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八識9:生命情報の世界――アーラヤ識③

2006年03月03日 | 心の教育

 アーラヤ識は、別名「アーダーナ識」ともいわれます。

 「アーダーナ」は、漢訳では「執持(しゅうじ)」と訳されます。執着し維持するというふうな意味でしょう。

 私たちは、眠っていても気絶しても、心臓は働き、呼吸をし、体温は維持され、免疫反応もします。

 つまり、生命維持のための情報が働いているわけです。

 唯識では、そうした生命維持の「情報」もある種の心・識と捉え、生命情報が蓄えられ働く領域を「維持する識」と捉えたのです。

 現代的な医学や生理学、脳科学などがまったくない時代に、内省的な洞察だけでここまでの正確で深い理論を作りあげたのは、驚くべきことです。

 「生命を維持する」ということは、「生命」と「非生命」が少なくとも区別されているということです。

 生命が非生命にならないように維持されているわけです。

 これは、仏教的にいうともっとも深いレベルでの「分別知」ということもできます。

 アーラヤ識は、生命と生命でないものを分別して生命にこだわる心です、と私は説明することがあります。

 しかしより正確にいうと、アーラヤ識での生命と非生命の分別は自然な生命維持といってもいいので、マナ識の働きと組み合わさった時初めて、「こだわる」という煩悩的な働きになるといったほうがいいかもしれません。

 生命を維持する力の源泉という意味でアーラヤ識は、現代の精神身体医学やホリスティック医学でいう「自己治癒力」の源泉でもあるといっていいでしょう。

 そういう意味でアーラヤ識そのものは、煩悩の源泉ではないともいえます。

 伝統的な唯識学では、アーラヤ識は煩悩に覆われてはおらず、また善悪中性どの性質にも記別できない、「無覆無記(むぶくむき)」であるとされています。

 つまり、人間の心の奥の部分は煩悩で凝り固まっているが、もっと深い底の部分は善でも悪でもない、というのが唯識派の洞察です。

 この、心のもっとも深い底であるアーラヤ識が無覆無記であるというところに、人間が煩悩・悪から解放されうる根拠がある、と私は考えています。


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コメント (5)
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