意識上の根本煩悩2:瞋(しん)――過剰で不健全な怒り

2006年03月28日 | メンタル・ヘルス


 唯識では意識上にも根本煩悩があるとしていて、前回の貪、今回の瞋・憤り、そして癡(ち)、慢(まん)、疑(ぎ)、悪見(あっけん)の6つを数えています。

 学んでいくと、人間の心が抱えている深刻な問題を、よくもまあこんなにも正確に、徹底的に厳しく洞察したものだと感心してしまいます。

 何度も言っていますが、ただこの話だけだったら嫌になってしまうほど徹底的です。

 しかし、それはきわめて正確な診断であると思えるので、したがってその次にくる治療法も信頼できると思えるのです。

 マナ識は、自己を実体視し、それにこだわっていますから、自己防衛はしばしば過剰になりがちです。

 過剰な自己防衛は、自分の思い通りにすること、自分の利益、自分の面子などなどを脅かすものに対して、過剰で不健全な怒りを生み出しがちです。

 さらには、自分を脅かすものには過剰に反応する潜在的な可能性をいつも抱えることになります。

 世界でいちばん大切な〔実体としての〕自分(とその物質的・精神的所有物)を絶対に守らなければならない、それは自分の〔実体としての〕権利だ、と思い込んでいるわけですから、当然でしょう。

 根本煩悩としての「瞋」とは、そういう過剰な怒り、さらにはいつでも怒る潜在性があることをいう、と私は解釈しています。

 そういう過剰で不健全な怒りは、自分にとっても他者にとってもきわめて有害で厄介なものだと思うのですが、なかなかやめられません。

 しつこくかつ深刻な慢性病のようなものです。

 しかし、それは、実体ではなくても現象としてはありありと存在していて、絶対ではなくても相対的にはある権利を守るための、適度で正当な自己防衛とは違うと思います。

 また実体ではなくても現象としてはとても大切な、社会正義を実現するための「義憤」というのはあっていいものです。

 そういう健全で正当な怒りと不健全で過剰な怒りの区別をちゃんとした上で、しかしやはり、根本煩悩としての「瞋・憤り」はぜひ治療-克服したいものです。

 それなくしては、世界から家庭そして個人の心に平和が訪れることはないでしょう。

 平和を望むのなら、瞋という心の病は治療しなければなりませんね(念のため、こういう「なければならない」を、論理療法では「相対的、条件付きmust」と呼んで、絶対化されたmustと区別して認めています)。


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コメント (3)
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