私と他の人とにははっきりと区別があります。
私は私であってあなたではないし、あなたはあなたであって私ではない、という面は確実にあります。
しかし深いところではつながって一つなのでしたね。
ところが、マナ識は他と分離した実体としての自分があると錯覚しています(我見)。
そしてそういう自分を依りどころ、頼り、誇りとしています(我慢)。
さらにそういう自分に過剰に愛着します(我愛)。
そのために、意識でも他と分離した実体的な自分がいると思っていますし、そういう自分を依りどころとしそれに愛着して生きています。
すると、なぜかどうしても――つまり意識による倫理的なコントロールが効かず――自分と他人を比較したくなり、人よりも自分が勝り、優れ、上にいたいという強い気持ちが生まれてきます。
そういう、自分と他を比較し他より優越したいという心の働きを「慢(まん)」と言います。
これは、分離して比較する心の働きがまずあり、その上で優越したいと思うわけです。
ところが、比較した結果、どうしても優越していない、劣等だと思わざるをえないケースもしばしばあります。
そうすると卑下する、落ち込む、劣等感に苦しむ……といったことになってしまいます。
もちろん、優越していると思うと、たいてい傲慢になり、横柄になり、人に嫌な思いをさせ、実際いろいろ迷惑をかけたりします。
他者と自己とを分離した上で比較する心・慢は、自分をも人をも煩わせ悩ませる、まさに「煩悩」ですね。
優越感と劣等感のアップダウンというのは、とても不毛な、しかしあまりにもありふれたふつうの私たちの根本的な悩みです。
この煩悩は、必死になって人と競争し、足を引っ張り合いながら、優越性を追求するというやり方ではなく、人と自分とはほんとうは一つなのだから、上も下もない、比較できない、する必要はないということに、深く気づくことによってのみ根本的に解決される、と仏教は教えています。
「そうは言っても…理屈はそうだけど…」という気のされる方、よかったら2つのことを考えてみてください。
まず、間違いなく「理屈はそうだ」と思えるかどうか、です。
そして、「確かに理屈はそうだ」と思ったら、実感や納得は後にして、ともかく理屈はそうだと確認するといいのではないでしょうか。
それから、なぜ、実感や納得ができないのか、唯識が教えていることを思い出してください。
そうです、「けど」という反応・反発はマナ識の反応なのですね。
「すべてはつながって一つ」ということはヘッド(頭)ではわかったが、ハート(心・心臓)で感じられない、ガット(胆)に納まっていないのです。
だから、私たちはどうしても人と比較したくなります。
そして、比較しておいて、優越感-劣等感の波に揺さぶられてしまうわけです。
動揺し安らかでない人生を送るのが嫌な方は、まず意識でしっかり理解し、それからマナ識の浄化に取り組むほかないようです。
あ、もちろん、動揺し安らかでない人生でいい方は、それも選択の自由だと思いますが。
*散歩の途中、上の写真のような木の花を見ました。名前をご存知の方がおられましたら、教えていただけると幸いです。
人気blogランキングへ
↑ぜひ、クリックしてメッセージの伝達にご協力ください。
つまり、優越感も劣等感もほとんどないんです。共感できなくて申し訳ないと思いますが正直な気持ちです。こういう人ほかにご存知ですか?
学歴とか、地位にはあまりこだわらないんですが、能力とか、性格とかを、他人とつい比較して、喜んだり落ち込んだりしてしまう・・・。
もともと一つにつながっているのならば、コスモスが区別として現象しているに過ぎない。比較する必要はないわけですね。
なんとか、まずは意識の上でしっかりと把握したいです。
※先生、写真の花は「樒(しきみ)」の花だと思いますよ。http://www.geocities.co.jp/Outdoors/6286/shikimi.html
榊(さかき)のように、仏事にも使うことがあるので、わが寺の境内にもいくつか植えられています。
でも、学びのお蔭でたいぶ揺れは小さくなったような気がします。
アンナさん、凄いですね~劣等感を感じてしまいます♪
でも、そんな感情が「人と較べて少ない」と劣等感を感じることはありませんか?
ま、そんな劣等感は必要ないので、いいんですが…。
共感的理解ができませんでした~♭
アンナさんが、優越感や劣等感がほとんどないというのはそのためではないのでしょうか。
いいとこもそうでないとこもあるけど、私固有の性格で、それで、すごいだろとかだめだとかはかんじないんですよね。劣ってるとこは、えへ、かわいいなあって感じ。いいとこは純粋にうれしいなって感じ。人と違うのは面白いなあって感じ。