善の心11:不害(ふがい)――他者を傷つけることのない心

2006年03月23日 | 心の教育

 信に始まった善の心のリストは、不害(ふがい)で終わります。

 「不害」と訳されたサンスクリット語の原語は「アヒムサー」です。

 これは、マハトマ(偉大な魂)と呼ばれたインド独立の父ガンディーのモットーでもありました。

 「非暴力」と訳されたので、残念ながら仏教用語との対応がほとんど知られていません。

 ガンディーにおける「非暴力」が、ただ悪に対するひ弱で無力な無抵抗のことではまったくなく、イギリスの植民地政策という悪に対する燃えるような「非暴力・積極的抵抗」であったのと同様、本来の仏教における不害も表現は控えめに「傷つけないこと」となっていますが、きわめて積極的・能動的なものであるはずだと思います。

 「何にもしなければ、傷つけない-傷つかない」というひ弱な自己防衛の姿勢は、実は社会全体の中でたくさんの人が傷ついている・傷ついていくことを放置・黙認することであり、広い視野から見ればむしろ「傷つけること」に手を貸していることになります。

 「傷つけないこと」という控えめな表現がされてはいても、本来の精神は「積極的・能動的に癒しや和らぎをもたらすこと」という意味を含んでいます。

 それはまさに「善」というほかありません。

 しかし、マナ識のために自分にこだわりがちな私たち人間は、ともすると「癒しや和らぎ、いいこと〔だと私が思うこと〕」を押し付けてかえって傷つけてしまうことがあります。

 人の役に立ちたいと思った時も、まず一歩引いて自分のマナ識をよく洞察し(道元禅師のいう「退歩の工夫」)、ほんとうに相手にとって癒しや和らぎ、援助になるのかどうかを考え、いいことをしてあげられないまでも、せめて傷つけることはないように心がけて行動したほうがいいでしょう。

 私たちはしばしば表情、言葉、態度、行動で人を傷つけてしまうものだからです。

 そういうことがなくなっているというだけでも、人間としてはかなりすばらしいところに行っているといえるのではないでしょうか。

 他のまごころから平静さまでの善の心が十分に身についてはじめて、日々人を傷つけない言動ができるようになり、さらには人のお役に立つことができるようになるのだと思います。

 善の心が信に始まり不害に終わるのは、ただ何となく羅列しているのではなく、そういう意味もあるのではないか、と私は解釈しています。

 11種類の善の心を意識的に起こし、それに基づいて行動する(カルマ!)ように心がけている(意識)と、それらが徐々にマナ識を浄化しながら種子としてアーラヤ識に溜まっていき、また芽生える時にもマナ識を浄化しながら意識にのぼってきます。

 そういう善なる心のカルマの好循環が持続されていくと、私たちはほんとうの意味での善人・いい人に少しずつなっていくことができるようです。


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コメント (3)
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