インド思想に「カルマ」という独特な概念があります。漢訳では「業(ごう)」です。
この「業」という言葉はとても暗い響きを持っています、というか持たされてきました。
「因縁」や「因果」も同様です。
しかし、カルマ=業というコンセプトはもともと暗くも明るくもない、いわば中立的で公平なコンセプトでした。
行ない・行為はそれだけにとどまらず、必ず後に影響を残していきます。
「カルマ・業」とは、ふつう行為とその影響力を分離して捉えがちなのに対して、行為とその残存影響力を一つのものとして捉えた独特かつ妥当なコンセプトだと思います。
よいカルマ・善業はよい影響を、悪いカルマ・悪業は悪い影響を、中性的なカルマ・無記業(むきごう)は中性的な影響を後に残していきます。
そして、残された影響はまるで植物の種のように季節になると芽を吹いてくるのです。
それを「因果」といいます。
原因があれば、当然結果があるということです。
そして、悪因があれば悪果ですが、善因があれば善果がもたらされるのです。
これは、考えてみると当たり前のことで、暗い話でも明るい話でもありません。
悪因悪果という面を見れば暗く、善因善果という面を見れば明るい話だ、といってもいいでしょう。
過去の日本仏教は、どちらかというと悪因悪果の面を、それもかなり短絡的に語ってきたようです。
「親の因果が子に報い」といったことわざや、「今不幸なのは前世で悪いことをしたからだ」といったふうな言い方があった、いや、まだ残っているとおりです。
それがいい意味での脅しとして効いて、かつて日本の庶民を真面目にしたという効用はあったと思いますが、因習的な偏見を生み出したというマイナス面も大きかったと思います。
仏教本来の趣旨からすると、善因善果の面、さらにはもっと人間は覚りのカルマを積むと覚りに到ることができるのだという、プラス面、積極面、つまり明るい面を強調すべきだったのではないか、と私は考えています。
(昔話には、「花咲か爺さん」や「舌切り雀」のように、善因善果と悪因悪果をバランスよく説いているものも少なくありませんが。)
その点に関しては、伝統教団は素直に反省し、被害を受けた方々には謝罪し、しかしいつまでも引きずることなく、原点に帰って歩み直してほしいものだと思います。
さて、カルマは残るのですが、どこに残るかというと、アーラヤ識に蓄えられて残っていき、カルマにふさわしい芽を吹く、結果をもたらすのです。
カルマは後に芽を吹くので、植物の種になぞらえて「種子(しゅうじ)」とも呼ばれています。
アーラヤ識は、迷いの種子を蓄えている貯蔵庫ですが、覚りの種を蓄えることもできる場所です。
要するに問題は、私たちが今生で、どのくらい迷いの種子の廃棄処分をし、どのくらい覚りの種子を入庫し、総入れ替えとまではいかなくても、不良在庫と優良在庫のバランスを変えていけるかというところにある、と私は思っています。
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