そういう意味で、ただ法律的や倫理的に正しい・いい行動をするためだけではなく、ほんとうに自分をいいと思う=肯定するためにも、心の底からいい気持ちで生きるためにも、内的反省(慚)は不可欠です。
*写真は、世田谷の紅梅、もうどうにもこうにも「春!」という感じですね。
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