子どもの乳幼児の頃や最近孫を見ていて、「生まれつき」ということはあるのだなあと感じます。
もちろん「教育」によるものもあります。
どちらかだけということは、どうもなさそうです。
唯識では、アーラヤ識には生まれつきマナ識を生み出す種子があると同時に、他から言葉によって教えられた分別知が種子としてアーラヤ識に溜まることでマナ識ができてくるという面もあることを正確にとらえています。
ともかく、人間は平均的なふつうに生まれ育つと、いつの間にか心の底のアーラヤ識から心の奥にマナ識が発生し、したがって我癡・我見・我慢・我愛という根本煩悩を抱えることになります。
そして、他と分離した自分がいると思いこだわるマナ識ができると、そのマナ識がアーラヤ識を見て、いのちでないものと分離した、しかも他と分離した「自分のいのち」だと思いはじめるのだ、といいます。
自分というものの実体視とそれへの執着、そして自分のいのちというものの実体視とそれへの執着が、そういういわば悪循環構造になっているというのです。
いのちを、「私のいのち」として実体視しそれに執着することから、「死の恐怖・不安」が生まれます。
自分のいのちを実体視し執着すると、それが生滅流転するプロセスであることを自然なこととして受け容れることができなくなるのです。
それどころか、死が絶対的な不条理であるように思えてくるのです。
私は、幼児期からかなりひどく死の不安に悩まされていましたから、この唯識の洞察に出会った時、心から「何とみごとに当たっているのだろう。確かにそうだ。自分の死の不安の根っこはここにあったんだ」と思ったものです。
心の奥深いところのメカニズムを、よくもこんなに正確に洞察したものだ、と感心してしまいます。
原因がわかれば、解決の目途もついてきます。
心の奥底でのアーラヤ識とマナ識の悪循環が死の不安・死への不条理感を生み出すのなら、その悪循環を断つことができれば、不安・不条理感は解決することができるわけです。
……というふうにして、唯識を学ぶことによって、死の不安やその他の心の病・煩悩の原因がわかり、そしてそれを癒す方法もわかってきます。
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